15.足利氏館 その1

足利氏の本拠地

立地と歴史

源氏の一族が足利荘を開発し定住

足利氏館は、現在の栃木県足利市の中心部に位置していました。実は、その場所は現在では鑁阿寺(ばんなじ)という有名なお寺になっています。そのため、私たちが通常想像する典型的な城のようには見えないかもしれませんが、この館跡は防御機能を伴った日本の武士の館の、初期の形態を残しているとされています。

鑁阿寺楼門(山門)

足利氏は、地方領主としてより、14世紀から15世紀の室町時代の足利幕府の将軍家としての存在の方がずっと知られているでしょう。しかし事実として足利氏の歴史は、12世紀に下野国(現在の栃木県)で足利荘(ほぼ現在の足利市に相当)を開発したときから始まりました。皇室の子孫で清和源氏の足利義国が、最初にその場所に定住し、足利氏の祖先となりました。

足利市の範囲と城の位置

鎌倉幕府が設立される前は、武士たちは自身で開発した土地を維持するためには、形式的に荘園として高位の貴族に寄付する必要がありました。そうでなければ、公的機関から領地を保証されることは一切なかったのです。そのために義国は足利荘となる地に定住し、大変な労力を投じて開発を進めました。それ以来、この一族は自身の苗字として、その地の名前である足利を名乗ったのです。義国の息子、足利義康は足利氏の創始者であり、最初に足利氏館を築いたと言われています。そして、館はその息子で2代目の義兼に引き継がれました。

伝・足利義兼肖像画、鑁阿寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

初期の武士の館の典型

館の特徴として挙げられるのは、そのエリアを囲む土塁とその外側の水堀でしょう。こられにより館の敷地は四角形に区切られ、歴史家はこのような典型的な武士の館を「方館(ほうかん)」と呼びならわしています。その四角形の一辺は約200mで、この館の形式は戦国時代の17世紀まで長い間踏襲されました。その類型として、武田氏館大内氏館などがあります。領主や武士たちは普段このような館に住み、戦のような緊急事態にも対処できるようにしていました。したがって、足利氏館は武士が建てた最も初期の日本の城の一つとみなされています。

足利氏館跡(現鑁阿寺)を囲む土塁と水堀
武田氏館の模型、甲府市藤村記念館にて展示
大内氏館跡(現・龍福寺)

義兼は12世紀末に。源氏の棟梁であり日本の武家政権で最初の将軍となった源頼朝による鎌倉幕府の設立に、頼朝の親族として貢献しました。義兼はまた信仰心が深く、館の中に持仏堂を建立し、仏画を掲げて祈りを捧げました。これが鑁阿寺の起源となります。更には、彼は隠居所として樺崎寺を建て、また足利学校の設立者の一人とも言われています。足利学校は、日本中世の最高学府の一つとなりました。これらにより、足利は中世における一大文化都市となったのです。

樺崎寺跡
現存する足利学校の「学校門」

足利氏は鎌倉時代を生き抜き室町将軍家に

その後源氏将軍の血筋が絶え、北条氏が執権として実権を握りましたが、義兼の息子、義氏は鎌倉幕府の重臣となりました。足利氏としても、現在の愛知県の一部にあたる三河国に新しい領地を獲得しました。そのため、義氏は普段は武家の都、鎌倉に住んでいました。そこには政所が設置され、領地全体をコントロールしていました。もとの本拠地であった足利荘でさえ、足利氏の当主ではなく当地に置かれた公文所の役人によって治められました。よって、義氏は足利の父親の館(足利氏館)を1234年に鑁阿寺とし、父親の冥福と氏族の繁栄を祈る場所としたのです。

足利義氏肖像画、江戸時代の作、鑁阿寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利荘の公文所が置かれたとされる勧農山(現・岩井山)

鎌倉幕府の他の重臣たちが北条氏によって粛清される中、足利氏は鎌倉時代を生き延びました。多くの足利氏当主は、北条氏から輿入れした母親から生まれました。そのために足利氏は、幕府で第2の地位を維持できたものと思われます。その一方で、多くの武士たちが足利氏に対して、源氏の棟梁を継ぐ者として世の中を変えてほしいという期待を持っていました。義氏から5代後の当主、足利尊氏は北条氏出身でない母親から生まれました。そういったことが尊氏が、後醍醐天皇やもう一人の源氏の子孫である新田義貞とともに、鎌倉幕府を倒す要因の一部になったと考えられています。

足利尊氏肖像画、浄土寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
後醍醐天皇肖像画、清浄光寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
新田義貞肖像画、藤島神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「足利氏館その2」に続きます。

196.Sadowara Castle Part1

The castle symbolized the Ito Clan’s success and failure.

Location and History

Ito Clan from eastern Japan builds Castle

Miyazaki Prefecture is located in the eastern part of the Kyushu Region, which is known for its agriculture. Because of its long from the north to the south and its face is the direction of sunrise, therefore, it’s suitable for farming. Almost all the area of the prefecture was called Hyuga Province, which means the province facing the sun. It is easy to see the province had been fertile since the Ancient Times. There has actually been the popular Saitobaru Burial Mounds which were built between the 4th and 7th Centuries in the central part of the prefecture. The province also had the legend of the first Emperor Jinmu coming from there, going to the east, in order to establish Yamato Imperial Court.

Saitobaru Burial Mounds

The range of Miyazaki Prefecture and the location of the castles

Sadowara Castle was the one which once became the center of Hyuga Province and the home base of the Ito Clan. The clan originated from the Kudo Clan and called themselves a land name of Ito when they settled in Ito, the eastern part of Izu Peninsula, eastern Japan in the 12th Century. Since the Kamakura Shogunate was established at the end of the century, some of the warriors were sent by the shogunate to local areas to govern them. A branch of the Ito Clan, which was sent to Hyuga Province, was one of them. The Tajima-Ito Clan, which was named after the settlement, was said to have first built the castle in the 14th Century.

The range of Izu Peninsula (inside the blue line) and the location of Sadowara Castle

Top of Ito 48 Castles

Meanwhile, another person from the core family of the Ito Clan was also sent by the Ashikaga Shogunate to Hyuga Province in the same century to govern the area during the Northern and Southern Courts period. Both Ito Clans were eventually unified and became a strong warlord based in Sadowara Castle. During the Sengoku Period between the 15th and 16th Centuries, the clan often fought against the Shimazu Clan from the south over Hyuga Province. The lord of the clan at that time, Yoshisuke Ito was so aggressive that he was able to capture Obi Castle, a major one in the southern Hyuga Province in 1569. He was just at his peak, having owned 48 castles in the province, in which Sadowara Castle was at the top. Its castle town prospered like the provincial capital and it was called Little Kyoto in Kyushu.

The portrait of Yoshisuke Ito, from the Sakai City History Volume 1 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The ruins of Obi Castle

Sadowara Castle is basically considered one of the Southern Kyushu type castles which were built on the Shirasu Plateau looking like a mountain or a hill in the area. The plateau has been made from volcanic ash caused by ancient eruptions. Its soil is fragile and can easily collapse to form cliffs. Warriors in the area often used this nature to build their castles because it was easy for them to process natural terrain for strong defensive systems. For example, they built deep dry moats, high walls under enclosures, and narrow defensive gates by cutting the soil. Some popular examples of them were Chiran, Obi and Sadowara Castles.

The Main Route of Sadowara Castle
The dry moat of Chiran Castle (licensed by PIXTA)

Castle is captured by Shimazu Clan due to Collapse of Ito

Yoshisuke Ito’s glory didn’t last long, however. He was losing the Ito 48 Castles one by one, triggered by the lost of the Battle of Kizakihara against the Shimazu Clan in 1573. The Shimazu’s force and the Ito’s deterioration also made his retainers alienate him more and more. He wondered if he could be besieged in Sadowara Castle, but the situation didn’t allow him to do so, but he was forced to leave the castle. He escaped from Hyuga Province with his family and few vassals to Bungo Province in the north, where his ally, Sorin Otomo governed. This was called the Collapse of Ito. They had finally lost all that they had and eventually became wanderers. Yoshisuke died while drifting in 1585 before his son, Suketake returned to Obi Castle in Hyuga Province in 1588 by serving his new master, the ruler, Hideyoshi Toyotomi.

The portrait of Sorin Otomo, owned by Zuihoin (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The portrait of Suketake Ito, owned by the board of education of Nichinan City (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Sadowara Castle was eventually owned by the Shimazu Clan. The clan might have improved the castle by building the Main Tower on the top, but It has not been confirmed yet. The Main Tower is said to be the one which was located in the southernmost place in Japan. After the lord of the castle, Toyohisa Shimazu was killed in the battle of Sekigahara in 1600, the castle was followed by the Tokugawa Shogunate and Mochihisa Shimazu whose successors governed it until the end of the Edo Period as the Sadowara Domain. Mochihisa’s son, Tadaoki abandoned the castle on the mountain and moved it to the foot where the Main Hall was built. This was because maintaining the castle on the Shirasu Plateau was too difficult and the hall on the plain land was convenient for the government during the peaceful Edo Period.

The ruins of the Main Tower base of Sadowara Castle
The portrait of Mochihisa Shimazu, from the database of Historiographical Institute The University of Tokyo (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The restored Main Hall at the foot as an historical museum

To be continued in “Sadowara Castle Part2”

196.佐土原城 その1

伊東氏の栄光と凋落を象徴する城

立地と歴史

九州に送られた伊東氏が築城

宮崎県は九州地方の東側にあり、農業県として知られています。南北に長い形をしていて、日が出る方角に向かっています。そのため、農業に向いているといえるでしょう。宮崎県のほどんどのエリアは、かつては日向国(ひゅうがのくに)とよばれていました。まさに日が向く国という意味です。古代より肥沃であったことが容易に想像できます。県の中央部には、4世紀から7世紀の間に築造された西都原(さいとばる)古墳群があります。また、この国から初代天皇となる神武天皇が東征を行い、大和朝廷を設立したいう神話もあります。

宮崎県の範囲と城の位置

西都原古墳群

佐土原城は、日向国の中央部にあった城の一つで、伊東氏の本拠地でした。伊東氏はもとは工藤氏の出で、12世紀に東日本の伊豆半島東部に定住したときに、土地の名前を苗字としました。その世紀の末に鎌倉幕府が設立されて以来、武士たちは幕府により地方に領地を与えられ、その統治のために各地に送られました。伊東氏の支族も同様に日向国に出向きました。行った土地の名前に由来した田島伊東氏が、14世紀に佐土原城を最初に築いたと言われています。

伊豆半島の範囲(青線内)と城の位置

伊東四十八城の頂点

その間、時代は南北朝時代となり、足利幕府は地方支配のために改めて、伊東氏本家から武士を送り込みました。2系統の伊東氏はやがて統合し、佐土原城を本拠として強力な戦国大名に成長しました。15世紀から16世紀の戦国時代の間、伊東氏は南から進出してきた島津氏と日向国をめぐって戦いを繰り広げました。当時の当主であった伊東義祐(よしすけ)は相当攻撃的で、1569年に南日向の主要な城である飫肥城を陥落させました(島津氏の依頼による将軍家の仲裁にも耳を貸さなかったそうです)。この時点が彼の絶頂期であり、日向国に48もの城を有していました(伊東四十八城と称されます)。そして、その頂点に佐土原城があったのです。城下町は国府のように繁栄し、九州の小京都とも言われました(義祐は高位の官位を取得し、京風の文化や町割りを導入しました)。

伊東義祐肖像画、「堺市史 第七巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
飫肥城跡

佐土原城は基本的に、南九州型城郭の一つとされています。このタイプの城は、この地方で山あるは丘のように見えるシラス台地上に築かれました。シラス台地は、古代の大噴火によって噴出した火山灰によって形作られています。その土壌はもろく、容易に崩れて崖を形成します。この地域の武士たちは、よくこの性質を利用して城を築きました。自然の地形を加工すれば、容易に強固な防御システムを構築することができたからです。例えば、深い空堀、曲輪下に高く立ちはだかる壁、狭く防御に優れた門などが土を加工して作られたのです。このような城の代表例として、知覧城、飫肥城、そして佐土原城が挙げられます。

佐土原城の大手口
知覧城の空堀 (licensed by PIXTA)

伊東崩れにより城は島津氏のものに

しかし、伊東義祐の栄光は長く続きませんでした。1573年の島津氏との木崎原の戦いでの敗戦をきっかけに、義祐は伊東四十八城を一つ一つ失っていきました。島津の勢いと伊東の凋落は、次々に部将たちの離反を招きました。彼は佐土原城に籠って抗戦できないか思案しましたが、状況はそれさえも許しませんでした。彼は城を後にせざるをえず、家族とわずかな供回りとともに日向国から北の、同盟者の大友宗麟が治める豊後国に逃れていきました。この出来事は「伊東崩れ(または豊後落ち)」と呼ばれました。彼らはついには全てを失い、やがて漂泊者となりました(大友宗麟が伊東救援を名目に島津氏と戦った耳川の戦いに大敗したことで居場所を失いました)。義祐は1585年に放浪の途中で亡くなってしまいますが、息子の祐兵(すけたけ)は天下人の豊臣秀吉に仕え、1588年には日向国の飫肥城への帰還を果たします。

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊東祐兵の肖像画、日南市教育委員会所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐土原城は必然的に島津氏のものとなりました。島津氏の下で城が改修され、頂上に天守が作られたとされていますが、いまだ事実としては確定していません。天守があったとしたら、日本最南端の天守であったろうと言われています。1600年に、城主であった島津豊久が関ヶ原の戦いで戦死してしまった後は、城は一旦幕府直轄となり、その後は島津以久(もちひさ)とその後継者が佐土原藩として江戸時代末まで統治しました。持久の息子、忠興(ただおき)は山上の城を廃し、山麓に御殿を築き、そちらに移りました。シラス台地にある城を維持するのは大変な困難を伴い、平地にある館の方が平和な江戸時代における統治に適していたからです。

佐土原城の天守台跡
島津以久の肖像画、東京大学史料編纂所データベースより (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
歴史資料館として復元された山麓の御殿

「佐土原城その2」に続きます。