3.松前城 その1

城の時代の終末期に築かれた、独特な城

立地と歴史

幕末になって築かれた城

松前城は、江戸時代まで蝦夷と呼ばれた北海道の南端にあった城です。その江戸時代には松前藩だけが北海道全島を支配していました。そこには主に多くのアイヌ民族の人たちが住んでいたからです。この時代を通じて日本全国には200を超える藩が存在しており、米の収穫高1万石以上の領地を有する領主だけが藩を有する大名とされたのです。ところが、北海道の寒冷な気候のため、当時の松前藩では米がとれませんでした。その代わりとして藩維持のために、幕府によりアイヌ民族と独占的に貿易を行うことが認められていました。その結果、幕府は特例として松前藩を独立した藩とし見なしました。一方、松前藩は当初城を持つことは許されませんでした。城を持つにはもっと大きな石高か格式が必要とされたためです。よって、松前藩は藩主が住む御殿を持つことだけを許され、その館は幕末近くまで、松前藩の本拠地として福山館と呼ばれました。

城の位置

1849年、藩主の松前崇広(まつまえたかひろ)は突然幕府から新しい城を築くよう命じられました。その当時としては大変珍しいことでした。これは、外国船が頻繁に日本周辺に現れるようになり、国の安全を脅かすことになりかねない状況が原因でした。松前藩の本拠地は北海道と日本本土の間の津軽海峡に面していて、これら外国船が通行することが考えられました。幕府は、松前藩に海岸防備の拠点として新しい城を築くことを期待したのです。崇広は城の立地と設計を、有名な軍学者だった市川一学(いちかわいちがく)に依頼しました。一学は、新しい城を築くのに本拠地を函館の方(庄司山周辺、後の五稜郭よりもっと山側)に移すことを提案しました。彼は、松前は緩やかな坂の途中に立地しているため、城を築くには不適格と考えたのです。ところが、費用がかかりすぎることと、愛着ある松前から離れたくないという理由から、藩はその提案を拒絶しました。最終的には城は福山館を建て替える形で1855年に築かれ、館は松前城と改名されました(別名として福山城ともいいます)。

松前崇広写真、1864年頃  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図

旧来の日本式と、近代的な特徴が混在

松前城は、いくつかに分かれた曲輪上に石垣とともに天守、櫓、門などを築く日本式城郭としては最後の方に作られた城の一つです。実際にこの城には、三層の天守、門、藩主の御殿があった本丸がありました。いくつもの櫓が築かれた二の丸は、本丸の下の方に作られました。城の正門(沖ノ口門)があった三の丸は更に下方にありました。内堀と外堀がこれらの曲輪の間に掘削されました。一方、この城はいくつもの進化し且つ特徴的な点がありました。三の丸には7つの砲台が海の方に向かって設置され、海防の役割を担っていました。二の丸にあった太鼓櫓などの櫓群は、砲台の指揮所として使われました。城の石垣は、亀甲積みと呼ばれる精密な石積みの方法を用いて築かれました。しかし、天守台の石垣はあまり高くなく、3mくらいしかありませんでした。沖の船からの射撃の的になることを防ぐためです。天守の壁も砲撃に耐えられるよう厚く作られました。

現地に展示してある城のジオラマ
現在ある復元天守、右側が本丸御門
松前城の古写真、左側が太鼓櫓、右側が天守、現地説明板より
亀甲積みの石垣、搦手二ノ門周辺

明治維新での戦いで2度の落城

この城での最初の戦いは1868年の明治維新の最中に起こりました。しかし、外国船相手ではなく、日本人の軍勢との戦いでした。榎本武揚に率いられた旧幕府軍が本州から北海道に逃れてきて、函館の五稜郭を占領し、彼らの本拠地としました。そして土方歳三が率いる軍勢と艦隊を松前城に派遣してきたのです。攻撃側と守備側は、最初のうちは互いに砲撃戦を行い、城の外にある砲台からの射撃により、旧幕府軍の一隻(蟠竜丸、ばんりゅうまる)が損傷により退避したほどでした。しかし土方が、城の側面(東側の馬坂口)と背面からも攻撃を行いました。実は背面がこの城の弱点だったのです。もともと緩やかな斜面の上に作られた城であったため、攻撃側は背面から攻撃するのが容易です。それに加えて、松前藩は海に面した正面の方の築造に多額の費用をかけ、背面はほぼ放置した形になってしまっていたのです。城はついに落城してしまいました。

榎本武揚写真、1868年  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
五稜郭
土方歳三写真、田本研造撮影、1868年  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
蟠竜丸写真、1868年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
城の馬坂口、赤丸の部分

松前藩士たちは本州の青森の方に逃げていましたがその翌年、新政府軍の力を借りて松前城を奪還し、雪辱を果たそうとしていました。彼らはそのときには、旧幕府軍よりも強力な武装を備え、近代化された艦隊を伴っていたのです。そして北海道に再上陸し、戦いを重ねながら松前城に迫りました。ついに松前藩士たちは城のもう一方の側面(西側の湯殿沢口)から城に突入し、旧幕府軍の守備側は降伏することになりました。

城の湯殿沢口、赤丸の部分

「松前城その2」に続きます。

133.Samegao Castle Part1

The final place of the Otate Rebellion and Kagetora Uesugi

Location and History

Branch of Kasugayama Castle

Samegao Castle was located on a mountain in the western part of Echigo Province which is now Nigata Prefecture. It is uncertain when the castle was first built, but in the late 16th Century, it was one of the satellite castles of Kasugayama Castle, the home base of Kenshin Uesugi. Kenshin was one of the greatest warlords at that time in Japan, who built the network of castles to protect his home base. Samegao Castle is, in fact, rather well-known as the final battlefield of the Otate Rebellion and the place of Kagetora Uesugi’s death, who was defeated in the rebellion.

The location of the castle

The portrait of Kenshin Uesugi, owned by the Uesugi Shrine (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The network of the branch castles around Kasugayama Castle exhibited by Joetsu City Buried Cultural Property Center, Samegao Castle is marked by the red circle

Kagetora is adopted from Hojo to Uesugi

Kagetora Uesugi was an adopted child of Kenshin, but had been born as a family member of the Hojo Clan, which fought with Kenshin over the Kanto Region. The reason why Kagetora came to Uesugi was that Uesugi and the Hojo made peace temporarily in 1569 against the Takeda Clan. The Takeda clan broke the alliance of the three clans (Takeda, Imagawa and Hojo) by invading Imagawa territory. The Hojo clan was very angry about it. However, the new alliance between Uesugi and the Hojo lasted for only two years because the Hojo quit and reforged the alliance with the Takeda in 1571. Ordinarily, Kagetora could have been returned to the Hojo, but Kenshin let Kagetora stay as a part of the Uesugi clan for some reason. It is said that Kenshin personally liked Kagetora. Even though no portraits of Kagetora remain, records say he was attractive and looked beautiful.

The imaginary portrait of Kagetora Uesugi, from the signboard at the site

Two adopted sons are against each other after Kenshin’s death

With the cessation of the alliance with the Hojo, Kenshin adopted another son from his relatives, called Kagekatsu Uesugi. Kenshin seemed to hope that Kagetora would support Kagekatsu and they would cooperate with each other. Many historians also say Kenshin had not clearly decided his successor before his sudden death in March 1578. In fact, these two adopted sons lived in the same Kasugayama Castle as if Kagekatsu was the master for a while after their father’s death. However, the situation didn’t allow them to make peace. The trusted vassals of Kagekatsu, who were the core members of the government, supported him. Other local lords in Echigo Province and some warlords outside the province supported Kagetora because he had come from the outside. Kagetora’s parents’ home, the Hojo and its ally, the Takeda especially wanted him to be the successor. That made the two successor candidates battle each other starting in May 1578, which was called the Otate Rebellion.

The portrait of Kagekatsu Uesugi, owned by Uesugi Shrine (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Otate or the Palace, was originally the residence for Norimasa Uesugi, who was a former shogunate deputy for the Kanto Region and Kenshin’s foster father. Kagetora escaped from Kasugayama Castle to the residence, about 5km from the castle. It became his home base during the battle for nearly one year. At the beginning of the battle, Kagetora was superior in terms of support to Kagekatsu until the lord of the Takeda, Katsuyori Takeda came to Echigo Province with his troops to support Kagetora in June. However, Kagekatsu let Katsuyori return to his home by giving a lot of money and promising to cede some territories. After that, the situation reversed as Kagekatsu had many native loyal retainers while Kagetora had few because of his career. Kagekatsu finally made a full-scale attack on the Otate Residence before it fell in March 1579. Kagetora escaped and tried to get to Odawara, his parental familial home base, Odawara Castle. He stopped by a castle of his supporter, Munechika Horie, which would be the place of his death. This place was called Samegao Castle.

The Portrait of Katsuyori Takeda, owned by Koyasan Jimyoin (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The imaginary scene of the Otate Residence’s fall, exhibited by the Hida Historical Village Information Center

Kagetora dies in Samegao Castle

Samegao Castle was a satellite castle, but had a large scale because it was on the way to Shinao Province (now Nagano Pref.), south of Echigo, where Kenshin and Shingen Takeda, who was Katsuyori’s father, often battled each other. It was a typical mountain castle at that time, using natural terrain to make it defensive. Many enclosures made of soil were built on the ridges. They were divided by artificial ditches and connected by narrow paths cut vertically on both sides. The routes through the valleys were zigzagged so that enemies could not attack the castle easily.

The statues of Shingen Takeda (on the left) and Kenshin Uesugi (on the right) at the Kawanakajima Battlefield in Nagano Prefecture
The illustration of Samegao Castle Ruins, from the signboard at the site

Even staying in the strong castle, Kagetora was not able to survive without reinforcement from the outside. He was attacked by Kagekatsu’s pursuing troops right away. Some records say Munechika Horie, the lord of the castle also betrayed Kagetora. Kagetora finally committed Harakiri (ritual suicide) at the age of 26 after the castle buildings were burned by the troops.

The ruins of Samegao Castle

To be continued in “Samegao Castle Part2”

133.鮫ヶ尾城 その1

御館の乱と上杉景虎の終焉の地

立地と歴史

春日山城の支城

鮫ヶ尾城は、現在は新潟県である越後国の西部にあった山城でした。この城が最初にいつ築かれたのかは分かっていませんが、16世紀後半には上杉謙信の本拠地である春日山城の支城の一つとなっていました。謙信は、その当時の日本では最も有力な戦国大名の一人であり、その本拠地を守るために城のネットワークを構築したのです。鮫ヶ尾城は、実のところ、支城としてよりも御館(おたて)の乱の最終決戦地として、そしてその乱で敗者となった上杉景勝の終焉の地として有名となっています。

城の位置

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
春日山城を中心とした支城ネットワーク、上越市埋蔵文化財センターにて展示、鮫ヶ尾城は赤丸内

景虎、北条氏から上杉氏の養子となる

上杉景虎は謙信の養子でしたが、もとは謙信と関東地方をめぐって戦っていた北条氏の一族として生まれました。景虎が上杉家に来ることになった理由は、1569年に武田氏に対抗して上杉と北条が一時的に講和を結ぶことになったからです。武田氏(武田信玄)は、武田・今川・北条による三国同盟を今川氏の両国に攻め込むことで破っていたのです。北条氏(北条氏康)はこれに大いに怒っていました。ところが、上杉と北条の新しい同盟はたった2年しか続かず、北条は上杉との同盟を止めて1571年に再び武田と同盟を結びました(北条が氏康から氏政に代替わりしたことが大きな要因でした)。通常であれば、ここで景虎は北条に返されるはずでした。ところが謙信はなぜか景虎を上杉の一員として留めたのです。一説として謙信が景虎を個人的に気に入っていたと言われています。景虎の肖像画は残っていないのですが、記録によれば、彼は魅力的でかつ眉目秀麗だったとされています。

上杉景虎の想像画、現地説明板より

謙信の死後、2人の養子が対立

北条との同盟が手切れになったことで、謙信は親族よりもう一人の養子を迎えます。それが上杉景勝でした。謙信は、景虎が景勝を支え、お互いに協力していくことを願ったようです。また多くの歴史家は、謙信は1578年3月の突然の彼の死までに、明確に後継者を決めていなかったと言います。実際には、二人の養子は養父の死後しばらくは、景勝が当主であるかのごとく同じ春日山城で暮らしていました。ところが周りの状況が二人の平穏を許してくれなかったのです。景勝の古くからの家臣は、上杉家の中枢として当然景勝を支持しました。越後国の地方領主や他国の戦国大名は景虎を支持しました。彼が外部出身者だからです。特に景虎の実家である北条氏とその同盟者である武田氏は、景虎が後継者となることを望みました。このことにより二人の候補者は1578年5月に戦うことになってしまったのです。この戦いは御館の乱と呼ばれています。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

御館はもともと、元関東管領で、謙信の養父でもあった上杉憲政の屋敷でした。景虎は春日山城から約5km離れた御館に避難していたのです。この場所は乱の間、1年近く彼の本拠となりました。この戦いの初期の段階では景虎の方が他からの支援を受けられることで、景勝より優位な立場にありました。6月には武田勝頼が軍勢を率いて景虎を支持するために越後国に達していたのです。ところが景勝は、多額の金銭贈与と領土の割譲を約束することで、勝頼を引き返させてしまったのです。その結果、状況は逆転しました。景勝は多くの忠誠を誓う家臣がいる一方、景虎はその出自のせいで頼りになる家臣は少なかったのです。景勝はついに御館の屋敷に対して総攻撃をかけ、1579年3月に御館は陥落しました。景虎はそこから逃れ、彼の実家である北条氏の本拠地である小田原城に至ろうとしたのです。そして、彼を支援する堀江宗親(ほりえむねちか)の城に立ち寄りました。そして、そこが彼の最後の地となったのです。それが鮫ヶ尾城でした。

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
炎上する御館の想像図、斐太歴史の里総合案内所にて展示

景虎敗れ、鮫ヶ尾城で自刃

鮫ヶ尾城は一支城でしたが、規模は大きく、それは謙信と勝頼の父である武田信玄が何度も戦った信濃国(現在の長野県で越後国の南方)の途上にある場所だったからです。この城は当時の典型的な山城であり、自然の地形を利用して防御を固めていました。土造りの多くの曲輪が山の峰上に築かれていました。これらの曲輪は人工的な堀切によって区切られ、両側を垂直にカットされた細い通路によってつながっていました。谷を通る通路は曲がりくねって作られ、敵が城を容易に攻撃できないようになっていました。

川中島古戦場にある武田信玄(左)と上杉謙信(右)の銅像
鮫ヶ尾城跡図、現地説明板より

いくら強力な城に滞在しているとは言え、景虎は他からの援軍がなければ生き残ることはできません。彼は、景勝は発した景虎追討軍にすぐに追いつかれ攻撃されました。ある記録によれば、城主である堀江宗親まで景虎を裏切ったと言われています。景虎はついに、景勝の軍勢により火をかけられた城内で自刃しました。享年26歳でした。

鮫ヶ尾城跡

「鮫ヶ尾城その2」に続きます。