23.小田原城 その3

前回までは、戦国時代までの小田原城の歴史と現地の史跡をご案内しました。今回は、江戸時代から現代までの小田原城の歴史と史跡をまとめてご案内します。この期間の小田原城を一言で表すならば、災害と復興の歴史と言っていいと思います。

前回までは、戦国時代までの小田原城の歴史と現地の史跡をご案内しました。今回は、江戸時代から現代までの小田原城の歴史と史跡をまとめてご案内します。この期間の小田原城を一言で表すならば、災害と復興の歴史と言っていいと思います。

立地と歴史

大久保氏の時代

1590年の小田原合戦の最中から、北条領に徳川家康を移し、その本拠地を江戸にすることが規定路線になっていたようです。小田原城には、家康の重臣・大久保忠世(ただよ)を配置することも、城が開城になった早々に決められました(小田原藩の始まり)。本拠地ではないにしても、関東地方の西の要として重要視されたのです。城は、北条氏時代の中心部に石垣を築くなど、修繕しながら使っていました。この時代から天守があったとされますが(以降の天守とは違うスタイル(望楼型)のもの)、北条時代からのものなのか、このとき築いたものなのかはわかっていません。ただ、少なくとも本丸御殿は北条氏の時代のものを使っていたという記録があります。家康は、領内検分を兼ねた鷹狩りのときや、関ケ原の戦いなど西日本に行く際に、よく小田原城本丸を使っていたそうです。しかし、忠世の跡を継いだ忠隣(ただちか)は1614年に、養女を幕府の許可なく婚姻させたとして改易になってしまいます。実態としては、家康の他の重臣、本多正信・正純父子のとの確執があったのではないかと言われています。その後は主には幕府の直轄領となっていました。

大久保忠世肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
本多正信肖像画、加賀本多博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
初代天守(加藤図)、現地説明パネルより

稲葉氏の時代

1632年、小田原藩が復活します。藩主(城主)となったのは、3代将軍・徳川家光の側近である稲葉正勝です。彼は、家光の乳母で大奥を取り仕切っていた春日局の息子でした。そのような人物を配置するほど、やはり小田原は重要視されていたのです。この頃には箱根の関所を関東の防衛線とする構想も固まっていたので、その警護も任されたのです。ところがその矢先、1633年(寛永10年)正月、寛永大地震が発生し、城や町が甚大な被害を受けてしまったのです。しかし翌年には家光の上洛が予定され、小田原城に宿泊することになっていたため、幕府の事業として迅速に復興がなされました。これにより、江戸時代の小田原城の骨格が固まります。天守は、現在の復興天守のようなスタイル(3層の層塔型)で築かれました。また、本丸など城の主要部分は石垣で固められました。本丸御殿は将軍の宿泊専用だったので、藩主は二の丸御屋形(おやかた)で政務を行いました。城下町も東海道の小田原宿として整備されました。一方、城の範囲は平地の三の丸までとなり、八幡山古郭など丘陵部分は放棄されました。ただし、総構の土塁などは、藩や町の境界として機能し続けました。例えば、宿場の東の入口、江戸口見附は、総構の土塁が仕切りとして使われていました。また、山ノ神堀切には門が作られ、番人が管理していました。

稲葉正勝肖像画、養源寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸時代に完成した城のイメージ、現地説明パネルより
2代目天守(正保図)、現地説明パネルより
江戸口見附跡
山ノ神堀切

再び大久保氏の時代

1686年、稲葉氏は高田藩に転封となり、その代わりに大久保氏が小田原藩主に復活します。当時の当主、大久保忠朝は幕府の老中となっていて、将軍の徳川綱吉を支えていました。ところが、それからしばらくたった1703年(元禄16年)11月、元禄地震が起こり、またも城や町が大被害を受けてしまったのです。更にはその4年後には、富士山が噴火(宝永噴火)し、降灰により農作物は大不作となりました。城では、天守、本丸御殿、二の丸御屋形が全て倒壊しましたが、今度は復興への幕府援助はありませんでした。被災した町や住民への救済も基本的には藩任せでした。そのため、復興には長期間を要し、城については18年もかかりました。本丸御殿は、将軍の上洛などはなくなっていたので再建されませんでしたが、天守は以前と同様のものを建て直しました。3代目の天守で、この天守が幕末まで残りました。幕府の江戸城など、災害で天守がなくなると再建しないケースもあったので、小田原城の天守は、この時点で、関東では屈指の天守となっていたのです。関東の入口で「顔」としての役割があったのでしょうか。その後の天災でもなんとか城は維持されました。幕末になって海防の必要性が高まると、海岸の総構の土塁に沿って、台場が3ヶ所築かれました。残念ながら史跡として残っていません。

3代目天守(文久図)、現地説明パネルより

現代の小田原城まで

明治維新後、城は廃城となり、城の建物はほとんどは解体・売却されました。しかし本丸・二の丸の跡地は石垣とともに残され、皇室の御用邸として使われました。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生しました。御用邸は全壊し、石垣もほとんどが崩壊しました。唯一残っていた城の建物、二の丸平櫓も倒壊しました。この震災により、江戸時代の小田原城がほぼ消滅してしまったと言っていいでしょう。御用邸は廃止となり、小田原城址公園となりました。ここからまた城の復興の事業が始まり、1934年(昭和9年)に二の丸の石垣が積み直され、平櫓も再建されました。そして、天守とその石垣が、1960年(昭和35年)に再建されました。以降、1970年(昭和45年)には常盤木門が、1997年(平成9年)には銅門(あかがねもん)が、2009年(平成21年)には馬出門が復元されています。これまでは、江戸時代の小田原城の姿を再現する方向で、復元事業が進められています。これらも、大きな流れの中では、震災からの復興であるとも言えるのではないでしょうか。

関東大震災で崩壊した本丸石垣
現在の4代目天守
現在の馬出門

特徴、見どころ

三の丸から二の丸に進む!

通常、小田原城への登城ルートとしては、昔だったら大手門から、今だったら、二の丸のお堀端からスタートするのでしょう。もう一つの選択肢として、小田原郵便局脇の「幸田口門跡入口」から三の丸の土塁を歩き、幸田口門跡を経由してからお堀端を進むのもいいでしょう。この門は、その前は「蓮池門」という名前で、お城の大手門でした。上杉謙信も武田信玄も、この門から小田原城を攻めたそうです。二の丸堀は、戦国時代から存在し、当時は「大池」「蓮池」とか呼ばれていたようです。

三の丸の大手門跡、石垣の一部が鐘楼として使われています
幸田口門跡にある説明パネル
二の丸のお堀端

向こうに見える石垣や平櫓は、関東大震災後、最初に再建されたものです。オリジナルの石垣はもっと高かったとのことです。

再建された二の丸石垣と平櫓

「正規登城ルート」とされる正面入口から入ると、お堀の土橋を渡って「馬出門」に入ります。今のところ一番新しい門で、木造復元されています。防御のため、門の中に四角いスペース(桝形)があります。

復元された馬出門

次の銅門(あかがねもん)に入るためには、堀を回り込んで、もう一回橋を渡る必要があります。この門は、二の丸の正門で立派に作ってあります。絵図や文書、発掘の結果の他、古写真が残っていて、かなり正確に木造で復元できたそうです。中の桝形も更に厳重です。

復元された銅門

二の丸の中は、今は広場になっています。かつては、藩主の屋形や、御用邸がありました。

現在の二の丸広場、向こうに見えるのは本丸

いよいよ本丸、天守攻略

いよいよ、本丸に向かいます。本丸へは「常盤木橋」という橋を渡っていくのですが、かつては本丸東堀が、本丸の周りを囲んでいました。今は堀跡が花菖蒲園になっていて、斜面にはアジサイも植えられています。

本丸東堀跡

橋を渡ると、本丸の正門「常盤木門」です。手前に桝形を作るもう一つの門があったのですが、復元されていません。復元された部分はコンクリート造りです。

復元された常盤木門

小田原城の天守は、3層の天守としてはかなり大きいです。高さ27.2メートル、石垣を含めると約39メートルもあります(内部は4階建て)。現在日本にある天守(再建含む)の高さランキングでは、7位につけています。江戸時代に修繕に便利なように作られた天守雛型や、絵図を参考に4代目として建築されました(コンクリート造り)。最上階に展望スペース(高欄付廻縁)を設けるなど、オリジナルと違う外観であるため、「復興天守」に分類されています。中身は歴史博物館になっていて、2016年に耐震補強や展示のリニューアル工事がされています。

現在の小田原城天守(4代目)
天守内部

最上階からは、城の周りの景色を楽しめます。

最上階からの景色(小田原駅方面)
八幡山古郭方面
本丸・二の丸方面
相模湾方面

将来への期待、教訓

本丸の北口から出て、御用米曲輪の方に行ってみましょう。現在発掘調査中で、中には入れませんが、周りにこれまでわかったことが、パネル展示されています。戦国時代の、切り石を使った、珍しい庭園の跡が発見されています。小田原合戦のときには「百間蔵」という倉庫群になっていたようです(ここかどうかわかりませんが、合戦後に伊達政宗が城の倉庫群を見て、備えのすごさに驚嘆しています)。それが、江戸時代に米蔵として引き継がれたのです。今後どんな史跡になるのか、楽しみです。

御用米曲輪
切石を使った庭園遺構発見の説明パネル
江戸時代の葵御紋瓦出土についての説明パネル

本丸の南の斜面では、関東大震災によって崩れた石垣を見ることができます。本丸の石垣は「鉢巻石垣」といって、斜面の上の方だけが石垣になっていました。ここでは、クランクした形の石垣が、上の方からそのまま滑り落ちています。恐ろしい地震のパワーを感じてしまいます。地震への備えを考えさせられる、目に見える展示といっていいでしょう。

クランクた石垣部分がそのまま崩落しています
崩落した本丸石垣

最後に、南堀も見ておきましょう。ここは戦国時代における呼び名と同じように、蓮池になっています(今も別名は「蓮池」です)。こういう場面を見ると、小田原城は戦国時代から今までの歴史が折り重なっていることが実感します。

南堀
近くには、三の丸の箱根口跡もあります

私の感想

戦国時代、江戸時代、そして現代まで、小田原城には盛りだくさんの見どころがありました。1日かけても回り切れません。それにしても小田原城の城主たちは、敵から守るために戦国最大級の城を築いたり、災害にあっても天守を3回も建て直したりするなど、地味なことの積み重ねかもしれませんが、なかなかできないことをやってのけました。城主は違っていても、受け継がれるものがあったのでしょう。自然の宿命として、過去のような災害が再び起こるかもしれませんが、きっとまた乗り切ることでしょう。他の地域へのお手本にもなるのではないでしょうか。

現在の小田原城天守

リンク、参考情報

【公式】小田原城 難攻不落の城
総構、小田原市(「総構マップ」はこちら)
地誌のはざまに、【旧東海道】その14 小田原宿と小田原城と海嘯(その4)
城びと、理文先生のお城がっこう、城歩き編 第9回 小田原城を歩こう(近世編)
・「戦国期小田原城の正体/佐々木健策著」吉川弘文館
・「実録 戦国北条記 戦史ドキュメント/伊東潤著」エイチアンドアイ
・「シリーズ藩物語 小田原藩/下重清著」現代書館
・「北条氏五代と小田原城 (人をあるくシリーズ)/山口博著」吉川弘文館
・「小田原城総構-戦国最大級の城郭-」小田原市教育委員会
・「北条氏滅亡と秀吉の策謀、森田善明著」洋泉社
・「年金ロックンローラー内沢裕吉」ダイヤモンド社
・「よみがえる日本の城2」学研
・「後北条氏民政への反抗」岩崎義朗氏論文
・「神奈川の中世城郭-小田原城支城を中心に-」神奈川県教育委員会文化遺産課、令和4年度第4回考古学講座資料

これで終わります。ありがとうございました。
「小田原城その1」に戻ります。
「小田原城その2」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

53.Nijo Castle Part1

Nijo Castle is one of the most popular tourist attractions in Kyoto, and a World Heritage Site, where many tourists overseas visit. The castle was built by Ieyasu Tokugawa who was the last ruler and the first Shogun of the Tokugawa Shogunate. However, do you know about other Nijo Castles which other rulers and Shoguns had owned before Ieyasu? The current Nijo Castle, which only remains, is the final version of Nijo Castle including the others.

Location and History

Nijo Castle is one of the most popular tourist attractions in Kyoto, and a World Heritage Site, where many tourists overseas visit. The castle was built by Ieyasu Tokugawa who was the last ruler and the first Shogun of the Tokugawa Shogunate. However, did you know about other Nijo Castles which other rulers and Shoguns had owned before Ieyasu? The current Nijo Castle, which is the only remaining castle, is the final version of Nijo Castles including the others. That’s because historians call the castles which the rulers and the Shoguns built in the center of Kyoto, the series of Nijo Castles. (Nijo Castle was originally the name for Ieyasu’s one at that time.)

The current Nijo Castle

Shoguns and Rulers of Nijo Castles

The first Nijo Castle was built by Yoshiteru Ashikaga, the 13th Shogun of the Ashikaga Shogunate. His ancestors had lived in a residence called “The Flower Palace” but it was weak defensively. When Yoshiteru became the Shogun, he couldn’t stay long even in Kyoto because of the conflicts against his retainers. In 1558, he eventually lived in Kyoto by making peace with Nagayoshi Miyoshi who was the most influential retainer, called “the first ruler”. Yoshiteru launched the building of his new palace, which was actually a castle with doubled moats and stone walls. Living in a simple palace was very dangerous even for a Shogun to survive at that time. Yoshiteru’s government was stable for a while. However, the situation got worse after Nagayoshi, whom Yoshihide relied on, died in 1564. Some of the Miyoshi Party suddenly attacked Yoshihide’s castle the following year. Yoshiteru, who was said to be a master swordman, fought bravely against his enemies, but was eventually killed by them.

The portrait of Yoshiteru Ashikaga, owned by National Museum of Japanese History  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
“The Flower Palace” from “The views in and around Kyoto (Uesugi version)”  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The location of Yoshiteru’s Nijo Castle, marked by the red box, the current Nijo Castle is surrounded by the doble moats (Google Map)

The owner of the second Nijo Castle was Yoshiaki Ashikaga, the last shogun of the Ashikaga Shogunate. His Nijo Castle had already been known as “The old Nijo Castle”. He decided to build the castle at the same place as Yoshiteru’s one after he came to Kyoto with Nobunaga Oda and became the shogun in 1568. Many may think this castle was given by Nobunaga, but in fact, it was that Nobunaga was mainly in charge of the civil construction of the castle before many buildings and garden items were moved from others. Nobunaga instructed the construction all by himself, which resulted in nearly 8m high stone walls completed in only less than 3 months. Another episode about it is that Nobunaga collected stone materials, including stone buddha status, for the walls by force. The castle is also famous for having the first Tenshu (which means Main Tower) building on record, which provided a historical epoch. The building seemed to look like a three-level turret. Yoshiaki and Nobunaga eventually fought each other; Yoshiaki fortified his castle even more to fight against Nobunaga. However, Yoshiaki escaped from his Nijo Castle to another castle and surrendered to Nobunaga. Nobunaga ordered his retainers to destroy the Nijo Castle.

The seated statue of Yoshiaki Ashikaga, owned by Tojiin Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The location of Yoshiaki’s Nijo Castle, marked by the blue box, the current Nijo Castle is surrounded by the doble moats (Google Map)
Some of the stone walls of Yoshiaki’s Nijo Castle, unearthed and moved to Kyoto Imperial Park

The owner of the next Nijo Castle was Nobunaga, which is still not popular.
He had stayed in temples before that while being in Kyoto for a long time. He decided to build his own castle in Kyoto to stay in, in 1576, which is now called another “Nijo Castle”. The castle had buildings like a palace including a room for the emperor’s visit. The others about the castle were unclear. However, a question about its size is unclear. In fact, experts later confirmed that Nobunaga’s Nijo Castle was in fact smaller than Yoshiteru’s and Yoshiaki’s Nijo Castle. Moreover, Nobunaga gave the castle to the current prince after only two years. He resumed his stay in temples, including Honnoji where he would be easily killed by Mitsuhide Akechi in 1582. His son, Nobutada stayed in another temple with only a few retainers, heard about the incident, and decided to move to Nobunaga’s former Castle. He battled against Mitsuhide’s troops, but was eventually forced to commit Harakiri, while the castle being burned down.

The portrait of Nobunaga Oda, attributed to Soshu Kano, owned by Chokoji Temple, in the late 16th century (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The location of Nobunaga’s Nijo Castle, marked by the green box, the current Nijo Castle is surrounded by the doble moats (Google Map)
The portrait of Nobutada Oda, owned by Sokenji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Ieyasu Tokugawa of Nijo Castle

Hideyoshi Toyotomi, the successor of Nobunaga, built Jurakudai Castle as his residence in Kyoto in 1587. The castle was located in the north of Nijo and was much larger than all three Nijo Castles earlier on. He invited the emperor to his castle, which meant its functions were similar to the three other Nijo Castles. However, he had built Myokenji Castle at Nijo to live in before Jurakudai Castle. Myokenji Castle was said to have its Main Tower while its other points are unclear. If more information would have been recovered, the castle would have been called another Nijo Castle.

The Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, owned by Kodaiji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
“The folding screens of Jurakudai Castle”, owned by Mitsui Memorial Museum (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The location of Hideyoshi’s Myokenji Castle, marked by the brown box, the current Nijo Castle is surrounded by the doble moats (Google Map)

Ieyasu Tokugawa, who won the battle of Sekigahara in 1600, became the last ruler. He started to build his castle in Kyoto the following year, which would be the current Nijo Castle. The castle was completed in 1603, with its Main Tower added three years later by moving it from Yamato-Koriyama Castle. However, the range of it was different from the current one, which was over half the size of it, with only a single square. That’s why the castle at that time was called, Keicho Nijo Castle (Keicho was the name of the Emperor’s Era at that time).

The Portrait of Ieyasu Tokugawa, attributed to Tanyu Kano, ownd by Osaka Castle Museum (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The range of the Keicho Nijo Castle, marked by the purple box, the current Nijo Castle is surrounded by the doble moats (Google Map)
“The views in and around Kyoto” including the Keicho Nijo Castle, owned by Metropolitan Museum of Art (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Ieyasu used his Nijo Castle to stay in and hold important ceremonies in Kyoto. For example, he invited the envoys from the emperor to the castle where a party was held after he became the first Shogun of the Tokugawa Shogunate. His successor, Hidetada Tokugawa also used the castle in the same way. Ieyasu met his rival, Hideyori Toyotomi at the castle in 1611. Some say Ieyasu decided to destroy the Toyotomi Clan before they become a big threat to the Tokugawa Clan. The castle was eventually used as Ieyasu’s headquarters when he went to the battle of Osaka Castle in 1614. As a result, Ieyasu held patties at Nijo Castle again after his victory in 1615. Meanwhile, he issued the Acts Governing the Imperial Court and Nobility to control them at the same place in the same year. That meant the castle was an iconic place for the government.

The portrait of Hideyori Toyotomi, owned by Yogenin Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The summer campaign of the siege of Osaka folding screens, owned by Osaka Castle Museum (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Hidetada and Iemitsu Tokugawa of Nijo Castle

After Ieyasu died in 1616, his son, Hidetada and grandson, Iemitsu still had many things to do. One of them was to form a good relationship with the Imperial family. Hidetada married his daughter, Masako to emperor Gomizuo in 1620. He became the emperor’s father-in-law. The final practice for his purpose would be to invite the emperor to Nijo Castle like Hideyoshi had used to do in Jurakudai Castle. Hidetada tried to have a special event to surpass that of the previous ruler.

The portrait of Hidetada Tokugawa, owned by Saifuku-ji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The portrait of Iemitsu Tokugawa, owned by Kinzanji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The portrait of the emperor Gomizuo, attributed to Korin Ogata, owned by Imperial Household Archives (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The portrait of Masako Tokugawa, owned by Kounji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

This event would be held in 1626 during the Kanei Era after Nijo Castle was fully renovated. Therefore, the castle would be called Kanei Nijo Castle as what we see it now. The renovation included the land of the castle being extended to the west. It resulted in the land looking like two overlapped squares. The square on the west became the main enclosure for Hidetada’s main hall while the right one became the second enclosure for Iemitsu’s main hall which is the remaining one. The remaining gorgeous Kara-mon gate in front of it was built at the same time. The main enclosure also had the new main tower being moved from Fushimi Castle. The palace for the emperor’s visit was built in the second enclosure. The front gate of the castle had had two levels but was rebuilt to a single-level gate. This was because someone might have looked down on the emperor from the second floor.

The aerial photo of the current Nijo Castle (Google Map)
The remaining main hall of the second enclosure
The remaining Kara-mon Gate
The rebuilt front gate for the emperor’s visit, quoted from the website of Chiba Prefectural Central Museum
The current front gate being changed to a two-level gate after the visit

The event, called “Kanei Royal Visit”, was held for 5 days from the 5th of September (according to the lunar calendar), in 1626. The parade of about 9,000 people, including the emperor and his wife, Masako, went from the imperial palace to the castle. During the visit, lots of ceremonies were held. The most interesting one for us may be that the emperor climbed the main tower twice. There was the corridor bridge with roof overhead, covering the moat between the main and second enclosures. That meant the emperor was able to go the tower from his palace in the castle without having to go out. His first visit to the tower was on the 3rd day, but the view from the top was not good because of the bad weather. He went there again on the last day just before returning to his home. The royal visit was recorded on many sources, which would make people remember it for a long time. This event also symbolized the arrival of peace. After that, the 3rd shogun, Iemitsu went to Kyoto and Nijo Castle in 1634, which was his last visit there. Since then, the castle has been dormant for over 200 years when no shoguns went to Kyoto.

Part of “the Screens of the Royal Visit to Nijo Castle”, exhibited by Kyoto National Museum
The current bridge between the main and second enclosures, which had the corridor with roof overhead on it in the past

Iemochi and Yoshinobu Tokugawa of Nijo Castle

During the first 200 years, Nijo Castle was devastated. For example, the main hall and main tower of the main enclosure were burned down by accidental fires. The main hall of the second enclosure deteriorated. However, the castle got back to the political scenes at the end of the Edo Period. This was because the 14th shogun, Iemochi Tokugawa went to Kyoto for the first time as a shogun in 229 years, after he had been married to Kazunomiya, the emperor’s daughter. The imperial court was getting more powerful, backed up by some influential domains which later resulted in the Meiji Restoration. The shogun needed to deal with such a situation by himself. The shogunate tried to resume Nijo Castle for Iemochi’s stay. However, it was not enough due to the shortage of their budget. As a result, Iemochi mainly used the restored main hall of the second enclosure. He also used Osaka Castle to battle against the Choshu Domain, where he unfortunately died in 1866 due to illness.

The portrait of Iemochi Tokugawa, owned by he Tokugawa Memorial Foundation (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Iemochi’s successor, Yoshinobu Tokugawa had stayed long in Kyoto to back up Iemochi. However, he didn’t use Nijo Castle. He said the reason was that he couldn’t move freely when he stayed there under bureaucratic official rules. He continued to stay in his retainer’s residence even after he became the last shogun. He finally moved to the castle just one month before the famous Returning of the Power to the Emperor in October (according to the lunar calendar), in 1867. He announced it in the main hall of the second enclosure. The purpose of it was that after he resigned, he assumed he would be given another position to continue working for the imperial court while avoiding attacks from the influential domains. However, the domains refused Yoshinobu’s plan by issuing the Decree for the Restoration of Imperial Rule and asking Yoshinobu to return all his ranks and territories. His retainers got very angry, but it was a provocation from the domains. Yoshinobu eventually decided to escape from Nijo Castle to Osaka Castle with his retainers to avoid conflicts.

Yoshinobu Tokugawa when he was the shogun  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The picture of the announcement of Returning the Power to the Emperor, owned by the Meiji Memorial Picture Gallery  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

After that, Nijo Castle belonged to the imperial court. On 3rd February (according to the lunar calendar), in 1868, the emperor Meiji went to the castle and ordered to abolish the shogunate. The castle was used as an iconic place for the government until the end.

The picture of the visit of the emperor Meiji to Nijo Castle, owned by the Meiji Memorial Picture Gallery (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

To be continued in “Nijo Castle Part2”

23.小田原城 その1

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城となるまで成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

立地と歴史(戦国編)

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城と言われるまでに成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

現在の小田原城、天守は江戸時代のものを復興させました

城の始まりと伊勢宗瑞の登場

古代の頃、西から関東に入る東海道は、箱根峠ではなく、足柄峠を越えるルートが主流でした。鎌倉時代になると、箱根山(箱根神社)・走湯山(伊豆山神社)の二所権現への参詣が盛んになり、箱根ルートがよく使われるようになりました。これにより、南北朝時代までには小田原に宿場町が形成されたと考えられています。「小田原城」の記録はこの後に現れますので、この町は城下町でなく、宿場として始まったことになります。一方、支配者の武士階層の中には、関所で通行税(関銭)を徴収する権利を持つ領主がいました。箱根や足柄では、大森氏がその立場にあり、徴収した関銭を、寺院の建立に使ったりもしていました。その大森氏が、宿場として成長した小田原を管理するために、15世紀中頃の戦国時代の始まりまでには、初期の小田原城を築いたと言われています。その目的からして、規模は大きくなかったと考えられます。

城の位置

また、初期の城の位置ですが、従来は現在の小田原城天守の北側の、「八幡山古郭」と呼ばれる場所ではないかと言われてきました。しかし当初の小田原宿は、江戸時代のそれより、西側にあったと考えられます。標高が高く高潮の被害を受けにくく、初期の頃もこの場所についての記録、言い伝えが残っているからです。そのため、城もその宿場に近い、現在の小田原城の天守周辺(八幡山丘陵の端)か、天神山丘陵にあったと考えられるようになってきました。

八幡山古郭東曲輪
現在の天神山

戦国時代には、「北条早雲」こと伊勢宗瑞(いせそうずい)が登場します。宗瑞はこれまで、下剋上を果たした、典型的な初期の戦国大名の一人として、捉えられたこともありました。つまり、素浪人から自らの才覚のみでのし上がり、城持ちの大名になったというサクセス・ストーリーです。しかし、最近の研究により、彼は備中国(岡山県西部)出身の、将軍に仕える幕府奉公衆・伊勢盛時(いせもりとき)であったことがわかっています。彼の姉が、駿河国(静岡県中部)の大名、今川義忠に嫁いでいましたが、家督争いが発生し、姉の子の氏親を支援するために、駿河に向かったのです。

伊勢宗瑞(北条早雲)肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、氏親を跡継ぎにすることに成功し、恩賞として、駿河の興国寺城を与えられました。その後、伊豆国(静岡県東部)の韮山城、そして相模国(神奈川県)の小田原城を手に入れるのですが、それは、一匹狼ではなく、今川氏の部将、そして南関東を治めていた扇谷上杉氏との連携によって行われました。小田原城攻めにしても、宗瑞が大森氏に贈り物を送って油断させ、「火牛の計」を使って城から追い出したという武勇伝がありました。しかし実態は、宗瑞の弟と大森氏が一緒に小田原城にいて(扇谷上杉氏方)、山内上杉氏に攻め取られたという記録があったりして、単純な話ではなかったようです。西暦1500年前後に大地震があったり、大森氏が山内上杉氏方に転じたタイミングで、宗瑞が手に入れたのではないかと考えられています。ただし、この時点では小田原城は、まだ支城という扱いでした。

興国寺城跡
「火牛の計」で攻める北条早雲像、小田原駅西口

北条氏綱・氏直による発展

初代・宗瑞(北条早雲)の跡を継いだのは、嫡子の北条氏綱(ほうじょううじつな)です(1518年、宗瑞は翌年に没)。「小田原北条五代」と言いますが、小田原を本拠地とし、「北条氏」を名乗ったのは、2代目の氏綱からです。関東地方侵攻を本格的に始め、敵となった上杉氏(山内・扇谷)から「他国之凶徒」と言われ、権威を得るため、鎌倉時代の関東支配者の名字を名乗り始めたと言われています。また、関東公方の足利晴氏と同盟を結び、「関東管領」に任命され、同じ職名を世襲していた(山内)上杉氏に対抗します。

北条氏綱肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1541年に氏綱から跡を継いだ3代目の北条氏康は、更に領土を広げ、1546年の河越城の戦いで上杉軍に大勝し、関東での覇権を確立しました。氏綱・氏直は小田原を南関東の中心地にしようとしました。それまでの宿場町を城下町として、江戸時代の小田原宿と同じくらいまで広げました。日本最初の水道と言われる「小田原用水」も町に引かれました。城についてはこの頃、城の中心となる「本丸」「御用米曲輪」「二の丸」が成立したと考えられています(曲輪の名前は江戸時代のもの)。1551年に小田原を訪れた僧が「三方に大池あり」と記録しています。この池は現在、二の丸の堀として残っています。

北条氏康肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の小田原用水
現在の二の丸東堀

1561年、城は最初の大きな危機を迎えます。越後国(新潟県)の上杉謙信(その時点は長尾景虎)が、旧来の上杉氏による秩序回復を掲げ、関東地方に侵攻してきたのです。翌年(永禄4年)2月には10万を超えるとも言われる大軍で小田原城を囲みますが、短期間で引き上げました。その場の勢いに乗った寄せ集めであったため、長陣には耐えられなかったからです。そのとき、大手門であった「蓮池門」(現在の幸田口門跡周辺)に、謙信方の先鋒、太田資正が突入し戦ったと伝わっています。氏康は当時、甲斐国(山梨県)の武田信玄、及び今川氏と三国同盟を結んでいて、その力を基礎に、その後謙信の侵攻を跳ね返していきます。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし次の危機として、信玄が1568年に同盟を破り、翌年(永禄12年)10月には、小田原城に攻め込んできました。信玄は、同年8月に北条領内に侵入し、10月1日から小田原城を包囲し、5日には引き上げています(この後、退却途中に有名な三増峠の戦いが起こります)。このような経緯から、もともと小田原城を本気で落とそうとする意図はなかったようです。信玄も謙信と同じように、蓮池門から城を攻めたと言われています。城下町は悉く放火され、信玄自身が手紙で「氏政館」も放火したと言っています。氏政は、氏康の跡継ぎで、当時彼の館は、現在の「御用米曲輪」にあったと考えられていますので、これが合っていれば、本丸の麓まで攻め込まれたことになります。このとき氏政は、氏康から家督は譲られていましたが、1571年に父・氏康が亡くなると、武田との同盟を復活し、更なる城の拡張を行います。恐らく、これらの戦いでの経験が基になっていると思われます。長期の籠城に耐えられる城であれば、どんな強力な敵にも対応できると確信を持ったのかもしれません。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の御用米曲輪

北条氏政・氏直による完成

北条氏政と跡継ぎの氏直の時代に、北条氏は全盛期を迎えました。武田氏との同盟が機能した他、上杉謙信が1578年に亡くなり、関東地方に強敵が見当たらなくなったからです。北条氏は関東地方の大半を支配するようになり、地域防衛のため、支城ネットワークを築き、重要な城には一族・重臣を派遣しました。小田原城は、そのネットワークの中心に位置づけられたのです。小田原城そのものも、以前の戦いの教訓に基づき、氏政主導で強化されました。まず、二の丸外側の低地に、三の丸が作られました。また、城の背後からも攻められないよう、三の丸外郭が丘陵地帯に築かれました。更には、三の丸外郭に続く防衛ラインとして、丘陵地帯の地形を利用して、小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)の建設を始まました。これらは、急斜面の堀を掘削し、堀った土を土塁として積み上げるやり方で築かれました。北条氏は石垣を積む技術も持っていましたが、このエリアの土は、関東ローム層と呼ばれる火山灰が堆積してできたもので、粘土質で滑りやすく、敵を防ぐための堀には打ってつけだったのです。また、堀の底は、「障子堀」「畝堀」呼ばれる仕切りがつけてあり、堀に入った敵を閉じ込める仕組みとなっていました。

北条氏政肖像画、法雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三の丸外郭
小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)
山中城跡に残る障子堀

城の拡張は、日本全体や他の大名との外交関係にも影響されていました。織田信長が1582年に武田を滅ぼしたときには、信長に臣従せざるをえなくなりました。ところが、信長が本能寺の変で倒れると、また乱世に戻ったようになります。武田の遺領をめぐって、北条・徳川・上杉が三つ巴の戦いを始めたのです。更に、上野国で真田昌幸が独立を志向して三者を渡り歩き、不気味な存在となります。氏政は、徳川家康と手打ちをし、関東地方だけは確保しますが、今度は豊臣秀吉の天下統一が進みます。1587年までに、西日本は全て平定され、氏政の周りの大名たちも秀吉に臣従しました。北条氏は孤立し、頼りにできるのは同盟続いていた家康と、奥州の覇者・伊達政宗だけでした。氏政は翌年から、豊臣方と臣従するための条件交渉を始めます。その一つが、真田と争っていた上野国沼田の扱いで、一旦は秀吉の裁定により解決しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
真田昌幸肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、加納探幽作、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信作、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その一方で、氏政は戦になることも想定し、「相府大普請」とも呼ばれた小田原城の大改修を始めました。その目玉は、小田原を囲む丘陵地帯(八幡山・天神山・谷津)、城、城下町を丸ごと土塁と堀で囲む総構でした。その延長は約9キロメートルに及び、工事には関東全域から人夫が動員されました。地域全体を囲んでしまえば、敵は入ってこれず、長期の持久戦ができると考えたのでしょう。当時はこれを「大構」と呼んでいたようで、同じ名前の遺構が、支城だった岩付城跡に残っています。

赤い線が総構土塁の推定ライン

総構の想像図、現地説明パネルより
わずかに残る岩付城大構

1589年(天正17年)10月、北条氏の家臣が、沼田で真田のものになったとされる名胡桃城を奪う事件が発生しました。秀吉は激怒し、命令違反として、北条征伐を決定します。この事件は不可解な点も多く、秀吉と真田が仕組んだ謀略という説もあります。直臣に領地を与えたい秀吉と、ただちの臣従を潔しとしない氏政の思惑も考えられ、両者の対決は必然だったのかもしれません。小田原城総構は、約2年をかけ、完成していました。

名胡桃城跡

運命の小田原合戦

1590年(天正18年)3月、豊臣秀吉軍総勢約22万人(本体16万、水軍2万、北陸勢3.5万)が、北条領に押し寄せました。この他に、これまでも北条と敵対していた関東勢1.8万人が攻撃してきました。迎え撃つ北条軍は、総勢約8万人と言われ、その内約5万人を小田原城に集中させました。支城ネットワーク攻略に時間をかけさせ、小田原城での長期籠城戦により、敵を消耗させ、有利な講和に持ち込むつもりだったと思われます。しかし、その大半は無理やり徴収した農民兵であり、質は劣っていました。城の改修のときから、過酷な負担を強いられていたため、当然士気も上がりません。先代のときに目指した民政の充実は、遠のいてしまっていました。3月28日に上野国松井田城、29日に伊豆国山中城・韮山城で戦いが始まりました。ところが、圧倒的な兵力差により、山中城がたった1日で落城してしまいます。その後も、有力な支城が次々に落城、開城していきました。5月末には、籠城中または未攻略の有力支城は、韮山、鉢形、津久井、八王子、忍のみとなりました。北条軍にとっては、大きな衝撃、かつ誤算でした。松井田城主で重臣の大道寺政繁や、玉縄城主・北条氏勝は、豊臣軍の道案内をし、北条方の城主に降伏するよう説得する有様でした。そのくらいの力の差があったということでしょう。

北条領国の支城ネットワーク、現地説明パネルより

豊臣軍は4月上旬には小田原城に到達し、18万の軍勢で城を包囲しました。秀吉は、5日に早雲寺に着き、ここを本陣とします。4月下旬には、新しい本陣として石垣山城の築城を始めました。しかし、このような大軍であっても、幅最大30メートル、深さ10メートル以上、勾配50度以上の総構のラインに阻まれ、城の中に打ち入ることはできませんでした。総構のラインには、柵が並び、所々に櫓が立ち、重要な出入口は2重の仕切りがあるなど厳重に警備されていました。城の中心部は、本丸には5代目当主・北条氏直がいて、先代の氏政は、北の八幡山に布陣していました。以前氏政館だったところは、「百間蔵」と呼ばれる倉庫群になり、長期籠城に備えていたようです。(戦後に、伊達政宗が小田原城の倉庫群を見聞し、その収容力に驚嘆しています。)総構の中には城下町も含まれていたので、生活・軍事物資も自己調達できることになります。また、総構の外にも、篠曲輪などの出丸があり、攻撃態勢も備えていました。一方、北条軍にとってもう一つの誤算が、豊臣軍の長期戦への備えでした。豊臣軍の多くは専門の兵士であり、大量の兵糧(秀吉が20万石と指示)を調達・輸送することで、長期滞在が可能となっていました。かつての上杉・武田軍と比べ、別次元の経済力、技術、運用ノウハウを持っていたのです。(現場レベルでは、士気の緩みや食料不足ということもあったようです。)その結果、4月、5月と城を挟んだにらみ合いが続きます。

小田原城周辺の布陣図、現地説明パネルより

5月には、東北・関東の大名たち(南部、安東、結城、佐竹、宇都宮など)が小田原に参陣してきました。6月5日には、ついに伊達政宗が到着し、9日に白装束で秀吉に謁見しました。これで、北条への援軍が来る可能性がなくなりました。この辺りから、小田原開城に向けた交渉が加速していきます。交渉の推進役は、北条氏直でした。後に、延々と結論の出ない会議のことを「小田原評定」というようになりますが、実際には水面下で動きはあったのです。支城の方は、6月14日鉢形城開城、23日八王子城落城、24日韮山城開城、25日津久井城開城となります(残りは忍城のみ)。その韮山城主・北条氏規は、豊臣方の黒田孝高(官兵衛)とともに、氏直に開城を勧めました。6月26日に、石垣山城が完成し、秀吉が移りますが、その姿が最後のダメ押しになったかもしれません。

伊達政宗肖像画、加納安信作、仙台市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
鉢形城跡
八王子城跡
石垣山城跡

7月5日、氏直は降伏を申し入れ、小田原城は開城しました。開城交渉の中で、領土の縮小維持という条件もあったと言われますが、秀吉の裁定は過酷でした。氏政など主戦派と見なされた4名は切腹、氏直は高野山へ追放(後に赦されるが病死、氏規の家系が小大名として存続)となりました。戦後の領地配分を見ると、徳川家康が北条領に転封、徳川領に尾張の織田信雄を移そうとしたが断ったため改易とし、空いたところに、当時の跡取り・豊臣秀次とその家老たちを入れています。秀吉の意図が見えるのではないでしょうか。(ちなみに、沼田領(沼田城含む)も丸々真田のものとなりました。)

小田原城近くにひっそりと佇む切腹した北条氏政と氏照の墓所

戦国大名としての北条氏は滅亡しましたが、その総構の城は、参陣した大名たちに大きなインパクトを与えました。記録に残っているものでは、駿府城に入った中村一氏が、小田原城に習い総構を築いています。秀吉自身も、小田原合戦の翌年、京都を囲む御土居の建設を始めました。しかも、その堀には「障子堀」が採用されています。本拠地の大坂城でも、1594年から総構(三の丸)の建設を行っています。

現在の駿府城公園
移築復元された大坂城三の丸の石垣

小田原合戦に参陣した大名たちの城で採用された「総構」も、小田原城の影響があると考えられています。

蒲生氏郷の若松城、総構の甲賀門跡
堀秀治の春日山城、復元された総構
前田利家の金沢城、総構跡

「小田原城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。