173.新高山城 その2

今日は、新高山城跡を見学ということで、広島県の本郷駅に来ています。新高山城へは車で行く人が多いと思いますが、電車で行く場合は、ここ本郷駅が最寄りです。ちょっと城跡からは離れていますが、途中で情報収集ができたり、沼田川沿いを歩いて、新旧高山城の山を眺めたりできるので、これはこれで、楽しめると思います。もちろん、城跡についたら、山城らしい防御の仕組みや、中腹の寺跡、本丸の石垣跡、そして山頂の素晴らしい景色など、たっぷりご紹介します。井戸跡まで行ってみようと思います

Introduction

今日は、新高山城跡を見学ということで、広島県の本郷駅に来ています。新高山城へは車で行く人が多いと思いますが、電車で行く場合は、ここ本郷駅が最寄りです。ちょっと城跡からは離れていますが(城跡入口まで2km弱)、途中で情報収集ができたり、沼田川沿いを歩いて、新旧高山城の山を眺めたりできるので、これはこれで楽しめると思います。もちろん、城跡についたら、山城らしい防御の仕組みや、中腹の寺跡、本丸の石垣跡、そして山頂の素晴らしい景色など、たっぷりご紹介します。井戸跡まで行ってみようと思います。新高山城一気通貫ツアー、さっそく出発しましょう。

本郷駅前

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

ここに行くには

それでは、本郷駅から城跡に向かいます。交差点のようなところを、ここは左に、

本郷駅からの道路を歩き、ここは左に曲がります

次は右に進んでいくと、右側に施設の建物が見えてきます。ここは本郷生涯学習センターで、パンフレットなど情報収集をすることができます。

道なりですが、ここを右です
本郷生涯学習センター

そこから沼田川の方に向かいますが、歩行者用の橋があるので、そちらを渡ります。

歩行者用の橋が横断歩道の先にあります

橋を渡るところから、視界が開けてきます。橋を過ぎたら、横断歩道を2つ、気を付けて渡っていただくと、沼田川の川沿いの道に出ます。2つの山の城跡が一望できます。

横断歩道を2つ渡ります(手前と右奥)
沼田川沿いの道

道が分岐しますが、どちらでもいいので、川沿いを行きましょう。

道の分岐点

山がぐんぐん迫ってきます。突き当りを左に曲がれば、神社のところで、道は合流します。

突き当りを左に
先ほど分かれた道の合流点、右に行きます

ごつごつした岩山の姿もわかります。城跡の入口に到着しました。その向こう側には駐車場もあります。

新高山城の山
城跡入口(大手道入口)
ビジター用駐車場

特徴、見どころ

山城をひたすら登る

それでは、これから大手道入口に入っていきます。この先に登山道入口もありますが、その手前の道の脇にある神社(荒神社)も、かつて城の曲輪だったかもしれないのです。最初から厳重だったのです。

城周辺の地図

大手道入口から入って右側の丘が神社の敷地になっています
荒神社

案内の通り進んでいくと、大きな案内板の前に出ます。ここが登山道の入口です。新高山城は、標高200メートル近い山に築かれ、曲輪が山全体にあったそうですが、ビジターは整備された中央の登山道を進んでいきます。安全優先で登りましょう。

案内の通り進みます
登山道入口前の案内板

それでは登っていきます。左側の峰の裾を進んでいきますが、ただならぬ気配を感じます。実は左側は「鐘の段」という大きな曲輪の裾部分になっていて、訪問者は常にチェックされていたのではないかと思うのです。

「鐘の段」の裾の道を進みます
曲輪側からの視点
「鐘の段」中心部、別の道からいくことができます

道は、小川を渡って、となりの峰に移っていきます。そして、その峰にも階段状にたくさんの曲輪がありました。今度は右側の方です。石積みの跡も見られます。

小川を渡って隣の峰へ
今度は右側に曲輪群があります
石積み跡か

その曲輪の一つが「番所跡」です。今でもよく整地されているのがわかります。

番所跡入口
番所跡(内部)

更に登っていくと、開けた場所に至ります。中腹にある「匡真寺(きょうしんじ)跡」です。説明パネルには、小早川隆景が、父親の毛利元就没後に建てたとありますが、前回の記事でご説明した通り、元就の生前にこの城に招待したときから、同じか似た名前の寺があったので、そのときには、ここに「御会所」や能舞台があったと考えられます。儀式や祝宴が行われた場所です。そのあと寺を立て直したのかもしれません。寺は廃城時に移転したので、今では池の跡や、瓦の破片などが見られるそうです。背後の石の壁も、なにやら庭園の一部のように思えてきます。

匡真寺跡
現地に残る瓦の破片
石材も少し残っているようにも見えます

山上から本丸へ

道は更に険しくなってきました。本当に登山になってきました。かなり登ったせいか、景色がいいです。もうすぐ中の丸です。立派な石段があります。これが門の入口として残っているそうです。

中の丸手前からの景色
中の丸への石段

中の丸は、弓なりの形をしていて、山上の曲輪群をつないでいました。要の曲輪ということです。つながれる方の名前(本丸、西の丸、東の丸、北の丸など)を見てもよくわかります。本丸の反対の方に、高台になっている場所があって、そこから先には西の丸などがあります。司令塔のような場所だったのでしょう。

中の丸跡
城の縄張り図(現地説明パネル)に中の丸範囲を加筆(赤ライン)
中の丸(高台)から見た西の丸方面、こちら側はビジター向けとしては未整備
中の丸(高台)から見た本丸方面

では、本丸の方に向かいましょう。大石がごろごろして、見るからにすごいです。元は、本丸を取り囲んでいた石垣だったのです。こんな石たちが組み合わさって、壁のようになっていたのでしょう。しかし、これだけ残したのはどうしてなのでしょうか。

本丸石垣跡

いよいよ本丸入口(南西側)です。「(内)枡形」になっています。ただし、正面から入るとちょっと微妙な感じで、そうだと言われないと気が付かないかもしれません。正面右側から見ると、わかりやすいと思います。

本丸入口の枡形跡(正面から)
右側から見た本丸枡形跡

本丸の中は一見なにもないようですが、奥の方に建物跡の礎石があります。確かに石の列があります。ここは本丸なので、当然小早川隆景の御殿があったことが想定されます。しかしこの城には、元就を接待したときの、他の建物の名前も記録に残っているので(「高之間」「茶湯之間」など」どこにあったのだろうと想像すると面白いです。

本丸
本丸御殿跡か
礎石が並んでいます

岩山の頂を楽しむ?

本丸の先にはまだ高い所があります。山頂がある「詰の丸」です。これは、景色が期待できそうです。詰の丸とは、城の最終防衛ラインという意味で、そこに天守が建てられる例もありました。ということは、この城にもそこに天守があったのではと期待してしまいます。実際それはわからないのですが、例の元就接待のときに「高之間」という建物があったという記録があるので、やっぱり一番高いところにあったのでは、と楽しい想像をします。

詰めの丸へ進みます

城っぼくはないけれど、すごくインパクトがある石仏や石碑があります。この山は、城が廃城になった後、修験道の山伏たちの修行の場になったそうです。この石仏たちは、そのときに作られたらしいのです。実は、隆景にも天狗と遭遇したという逸話があって(九州領主時代)、なんだか因縁を感じてしまいます。

詰めの丸にある石仏
とても見ごたえがあります

山頂からの眺めを楽しみましょう。眼下の景色もすばらしいですし、川の向こうに高山城があった山も見えます。海がある三原方面も見渡せるので、周りの状況を把握することもできたでしょう。ここは、下から見たあの岩山の頂上なのだと思うと、城を制覇した気分です。

山頂からの景色
高山城跡も見えます

山頂から道が崖下に向かっているように見えますが、実は、山伏たちの修行の関係で崖に鎖場が設けられたそうです。今でもそこから登っている人もいるとかいないとか。通常のビジターにとっては、とても無理な話ですが・・

崖下に伸びている道?

帰りは、ちょっと寄り道をしていきます。本丸のもう一つの出入口(北側)から下っていきます。ここには門があったと言われていて(大手門か)、外側が枡形になっています。

本丸のもう一つの出入り口

「釣井の段」という井戸があった曲輪に行ってみます。ここでは井戸跡が6つも見られるそうです。一番大きい井戸は直径4.2mとのことです。城は、生活の場でもあったのです。

釣井の段、井戸跡の周りにロープが張られています
井戸跡の一つ
一番大きな井戸跡

中の丸に登って、元来た道に戻ります。本丸に接したところが関門になっていて、堀のようなものもあります。どの方向もしっかり守られていたのでしょう。本丸石垣跡の大石たちのところに戻ってきました。

中の丸から釣井の段を見下ろしています
中の丸が本丸に接するところにある関門
本丸を囲む空堀か
本丸石垣跡に戻ってきました

リンク、参考情報

新高山城跡、三原観光navi(三原観光協会)
・「ミネルヴァ日本評伝選 小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「小早川隆景のすべて」新人物往来社
・「”大気”な武将 小早川隆景/中西豪著」歴史群像125号記事
・「早春の沼田本郷に小早川氏の夢を訪ねる」備陽史探訪の会 平成15年3月徒歩例会資料

「三原城・新高山城 その1」に戻ります。
「三原城 その2」に続きます。

172.三原城 173.新高山城 その1

小早川隆景といえば、毛利元就の三男で、次男の吉川元春とともに、毛利本家を支えた「毛利両川」として有名です。また、豊臣秀吉の天下統一後には「五大老」の一人にもなり、豊臣政権の中枢も担いました。今回の記事では、小早川隆景の武将人生と、彼が築いた2つの城の歴史をリンクさせてご紹介します。

小早川隆景の城

小早川隆景といえば、毛利元就の三男で、次男の吉川元春とともに、毛利本家を支えた「毛利両川」として有名です。また、豊臣秀吉の天下統一後には「五大老」の一人にもなり、豊臣政権の中枢も担いました。つまり、戦国時代から安土桃山時代にかけて、重要な地位を占めた人物です。

小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

隆景はその過程の中で、2つの重要な城を築きました。新高山城と三原城です。新高山城は山城で、隆景が小早川家を継いでから築城し、本拠として毛利が織田信長に対峙したときまで使いました。一方、三原城は海城で、豊臣政権下で天下統一が進み、朝鮮侵攻が行われる中で、隆景の本拠となりました。どちらも、当時の状況や、隆景のポジションを反映している城だと思います。

三原市の範囲と城の位置

今回の記事では、小早川隆景の武将人生と、2つの城の歴史をリンクさせてご紹介します。三原城は、隆景の後も存続しますので、その辺りも触れてみます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

小早川隆景の登場

まず、隆景以前の小早川氏について簡単にご説明します。小早川氏のルーツは、現在のイメージとは異なり、関東地方の相模国(現在の神奈川県)になります。源頼朝に仕えた土肥実平の子、遠平(とおひら)が相模国の地名(早川荘または小早川村)から小早川氏を名乗ったとされています。平家が滅びると、遠平は恩賞として安芸国(現在の広島県)・沼田荘を与えられ、その2代後の茂平(しげひら)は、承久の乱での功績で、竹原荘を与えられました。この2つの領地を基盤に、沼田小早川氏と竹原小早川氏が成立します。相模国の土肥氏宗家は、鎌倉幕府内の争いで衰退してしまったので、小早川家が土肥氏の流れを組む本流になったのです。

両小早川氏は、鎌倉幕府の滅亡、南北朝の対立といった困難を乗り切り、戦国時代まで生き残っていました。沼田小早川氏は高山城、竹原小早川氏は木村城を本拠とし、強力な水軍を擁するようになりました(「小早川水軍」)。しかし戦国時代後半になると、中国地方では大内氏・尼子氏という2大勢力が表われ、両小早川氏は翻弄されるのです。また、両方とも当主の早世が相次ぎ、勢力が弱まり、その家臣たちにも動揺が走っていました。

小早川氏の本拠地の位置

そんな中で登場したのが、毛利元就です。彼自体も、安芸国の国人領主の一人でしたが、そのリーダー格として、大内義隆からも頼られていました。また、隆景以前から、毛利氏と竹原小早川氏は親戚関係になっていました(元就の姪が当主・小早川興景の妻)。1541年(天文10年)奥景が跡継ぎなく亡くなると、義隆は元就の子・隆景を後継として強く推薦しました。元就は渋っていたようですが受け入れ、1544年(天文13年)隆景が12歳で当主となりました。元就としても、有力氏族とその勢力圏を傘下に収めたのです。

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

沼田小早川氏では、当主が病弱で、家臣が大内派と尼子派に分かれて対立していました。そこで、最有力の重臣と、大内義隆・元就が諮り、1551年(天文20年)に隆景が小早川家の統一当主になったのです。このとき元就が、謀略で元の当主を無理やり隠居させ、反対派の家臣を大量粛清したという逸話があります。しかし実際にその通りだったかは判然としません。いずれにせよ、それまでに吉川家にも次男・元春を送り込んでいたので、「小早川隆景」の登場により「毛利両川体制」が確立したのです。

吉川元春肖像画、早稲田大学図書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新高山城の築城

両小早川氏の当主となった隆景は、沼田小早川氏の本拠・高山城に入りますが(1551年、天文20年)、翌年には新しい本拠・新高山城を築城します。実は、この2つの城は沼田川を挟んだ、2つの山の上にそれぞれあるのです。なぜわざわざ、すぐ近くの似たような場所に新たに本城を築いたのでしょうか。一つには、それぞれの山の別名にヒントがあります。高山城の方は「雌高山(めすたかやま、他には妻高山など)」、新高山城の方は「雄高山(おすたかやま)」とも呼ばれていて、その印象からもわかる通り、新高山城の方が急峻な地形で、岩山の上に築かれ、防御力が高かったからと思われます。次に、当時は海が沼田川まで入り込んでいて、新高山城の辺りが船着場として丁度よかったとも考えられます。また、新当主として人心を一新し、家臣団を再編成するよい機会にもなったでしょう。

左が新高山城跡、右が高山城跡

城周辺の起伏地図

新高山城は岩山の上に築かれました

隆景が小早川氏当主として独自性を発揮し始めていた1555年(弘治元年)、有名な厳島の戦いが起こり、毛利氏が中国地方の覇権を握りました。隆景も小早川水軍を率いて活躍しました。一方でこの頃、毛利本家を継いだ毛利隆元、弟の吉川元春、小早川隆景との間は必ずしもしっくりいっていなかったようです。それを受けて父親の元就から出されたのが「三子教訓状」です(1557年、弘治3年、下記補足1)。これが、もっと有名な「三本の矢」のエピソードの元になったと言われています。

(補足1)
・毛利の苗字を末代まで廃れぬように心がけよ。(第一条)
・元春と隆景はそれぞれ他家を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬ。(第二条)
・三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。(第三条)
・隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。(第四条)
・隆元は、元春・隆景と意見が合わないことがあっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。また元春・隆景は、隆元と意見が合わないことがあっても、彼は長男だからおまえたちが従うのがものの順序である。(第五条)
・この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う(第六条)。

毛利本家を継いだ毛利隆元肖像画、常栄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

隆景は終生、この教えに沿って生きていったと言えるでしょう。

新高山城は山城でしたが、中世とその後の時代の過渡期のような性格を持っていました。中世以来の山城としては、川を背にし、山の地形を利用し、曲輪・空堀・切岸などを組み合わせ、敵の侵入を防ぐようになっていました。また、山頂近くに6つもの大井戸があって、日常生活、更には籠城戦にも耐えられるようになっていました。新しい要素としては、石積み・石垣を多用し、曲輪の補強とともに、城主の権威をも表しました。曲輪の入口も枡形を導入し、防御力を高めていました。重臣の屋敷地も、城下に集めていたことがわかっています。

新高山城の縄張り図、現地説明パネルより
山上の大井戸跡
本丸の石垣跡

1561年(永禄4年)、隆景は、毛利宗家の元就・隆元父子の官位任官を祝い、新高山城に招待しました。その滞在は永禄4年3月26日から10日間に及び、様々な儀式や祝宴が行われました。元就は山麓の重臣屋敷、隆元は中腹にある寺に宿泊したとの記録があります。また、中腹には「御会所」「清所(きよどころ)」能舞台といった儀式を行う建物群がありました。頂上部の本丸には「高之間」と呼ばれる金閣・銀閣風の建物があったようです。更に「茶湯之間」で太平記の講読会も行われたので、茶室や図書施設まであったのです。新高山城は、戦うための場だけでなく、政治・文化の中心とした役割も担っていたのです。

中腹にある匡真寺(きょうしんじ)跡

隆景の本拠地は、その後徐々に三原城に移っていきますが、1596年(慶長元年)までは維持されたとされています。

三原城の築城

三原城といえば、別名「浮城」とあるように、海に浮かんでいるような華麗な姿を思い浮かべます。しかし当初からそうではなかったようです。戦国時代は、現在の城跡の背後にある桜山に城があり、その麓までが海で、島(大島・小島)が連なっていたそうです。

「絹本著色登覧画図(複製)」に描かれた三原城(三原駅壁面)
かつては島だった三原城天守台と背後の桜山

小早川氏は水軍を持っていたので、隆景の当主就任早々「三原要害」に家臣が派遣されていますが、その場所は桜山のことだと想定されています。その後、1567年(永禄10年)に三原城の築城が始まりますが、城の姿としては、桜山と海岸に設けた船着場が連携した程度だったのかもしれません。その頃、毛利氏は中国地方の雄として、近畿地方の織田信長と交渉、対決する立場になっていました。隆景は毛利方の交渉窓口として、この頃から織田方の木下秀吉(後の豊臣秀吉)と連絡を取っていたのです。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

時が経つと、毛利水軍の基地として、三原城は重要視されるようになりました。毛利元就・隆元の後を継いだ輝元は、織田との戦いで、三原城を本営とし、隆景も徐々に本拠としました。1580年(天正8年)に修築されたという記録があるので、おそらく拡張されたのでしょう。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして運命の本能寺の変、中国大返しを経て、豊臣秀吉が天下統一を進めるようになると、隆景と三原城の役割も変わってきます。隆景は慎重で熟慮に基づく判断で、輝元を全面的に補佐し、毛利家の生き残りに成功し、秀吉の信任も得ていました。加えて、秀吉には天下統一後の「唐入り」の野望があったため、毛利・小早川水軍を利用しようとしたのです。1585年(天正13年)の四国攻め後、秀吉は隆景を単独の大名に取り立て(伊予国主)、翌年の九州攻め後には、九州北部(筑前・筑後)に移しました。1589年(天正17年)隆景は筑前に名島城を築きますが、三原城を中心とする領地もそのままでした。秀吉も三原城を2回、宿泊所として使用しています(九州攻めと朝鮮侵攻時)。ということは、埋め立てが進み、御殿なども整備されていたのでしょう。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1592年(文禄元年)朝鮮侵攻が始まると、隆景も朝鮮に出陣します。隆景の城、最前線の城・名島城と、後衛の城・三原城は、水軍のネットワークとして機能したのです。1594年(文禄3年)には、秀吉の養子・秀秋(当時は秀俊)を、隆景の養子に迎えることになりました。秀秋と、輝元の養女の婚儀が、三原城で盛大に行われたのです。秀秋を迎えた理由は諸説ありますが、隆景が九州の領地を秀秋に引き継がせ、豊臣家との関係を盤石にしようとしたとも考えられます。隆景自身も、ついに豊臣政権の「五大老」の一人に登り詰めました。

小早川秀秋肖像画、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1596年(文禄5年)隆景は三原城に「隠居」しました。とはいっても九州の領地を秀秋に譲っただけで、「三原中納言」として「五大老」、毛利後見、小早川本領の領主の立場は継続していたと見られます。隆景は、三原城の本格的な改修を始め、その資材として新高山城から石材を運んだと言われます。新高山城はこのとき廃城となりました。現在残る天守台も、このときまでに築かれたのでしょう(一部は福島時代の改修または拡張)。ところが、その翌年(1597年、慶長2年)隆景は突然亡くなりました。特に毛利関係者にとっては衝撃だったようです。その懸念の通り、関ケ原のとき、毛利本家・吉川・小早川は結束した行動を取ることができませんでした。隆景が長生きしていれば、国政レベルでも史実と違った展開になったかもしれません。

三原城天守台

隆景の治政を表すエピソードとして、隆景のわずか2年足らずの伊予国滞在中、国内は大変平穏であったと評されています(下記補足2)。

(補足2)
隆景は深い思慮をもって平穏裏に国を治め、日本では珍しい事だが、伊予の国には騒動も叛乱も無い(ルイス・フロイス「日本史」)

三原城完成とサバイバル

三原城は、三原浦の埋め立てにより築かれた海城です。天守台・本丸周辺と、舟入櫓の辺りが元は島だったそうで、隆景時代に島(大島・小島)の間を埋め立てて築城されました。隆景没後には毛利本家に、関ヶ原後は福島正則に属し、福島時代は、正則の養子・正之が城主でした。福島時代に海に面した10基の櫓を築いて完成したと言われています。

「備後国之内三原城所絵図」、出展:国立公文書館

海城なので、舟入が設けられ、その両サイドには櫓があり、警戒していました。櫓の総数は34、門の数は14と伝えられています。城の中心部の本丸には、本丸御殿があり、江戸時代中に改築もされましたが、その内の大広間の格式から、隆景が建てたものと推定されています。御殿は現存していませんが、わずかに部材が残っていて、隆景時代の豪華な造りを想像することができます。

三原城模型、三原市歴史民俗資料館にて展示
上記模型の舟入部分
三原城本丸御殿大広間の杉戸、三原市歴史民俗資料館にて展示

そして現在も残る天守台ですが、隆景時代に築かれ、正則時代に改修または拡張されています。その大きさは日本最大級で、江戸城天守台に匹敵します(一辺が4,50メートルくらいか)。完全に独立しているのではなく、本丸から土塁で一段高くなっています。元あった島のサイズからこうなったのかもしれません。ただし、天守が築かれることはなく、隅に3基の二重櫓が築かれ、多聞櫓によって連結されていました。

上記模型の内、天守台部分
江戸城天守台

三原城の最初の危機は、いわゆる一国一城令発布のときでした。福島氏時代に出され、このとき三原城は支城の一つだったからです。1619年に福島氏が改易になり、浅野氏に代わりましたが、そのときも支城の扱いでした。このタイミングが危なかったかもしれません。しかし、三原城には家老の浅野氏が入り、幕末まで維持されたのです。大きな藩では、他にも家老が入った城の例があります(犬山城白石城八代城など)。

改易された福島正則肖像画、東京国立博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
福島氏の後継、浅野長晟肖像画、広島市立中央図書館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

二度目の危機は、どの城もそうですが、明治維新の後でした。三原城のほとんどの建物や石垣は撤去され、堀も埋められました。本丸御殿は学校として使われましたが、移転時に取り壊されました。そして1894年(明治27年)、鉄道が本丸を貫いて通されます。天守台はかろうじて残りました。当時は近代化が優先された時代だったのでしょう。戦後になると山陽新幹線の駅も設置されたので、その高架が天守台に密着したような形になったのです。結果として、天守台は駅に直結した見学スポットになりました。

鉄道開通後の三原城跡、三原市ホームページから引用
新幹線工事のときの様子、三原市歴史民俗資料館にて展示
天守台と新幹線高架
駅内にある案内

「新高山城 その2」に続きます。

7.多賀城 その2

今日は、国府多賀城駅前に来ています。名前がそのものずばりなので、気分が盛り上がります。普通の駅に見えますが、ここ多賀城市の面積の約3分の1は、遺跡なのだそうです。この駅から歩くともう遺跡の範囲に入っていくのです。多賀城があった場所についても丸ごと国の特別史跡に指定されている感じです。城下の町を含めると、もっと広かったのでしょう。

特徴、見どころ

Introduction

今日は、国府多賀城駅前に来ています。名前がそのものずばりなので、気分が盛り上がります。普通の駅に見えますが、ここ多賀城市の面積の約3分の1は、遺跡なのだそうです。この駅から歩くともう遺跡の範囲に入っていくのです。多賀城があった場所についても丸ごと国の特別史跡に指定されている感じです。城下の町を含めると、もっと広かったのでしょう。

国府多賀城駅


今回は、その城下にある遺跡をご紹介しながら、復元されたばかりの外郭南門を見学します。続いて謎の多賀城碑から、中心部の政庁跡に向かいます。こちらも結構整備されています。そこからは、広い遺跡をできるだけ回ってみようと思います。東門があったところまで行きます。最後は、外郭の築地の跡をたどって、南門まで戻ってみます。多賀城の大きさも実感できそうです。それでは、多賀城周遊ツアー、さっそく出発しましょう!

城周辺の地図、中心の緑枠が政庁跡、赤枠が外郭ライン、黄色戦は城の主要通路

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

いきなり多賀城南門登場

それでは、国府多賀城から、多賀城跡に向かいます。駅前広場から上がったところが:小高い丘のようになっています。ここは「館前(たてまえ)遺跡」と呼ばれているところです。ここには、四面庇付きの立派な建物が建っていて、多賀城に赴任してきた国司の館ではないかと言われています。つまり、国司公邸ということです。ここから通勤していたのでしょう。

館前遺跡
現地説明パネルの復元イメージ

多賀城に通勤する気分で先に進み、駐車場を越えると、こちらも最近オープンした「多賀城跡ガイダンス施設」に着きます。是非、現地見学の前に立ち寄って、多賀城の事前学習をしていただきたいです。

多賀城跡ガイダンス施設
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復元されたばかりの外郭南門に向かいましょう。こちらもオープンしたばかりなので、門の色が映えています。発掘調査の成果に基づき、多賀城創建1300年を記念して復元されたのです。城が一番華やかだった頃(第2期)の姿を復元しました。奈良時代にできるだけ近い工法で建てられました(高さ約14メートル、幅約11メートル)。門につながっていた築地塀も一部復元されています。塀も高くて頑丈そうです(版築工法で復元、高さ4.5メートル)。

外郭南門に向かいます
復元された外郭南門と築地塀(一部)

門は二階建てなので、敵が来たら二階から矢を放てるようにしたように思えます。しかし、二階は使わないようになっていたそうです(現地ガイドの方による)。つまり、威厳を見えるために二階建てにしたというのです。戦国時代とかの城の門とは発想が違います。

多賀城碑から政庁跡へ

次は、外郭南門から政庁の方に向かいます。しかし、まず忘れてはいけないのが国宝の多賀城碑です。現在も本物が、覆堂に守られて立っています(日本三古碑のひとつ)。覆堂は水戸黄門(徳川光圀)のアドバイスで建てられたと言われています(仙台藩が建て、現在に改修)。通常は中には入れませんが、囲いの格子から見ることはできます。しっかり見たい方は、東北歴史博物館展示のレプリカがおすすめです。文字はよく見えませんが、一番上の大きな文字は「西」とあります。初っ端に、なぜ「西」と記したのかも謎の一つなのです。石碑は西の方を向いているのでしょうが、なぜわざわざ書いたかということです。都のある方角を意識したという説もありますが、はっきりわかっていないのです。古代の人たちに聞いてみるしかないかもしれません。

多賀城碑は覆堂に守られています
中の多賀城碑

現代の道を渡って、今度は復元整備された政庁南大路を歩きます。幅は約13メートルで復元してありますが(これも第2期)、約23メートルの時代もあったそうです。まさに多賀城のメインストリートと言えるでしょう。排水施設まで復元しています(実際には暗渠)。ここにも「南門跡」があります。これは第1期の南門跡で、復元された南門は第2期のものなのです。南側に城を拡大して建て直したということでしょう。

政庁南大路
排水暗渠施設
第1期の南門跡

第1期の南門跡の上の方にもなにか見えます。「城前官衙(じょうまえかんが)」といって、役所の建物が集まっていたところです。ここにはどうやら鎮守府が置かれていたところらしいのです。ここで発掘された木簡などから、鎮守府の業務が行われていたことがわかったからです。地道な積み重ねで歴史がわかってくるのです。休憩所のようなところもあります。実は、ここは城前官衙の中心的建物を復元した場所で、わざと屋根を透明にして、その作り方をわかるようにしています(構造展示)。

城前官衙
鎮守府の業務が行われていたことを示す木簡、現地説明パネル
官衙主屋(構造復元)
屋根が透けています

いよいよ政庁跡です。石段を上がっていくというのもなかなかいいですが、これも発掘の成果をもとに復元されました。やはり政庁だけあって、高台の上にあるという感じがします。南門の方を振り返ると景色もいいです。

政庁跡への石段
政庁跡に着きました
外郭南門の方を振り返っています

政庁にも南門があって、ここが入口でした。政庁跡も復元整備によって、礎石と建物の範囲が平面展示されています。これも第2期です。それに一部の礎石はオリジナルということです。似たようなレイアウトの太宰府跡を思い出しました。

多賀城政庁南門跡
大宰府政庁南門跡

こちらは周りを囲っていた築地跡で、当時は高さが3,4メートルあったらしいです。その築地に続いていたのが「東殿(とうでん)」「西殿」で、その内側に「西脇殿(にしわきでん)」などがあり、石敷広場を囲んでいました。ここで儀式が行われていたようです。

築地跡(左側)と西脇殿跡(右側)
石敷広場

その奥の一段高いところにあったのが(基壇の上)正殿です。ここには、36もの礎石があって(内オリジナルは11)、二重にめぐっています。:内側に建物本体の身舎(もや)を支える柱が立っていて、外側は庇を支えていました。四面庇付きで、相当格式が高い建物でした。こういう痕跡で、どんな建物が建っていたがわかるのです。そういうことを知ると、芭蕉ではありませんが「夢の跡」という気分がします。

正殿跡
正殿跡に残る礎石群

多賀城の広さを感じよう

後半は、多賀城の範囲をできるだけ回ってみます。まずは、北畠顕家関係になります。とはいっても、多賀城の歴史ではものすごく最近(1952年)に建てられた多賀城神社のことです。顕家当時の遺跡は発見されていないということですので・・。戦前に建てられてた「後村上天皇御坐之處」の碑もここにあります

多賀城神社
「後村上天皇御坐之處」の碑

多賀城神社の脇からの道を歩きますが、この近くを、城を東西に貫く道路が走っていました(東西道路)。その道路沿いに史跡が点在しているのです。まずは「六月坂地区(ろくがつざか)地区」といわれている場所で、古代多賀城としては遅く、平安時代に行政的な役所として作られたらしいのです。国府の役割が中心になった時期なので、仕事量が増えたのかもしれません。ここにも、四面庇付きの建物がありました。現在は、政庁跡とともに桜の名所になっています。

四面庇付き建物跡
倉庫跡
桜の時期の政庁跡

次に進んで行きましょう。今度は「北門跡」とあります、多賀城に北門はなかったはずですが・・・これは外郭の北門ではなくて、城内にあった役所群の北門ということなのです。これも平安時代とあるので、この頃は役所として拡大していたのかもしれません。

役所群の北門跡
上記の説明パネル

その向こうの方にも、土塁で囲まれた本格的な遺跡があります。これが外郭の東門(とうもん)跡です。説明パネルの復元イメージを見ると、立派な感じです。こちらも南門ほどではないけれど、城を代表する門の一つだったのでしょう。

外郭東門跡
説明パネルの復元イメージ

ところが、少し離れたところにも「東門跡」があります。どうなっているのでしょう。先ほどは平安時代、こちらは奈良時代の東門跡ということです。整理しないとこんがらがってしまいます。

奈良時代の東門跡、奥の方に先ほどの平安時代の東門跡が見えます

このセクションの最後には、外郭の北東隅まで行ってみます。トレッキングのようになってきました。この道に沿って、築地があったそうです。

北東隅に向かいます

隅に着いたでしょうか。その先は、沼になっているそうです。北側は自然の障壁にも守られていたのです。

外郭北東隅

築地をめぐって南門に帰還

最後のセクションは、もう一つの隅(南東隅)に向けて、なるべく築地跡を歩いてみます。多賀城の大きさを更に実感できそうです。北東隅から折り返して、2つの東門跡の間を歩いていきます。また建物跡らしきものが見えてきました。ここは「大畑地区」といって、やはり平安時代の役所が立ち並んでいたそうです。この辺一帯は官庁街だったのです。今は散策にちょうどいいコースになっています。

2つの東門跡の間を進みます(左が奈良時代、右が平安時代)
大畑地区の建物跡

ぴったり築地跡沿いには行けないので、道なりに進んで行きます。なんとなく、台地の縁を歩いているような気がします。城内といっても、結構変化に富んでいます。

大地の縁のようなところを進みます

展望所があります。行ってみましょう。まだ台地の上にいるというのがわかります。南門の屋根も見えます、あそこがゴール地点です。

展望所
展望所からの景色
外郭南門の屋根が見えます

少し戻って、内側に入ります。今度も役所の跡で、作貫(さっかん)地区と呼ばれています。ここは、政庁の近くなので、奈良時代から使われていたのです。しかも、中世にも館として使われていて、土塁や空堀が発見されています。中世ということは・・多賀国府(たがのこう)が関係している可能性もあるのです。もしかすると、北畠顕家がここにいたかもしれないと思うと、わくわくします。

作貫地区の建物跡
中世の土塁や空堀もある発掘現場の模型

作貫地区から政庁跡に行くこともできますが、今回は「隅」に行きたいので、外側の方に戻っていきます。坂をどんどん下ります。道路に出ました。最初のときに渡った、南門と政庁南大路の間の道路です。道路を渡ってみると・・・「外郭南東隅」の案内表示がありました。行ってみましょう。前方の丘っぽいところでしょうか。

台地から下っていきます
道路に出ました
外郭南東隅」の案内表示

案内はありませんが、階段を登ってみます。「外郭南東隅」の標柱がありました!

小丘の階段を登ります
「外郭南東隅」の標柱

ここからは、一部復元された外郭築地跡を見ることができます。(外郭のサイズは、南辺約870m、東辺約1050m、北辺約780m、西辺約660m、多賀城陸奥総社宮HPより)完全復元ではないけれど、なかなか壮観です。最終コーナーを回って、ゴールの外郭南門に向かいましょう。

外郭築地跡

外側の中尊寺ハスも見ものです。道路で区切れたところから外に出ることができます。:それから、その辺りには櫓があったそうで、その土台や説明パネルもあります。

中尊寺ハス
櫓跡
説明パネルの櫓復元イメージ

ラストスパートです。この築地のラインが、南門の脇に復元された塀にミートします。

もうすぐゴールです
外郭南門に戻りました

リンク、参考情報

多賀城市の文化財、多賀城市
史都、多賀城 多賀城市観光協会
東北歴史博物館
・「古代東北統治の拠点 多賀城/進藤秋輝著」新泉社
・「多賀城碑 その謎を解く(第三版)/安倍辰夫・平川南編 」雄山閣
・「日本の遺跡30 多賀城跡/高倉敏明著」同成社
・「多賀城・大宰府と古代の都」東北歴史博物館
・「中世武士選書22 北畠顕家/大島延次郎著」戒光祥出版
・「多賀城市歴史的風致維持向上計画」平成28年10月変更版
・「特別史跡多賀城跡 城前官衙プレオープン資料」宮城県多賀城跡調査研究所
・「特別史跡多賀城跡 政庁南大路が完成しました」宮城県多賀城跡調査研究所
・「城柵の北の平安時代/鐘江宏之氏論文」
・「多賀城創建木簡の再検討/吉野武氏論文」東北大学機関リポジトリ
・「政治拠点としての多賀国府/吉川一明氏論文」岩手大学リポジトリ
・「浸水範囲概況図13」国土地理院
・「北畠顕家卿の上洛遠征路 花将軍、駆ける」伊達市
・Youtube「みやぎ文化財チャンネル」

「多賀城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

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