196.佐土原城 その1

伊東氏の栄光と凋落を象徴する城

立地と歴史

九州に送られた伊東氏が築城

宮崎県は九州地方の東側にあり、農業県として知られています。南北に長い形をしていて、日が出る方角に向かっています。そのため、農業に向いているといえるでしょう。宮崎県のほどんどのエリアは、かつては日向国(ひゅうがのくに)とよばれていました。まさに日が向く国という意味です。古代より肥沃であったことが容易に想像できます。県の中央部には、4世紀から7世紀の間に築造された西都原(さいとばる)古墳群があります。また、この国から初代天皇となる神武天皇が東征を行い、大和朝廷を設立したいう神話もあります。

宮崎県の範囲と城の位置

西都原古墳群

佐土原城は、日向国の中央部にあった城の一つで、伊東氏の本拠地でした。伊東氏はもとは工藤氏の出で、12世紀に東日本の伊豆半島東部に定住したときに、土地の名前を苗字としました。その世紀の末に鎌倉幕府が設立されて以来、武士たちは幕府により地方に領地を与えられ、その統治のために各地に送られました。伊東氏の支族も同様に日向国に出向きました。行った土地の名前に由来した田島伊東氏が、14世紀に佐土原城を最初に築いたと言われています。

伊豆半島の範囲(青線内)と城の位置

伊東四十八城の頂点

その間、時代は南北朝時代となり、足利幕府は地方支配のために改めて、伊東氏本家から武士を送り込みました。2系統の伊東氏はやがて統合し、佐土原城を本拠として強力な戦国大名に成長しました。15世紀から16世紀の戦国時代の間、伊東氏は南から進出してきた島津氏と日向国をめぐって戦いを繰り広げました。当時の当主であった伊東義祐(よしすけ)は相当攻撃的で、1569年に南日向の主要な城である飫肥城を陥落させました(島津氏の依頼による将軍家の仲裁にも耳を貸さなかったそうです)。この時点が彼の絶頂期であり、日向国に48もの城を有していました(伊東四十八城と称されます)。そして、その頂点に佐土原城があったのです。城下町は国府のように繁栄し、九州の小京都とも言われました(義祐は高位の官位を取得し、京風の文化や町割りを導入しました)。

伊東義祐肖像画、「堺市史 第七巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
飫肥城跡

佐土原城は基本的に、南九州型城郭の一つとされています。このタイプの城は、この地方で山あるは丘のように見えるシラス台地上に築かれました。シラス台地は、古代の大噴火によって噴出した火山灰によって形作られています。その土壌はもろく、容易に崩れて崖を形成します。この地域の武士たちは、よくこの性質を利用して城を築きました。自然の地形を加工すれば、容易に強固な防御システムを構築することができたからです。例えば、深い空堀、曲輪下に高く立ちはだかる壁、狭く防御に優れた門などが土を加工して作られたのです。このような城の代表例として、知覧城、飫肥城、そして佐土原城が挙げられます。

佐土原城の大手口
知覧城の空堀 (licensed by PIXTA)

伊東崩れにより城は島津氏のものに

しかし、伊東義祐の栄光は長く続きませんでした。1573年の島津氏との木崎原の戦いでの敗戦をきっかけに、義祐は伊東四十八城を一つ一つ失っていきました。島津の勢いと伊東の凋落は、次々に部将たちの離反を招きました。彼は佐土原城に籠って抗戦できないか思案しましたが、状況はそれさえも許しませんでした。彼は城を後にせざるをえず、家族とわずかな供回りとともに日向国から北の、同盟者の大友宗麟が治める豊後国に逃れていきました。この出来事は「伊東崩れ(または豊後落ち)」と呼ばれました。彼らはついには全てを失い、やがて漂泊者となりました(大友宗麟が伊東救援を名目に島津氏と戦った耳川の戦いに大敗したことで居場所を失いました)。義祐は1585年に放浪の途中で亡くなってしまいますが、息子の祐兵(すけたけ)は天下人の豊臣秀吉に仕え、1588年には日向国の飫肥城への帰還を果たします。

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊東祐兵の肖像画、日南市教育委員会所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐土原城は必然的に島津氏のものとなりました。島津氏の下で城が改修され、頂上に天守が作られたとされていますが、いまだ事実としては確定していません。天守があったとしたら、日本最南端の天守であったろうと言われています。1600年に、城主であった島津豊久が関ヶ原の戦いで戦死してしまった後は、城は一旦幕府直轄となり、その後は島津以久(もちひさ)とその後継者が佐土原藩として江戸時代末まで統治しました。持久の息子、忠興(ただおき)は山上の城を廃し、山麓に御殿を築き、そちらに移りました。シラス台地にある城を維持するのは大変な困難を伴い、平地にある館の方が平和な江戸時代における統治に適していたからです。

佐土原城の天守台跡
島津以久の肖像画、東京大学史料編纂所データベースより (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
歴史資料館として復元された山麓の御殿

「佐土原城その2」に続きます。

17.Kanayama Castle Part1

An important and strong castle in the northern Kanto Region

Location and History

Yoshisada Nitta comes from Nitta Manor

Kanayama Castle was located on Kanayama Mountain in modern day Ota City, Gunma Prefecture. The area around the city was called Nitta Manor in the Middle Ages, where the Nitta Clan, a relative of the Minamoto Clan which originated from the Imperial Family, settled in. It was on Tozando Route, a major one in Kanto Region, and was sandwiched between Tone River and Watarase River, two major ones in the region as well. In the past, large rivers could provide rich farmland, water transportation, and even barriers when a battle happened. That’s why the area of Nitta Manor was considered important.

The range of Ota City and the location of the castle

Iezumi Iwamatsu builds Castle

Yoshisada Nitta is the most famous person of the clan, who attacked and defeated the Kamakura Shogunate in 1333. However, he was unfortunately defeated in 1338 by troops of the Ashikaga Shogunate which Takauji Ashikaga who was also a descendant of the Minamoto Clan established. After that, the Iwamatsu Clan, a branch of the Nitta but supporting the shogunate, followed the manor. The lord of the clan originally lived in the hall on a plain area, called the Iwamatsu Hall. However, it got too dangerous to continue to do so, because many battles happened all over the Kanto Region since the Kyotoku War started back in 1454. Therefore, the lord of the clan at that time, Iezumi Iwamatsu decided to build his new home base on Kanayama Mountain in the northern part of the manor, which would eventually be completed in 1469, and be called Kanayama Castle.

The portrait of Yoshisada Nitta, owned by Fujishima Shrine (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The ruins of Iwamatsu Hall which has become Shorenji Temple
A view of Kanayama Mountain seen from around Iwamatsu Hall Ruins

Yura Clan overthrows Iwamatsu Clan

In the Sengoku Period when the Kanayama Castle was active, a popular trend called Gekokujo or Overthrowing their lords was often seen. In the case of the Iwamatsu Clan, their senior vassal, the Yokose Clan overthrew the Iwamatsu Clan, by supporting a puppet lord and killing an unmanageable lord. For example, the lord, Naozumi Iwamatsu was forced to retire and devote all of himself to the field of linked poem called Renga. The Yokose Clan finally changed their family name to the Yura Clan, declaring they were actually another branch of the Nitta Clan, which also meant a descendant of the Minamoto Clan. They needed not only real power but also the authority the people could respect, to survive as a local warlord during the period.

The self-portrait of Naozumi Iwamatsu, owned by Shorenji Temple, one of the earliest self-portraits in Japan (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The tomb of Naozumi Iwamatsu, located near Shorenji Temple

Hojo Clan takes over and completes Castle

In the late 16th Century, much larger warlords than the Yura Clan, such as the Hojo, Uesugi, and Takeda Clans, battled each other over the Kanto Region. The policy of the Yura Clan was to deal and follow the strongest warlord each time as other local lords did. The lord of the clan, Narishige Yura even mediated between the Hojo Clan and Uesugi Clan in 1569 to provide Kanayama Castle for their negotiation, but unfortunately, the alliance lasted only a short time. The clan following one great warlord meant that they could be attacked by other great warlords. Kanayama Castle was actually attacked several times by all the three warlords, the Hojo, Uesugi, and the Takeda, however, never failed. That’s why this castle was considered impregnable and called one of the Seven Great Castles in the Kanto Region. The Kanto Region eventually belonged to the Hojo Clan, which forced the Yura Clan to hand Kanayama Castle over to the Hojo Clan in 1585.

The tomb of Narishige Yura (in the center) at Kinryuji Temple near the castle ruins
The portrait of Ujiyasu Hojo whom Naozumi suggested the alliance with the Uesugi Clan, owned by Odawara Castle (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The portrait of Kenshin Uesugi whom Naozumi suggested the alliance with the Hojo Clan, owned by Uesugi Shrine (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

The first stage of Kanayama Castle seemed to be built on around the top of the mountain and made of soil. As time passed by, the castle was developed and improved greatly. It is said that the Hojo Clan completed the final version of the castle. They expanded the range of the castle from the top to the western and southern ridges of the mountain. They also improved the main portion of the castle by building stone walls and even stone paving. The castle didn’t have the Main Tower which major castles in western Japan often had, but it is very rare case for those in eastern Japan to have full-scale stone walls at that time.

The restored Main Entrance of Kanayama Castle
The miniature model of the Main Entrance of Kanayama Castle, exhibited by Historic Site Kanayama Castle Guidance Facility

Abrupt ending of Castle

The main history of Kanayama Castle ended all too soon in 1590 when the ruler, Hideyoshi Toyotomi invaded the Hojo’s territory in order to unify Japan. Kanayama Castle was governed by the Hojo’s retainers, but many of them were ordered to gather in Odawara Castle, the Hojo’s home base, so only a few defenders remained in Kanayama Castle. That’s why they had to surrender and open it when they were attacked by the invasion troops led by Toshiie Maeda. After that, the castle was eventually abandoned.

The Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, owned by Kodaiji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
Odawara Castle

To be continued in “Kanayama Castle Part2”

17.金山城 その1

金山城は、現在の群馬県太田市にあった城です。この城は「難攻不落」として知られていて、「あの上杉謙信も落とせなかった」というフレーズ付きです。謙信だけでなく、武田・北条も攻めたことがありますが、力攻めでは落とすことができませんでした。また、城に比べると城主たちの名前は知られていないように思いますが、その城主たちにも色々なドラマがありました。城と城主があいまって、難航不落が達成できたと言えるのだと思います。この記事では、城主たちを交えながら城の歴史を紹介していきます。

立地と歴史

金山城は、現在の群馬県太田市にあった城です。この城は「難攻不落」として知られていて、「あの上杉謙信も落とせなかった」というフレーズ付きです。謙信だけでなく、武田・北条も攻めたことがありますが、力攻めでは落とすことができませんでした。また、城に比べると城主たちの名前は知られていないように思いますが、その城主たちにも色々なドラマがありました。城と城主があいまって、難航不落が達成できたと言えるのだと思います。この記事では、城主たちを交えながら城の歴史を紹介していきます。

太田市の範囲と城の位置

岩松家純による築城と横瀬氏による下剋上

太田市周辺の地域は中世には新田荘と呼ばれていて、源氏の一族である新田氏が開発、定住していました。新田氏の中でも最も有名な人物は、何といっても1333年(元弘3年)に鎌倉幕府を攻め滅ぼした新田義貞でしょう。その後南北朝時代となり、南朝に属した義貞は、北朝方の同じ源氏一族、足利尊氏の軍勢によって討たれてしまいました。新田荘を引き継いだのは、新田氏の支族で、足利氏に従った岩松氏でした。岩松氏は、足利氏が設立した室町幕府の下、新田一族を代表する立場となりました。

新田義貞肖像画、藤島神社蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

室町時代後半になると、関東地方に動乱が起こります。1415年(応永22年)関東公方・足利持氏に対して前関東管領・上杉禅秀が反乱を起こしたのです。当時の岩松氏の当主・満純は、禅秀に味方しましたが、禅秀は敗れ、1417年(応永24年)満純も処刑されました。岩松家は、満純の甥・持国が継ぎました(京兆家)。満純の遺児・家純は京都に逃れ、時の将軍・足利義教に保護されました(礼部家)。義教と持氏は対立していたので、義教は家純を持氏牽制のためのカードとして使おうとしたのです。

足利義教肖像画、妙興寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

やがて、その機会がやってきました。1438年(永享10年)持氏と、関東管領・上杉氏及びバックアップする幕府との間で永享の乱が勃発したのです(持氏の敗死で終了)。2年後には、更に公方方と上杉・幕府方間で、結城合戦が起こりました。このとき、岩松家当主・持国(京兆家、けいちょうけ)は公方方でしたが、京都にいた岩松家純(礼部家、れいぶけ)が上杉・幕府方として参戦したのです。これは関東諸将にとって驚きだったようです(ただし家純は後見の足利義教暗殺事件があって帰京した模様)。そして1454年(享徳3年)後任の関東公方(のちに古河公方)・足利成氏と上杉氏(+幕府)との間で再び戦が始まり、関東地方が戦国時代に突入します(享徳の乱)。岩松家は持国が公方方、家純が上杉方でしたが、戦いが進むにつれ、岩松家全体が上杉方に傾き、家純が当主として迎えられることになったのです。それは1469年(文明元年)のことでした。それは彼が上杉禅秀の乱の結果、流浪の身になってから52年もの歳月が経っていました(家純61歳)。その家純を迎えるため、重臣の横瀬国繁らの手によって築かれたのが金山城だったのです(下記補足1)。

(補足1)文明元年2月25日、新田(岩松)家純が僧松陰を代官として地鎮の儀式を行い, 70余日断絶なく普請に走り回り、同8吉日に完成した。重臣の横瀬国繁らが由良原まで出迎え、家純は五十子陣から金山城に入城して祝賀の宴を行った。(長楽寺僧・松陰西堂「松陰私語」、「妙印尼輝子」ホームページによる要旨引用)

「結城合戦絵詞」で足利持氏が自害する場面  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城が築かれた金山は新田荘の北部にあり、麓から約180mの高さがある独立丘陵で、山城を築くのに適していました。また山上に泉が湧いていて、平安時代から聖地とされ(現在の日ノ池)、城にとっては貴重な水源となったのです。岩松氏の当主はもともと、岩松(氏)館と呼ばれた平地の居館に住んでいたと考えられていますが、戦国時代の到来により、安全な山城に移動する必要もありました。関東地方の類似例としては、箕輪城唐沢山城が挙げられるでしょう。金山城の築城は、岩松家純の帰還(両岩松家の統一)と併せ、地域にとっても画期的な出来事でした。1478年(文明10年)には太田道灌も訪れています。

岩松氏館跡、現在は岩松山青蓮寺になっています
岩松氏館付近から見える金山

家純は、通常は上杉方の本拠地、五十子陣(いかっこじん)に滞在し、京都から彼の跡継ぎ・明純も到着しました。1477年(文明9年)に内乱(長尾景春の乱)により五十子陣が崩壊すると、岩松勢は金山城に戻り、家純はその場で今後は古河公方に従うと宣言しました。そしてあろうことか、息子の明純を勘当してしまったのです。両者の間で路線対立があったのかもしれません。紆余曲折の後、跡継ぎは孫の尚純(ひさずみ)ということになりました。

伝・岩松尚純自画像、青蓮寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1494年(明応3年)カリスマ的存在の家純が86歳で亡くなると、家中が動揺します。当主・尚純を重臣・横瀬氏が後見する体制であったのが、勘当されていた明純が翌年、尚純と謀り、横瀬氏を除くべく反乱を起こしたのです(屋裏の錯乱、横瀬氏の当主・成繁が草津湯治に行ったタイミングを見計らった)。しかし、明純は、横瀬一族が立てこもる金山城を落とすことができず、ついに古河公方・足利成氏が調停に乗り出しました。その結果は、尚純は隠居、尚純の幼児・昌純(まさずみ)が跡を継ぐというものでした。つまり、京都帰りの家純以下に代わって実際に家中を取り仕切っていたのは、重臣・横瀬氏であり、それが名実ともに明らかになったのです。これが下剋上の始まりでした。隠居させられた尚純は、京都育ちの教養人であったため、岩松の館で和歌・連歌の道の没頭しました(下記補足2)。昌純が成長すると、横瀬氏の当主・泰繁(やすしげ)と対立するようになり、逆に討たれてしまうという事件が発生しました。この事件で、横瀬氏の下剋上達成とされています(岩松氏は形式上の主君として継続)。

(補足2)明る朝、利根川の舟渡りをして、上野の国新田の庄に、礼部尚純、隠遁ありて今は静喜、かの閑居に五六日。連歌たび〱におよべり。(往路)新田の庄に大沢下総守宿所にして、草津湯治のまかなひなどに六七日になりぬ。静喜にてまた連歌あり。(復路)(連歌師宗長「東路の津登」)

岩松尚純の墓、青蓮寺の近くにあります
横瀬泰繁肖像画、龍得寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

上州の戦国大名、由良成繁

泰繁の子、成繁(前述の成繁とは別人)は1545年(天文14年)に跡を継ぎました。彼の時代は、まさに関東地方が戦いの渦中にありました。北条・上杉・武田が覇権を争う中で渡り歩き、一族の独立を守っただけでなく、領土も広げました(館林・桐生地域を攻略)。成繁は当初、北条氏に服属していましたが、(北条氏が傀儡としてた古河公方・足利義氏に仕えていた)京都の将軍・足利義輝とも交流を持っていました。例えば、義輝から伝来間もない鉄砲を下賜されています。(下記補足3)この交流は中央からの情報源にもなっていました。そしてついには苗字を、新田氏ゆかりの地名から「由良(ゆら)」に変え、自分たちが新田一族の正統であると称したのです(新田義宗の子、貞氏が養子に入ったとした、由良家伝記)。義輝からは、岩松氏と同等以上の役職(刑部大輔・御供衆、岩松氏は治部大輔、由良文書)に任じられました。この時代に下剋上を戦国大名として生き残るには、武力だけはなく、人々から認められるための権威も必要だったのです。

(補足3)数寄之由、相聞候条、鉄放(砲)壱丁遣之候、猶晴光可申候也、五月廿六日(花押)横瀬雅楽助とのへ(天文22年足利義輝御内書、安川由良文書)

足利義輝肖像画、国立歴史民俗博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1560年(永禄3年)越後国の上杉謙信(当時は長尾景虎)が、本格的な関東侵攻(越山)を開始します。この動きを京都からの情報で得ていた(下記補足4)成繁は、いち早く謙信に味方します。越後勢と戦うことは不可能と判断したようです。謙信の下に参陣した武将名を記録した「関東幕注文」にも「新田衆」の筆頭にその名が見えます。(下記補足5)北条氏は、横瀬氏(当時)からの人質に危害を加えませんでした。これが後の成繁の行動に影響したかもしれません。

(補足4)関白殿御下国の処、馳走せしむの由、尤も神妙候(永禄3年10月3日足利成繫宛義輝御内書、集古文書)

(補足5)新田衆 横瀬雅楽助 五のかゝりの丸の内の十万(関東幕注文、上杉家文書、「新田殿御一家(岩松一族)」はその後に記載)

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが成繁は、1566年(永禄9年)8月頃、再び北条氏に従うことにしました。(下記補足6)同年3月、謙信は下総国臼井城攻めに失敗し、その権威が大きく低下していたからです。成繁は後に遺言で「北条氏のやり方は常に無道である」(補足7)と言っているので、信頼したわけではなかったでしょうが、その時点で冷静な判断をしたと思われます。その結果、上州の領主が次々に北条方につき、謙信の重臣・厩橋城の北条高広までが離反しました。上杉方は、上野国の拠点のほとんどを失い大打撃となりました。謙信は激怒し(補足8)、上野国に攻め込み、自身の書状で新田(金山城)攻めの予定を告げていますが、実行したかどうかはわかっていません。

(補足6)東口の事、宇都宮を始め両皆川・新田(由良)当方へ申し寄せ候、なかんずく成田の事、我々の刷(あつかい)を以て時宜(じき)落着す、(8月25日付正木時忠宛北条氏照書状、三浦文書)

(補足7)北条氏のやり方は常に無道であるので、北条家の御陣の供に兄弟一緒に出てはならぬ」(「石川忠総留書」坤より、黒田基樹「由良氏の研究」)

(補足8)第一の侫人成繁を始めとして退治を加うべし(永禄10年正月28日付佐竹義重宛謙信書状、伊佐早文書)

臼井城跡

永禄11年12月、状況がまた変わります。武田信玄が武田・今川・北条の三国同盟を破り、今川領に侵攻したのです。それにより、北条氏の当主・氏康も、長年の宿敵・謙信と講和することを決断しました。その交渉役になったのが、由良成繁と北条高広でした。(下記補足9)この二人は上杉への最前線にいて、かつて上杉方だったため知己も多かったからです(成繁のルートは「由良手筋」と呼ばれました)。交渉は困難を極めましたが、成繁は金山城を交渉の場として提供するなど努力を重ねました。自らも戦国大名でありがなら、地域の安定を願ってのことだっだと思われます。講和(越相同盟)によって、上野国は上杉方となりました。

(補足9)越・相取扱の儀、旧冬以来源三(北条氏照)・新太郎(氏邦)如何様にもと存じ詰め、様々その稼ぎを致す、なかんずく新太郎には愚老(氏康)申し付け、由信(成繁)取扱について相違なく相整え候、(永禄12年3月3日付上杉方沼田在城衆宛北条氏康書状、歴代古案三)

武田信玄肖像画、持明院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏康肖像画、小田原城所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、1571年(元亀2年)に氏康が亡くなると、跡継ぎの氏政は、武田との同盟を復活します。同盟のメリット(上杉方の武田領への侵攻)が機能しなかったからです。成繁は氏政に対して不満を露わにしますが、結局北条方に戻ってきました。これも彼の戦国大名としての判断だったのでしょう。新田はまた争乱の地となり、上杉方が金山城北方の丸山砦を占領した一方、由良方も桐生城を落とし、周辺地域を領土としました。謙信はまたも激怒し、1574年(天正2年)二度に渡って上野に出兵しました。謙信本体が3月に由良領に侵攻し、4月に金山城を攻めました。城の物見から死角となる藤阿久という所に陣を布いたそうです。由良方は籠城に徹し、上杉方も簡単には城を落とせないので、周辺地域の放火・略奪に終始しました。領内にダメージを与えるためです。「義」といってもその当時は「イコール民衆のため」ではなかったのです。北条軍は資材の支給・上杉軍への牽制を行って由良方を支援しました。5月頃謙信は退陣したようです。同年10、11月にも謙信による由良領侵攻と退陣がありました。謙信は1578年(天正6年)3月に没しますが、成繁も6月に隠居先の桐生城で亡くなりました。戦国大名として波乱の人生でした。跡継ぎの国繁も、今度は武田勝頼(天正8年に新田に出陣)や滝川一益(織田信長配下)の関東侵攻を乗り切り、領土を守ったのです。国繁は、両者からの服属要求をあいまいにしていたようです。

城跡の近くの金龍寺にある由良成繁の墓(真ん中)

金山城の発展

金山城は、当初は金山丘陵の頂上周辺に小規模に築かれていました。頂上に実城(本丸)があり、周りの二の丸・三の丸くらいの範囲と推定されています。また、城主が普段住む館は、山麓にあったと考えられます。それが、横瀬氏が実権を握る時期になると、「中城」と呼ばれる範囲まで広がりました。それは、城の中心部を区切る物見台下堀切辺りまでと推定されています。由良成繁が戦国大名となった頃には、度重なる戦に対応するため、城の改修が進められ、最終的には、丘陵外側に「北城(きたじょう)」「西城(にしじょう)」が、南側にある八王子丘陵には「八王子山ノ砦(はちおうじやまのとりで)」が築かれました。山全体が城郭化し、山麓の館とも連携する形となりました。

物見台下堀切
同じ部分の復元模型、史跡金山城跡ガイダンス施設にて展示

防御の仕組みとしては、山城なので自然の地形を利用しながら、それを加工して土塁・堀切・虎口などを備えました。また金山城は、関東地方で戦国時代から石垣が多用された珍しい城として知られています。石材は金山そのものから調達できたので、城の主要部分で石敷・石組として活用されました。これらの石垣を最終的に整備したのは北条氏なのですが、改修が何度もされていて、初期の工事は由良時代ではないかとされています。北条氏は、石垣以外にも、その当時先進の防御構造を、見附出丸などに導入しました。

石垣が復元された大手虎口
同じ部分の復元模型、史跡金山城跡ガイダンス施設にて展示

城と一族の意地を貫いた妙印尼

戦国時代末期、関東地方はほぼ北条氏の覇権に下に治まりました。1583年(天正11年)10月、由良氏と金山城にとって大事件がまたも起こります。当主・国繁と実弟の長尾顕長が突然北条氏によって捕らえられ、金山城・館林城の明け渡しが要求されたのです。この話は、場所は厩橋城小田原城とも、口実は接待、作戦会議とも、理由は両城の借用に難色を示したとか言われていますが、北条氏が城の直接支配に乗り出したことは間違いありません。2人は小田原に護送監禁されました。このとき、金山城に残って抗戦の決意をしたのが、成繁の妻・妙印尼です(妙印尼の孫・国繁の子である貞繁もいました)。こうして最後ともいうべき籠城戦が始まりました。北条方は、氏政・氏直・氏照らトップクラスが出陣し、翌年にかけて城外の領地でも戦いが続きました(藤岡・沼尻合戦など)。由良方は佐竹氏と連携し、外交面でも豊臣秀吉や徳川家康にも連絡を取りました。これはこの時でなく後に効果が現れます。城は落ちませんでしたが、劣勢は如何ともし難く、監禁された2人と交換で、金山城・館林城を引き渡すことで降伏しました(下記補足11)。由良氏は桐生城に移り、北条氏の家臣・清水太郎左衛門尉が金山城に入り、城の改修を進めました。

(補足10)由信・長新帰城の上、両地南方へ明け渡し候儀、是非なき次第に候(2月5日付宇都宮国綱書状、佐竹文書)

小田原城

1590年(天正18年)3月に豊臣秀吉による北条領侵攻が始まると、また劇的な出来事が起こります。由良氏の当主・国繁は、小田原城に召集されていました。そのとき77歳になっていた妙印尼は、孫の貞繁とともに、いち早く桐生城を開城し、豊臣北陸軍の大将・前田利家の下に参じました。そして、由良家の今後について嘆願を行ったのです。それに対する利家の返事が残っています(下記補足11)。それは北条氏が7月に降伏した後、秀吉から朱印状が発せられることで成就しました(補足12)。事実かどうかわかりませんが、妙印尼と貞繁が、利家とともに小田原合戦に加わり、秀吉に謁見したという話まで伝わっています。

(補足11)新田身上の事、うえさま御前別条なきよう精を入れ、馳走申しまいらせ候、我々たしかに請け取り申し候、ゆくゆくまでも疎意あるまじく候間、ご安心あるべく候、かしく 六月七日 ちくぜんの守とし家(黒印)新田御老母へ まいる(金谷由良文書)

(補足12)由良・長尾兄弟の事、内々に天下え御意を請由にて、先年小田原へ擒え置き、居城へ取り懸かり、相渡すべき旨申し懸け候と雖も、母の覚悟として、城を相拘え、京都へ御届け申し上げ候刻、先ずは成り次第に仕るべく候旨、仰せ出だされ候に付いて、了簡に及ばず、小田原へ城を相渡し、今度籠城すと雖も、右の趣御失念なく候条、本知をも下され度く思し召され候へとも、家康へ下され候条、堪忍分として常陸国の内牛久、当知行の旨に任せ、一職に下され候間、母の覚悟に任せ、全く了知すべき者なり(天正18年8月朔日付由良・長尾老母宛豊臣秀吉朱印状、安川由良文書)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

一方、北条氏が強化したはずの金山城は、4月頃あっけなく落城(または開城)してしまい、その後は廃城となりました。妙印尼は本当は金山城に戻りたかったのでしょうが、常陸国牛久に領地を与えられ、1594年(文禄3年)に81歳で亡くなるまでその地で過ごしました。北条氏の関係者の多くが改易になった中、由良家存続には成功したのです。由良家は最終的には江戸幕府下で高家の一つとなりました。もし妙印尼と由良氏が、わずかな守備兵であっても金山城に居続けていたならばどうなっていたでしょうか。忍城では、地元生え抜きとして城を守っていた成田長親が、石田三成の水攻めに耐え抜いていました。金山城も簡単に降伏せず、後に名が残るような攻防戦が起こっていたかもしれません。

牛久城跡
牛久・稲荷山得月院にある妙印尼の墓
江戸時代の忍城を復元した模型、行田市郷土博物館にて展示

リンク、参考情報

金山城跡、太田市ホームページ
妙印尼輝子
・「新田一族の戦国史/久保田順一著」あかぎ出版
・「戦国史-上州の150年戦争-」上毛新聞社
・「上野岩松氏(シリーズ・中世関東武士の研究 第15巻)/黒田基樹編」戒光祥出版
・「上州の戦国大名 横瀬・由良一族/渡辺嘉造伊著」りん書房
・「関東の名城を歩く 北関東編/峰岸純夫・齋藤慎一編」吉川弘文館
・「戦国の山城を極める 厳選22城/加藤理文 中井均著」学研プラス
・「妙印尼輝子/浜野春保著」武蔵野書房
・「不落の城 新田金山城ガイドブック」群馬県太田市教育委員会
・「国指定史跡 金山城跡 平成21年3月改訂版」太田市教育委員会文化財課
・「広報きりゅう令和5年9月号」桐生市
・「企画展 越山、上杉謙信侵攻と関東の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館

「金山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。