205.松尾山城 その1

1600年(慶長5年)9月15日に起こった関ヶ原合戦は、日本史で最も重要な出来事の一つですが、そのハイライトといえば何でしょうか。これまでの通説に従えば、何といっても小早川秀秋の「裏切り」でしょう。しかし近年、秀秋の「裏切り」には疑念が挟まれています。数少ない信頼できる史料を再検討し、関ヶ原合戦を再構成する取り組みが行われています。

立地と歴史

Introduction

1600年(慶長5年)9月15日に起こった関ヶ原合戦は、日本史で最も重要な出来事の一つですが、そのハイライトといえば何でしょうか。これまでの通説に従えば、何といっても小早川秀秋の「裏切り」でしょう。秀秋は、関ヶ原南方の松尾山城に陣を布き、合戦が始まってもなお東軍につくか、西軍につくか明らかにしていませんでした。そして、しびれを切らした東軍の総帥・徳川家康の命による「問鉄砲」に刺激され、ついに東軍に組みし、その勝利に貢献したというストーリーです。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし近年、秀秋の「裏切り」と「問鉄砲」には疑念が挟まれています(白峰旬氏などの指摘)。関ヶ原合戦の記録は、同時代の当事者が記した一次史料がとても少なく、大半は後の時代に記された二次史料に頼っているからです。例えば、「問鉄砲」の記述は、合戦から半世紀以上後の軍記物「慶長軍記」からとのことです(呉座勇一氏による)。「問鉄砲」の事実が揺らぐと、秀秋の「裏切り」のタイミングも、本当に合戦の最中だったのか怪しくなってしまいます。また、秀秋がどのように松尾山城に着陣し、いつ東軍に味方する決断をしたのかとういことも謎めいてきます。最近は、その少ない一次史料・それに準ずるものを再検討し、関ヶ原合戦を再構成する取り組みが行われています。それにより、「問鉄砲」の見直し以外にも、いくつも新説が提起されています。それに松尾山城については、通常は小早川秀秋陣と言われますが、そもそも何のために築かれ、使われるはずだったのかも気になります。

小早川秀秋肖像画、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そこで、この記事では、小早川秀秋と松尾山城との関わりについて、主に3つの視点をもって、従来説を含めた3つの仮説にまとめて、ご紹介したいと思います。
3つの視点とは、
a.関ヶ原合戦前、秀秋はどこで何をしていたのか。
b.なぜ関ヶ原が決戦場となり、秀秋はいつどのように松尾山城に布陣したのか。また西軍諸将はどこに布陣したのか。
c.秀秋は、いつ東軍に加わると決心したのか。
3つの仮説とは、
1.「問鉄砲」を含む従来説
2.小早川秀秋は裏切っていないとする説
3.西軍が松尾山城攻めをしたとする説
です。

ただしまずは、小早川秀秋と松尾山城の、関ヶ原合戦に至るまでの来歴を、簡単にご紹介してから、各説のパートに入ります。

関ヶ原に至るまでの小早川秀秋と松尾山城

秀秋は、豊臣秀吉の妻・北政所の兄、木下家定の五男として1582年(天正10年)に生まれたとされています(足守木下家譜)。幼少の頃より秀吉の養子となり、北政所に養育されていたようです。その当時から秀吉から「きん吾」と呼ばれていました(天正13年閏8月秀吉書状)。そしてわずか7歳のときに元服し、従五位下・侍従(公家成)になり、秀吉の後継者候補の一人として扱われました。秀吉が天下を取った頃には、権中納言に昇進(13歳)、丹波亀山城主にもなっていました。ところが、文禄2年に秀吉の実子・秀頼が誕生すると、翌年に秀秋は、小早川家に養子に出されてしまいます。秀吉が、秀頼の後継者としての地位を安泰にしようとしたためと考えられます。

木下家定肖像画、建仁寺常光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

このときの逸話として、跡継ぎのいなかった小早川隆景が、同じく跡継ぎのいなかった本家の毛利輝元の養子にされないよう、秀吉に秀秋の受入れを申し入れたという逸話(陰徳太平記)が残っています。しかし実際には既に輝元には別の養子(一族の秀元)が決定していたため、隆景が自分の所領(九州)を引き継がせ、秀吉との関係を良好に保つために自ら決断したという見方もあります。文禄4年、秀秋と毛利輝元の養女との婚姻が行われました。輝元からその養女にあてた手紙の中に、秀秋は「利口者」であるとの記述があります。内々の手紙なので、輝元の秀秋に対する評価の一端が伺えます。一方で家臣と度々諍いを起こし、秀吉にたしなめられているので、若年による未熟さもあったと思われます。

小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

当時は、秀吉による朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)が行われていたため、秀秋の領地(筑前国)は支援基地の一つになりました。秀秋自身も慶長の役では、16歳で初陣(総大将)として朝鮮に渡っています。ところが、1598年(慶長3年)に帰国すると、秀吉から越前国(現・福井県)への転封を言い渡されました。これは、秀秋の朝鮮での軽率な行動(自ら最前線に乗り込んだ)が原因とも言われますが、これも後の軍記物での記述です。実態としては、筑前国を秀吉の直轄領とし、侵攻の統制を強化するためだという見方もあります。代官として、石田三成が派遣されています。秀吉没後は、秀秋は筑前国の領主に復帰し、豊臣一門に準ずる大大名として、五大老に次ぐポジションと認識されていました(九条兼孝日記)。そのとき、関ケ原合戦が起こったのです。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

もう一つの主役・松尾山城は、近江国(現・滋賀県)と美濃国(現・岐阜県)の国境に位置していて、1570年(元亀元年)には、近江の浅井長政が家臣をこの城に配置したという記録があります(偏照山文庫所蔵文書)。当時長政が、織田信長と対立するようになったからと思われます。その後、信長が近江国を支配下に置くと、一旦廃城となりました。1600年(慶長5年)8月10日、石田三成は大垣城に入城すると、城主・伊藤盛正に対して、松尾山城に新城を築くことを命じました。三成はそのとき、大垣城と岐阜城(8月23日に落城)を拠点に、東軍に攻勢をかけることを考えていました。そして、その後詰(後方支援)として南宮山に毛利勢を入れました。また、背後の松尾山城には毛利輝元が入るはずだったという説(中井均氏)や、そのまた奥の玉城(たまじょう)には豊臣秀頼が入ることを想定していたという説(千田嘉博氏)もあります。いずれにしろ、関ケ原合戦のときには、松尾山城は西軍の有力部隊が布陣するために整備されていたのです。

松尾山城跡に立つ小早川秀秋の幟

「問鉄砲」を含む従来説

関ヶ原合戦の従来説は、明治時代に陸軍参謀本部が作成した「日本戦史」をもって固まったと言われています。歴史の本に出てくる関ヶ原の布陣図も、「日本戦史」のものがベースになっているそうです。今回注目する視点から、従来説をご説明しますが、新説の広まりによって、従来説を補強する意見(笠谷和比古氏などによる)も出てきていますので、併せてご紹介します。

西軍は8月1日に伏見城を落城させましたが、小早川秀秋勢は、主力としてこの戦いに参加しました。その後は表向きは、西軍の一員として行動していました。西軍の主力は大垣城に籠城していましたが、小早川勢は近江国周辺を行軍していたとされています。実際に、秀秋が近江の寺(成菩提院)に出した禁制(兵士に対する禁止事項)が残されています。その一方で東軍側とも交渉していて、東軍に味方する密約も交わしていました。これについては、東軍の黒田長政・浅野幸長からの密書があります。その中では「北政所」の名前を出され、東軍に味方することが彼女に報いることだと説かれています(下記補足1)。

(補足1)(前略)あなた様がどこに居られようとも、この度の忠節が非常に大切です。二・三日中に家康公がご到着されますので、それ以前に決断しなければなりません。我ら二人は北政所様に引き続きお尽くししなければなりませんので、このように申し上げているのです。速やかなご返事をお待ちしております。(8月28日付黒田長政・浅野幸長小早川秀秋宛連署状。訳を「小早川隆景・秀秋」から引用)

成菩提院、米原市ホームページから引用

9月14日に家康が大垣近くの赤坂に着陣すると、得意の野戦に持ち込むために、西上して佐和山城を攻略作戦を立て、その情報をわざと西軍に流しました。その情報を得た西軍総大将の石田三成は、急きょ先回りをして夜中に関ヶ原に布陣しました。秀秋も三成指示により、それまでに松尾山城に着陣していました。これについては、三成が新しい事態に対処するために、自ら選択した結果とも考えられます。戦い直後に吉川広家が、西軍は佐和山に撤退しようとしていたと書状に書いているからです(下記補足2)。しかし東軍の動きが早くなったことで、関ヶ原で食い止めることになったのです。また、西軍諸将は、一旦関ヶ原より西側に移動したようですが、結果的に迎撃しやすい関ヶ原に、ほぼ従来説通りの布陣をしたと考えられます。江戸時代前期に既にそれに近い布陣図が作られているからです(下記補足3)。大谷吉継は、秀秋の裏切りを予測し、わざと松尾山近くの山中に布陣したとされていますが、最終的に関ヶ原の方に前進してきたようです。。

(補足2)これは佐和山へ二重引きをする心づもりであると見えました。(一重目が関ヶ原に当たる)(9月17日吉川広家自筆書状案、訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)

(補足3)武家事記所収の布陣図(山鹿素行)

石田三成肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦いは、午前8時頃始まりましたが、午前中は一進一退で、西軍は善戦していました。しかし東軍と密約を交わしていた南宮山の吉川勢と、松尾山の小早川勢は動きませんでした。秀秋は東軍に寝返る約束もしていましたが、それもしていませんでした。業を煮やした家康は、小早川勢に対して発砲を命じ、狼狽した秀秋はついに西軍への攻撃を決心したのです。この開戦と、小早川参戦の時間差については、戦いに参加した島津義弘や島津家臣が証言しています(下記補足4)。また「問鉄砲」は否定されているということですが、それに近い話が伝えられています(備前老人物語)。松尾山の麓で鉄砲の音がしたので、秀秋が調べさせたところ、それは徳川方の誤射だったというのです(下記補足5)。それは実は抑制された警告射撃かもしれず、もしかしたら「問鉄砲」ストーリーの元になった可能性もあります。小早川勢は大軍(8千とも1万5千とも)だったので、一部は山麓に展開していて、このようなことに気づくこともあったのではないでしょうか。

(補足4)
慶長五年庚子九月十五日、美濃国関ヶ原において合戦あり。数時間、戦ったが未だ勝負を決せざるところ、筑前中納言(秀秋)が戦場で野心を起こしたため、味方は敗北し、伊吹山逃げ登った。(島津義弘「惟新公御自記」、訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)
夜明けとともに東国衆が大谷吉継の陣地へ攻撃を開始しました。6,7回戦闘が繰り返されましたが、小早川秀秋隊が山から降りてきて側面を攻撃し、吉継の人数を一人も残さず討ち取ってしまいました。(神戸五兵衛覚書、訳を「関ヶ原の合戦はなかった」から引用)

(補足5)小早川軍が松尾山に布陣して東西両軍の戦いを観望していたときのこと、麓の方で自軍に向けた鉄砲の射撃音のするのが聞こえた。そこで小早川の使番は、秀秋の命を受け下山して調べようとした。ところが、そのとき徳川方の武士が下から上がってきて、これは誤射であり御懸念無用にと述べ、調査の必要はないと強く申し立てた。しかしその使番は、調査は主君からの命令であるとして、それに構わず現場の状況をあれこれ調べたところ、単なる誤射ではなくて、かなり複雑な事情がある行為であったようだ。(「備前老人物語」のエビソード、「論争 関ヶ原合戦」から引用)

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

小早川秀秋は裏切っていないとする説

次は、最近出ている新説(白峰旬氏などによる)から、秀秋と松尾山城に関係するものをご紹介します。まず合戦前の秀秋の所在ですが、実はあまりはっきりしていないのです。近江にいたというのは、秀秋の家老を務めていた稲葉家が江戸時代に幕府に提出して記録に基づいていると思われます(寛永諸家系図伝・寛政重修諸家譜)。そこには、小早川勢が9月14日、松尾山城にいた伊藤盛正を追い出して入城したともあります。それであれば、既に「裏切り」を決断していたように思えるのですが、この記録は稲葉家の徳川家への貢献を強調するよう編集されている可能性があるので、鵜呑みにはできません。一方、大垣城に籠城していたという記録もあります。東軍として浜松城にいた保科正光が、籠城中の武将として、秀秋の名前を挙げているのです(下記補足6)。いずれにしろ、東軍からの勧誘を受けていたのは確かですので、西軍と行動を共にしつつ、迷っていたのではないでしょうか。同盟のため、9月14日付で秀秋の家老宛に出された東軍の井伊直政・本多忠勝連名の起請文があったとされていますが、これも江戸時代の軍記物(関原軍記大成)に記載されているだけなので、確実とは言えません。

(補足6)昨日(28日)、東軍先手衆から何度も報告がきました。それによりますと、大柿城には、三成・秀家殿・秀秋殿・惟新・行長ら、そのほか豊臣馬廻衆の精鋭らが2万人ほどで立て籠もっています。(8月29日付黒河内長三宛保科正光書状、訳を「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」から引用)

秀秋の家老だった稲葉正成肖像画、神奈川県立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実は、秀秋が開戦時に松尾山城にいたことを示す確実な史料はないのです(白峰旬氏による)。しかし開戦直前の状況として先ほどの吉川広家の書状に「秀家の逆意がはっきりしたので、大谷吉継救援のため、西軍が山中(関ヶ原の西)に移動した」とあるのです(下記補足7)。これによれば、関ヶ原周辺に秀秋と吉継が既に布陣していたことになります。また、戦い直後に伊達政宗は、西軍は南宮山の毛利勢を支援(後詰)するため大垣城から陣を移したと言っています(下記補足8)。これらから考えると、関ヶ原合戦直前、赤坂にいた徳川家康が南宮山の毛利勢を攻めようとし、秀秋が寝返ったことも伝わったので、三成は大垣城から出る決断をしたのだと考えられます。そして南宮山にいた吉川広家は不利を悟り、家康に事実上の降伏をしたのでしょう。そのため東軍は、三成が率いる西軍主力を追って、関ヶ原に進出したのではないでしょうか。なお、西軍が布陣したのは、前述の通り、関ヶ原ではなく、その西の「山中」でした。三成にとっては、そのときその場で戦になるとは想定外だったかもしれません。

(補足7)筑中は早くも逆意を明らかにしました。それにつき、大垣の衆(三成ら)も(かの地(大垣)にいられなくなり)大刑少(吉継)の陣が気がかりとのことで、山中へ向かって引き揚げました。(9月17日吉川広家自筆書状案、訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)

(補足8)大垣城への「助衆」(毛利勢)に対して合戦を仕掛けるため、家康が14日に赤坂近辺へ陣を進めたところ、大垣城に籠城していた衆が夜陰に紛れて美濃の「山中」というところへ打ち返して陣取りをした(9月晦日付家臣宛伊達政宗書状、訳を「歴史群像145号」から引用)

吉川広家肖像画、東京大学史料編纂蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

以上が正しければ、秀秋は合戦前日には、東軍への参加を表明したことになります。合戦当日の経緯ですが、西軍は従来説よりも短時間で敗北したと考えられます(下記補足9)。また、開戦時間も早朝ではなく(午前10時頃)、秀秋も当初から戦いに参加したとの記録があります(下記補足10)。開戦時刻については史料によって早朝から10時頃までまちまちですが、以下のようにも考えられます。関ヶ原一帯は当日霧が深く、西軍ではそこに大谷勢が進出していました。そこで東軍先鋒との戦いが早朝に起こり、霧が晴れた段階(10時頃)で、松尾山から降りてきた小早川勢が参戦し、大谷勢が全滅したのです。そして東軍と西軍主力の戦いが山中で始まり、短時間で決着したという流れです。というのは、家康がそのとき発した書状に両者(関ヶ原・山中)の使い分けが見られるからです(補足11・12)。

(補足9)家康方軍勢が山中に押し寄せて合戦に及び、即時に討ち果たした(9月17日付吉川広家自筆書状案、訳を「歴史群像145号」から引用)

(補足10)15日の巳の刻(午前10時頃)、関ヶ原で一戦及ぼうとして、石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家が関ヶ原に移動した。東軍は井伊直政・福島正則を先鋒としてその他の部隊を後に続けて、西軍の陣地に攻め込んで戦いが始まった時、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・祐滋父子の4人が御味方して、裏切りをしたので、西軍は敗北した(9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状写(堀文書)、訳を「動乱の日本戦国史」から引用)

(補足11)今度関ヶ原御忠節之儀、誠感悦之至候(9月24日付小早川秀秋宛徳川家康書状)

(補足12)今十五日午前、於濃州山中及一戦、備前中納言・島津・小西・石治部人衆悉討捕候(9月15日付伊達政宗宛徳川家康書状)今月十五日の午の刻(正午頃)、美濃国の山中において一戦におよび、備前中納言(秀家)、島津(惟新)、小西(行長)、石治部(三成)の軍勢を悉く討ち取りました。(訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)

徳川家康最後陣地

西軍が松尾山城攻めをしたとする説

前説においても、秀秋が関ヶ原合戦の最中に「裏切り」を決断したわけではないことがわかりますが、状況証拠の集まりで、明らかに合戦当日に最初から東軍側に立ち、西軍と対峙していたという形にはなっていません(戦とはそういうものかもしれませんが)。それを明確にしてくれるのが「関ヶ原合戦は西軍が、松尾山城に籠る秀秋を討とうしようとして発生した」という説です(高橋陽介氏による)。この説での秀秋の合戦前の行動は、前説とそれ程変わらないようにも思えますが、東軍側のつく意志は早く固めていたことでしょう。

松尾山城跡

前説と異なってくるのは、開戦直前の三成など西軍主力の状況です。この説では、前説で取り上げた吉川広家の同じ書状の解釈が異なり、西軍主力が秀秋のいる「山中」に攻め込み、大谷吉継が後を追いかけているとしているのです(下記補足13)。また、島津家臣の後年の記述によると、9月14日の大垣城の軍議中に注進が入り、秀秋が寝返ったことが判明したというのです。(下記補足14・15)つまり、三成たちは秀秋を討つために関ヶ原方面に向かったのです。

(補足13)宇喜多・島津・小西・石田らが山中へ攻め込んだため、秀秋の逆意は明らかになりました。そのため、大柿にいた者たちも、そこに留まっていることができなくなってしまいました。吉継は心細くなって、山中に向かって撤退していきました。きっとそのあと、佐和山まで撤退するつもりだったのだと思います。(9月17日付吉川広家自筆書状案、訳を「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」から引用)

(補足14)「然に筑前中納言一揆被起_内府様方に被差出之由、九月十四日に大柿江相知れ申し候事、」(宮之原才兵衛書上)

(補足15)「ヶ様之御談合最中に、筑前中納言殿野心之よし注進候、」 (井上主膳覚書)

大谷吉継墓

三成が陣を布いたのは、従来説の「笹尾山」ではなく、藤下村の「自害が岡」という所でした(下記補足16)。島津家臣の後年の記述を検討すると、松尾山に対して、第一陣が宇喜多・小西、第二陣が島津、その東に石田という布陣になっていました。他の史料で「第一陣が石田、第二陣が島津」となっているものがありますが、それは、秀秋を救援するために駆け付けた東軍主力部隊からの見方です。大谷隊は後から来たために、一番東の関ヶ原に布陣することになりました。そのため、東軍先鋒と戦うことになり、結果的に小早川隊と挟み撃ちに遭い、一番最初に壊滅してしまったのです(上記補足4)。同じ史料でも全く違う局面を表わしていることになります。

(補足16)「治部少本陣は松尾山の下自害か岡と云所に陣す、所の者不吉也と云ふと云々、」(戸田氏鉄「戸田左門覚書」)

自害が岡

リンク、参考情報

関ヶ原の残党、石田世一の文学館
・「小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「シリーズ・実像に迫る005 小早川秀秋/黒田基樹著」戒光祥出版
・「東海の名城を歩く 岐阜編/中井均・内堀信雄編」吉川弘文館
・「新説戦乱の日本史/千田嘉博他著」SB新書
・「論争 関ヶ原合戦/笠谷和比古著」新潮選書
・「関ヶ原合戦を復元する/水野伍貴著」星海社新書
・「歴史群像145号 関ヶ原合戦の真実/白峰旬著」学研
・「新視点 関ヶ原合戦/白峰旬著」平凡社
・「関ヶ原合戦全史 1582-1615/渡邊大門」草思社
・「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった/乃至政彦・高橋陽介著」河出書房新社
・「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地「自害峰」遺構に関する調査報告」高橋陽介氏・石田章氏論文
・「動乱の日本戦国史/呉座勇一著」朝日新書

「松尾山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

20.Sakura Castle Part1 (draft)

Sakura Castle was located at the current Sakkura City of Chiba Prefecture. The castle was built as the home of the Sakura Domain during the Edo Period, which is the origin of the city. The areas around the city had many other castles until the Sengoku Period and some of which were very important.

Location and History

Sakura Castle was located at the current Sakura City of Chiba Prefecture. The castle was built as the home of the Sakura Domain during the Edo Period, which is the origin of the city. The areas around the city had many other castles until the Sengoku Period and some of which were very important. For example, there was Usui Castle in the western part of the city, where the battle of Usui Castle happened back in 1566. Kenshin Uesugi, who tried to rule the whole Kanto Region, attacked the castle but failed. There was also Motosakura Castle in the eastern part, which was the home of the Chiba Clan. Usui Castle was a branch of the clan. Cuttently, this castle is called “Motosakura” but back then, it was called “Sakura Castle”. So therefore, Sakura Castle was the former name of Motosakura Castle. This article will explain the formative years of Sakura Castle including the formation of Motosakura Castle, which should make it easier for people to better understand the history.

The ruins of Usui Castle, Notice the wooden log steps covered in soil
The ruins of Motosakura Castle, Notice the icon on the wooden shields.  This is the family crest of the Chiba Clan

Formative Years of Sakura Castle

The Chiba Clan had owned Shimosa Province, which was the northern part of Chiba Prefecture, since the end of the ancient times. The most famous person of the clan would be Tsunetane Chiba who supported the launch of the Kamakura Shogunate at the end of the 12th Century. Their home, Inohana Castle, was located at the current Chiba City for a long time. However, the castle was destroyed when many battles occurred in the 15th Century during the Sengoku Period. The clan decided to rebuild their new home in another location, which would be called Motosakura Castle. The castle was on the Shimosa plateau and was surrounded by Inbanuma Lake and other waterlogged areas. Its location was much more fortified than before and more convenient for water transportation. The lake was also much larger than now, where people could easily access Kasumigaura Lake and other great rivers. The wide water area was even called Katori-no-umi, which means the Katori inland sea.

The statue of Tsunetane Chiba, exhibited by Chiba City Folk Museum
The whole map of Motosakura Castle, from the signboard at the site

The situation changed during the 16th Century. The Hojo Clan was invading the Kanto Region from the west. On the other hand, the Satomi Clan also got the power from the south (Boso peninsula). The Chiba Clan wondered what to do and they eventually allied with the Hojo Clan. That’s why Kenshin Uesugi, who would help the Satomi Clan, decided to attack Usui Castle, a branch of the Chiba Clan. The victory of the clan was partially due to the Hojo Clan’s help. As a result, the Hojo became more effective to the Chiba Clan. As for the home of the clan, Chikatane Chiba, who was the lord of the clan before the battle, originally planned to move his home from Motosakura to another. The new land for his new home later became Sakura Castle, which was called Kashima Castle then. Mysteriously, he died in 1533, which ultimately canceled his plans of moving the castle.

The location of the castle, Notice the smaller Inbanuma Lake on the left next to Usui Castle. This important river used to span much larger that what the current map is showing. It used to be part of a much larger body of water.

The portrait of Kenshin Uesugi, owned by the Uesugi Shrine (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The portrait of Chikatane Chiba, owned by the Kubo Shrine (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

The Hojo Clan interfered in the internal affairs of the Chiba Clan at the end of the 16th Century. For instance, Ujimasa Hojo married his daughter to Kunitane Chiba, the lord of the clan. The Hojo Clan allowed Kunitane to resume the construction of Kashima Castle but failed to do so because the lord was killed again. Ujimasa next married his son to Kunitane’s daughter, in order to be the successor of the clan. It was said that Kashima Castle was finally finished for the new home of the couple.

The portrait of Ujimasa Hojo, owned by Odawara Castle (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

However, it is difficult to confirm these records are the fact, as Sakura Castle was built on the old Kashima Castle. the few discovered old dry moats at the site prove that they were at least trying to build the castle there. So, why did the Chiba and Hojo Clans want to move there again and again? One of the reasons would be that the land for the new castle was much larger than the old one. For the Hojo Clan, another possible reason may have been to protect their territories from the invasion of Hideyoshi Toyotomi from the west. The plateau, which the new castle was built, had steep slopes and was surrounded by rivers towards the direction. That would be very defensive against the invasion. However, the Chiba Clan was eventually fired by Hideyoshi, after their master, the Hojo Clan was defeated at the battle of Odawara Castle in 1590.

The current Sakura Castle
The current Odawara Castle

51.Azuchi Castle Part2

The ruins of Azuchi Castle have become a National special historic site. There is a square in front of them, however, there were water moats and stone walls in the past. Azuchi Castle was located between Kyoto and Gifu Castle which was the previous home of Nobunaga Oda. Therefore, he could hurry to both sites immediately. In addition, he created the network of water transportation on Biwa Lake, including Azuchi and several his retainers’ castles. This article will introduce the tour course of the ruins while mixing with the mysteries of the castle in the previous article.

Features

The ruins of Azuchi Castle have become a National special historic site. There is a square in front of them, however, there were water moats and stone walls in the past. Azuchi Castle was located between Kyoto and Gifu Castle which was the previous home of Nobunaga Oda. Therefore, he could easily access both sites immediately. In addition, he created the network for water transportation on Biwa Lake, including Azuchi and several of his retainers’ castles. This article will introduce the path of the ruins while incorporating with the mysteries of the castle in the previous article.

The diorama of Azuchi Castle, exhibited by Azuchi Castle Archaeological Museum

Walking up on the Main Route

Before climbing the route, let us check out other historical items around the main gate ruins. They are the four gate ruins, including the main gate. Three of the four gates had a simple design which was not strong. The eastern gate and central gate (which was the main gate) had a simple design. Meanwhile, there were a simple gate, and the other had complex design, in line in the western place. You can see both ruins with the remaining stone walls. You can pass straight through the simple gate while you need to turn twice to pass the complex one. So, why did Nobunaga build the two different gates so closely together?

The ruins of the main gate
The ruins of the eastern gate
The ruins of the western gates (the complex one on the left and the simple one on the right)

Let us go back to the main route and walk on it. You need to pay an admission fee to Sokenji Temple who owns the ruins. Then, you can walk up on the impressive stone steps towards the top. The route may still make the current visitors feel special because they can see the route. However, the past visitors must have seen the main tower of the castle above.

The toll gate
The stone steps of the route
The imaginary drawing of the main route of Azuchi Castle, exhibited by Gifu Castle

As you walk, you will see several ruins of Nobunaga’s retainers’ residences on both sides. For example, there were Hideyoshi Hashiba’s residence on the left, and Toshiie Maeda’s one on the right. However, the owners’ names are only speculative, and some believe it came from the Edo Period, not the same period as the castle. In addition, Hideyoshi’s residence ruins consist of two tiers. Some argue that the two tiers were from different residences from each other. They speculate the Oda family might have renovated them and used them as their government office after Nobunaga died and the main tower of the castle was eventually burned down.

The ruins of Hideyoshi Hashiba’s residence
The signboard of the residence
The ruins of Toshiie Maeda’s residence

You will eventually see the main hall of Sokenji Temple, which was said to have been the residence of Ieyasu Tokugawa who was Nobunaga’s ally. However, as mentioned above, it’s only a speculation. According to records, he stayed in another temple when he came to Azuchi.

The main hall of Sokenji Temple (the former residence of Ieyasu Tokugawae)

The straight route eventually zigzags on the way which may have been designed for the defensive purposes. The current stone steps were restored in the present time, using original stones. Some of them are stones from Buddha statues, which are stated in Japanese letters “石仏” beside them. The builders of the castle were able to get enough stones from mountains nearby. So, why did they use the stone statues in these prominent areas?

One of the stone statues which are used in the route, Notice the donation cup with “Suntory” labeled on it next to the sign

The route will eventually reach a plain area which is called the ruins of Nobutada Oda’s residence. This place was used as the temple’s facility after the castle was abandoned. That’s why there are very few remaining items of the castle. However, historians speculate that this place must have been reinforced by stone walls. This is because this is the crossroad of the important routes of the castle, the main route, the side route, the route towards the lake, and the one towards the center.

The ruins of Nobutada Oda’s residence

Going to Center of the Castle

Next, let us go to the center of the castle. After climbing the stone steps for a while, you will eventually see the ruins of a great gate. This is the ruins of Kurogane-mon, which mean “iron gate”, to the center. The ruins still have a square space, called “Masugata”, built using huge stones, which looks strong. “Shincho-koki”, which is the most reliable biography of Nobunaga says it is “Omote-no-gomon” which means “front gate”. Therefore, it was definitely the front gate of the castle.

The ruins of Kurogane-mon Gate

After entering the gate ruins, you will eventually see a lot of stone walls around. One of the breakthrough points of Azuchi Castle was the construction of these stone walls for buildings on them. The builders of the castle collected huge number of stones around and used larger ones at the center. The stones, which are natural or roughly processed, were piled up high to become the stone walls in a method called “Nozura-zumi”. They look unstable but are joined together securely. The stone craftsmen, who could operate the Nozura-zumi method, would later be called, “Ano-shu”.

The stone walls of the second enclosure, Notice the large gaps between the stones

Looking around these great stone walls, you will eventually pass the ruins of the second and third gates one after the other. Then, you will arrive at Ninomaru-higashi-damari which means “eastern gathering place of the second enclosure”. The main enclosure is on the right (to east) and the second enclosure is on the left (to west).

The Ninomaru-higashi-damari gathering place

There is the grave of Nobunaga Oda at the second enclosure to the left, which Hideyoshi built the following year of the Honnnoji Incident. The route to the grave in the enclosure was also built at that time. Historians speculate the place, where the grave was built, had been the residence of Nobunaga and his family. If you look at the top of the grave, you will notice a simple stone, which is not appropriate for the great lord. This is because the top of the graves of such great warlords are usually built like a tower. The stone may look like the Bonsan stone which would be the icon of Nobunaga. Noone knows if the stone is authentic, but at least, the builder would have known about it.

The grave of Nobunaga Oda
The stone on the top

Going back to the Ninomaru-higashi-damari gathering place, you can now go to the main enclosure. The place was originally called “Oshirasu” which means “waiting area”. The area to the enclosure is empty now. However, according to the Shincho-koki biography, there was another gate, and also a hall called “Nanden”. The hall was thought to include waiting rooms, agent rooms, and meeting rooms. That may have been one of the origins for typical castle halls like the second enclosure hall of Nijo Castle.

Thin would have been the Nanden hall ahead, there would have been a gate in front
The aerial photo of the second enclosure main hall of Nijo Castle (Google Map)

The main enclosure only has few stone foundations, some trees, and the stools for visitors. There must have been the hall or room for the royal visit somewhere inside. There are also the stone walls of the third enclosure just behind the trees, where another hall for the guest was built. The enclosure must have been a good viewing spot; however, the current visitors unfortunately cannot access this area.

The current main enclosure
The center of the diorama above, showing the second enclosure, the main tower ruins, the main enclosure, and the third enclosure (from the left to the right), exhibited by Azuchi Castle Archaeological Museum

Going to the Main Tower Base

If you want to go the main tower base from the main enclosure, you will need to pass through Honmaru-Toritsuke-dai (which means the mounting base of the main enclosure) by climbing some stone steps. The mounting base is now an open space but used to have a building on it, which was connected with other buildings of the main enclosure with roofed passages. If you go on the space, you will see an excavation site beside the tower base. Shiga Prefecture launched the excavation in 2023, which is called “the great research of Reiwa”. The purpose is to reveal what the main tower looked like and why it was burned down. So far, it found that the stone wall base was partially destroyed intentionally after the tower was lost. The excavation team speculates that it might have been done when the castle was abandoned.

The excavation site (close to the public)
The northern side of the tower base which is being researched currently

Let us walk up on the stone steps towards the tower base. You should check out the surface of the steps, which is covered with tiles. These tiles were made of Shakudani-ishi stones which came from Echizen Province (the current Fukui Prefecture). The stones are blue green in color and turns deep blue when it rains. They are still one of the specialties of the prefecture and is the prefectural stone. The stones of the tiles were said to have been given by Katsuie Shibata who was a senior vassal of Nobnaga and owned the province. They had just conquered the province, so the tiles may have been built as the symbol of their conquest.

The surface of the steps, which is made from the Shakudani-ishi stones

The stone steps will eventually lead to the basement of the tower, which was the storehouse. Now, there are only the stone foundations inside. It is still mysterious what the main tower and other buildings of the castle might have looked like. Shiga Prefecture states that Azuchi Castle was the first Japanese castle that contained the three important items at the same time: a high main tower, high stone walls, and buildings with rooftiles. In addition, some rooftiles with golden leaves were discovered in the center of the castle. Historians also say they are the first case amongst Japanese castles. For reference, the same kind of rooftiles were discovered in Gifu Castle which was the previous home of Nobunaga. However, they cannot be confirmed to have been made during the same period as Nobunaga. This is because Gifu Castle was used even after Azuchi Castle was abandoned.

The inside of the tower base
Some of the discovered broken rooftiles at the site, exhibited by Azuchi Castle Archaeological Museum

The great research of Reiwa also involves seeking for the picture where Azuchi Castle was drawn. It is called Azuchi-san-zu-Byobu which means the screens of the illustration of Azuchi Mountain. It was given as a present by Nobunaga to the Roman Pope, who certainly displayed it in the Vatican Palace, but was unfortunately misplaced. The prefecture has been seeking it but was not successful. However, they have started again with the research as a starting point. If the picture can be found, it would be the most convincing evidence that the main tower existed.

The imaginary drawing of the Azuchi-san-zu-Byobu screens, exhibited by Azuchi Castle Museum

Sokenji Temple is still Mysterious

If you go back from the center to the ruins of Nobutada Oda’s residence, the route for visitors is eventually led to the ruins of Sokenji Temple. This is where the Bonsan stone was placed, according to Luis Frois. There are the ruins of the former main hall of the temple on a hill. The stone was placed on the second floor, which was the highest point of the temple. The place might have been considered the best spot for the icon of Nobunaga who reigned at the top of the main tower. After Nobunaga died, the main hall was renovated but was unfortunately burned down by an accidental fire during the Edo Period. If the hall survived the fire, one mystery about Nobunaga would have been solved.

The ruins of the main hall

Azuchi Mountain including the castle was partially surrounded by Nishinoko-Lake which is a branch of Biwa Lake. However, they were disconnected during the Showa Era because the lake was reclaimed to the farms. You can still see a good view of the lake from the hill.

The view from the ruins

The three-level tower and Nio-mon Gate (the front gate) of the temple managed to survive the fire. Both have been designated as National Important Cultural Properties. If fact, they were older than other castle buildings of Azuchi even when it was first established. This was because the temple buildings were collected from other temples by Nobunaga. The route through the buildings was the side route of the castle, which was popular. According to the Shincho-koki biography, the route was very crowded with people to celebrate the new-year event of 1582 (according to the luna calendar). The new-year event was the last for Nobunaga who was killed within the same year.

The remaining three-level tower
The remaining Nio-mon Gate (notice the two NIO satues on the side)

The tour route will lead to the side route of another going around the mountain.
The entrance of the side route cannot be used because the temple wants to control the crowd. Our route will eventually return to the ruins of Hideyoshi Hashiba’s residence near the toll gate.

The side route to the entrance is closed
The route around the mountain, watch your step because the terrain is very rugged
Arriving at the residence ruins

My Impression

The more you think about the mysteries of Azuchi Castle, the more they may become mysterious. That is my honest impression. However, I enjoy thinking and speculating about each mystery. Nobunaga had a very unorthodox way of thinking back then. Therefore, you might not find the answers by just using the conventional knowledge. In my opinion, the unsloved mystery of Azuchi Castle is what makes it unique. We just have to wait for more convincing proof in the future.

Azuchi Mountain (Appromixately 190 meters above sea level)

Furthermore, I recommend visiting other several historical museums around Azuchi Castle, to help you uncover the mystery.

The inside of Azuchi Castle Museum
Azuchi Castle Archaeological Museum
Nobunaga no Yakata Museum, inside you will find the model of the 6th and 7th floor of the main tower, Photography is allowed, however, the museum doesn’t want pictures to be published online, therefore I cannot include them on this blog

That’s all. Thank you.

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