206.浦添城 その1

浦添城は、沖縄特有の城郭施設「グスク」のうち、大型のものの一つで、琉球王国成立までの歴史にも関わっています。この記事では、浦添城の歴史を、グスクの登場と琉球王国成立までの歴史と絡めながら説明していきます。

Introduction

浦添城は、現在の沖縄県浦添市にあったグスク(城)です。グスクとは、12世紀終わり頃から15世紀中頃にかけて築かれた、按司(あじ)と呼ばれた領主の城館及び地域の宗教・集落施設としても使われた場所のことです。奄美諸島から沖縄諸島、先島諸島にかけて、約300も築かれたと言われています。特に13世紀から14世紀(日本本土の鎌倉~南北朝~室町時代辺り)には、有力按司の居城として長大な石垣で囲まれた大型グスクが出現しました。日本本土で本格的に石垣を使って築かれた城は、戦国時代後半(16世紀後半)に登場しますので、それより200年以上も早かったことになります。しかも、グスクの石垣は琉球石灰岩を使い、優美な曲線を描いていて、日本本土の石垣とは、ルックスも随分異なっています。浦添城は、そのような大型グスクの一つで、琉球王国成立までの歴史にも関わっています。この記事では、浦添城の歴史を、グスクの登場と琉球王国成立までの歴史と絡めながら説明していきます。なお「琉球」という名称は、もともと中国人が命名した地域名で、琉球王国が支配した奄美・沖縄・先島諸島一帯を指すとされています。(「沖縄県の歴史」)

浦添城跡
代表的な大型グスクの一つだった、今帰仁城跡

立地と歴史

グスク時代と三王国の成立

沖縄は古代から夜光貝などの貝殻類の産地として知られていました。夜光貝を加工した螺鈿細工が、美術工芸品や建築の装飾に使われていたのです。当初その交易(「貝の道」と呼ばれた)は、当時日本の境界とされていた奄美諸島の喜界島周辺で活動していた商人たちが、担っていたのではないかという見解があります(「琉球史を問い直す」)。その時点では、沖縄の多くの人たちは、漁労・狩猟・採取を中心とした生活を送っていたと考えられていて、沖縄の時代区分として、11世紀頃までを貝塚時代と呼んでいます。

貝を加工して作られた貝匙(東京国立博物館ホームページから引用)

それが、11〜12世紀頃になってくると、貿易の恩恵が沖縄全体に及んできました。石鍋・陶器(亀焼、かむいやき)・鉄器が普及し、農業が普及し、生活レベルが向上しました。沖縄でも「グスク土器」が生産されるようになります。中国の宋王朝も積極的な貿易政策を取っていました。そして高価な中国製磁器が取引されるようになり、沖縄からは夜光貝や硫黄が輸出されました。貿易商人は、最初は中国・朝鮮・日本本土の人たちが中心でしたが、それに沖縄の人たちも加わるようになります。こうして、沖縄に「按司」と呼ばれるたくさんの有力領主たちが現れ、グスクを築きます。琉球王国が成立するまでの、この時代は「グスク時代」と呼ばれています。

14世紀になると、沖縄本島では有力な按司のもと、3つの王国が成立しました。
・北山(山北):本拠地 今帰仁城
・中山:本拠地 浦添城
・南山(山南):本拠地 島添大里(しましーおおざと)城
彼らの本拠地にもなった大型グスクの築造も、その動きに沿ったものと考えられます。これらの多くは高台に立地し、複数の郭から構成されていて、中心部は、儀式を行う正殿と、宗教的施設の御庭(うなー)から成り立っていました。

島添大里城跡

同じ頃、中国では明が建国されました。創立者の洪武帝は、反対勢力や倭寇を取り締まるために、「海禁」政策(私的な海外貿易や海外渡航の禁止)を実行しました。また、漢民族が再建した王朝の正当性(以前の「元」は異民族国家)を示すため、伝統的な儒教的秩序の確立を目指しました。そのため、日本を含む周りの国々に、宗主国(明)への朝貢を求めたのです(招撫使)。そして、1372年には中山王国に使節が送られました。三王国の中では最大勢力と見なされていたからと思われます。当時の王、察度は直ちにその弟を進貢使として明に派遣しています。続いて、1380年には南山王が、1383年には北山王も明への朝貢を始めました。この朝貢は、貿易とセットになっていたため、三国に莫大な利益をもたらしました。

洪武帝肖像画、国立故宮博物院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中山王国と浦添城

浦添城を本拠とした中山王国については記録が少なく、いつからどのように治められていたかは、後に作られた琉球王国の正史(「中山世鑑」など)しか文献史料がありません。それによると、3つの王統が統治しました。
1187年:舜天即位(3代継続)
1260年:永祖即位(5代継続)
1350年:察度即位(武寧までの2代、1390年には先島が帰順)
最初に即位した舜天は、日本本土から逃れてきた源為朝と、大里按司の妹との子とされています。そのこともあって、最初の王統は伝説上のものではないかと言われています。実在の可能性があるのは、次の英祖からで、考古学から考えられた浦添城の築城時期と重なっています。最後の察度は、中国側の記録にも現れているので、存在がはっきりしています。

源為朝を描いた江戸時代の浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実は正史では、これらの王は全て最初から首里城にいて、琉球は最初は統一されていたが、英祖王統4代目の玉城(たまぐすく)のとき三国に分裂したことになっています(下記補足1)。しかし歴史家の中では、最初から三国だったであろうという意見が多いです。また、中山王国の本拠地についても、歴史家で「沖縄学の父」と伊波普猷(いはふゆう)たちによって、浦添城の存在が明らかになりました。

(補足1)今の王城を首里城というのは、昔天孫氏が初めて天から降臨して、あまねく諸国を巡り、城を築く地を選ばれたところ、今の王城の地が最も優れていたので、初めて経営して城を築かれたから首里というのである。
舜天尊敦と申し上げるのは、大日本人皇五十六代の清和天皇の孫、六孫王より七世の後胤、六条判官為義の八男、鎮西八郎為朝公の男子であらせられる。
この時(玉城王)から世は衰え、政はすたれて朝勤会同の礼も日に日に衰え、内では思うままに女色に溺れ、外では狩猟に耽られたので、諸侯は朝廷に出仕する礼を取らず、国々の戦いが始まった。国は分かれて三つとなり、中山王、山南王、山北王と呼ばれた。(中略)中山というのは、首里の王城である。
(「訳注 中山世鑑」より)

伊波普猷 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浦添城跡にある伊波普猷の墓

浦添城は「浦添断層崖」と呼ばれる琉球石灰岩でできた崖の上に築かれました。頂上部は東西約4百メートルにわたって石積みの城壁に囲まれていました。城の北側は切り立った崖によって天然の要害になっていたので、南側に堀や張り出しの郭(土造り)を築いて防御を固めました。また、崖下を流れる牧港川が貿易港である牧港に通じていました。当時の沖縄では、北山の今帰仁城と並ぶ最大級のグスクだったのです。

浦添城の模型、浦添大公園南エントランス管理事務所に手展示

主郭部には、高麗系の瓦を使った正殿があり、外来の技術者が関わっていました。その前には御庭があり、周辺にも「ディークガマ」などの祈りの場所がありました。城の北側には王墓である「浦添ようどれ」が作られました。後の史書(「琉球国由来記」など)によれば、1261年に英祖王が造営しました。これも、現地の発掘調査による想定と一致しています。英祖王統の王たちが葬られている可能性がある墓室(西室)では、中世本土日本人の特徴がある頭蓋骨が発見され、もう一つの墓室(東室)では中国・東南アジア系人のDNAが検出されています。また、近くには琉球最古の寺院と言われる極楽寺が創建され、城の南側には人工池の「魚小堀(いゆぐむい)」が作られました。こういった城の構成は、後の首里城の原型になったと言われています。

再現された墓室(西室)、浦添グスク·ようどれ館にて展示

明との朝貢貿易は発展していました。明が琉球を優遇していたからです。他の国に対しては「勘合貿易」と言われるように、回数や場所を限っていましたが、琉球はほぼ自由でした(中山は35年間に40回、南山は50年間に35回、北山は33年間で15回)。それだけでなく、貿易船を貸し与えたり、「久米村」と呼ばれる実務者集団を派遣したりしました。これについては、明は新興国の「琉球」を「貿易商社」として使おうとしたとか、「倭寇」として活動していた勢力の受け皿にしようとした、倭寇情報の収集・監視役とした、日本に対する交渉の仲介役にしたなどの見解があります(「琉球史を問い直す」「琉球王国 東アジアのコーナーストーン」)。その結果、中国との交易を制限された国や勢力の間に琉球が入ることになり、ますます三王国が繁栄することになりました。1404年には、中国から冊封使が琉球に派遣され、中国皇帝が中山王・武寧が琉球国中山王として認める儀式が行われました。

「進貢船図」、沖縄県立博物館・美術館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
進貢船の模型、沖縄県立博物館・美術館にて展示
中国皇帝が琉球国中山王に与えた玉冠、那覇市歴史博物館にて展示

尚巴志による琉球統一、首里城への移転

15世紀になると、尚巴志により三山が統一され、琉球王国が成立します。尚巴志(生年:1372年~没年:1439年)は、南山王国の一部・佐敷城の按司でした。佐敷城は土造りの小さなグスクでしたが、その地は農業に適し、近くには良港(馬天、与那原)もありました。後世の史書(「球陽」など)によると、彼は身長が低く(五尺(約150cm)未満)で「佐敷小按司」と呼ばれたそうです。「小按司」が「尚巴志」という名の基になったのではないかという説があります。また、彼の刀を外国船が積んできた鉄塊と交換し、それを農具にして農民に与え、人望を得たという伝承があります。小領主ながら人心を掴める人物だったのでしょう。

佐敷城跡

尚巴志の琉球統一のストーリーですが、琉球王国の史書に、3つの異なった説が書かれているのです。
・中山世鑑(ちゅうざんせいかん):1650年成立、琉球王国初の正史
・蔡鐸本中山世譜(さいたくぼんちゅうざんせいふ):1701年成立、「中山世鑑」を修正
・蔡温本中山世譜(さいおんぼんちゅうざんせいふ):1725年成立、更に加筆修正
地元の伝承に基づいて書かれた最初の説を、中国の記録などを見ながら修正したらしいのです。現在の定説は、最後の説(蔡温本中山世譜)を基にしたもので、それをご紹介しますが、最初の説(中山世鑑)も捨てがたいので、異説として括弧書きで掲載します。

1402年、尚巴志は近くの島添大里城を攻撃・占領し、そこに本拠を移しました。この城は南山王国の本拠地とされていましたが、1429年まで明に朝貢を行っていることなどから、別の場所(島尻大里城か)に本拠が移ったと解釈されています。当時、南山王国では中山との抗争や内紛が起きていて(下記補足2)、尚巴志はその混乱に乗じたのかもしれません。(異説:尚巴志が島添大里城に移ったときに南山王になった、南山は尚巴志による傀儡政権になったとする歴史家もいます。)尚巴志の次のターゲットは、南山ではなく、中山の本拠地・浦添城でした。1406年、尚巴志軍に対し、当時の中山王・武寧は呆気なく降伏しました。そして尚巴志は父親の恩紹を中山王としました(異説:11421年に中山を倒し、尚巴志が中山王になった)。史書によると、武寧は周りの按司たちの支持を失っていたとされます。しかし、恩紹が1409年に朝鮮に使者を送ったときの記録によると、敵対勢力を鎮圧するのに数年を要したことが伺えます(下記補足3)。

(補足2)
朝鮮に在逃する山南王子承察度の発回(「李朝実録」太祖3年(1394年)中山王察度の願い出)
山南王温沙道(おんさどう)が中山王に追われ来たりて晋陽に寓す(「李朝実録」太祖7年(1398年)中山王察度の願い出)
是れより先、(先王の)応祖は兄達勃期(たぶち)に弑される所と為る。各塞官兵を合わせて、達勃期を誅し、他魯毎(たるみー)を推して国事を摂らしむ(「明実録」永禄13年(1415年)山南王世子他魯毎が明皇帝にあてた奏文)

(補足3)武寧が死んだ後、各按司が争いを起こし連年遠征をしていたため、使者を派遣するのが遅れた(「朝鮮太宗実録」、訳は「尚氏と首里城」より)

そして尚巴志は1416年(北山最後の進貢の翌年)、最大の敵・北山王国と対決、これを倒しました。(異説:1422年に北山を倒しこの時点で琉球統一)1421年には父から王位を継ぎ、1429年に南山王国を制圧し、ついに三山統一を果たしました(異説:すでに統一済み)。琉球王国の成立です。この間、尚巴志は本拠地を浦添から首里に移したと考えられています。現存する琉球最古の石碑「安国山樹華木之記碑」が1427年に作られ、城の周辺に人工池(龍潭)を作り、花木を植え、太平の世の記念としたことが記されています。かつての浦添城の姿が再現されたのでしょう。首里城は、以前の中山王国のときから支城として使われたと考えられていますが(「京の内」の範囲)、尚巴志が本拠とした大きな理由は、近くの那覇港の存在がありました。サンゴ礁に囲まれた沖縄は、大型船が安全に停泊できる港は、当時那覇港と運天港(今帰仁城の近く)くらいでした。尚巴志の政権は、貿易を司る「久米村」との結びつきも強めていました。城の範囲は、現在「内郭」とされる瑞泉門から内側であったとされています。尚巴志の王統(第一尚氏)は6代続きました。

龍潭から首里城の眺め
首里城の模型、首里杜館(首里城公園レストセンター)にて展示

主のいなくなった浦添城は、荒れ果てた状態になったという記録があります(下記補足4)。しかし一方で尚氏(尚巴志の王統である第一尚氏)は、王墓である浦添ようどれを改修したと考えられています。自分たちが正当な王権を継ぐ者であることを示そうとしたのでしょう。墓室である洞窟内にあった瓦葺きの建物が撤去され、中国産の石(輝緑岩)で作られた石棺墓を設置しました。そこには沖縄最古とされる仏教彫刻が刻まれています(第二尚氏の尚真、または察度王統の時代の可能性もあり)。

(下記4)城毀壊し、宮殿荒蕪して、瓦廃れ垣崩れ、鞠りて荒野と為る(「球陽」)

石棺に刻まれた仏教彫刻、浦添グスク·ようどれ館にて再現されたもの

その後

その後、琉球王朝は尚巴志とは違う王統の第二尚氏によって引き継がれましたが、その3代目の尚真王の子・尚威衡(しょういこう)が1524年に浦添城に移り住み、浦添尚家となりました。浦添城もその本拠として再整備されました。やがて尚家本家に跡継ぎがいなくなると、1589年に尚威衡のひ孫・尚寧(しょうねい)が王位を継ぎました。尚寧は首里城に移りましたが、浦添城には出張機関(浦添美御殿)を残し、両城の間を石畳の道で結びました。

復元整備された石畳道

ところが1609年、琉球王国は薩摩の島津氏の軍による侵攻を受けてしまいます。島津軍は読谷海岸に上陸し、浦添城の屋敷や城下の寺の焼き討ちを行いました。そして、尚寧が作った石畳道を通って、首里城に迫ったのです。城を包囲された尚寧は降伏し、琉球は薩摩藩の支配下に入りました。尚寧王が亡くなると、その亡骸は浦添ようどれに葬られました。2つある墓室のうちの一つ(東室)が、そのとき作られたものとされています(察度王統によるものではないかという意見もあります)。ようどれはその後、御墓番(比嘉家など)によって守られていました。

浦添ようどれの案内パネル、左側の墓室が尚寧王陵
戦前の浦添ようどれ、現地案内パネルより

そして1945年の沖縄線では、浦添城にとって最大の悲劇が起こりました。米軍は読谷海岸に上陸し、日本軍司令部があった首里を目指して南下しました。そのとき激戦があったのが、崖上にあった城跡に設置された陣地「前田高地」です(米軍は「ハクソー・リッジ」と呼称)。12日間にわたる戦闘で、浦添ようどれを含む城跡はほぼ壊滅しました。何よりも日米両軍兵士だけでなく多くの住民も犠牲となったのです。

壊滅した浦添ようどれ、現地案内パネルより

戦後、城跡は採石場となり、ますます城跡の荒廃が進みました。1955年になって、当時の琉球政府がわずかに残った墓室の修復を始めました。その後公園用地となり、1989年には国指定史跡になりました。それを受けて浦添市は発掘調査を行い、2005年には浦添ようどれの復元を行いました。現在は浦添城の復元を目指した調査や整備を行っています。

復元された浦添ようどれ、現地案内パネルより

「浦添城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

70.岡山城 その2

今回はまず、岡山城に向かうコースを2つご紹介したいと思います。岡山駅から城の正面側に向かうコースと、旭川沿いを歩いて、城の裏門側に至るコースです。城に着いたら、天守に登ってみましょう。その後は、殿様気分で後楽園にも行ってみましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今回はまず、岡山城に向かうコースを2つご紹介したいと思います。岡山駅から城の正面側に向かうコースと、旭川沿いを歩いて、城の裏門側に至るコースです。城に着いたら、天守に登ってみましょう。その後は、殿様気分で後楽園にも行ってみましょう。

岡山駅前の桃太郎像

岡山駅からの正面コース

岡山駅から岡山城までは、2キロくらいあるので、路面電車やレンタルサイクルを利用するのもいいでしょう。

路面電車
岡山市コミュニティサイクル 「ももちゃり」

駅前の「桃太郎大通り」をまっすぐ進むと、道の途中は、すっかり市街地になっていますが、外堀や中堀だった場所がわかるようにパネルが設置されています。

外堀跡
中堀跡

交差点に突き当たった場所は、内堀の中でした。右の方に向かうと、数少ない現存する城の建物の一つ、西の丸西手櫓が姿を現します(国の重要文化財に指定)。かつては、堀に向かってそびえていました。

突き当たりの交差点
西の丸西手櫓

次は、西の丸を回り込んでみましょう。西の丸の石垣が続きます。歩いている道も、堀だったのでしょう。やがて、石山門跡に着きます。建物は残念ながら戦災で燃えてしまいました。入口へは橋が堀を渡っていました。

西の丸石垣
石山門跡

更に進むと、今度は岡山城創建の地が見えてきます。石山の城(旧本丸)です。石垣は、池田氏の時代のもののようです。東側の入口から見ると、今は駐車場になっています。ちなみに、この辺から見える天守の姿は、スマートに見えて面白いです。

石山の城
石山の城への入口
西側から見た天守

いよいよ本丸です。本丸へは、内堀にかかる橋(目安橋)を渡っていきます。渡った先の本丸入口は枡形(四角い防御空間)になっています。内下馬門(うちげばもん)跡です。

目安橋
内下馬門跡

本丸は、三段構成になっていて、高い方から順に、本段、中の段(表向)、下の段と呼ばれています。特に中の段は、小早川・池田時代に拡張されました。門跡から進んでいくと、中の段の隅にある大納戸櫓跡の石垣が見えます。小早川氏の時代に築かれたと言われています。最初に歩いている低い場所が下の段です。

大納戸櫓跡
下の段、中の段の石垣が見えます

本段の石垣も、中の段の入口にかけて改修されています。宇喜多時代の石垣を、小早川・池田時代にかけて継ぎ足したり、修理したりしました。中の段の入口、鉄門(くろかねもん)跡を登っていくと、本段への入口、不明門(あかずのもん、再建)前に着きます。

本段(右)から中の段の入口(左)にかけての石垣
鉄門跡
不明門

旭川沿いの搦手?コース

次のコースは、京橋から旭川沿いに城にアクセスします。京橋は、宇喜多秀家の時代に最初に架けられたそうです。

現在の京橋
川沿いに展示されている江戸時代の京橋の橋脚

川沿いに東門跡、素軒屋敷櫓(そけんやしきやぐら)跡が現れます。こんなところにも門や櫓があったのです。続いて、二の丸伊木長門屋敷内櫓跡もあります。二の丸の重臣の屋敷内にも櫓があったようです。天守も見えてきました。

東門跡
素軒屋敷櫓跡
二の丸伊木長門屋敷内櫓跡
南側から見た天守

本丸に着いたら、石垣を見学しましょう(本段南東部の高石垣)。すごい迫力です。宇喜多秀家時代に築かれたもので、自然石を積み上げた野面積みの手法によります。高さが約15メートルあって、当時は屈指の高石垣でした。見ているうちに、安土城の石垣を思い出しました。やはり、安土城のやり方を引き継いでいるものがあるのでしょう。

本段南東部の高石垣
安土城二の丸の石垣

川沿いに戻って、天守の方に進むと、宇喜多時代と小早川時代の石垣の継ぎ目を見ることができます。後の小早川時代の方が、小さい石を使って積まれています。急いで作ったからなのでしょうか?池田氏の時代に作られた門(六十一雁木下門跡)の跡を見て進むと、天守台石垣に至ります。

2つの時代の石垣の継ぎ目、左側が宇喜多時代、右側が小早川時代
六十一雁木下門跡

オリジナルの天守が焼けたとき、外側の石垣の方に崩れてきたそうです。そのため、石垣も焼けてしまっています。まさに歴史の証人です。

天守台石垣
天守を見上げています

天守の近くにある、本丸裏手の廊下門(再建)から入ると、このコースも本丸・中の段に到着です。

天守のビュースポット
廊下門

天守登閣→御殿めぐり

それでは、不明門から本段の中に入っていきましょう。本段はお殿様の住居なので、普段はこの門が閉ざされていて、こういう名前になったと言われています。本段の中には、オリジナルの天守の礎石が並んでいます。天守焼失後に現在地に移されました。

不明門
オリジナル天守の礎石

現在の外観復元天守の中は歴史博物館になっていますが、最近リニューアルされました。例えば、「城主の間」が再現されていたり、3大名家の「それぞれの関ヶ原」の展示があったりします。

現在の天守(外観復元)
天守地階
城主の間(天守2階)
それぞれの関ヶ原・宇喜多パート(天守3階)
それぞれの関ヶ原・小早川パート(天守3階)
それぞれの関ヶ原・池田パート(天守3階)

天守5階には、金鯱が展示されています。実際に屋根に乗っているものも、同じ階から間近に見ることができます。最上階(6階)では、屋内からではありますが、周りの景色を楽しむことができます。天守1階には休憩コーナがあって、城の解説ビデオを視聴することができます。

展示されている金鯱(天守5階)
屋根の上の金鯱(天守5階から)
最上階からの景色(後楽園)
天守1階

その解説ビデオで殿様の一日を再現していたので、少しトレースしてみましょう。帰りは、天守の脇から廊下門の方に出てみます。お殿様が、本段の御殿から、政務を行った表書院に通ったルートだったからです。お殿様は、門の上の渡り廊下を渡ったのです。

天守から廊下門のところに出ました。

廊下門から、表書院に向かい、中の招雲閣で政務を行い、南座敷で書画に親しみました。現在では、地面の上に間取りが表現されています。そして家老と相談があるときには、茶室で行ってました。

奥が天守、左側が廊下門、手前が表書院のあった中の段
表書院の招雲閣(奥)、南座敷(手前)跡
茶室跡

それから中の段で面白いのが、掘り出された宇喜多時代の石垣が見学できることです。中の段を広げるときに埋められたものです。元は、門の一部だったのでしょうか。

宇喜多時代の石垣

殿様気分で後楽園へ

後楽園に行く前に、現存する月見櫓もチェックしていきましょう。この櫓は池田時代に立てられているので、天守台の石垣や、天守の建物とは雰囲気が違います。石落としが、ばっちりこちらを狙っていて、となりの石垣には銃眼が並んでいます。内側から見たときの優雅な姿とは全然違います。守りのために漆喰で塗り固めたので、戦災を生き残れたという話もあります。現在は、国の重要文化財に指定されています。

現存する月見櫓(外側)
石垣に並ぶ銃眼
内側から見た月見櫓

それでは、後楽園に向かいましょう。

城と後楽園を結ぶ月見橋
後楽園入口(正門)

ここでは、園外の景色も一体として考えているそうです。岡山城もその一つです。

後楽園と借景(操山)
後楽園と借景(岡山城)

かつては、タンチョウが放し飼いにされていました。現在は、秋冬にタンチョウの園内散策が披露されています。

現在の鶴舎

これが、藩主の居間だった延養亭(えんようてい)で、戦災で焼失しましたが復元されています。

延養亭

となりに、鶴鳴館(かくめいかん)という接待用の建物があったのですが、これも戦災で焼失し、戦後に岩国の吉川家のお屋敷(明治時代建築)を移築して、同名の建物として継続しています。

鶴鳴館(移築)

築山(唯心山)は、創建者・池田綱政の子、継政が作りました。ここからだと、芝生や池がよりきれいに見えますが、その中には田んぼ(井田、せいでん)もあります。それは後楽園(御後園)の当初の姿の名残りと言われています。

唯心山
唯心山からの景色(井田)

現存する建物の一つ、流店で休憩するのもいいでしょう。最後は、これも現存する廉池軒(れんちけん)の前にきました。池田綱政のお気に入りの場所だったそうです。貢献した家臣をここに招いたりもしていたそうです。

流店
廉池軒

リンク、参考情報

岡山城公式ウェブサイト
川面に映える金烏城 岡山城、岡山市
岡山後楽園
宇喜多直家公の足跡を巡る、岡山市・瀬戸内市観光連携事業実行委員会
・「現代語訳 備前軍記/土肥経平原著 柴田一編著」山陽新聞社
・「宇喜多直家・秀家/渡邊大門著」ミネルヴァ書房
・「「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家/大西泰正著」角川新書
・「宇喜多秀家: 秀吉が認めた可能性/大西泰正著」平凡社
・「シリーズ・実像に迫る13 宇喜多秀家/大西泰正著」戎光祥出版
・「歴史群像名城シリーズ12 岡山城/学研」
・「よみがえる日本の城5」学研
・「小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「百間川小史」国土交通省岡山河川事務所
・「池田家文庫絵図展(図録) 岡山藩の教育」岡山大学付属図書館、岡山市デジタルミュージアム

「岡山城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

70.Okayama Castle Part1 (draft)

Location and History

Introduction

Okayama Castle was still located in Okayama City which is the prefectural capital of Okayama Prefecture. Its main tower was nicknamed as “Ujo” which means “Crow Castle” because of its black colored walls. Although the original main tower was unfortunately burned down by the Okayama Great Air Raid on the 29th of June in 1945, it was apparently fully restored in 1966. There is the Okayama Korakuen Garden across the river from the castle, which is called one of Japan’s three most beautiful gardens. Therefore, the area around is a very popular tourist spot. The area was created not for a short time but for a long time between three different lord families. They are the Ukita Clan which built the castle, the Kobayakawa Clan which modernized it, and finally the Ikeda Clan which completed it. As a result, the castle became the origin of the city. This article will explain its story from the beginning to its completion.

The current main tower of Okayama Castle

Was Naoie Ukita an Accomplished Villain?

Naoie Ukita became a great warlord around the current Okayama Prefecture in his life during the Sengoku Period. However, he wored so hard to achieve this that he has been labeled “an accomplished villain” or “One of the three great villains” in the period (the other two were Dosan Saito and Hisahide Matsunaga”). The bad reputation started from the first Edo Period. Hoan Oze, a writer at that time, described it in his “Hoan Taikoki” which is a popular biography of Hideyoshi Toyotomi. He wrote as followed:

“A person, who has a good talent, but uses it for his own benefit against justice, would eventually destroy himself.”

He mentioned Naoie in the example above. Hoan was devoted to Confucianism, therefore, he seemed to look back at the Sengoku Period to make a consequence theory. As a reality, most warlords were also something like Naoie which Hoan wrote, but as a result, most people during the peaceful Edo Period accepted Hoan’s theory. The three villain’s family’s power declined then because of financial reasons; therefore, they lost the ability to complain about it.

The restored wooden statue of Naoie Ukita, exhibited by Okayama Castle

The theory was accelerated by the Bizen Gunki, a war chronicle which was written during the late Edo Period. This book is one of the few remaining records which say Naoie’s early days as followed:

“Naoie and his family were attacked by an enemy but managed to escape from their castle and wandered when he was only a little child. After he grew up, he served the Uragami Clan and avenged the enemy. He also got promoted because of his talent. However, he worked hard for this. For example, he even killed his relatives even they were his son-in-laws. He used any means necessary such as tricks, assassinations and the use of poison. He eventually defeated his master to become a great warlord.”

The book makes us believe that Noaie was really an accomplished villain. However, recent studies are confirming these descriptions one by one. So far, some of them are false (for example, one of the murders was not actually committed by Naoie). The work is incomplete and vague. If more evidence comes out in the future, Naoie might actually be seen as a hero rather than a villain. Even though many of the descriptions are confirmed, they may have been common ways for warlords to survive. In addition, the hierarchical system was very chaotic and unstable during the Sengoku Period. It was often revised and changed because of the power struggle that often plagued the Senoku Period, unlike the peaceful Edo Period.

Naoie’s last home was Okayama which was near the Seto Inland Sea to the south at that time. The location was good for land and water transportation. It was on the delta of estuary of Asahigawa River which flowed into the sea. The delta had three hills, one of which was called Ishiyama (which means stone mountain), where Naoie built the main enclosure of the castle. Another one was called Okayama, which was the origin of the castle and the current city’s name. The scale of the castle was still small. However, Naoie expected that the castle and town would eventually prosper.

The imaginary map around the Okayama area before the Edo Period, exhibited by Okayama Castle
The range of Okayama Castle during Naoie’s period, exhibited by Okayama Castle

After Naoie became a great warlord, his actions were recorded multiple times. However, the records say Naoie was worried about his last decision. In the late 1570’s, the Oda Clan and the Mori Clan battled each other over the Chugoku Region including Naoie’s territories. He was on the Mori’s side and fought against the Oda Clan. At first the Mori Clan was more superior than the Oda Clan which eventually changed. Naoie seemed to continue watching this trend while keeping a cool head. He finally decided to switch over from the Mori to the Oda in 1579 through the agency of Hideyoshi Hashiba who was a senior vassal of the Oda Clan. That meant Naoie would become the frontline against the Mori Clan. Severe battles continued for a while. Naoie unfortunately got sick and eventually died around January in 1582 (according to the lunar calendar). Hideyoshi wanted to expand his empire. He entered Okayama Castle in April and battled against the Mori Clan at Bicchu-Takamatsu Castle in May before the Honnnoji Incident happened in June, which resulted in him being the next ruler. As a result, Naoie’s decision was correct.

The portrait of Nobunaga Oda, attributed to Soshu Kano, owned by Chokoji Temple, in the late 16th century (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The portrait of Terumoto Mori, owned by the Mori Museum (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The ruins of Bicchu-Takamatsu Castle

Hideie Ukita, a young nobleman of the Toyotomi Government, develops the Castle

Hideie Ukita followed his father, Naoie when he was only 11 years old but was supported by his relatives. The Ukita Clan joined the unification of Japan by Hideyoshi Toyotomi (who changed his name from Hashiba). Hideie was eventually promoted by Hideyoshi finally as a member of the council of the 5 elders. He was the youngest member in the council (at only 27 years old) while the others were all over 40. Historians speculate that there are 4 reasons for his early promotion.

The portrait of Hideie Ukita, owned by Okayama Castle (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
  1. Hideyoshi felt an obligation for the contributions of the Ukita Clan
    The clan joined Hideyoshi’s troops during the most important period of his unification of Japan.
  1. The affection from Hideyoshi to Go-hime, Hideie’s wife
    Go-hime was a daughter of Toshiie Maeda, who was adopted to Hideyoshi when she was a baby. Hideyoshi loved her very much because he didn’t have children then. However, he finally got more children later on his life. Her husband was Hideie. When she suffered from a terrible sickness, Hideyoshi blamed it on the curse of the foxes. He ordered Fushimi Inari Shrine to pray for her recovery (the shrine uses foxes as envoys). He also declared that he would destroy the shrine and hunt foxes every year if she died. She fortunately recovered. Go-hime was the important connection between Hideyoshi and Hideie.
  1. The good relationship between Hideyoshi and Hideie himself
    There are no records that indicate Hideyoshi, who was a whimsical ruler, was ever angry at Hideie. Hideyoshi once announced that Hideie would be the ruler of Japan or Korea during the first stage of his invasion of Korea. (Hideyoshi himself wanted to rule China.) Hideie didn’t have his own military contributions but was often active fighting which might have been admired by Hideyoshi. He also spent huge amount of money and time for Noh plays, tea ceremonies, and falconries (using a falcon for hunting), which Hideyoshi also liked. In addition, you might think he was handsome person when you look at his portrait. However, the image above was drawn during the Showa Era using the author’s imagination.

4, Hideyoshi wanted to promote his relatives
When Hideyoshi got old, all of his male relatives were all gone excluding his only son, Hideyori. For example, the ex-successor, Hidetsugu was forced to kill himself by performing Harakiri. Hideyoshi’s brother, Hidenaga died because of illness. Hideie might have been considered one of his few relatives who would support Hideyori in the future.

The Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, owned by Kodaiji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Hideie was also a great lord who several territories with about 500,000 Koku of rice. Okayama Castle was renovated as his home. It was said that the construction was done between 1590 and 1597. The center of the castle was moved from the Ishiyama hill to the Okayama hill to the east. The new center (the main enclosure) was surrounded by high stone walls which was over 15m high. They were built piling up natural stones, which was called the Nozura-zumi method. Asahigawa River had been diverted into several flowing rivers around the castle but was converged as a natural moat in the north and east of it. Many other enclosures were also built in the southern and western parts of the castle, which were surrounded by artificial moats. The castle town was well developed. However, Hideie was so busy that he couldn’t live there for a long time. However, he sent his instructions on how to build the castle town to Japan from Korea where he was positioned during the invasion.

The transition of the scale of the castle, the second one from the left is Naoie’s period and the third one is Hideie’s period, notice the diversion of the rivers
The range of Okayama Castle during Hideie’s period, exhibited by Okayama Castle, The dark blue line represents the convered river flow that turns into one big moat
The remaining stone walls of Hideie’s period

The most interesting thing of the castle was its main tower as the symbol. It officially had 3 levels with 6 floors (however, some historians consider it 4 or 5 levels because of its complex roofs). It was over 20m high (about 35m in total including its stone wall base). The base was built along the natural terrain as the techniques were still primitive at that time. Therefore, the base became a scalene pentagon on a plane. As a result, the first floor became the same shape as the base. As you go higher, the shape turns into a square. Because of the complex floors, the first and second levels looks like multiple turrets and the top level like a lookout point was on them. This style is called “Boro-gata” (means the lookout type). The main tower of Okayama Castle is said to have followed the style of Nobunaga Oda’s Azuchi Castle and Hideyoshi’s Osaka Castle. The walls of the tower were painted black, which originated from the nickname of the castle, “Ujo” (means Crow Castle). In addition, the castle was decorated by rooftiles using gold leaves, which needed special permission from Hideyoshi to be used.

The old photo of the original main tower (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons), Unfortunately because the picture is in black and white, it’s hard to tell that the walls were indeed in the color of black
The miniature model of the main tower, exhibited by Okayama Castle, The minature model has a slight difference in design compared to the modern look of the castle today
The excavated or restored rooftiles using gold leaves, exhibited by Okayama Castle, the round family crest is Toyotomi Hideyoshi’s family

However, after Hideyoshi died in 1598, the situation changed dramatically. The authority of Hideie, which had been back upped by Hideyoshi, began to deteriorate. That caused an imbalance in power, which is often called Ukita Trouble. Some senior vassals, such as Ukita Sakyonosuke, and Hideie’s close vassals like Jirobe Nakamura fought against each other about who would rule their territories. Unfraternally, Hideie was not able to stabilize it. Eventually, many vassals left Hideie. For example, Ukita Sakyonosuke would become the lord of Tsuwano Castle. As a result, the power of Hideie would eventually disappear.

The portrait of Ukita Sakyonosuke, private owned (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The ruins of Tsuwano Castle (in Shimane Prefecture)

On the 15th of September in 1600 (according to the lunar calendar), the Battle of Sekigahara occurred, where Hideie joined the Western Allies but was unfortunately defeated. He escaped from the battlefield and hid in the mountain areas with his few retainers for a while. Then, he sailed to Satsuma Province to ask the Shimazu Clan which also joined the Western Allies for help. The clan still did not surrender to the Tokugawa Shogunate which was the former Eastern Allies. Hideie wanted to survive and get back to being a lord. After the clan and the shogunate made peace in 1603, Hideie presented himself at the shogunate the following year. The decision of the shogunate was to banish him to Hachijojima Island, nearly 300km away from Edo (the current Tokyo), forever. It was said Hideie never gave up on his comeback until his death when he was 84 years old in 1655. Hideie must have been stronger than his image of ” a young nobleman of the Toyotomi Government”.

The encampment of Hideie Ukita at the Sekigahara battlefield

Hideaki Kobayakawa, a Misfortunate Lord who Modernizes the Castle

After that, Hideaki Kobayakawa entered Okayama Castle as the lord of the Okayama Domain which earned him about 400,000 Koku of rice. This was his reward for helping Ieyasu win The Battle of Sekigaha. His actions gave him the reputaiton of a betrayer. He switched from the Western Allies to the Eastern Allies during the battle, being forced by the way of Toi-deppo (shot by Ieyasu Tokugawa). However recent studies suggest that Hideaki did not switch sides halfway through the battle but rather was supportive of the eastern allies from the very beginning. In spite of this, his bad reputation affected his relationship with the Okayama Domain. They said that Hideaki lived a luxurious life, doing bad things, and finally died a madman. As a matter of fact, he killed a senior vassal, which resulted in other senior vassals leaving him in fear of getting killed.

The portrait of Hideaki Kobayakawa, owned by Kodaiji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

However, recent studies suggest that Hideaki’s death was caused by excessive alcohol drinking since his childhood. In addition, he left too many achievements for his short two years at Okayama before his death at only 21 years old. The purge to his senior vassals might have indicated his new government with his new close vassals. Some of Hideaki’s achievements include land survey, reorganization of temples, destroying unnecessary castles, and modernizing Okayama Castle (excessive castles could lead to rebellions which many lords wanted to minimize). The modernizing was done because the castle needed to adapt to new military methods after the Sekigahara battle.

Hideaki doubled the range of the castle (from 60 hectares to about 110 hectares). The outer third enclosure was built in the new western part of it. The outer moat also surrounded the enclosure, which was 2.5km long in total. It was said that the moat was built in only 20 days, which gives it its nickname “Hatsuka-bori” (which means 20 days moat). It was also said that it was fortified to prepare for the possible invasions from the Mori Clan. The clan was defeated during the Sekigahara battle and their territories were reduced by the shogunate, but Hideaki wanted to prepare for a possible revenge invasion from the west of Okayama Castle. In addition, Hideaki also extended the main enclosure and built new turrets and gates. We can see the stone walls of the enclosure, built by him, next to those of Hideie Ukita’s period. Some of the turret buildings were said to have been moved from castles which had been abandoned.

The ruins of the outer moat
The right side of these stone walls were built by Hideaki, the left side was built by The Ukita Clan
The miniature model of Onando Turret, which was one of turrets that were moved\ from other castles, exhibited by Okayama Castle

Hideaki died not having a successor. For this reason, the shogunate fired the Kobayakawa Clan. He was forced to mature at a young age, and like the wind he had an early demise. If he could have lived for few more years or have had his successor, his reputations would have been different from the current ones. He was really a misfortunate lord.

Ikeda Clan, the Pivot of Western Japan completes the Castle

Okayama Castle and the Okayama Domain was followed by Tadatsugu Ikeda when he was only 5 years old. He was a son of Terumasa Ikeda, the lord of Himeji Caste, whose wife was a daughter of Ieyasu Tokugawa. Therefore, Tadatsugu was a grandson of Ieyasu. This promotion may have been favoritism by Ieyasu. Tadatsugu was back upped by Toshitaka Ikeda (20 years old) who was another son of Terumasa, but his mother was different from Tadatsugu (Terumasa’s ex-wife). Tadatsugu died young just after he grew up, so his brother, Tadakatsu (14 years old but after his coming-of-age ceremony) followed him. Tadatsugu died when he was 31 years old and his successor (Mitsunaka) was only 3 years old back then. The shogunate decided to move Mitsunaka to Tottori Castle. Instead, Mitsumasa Ikeda, who was a son of Toshitaka, moved from Tottori to Okayama when he was 24 years old. Overall, the shogunate considered Okayama castle and the domain as an important spot in western Japan, where a young lord was not able to govern it properly.

Himeji Castle
The Portrait of Terumasa Ikeda, owned by Tottori prefectural art museum (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The Portrait of Tadatsugu Ikeda, owned by Setai-in Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Okayama Castle was finally completed by the Ikeda Clan. First, Toshitaka, who was the guardian of Tatatsugu, developed the inner second enclosure and the western enclosure. The remaining Nishite Turret was built at the western enclosure at the same time. Secondly, Tadakatsu extended the main enclosure to build the government office called “Omote-shoin”. The remaining Tsukimi Turret was also built there. The castle not only become a home for battles, but it also become an office for the government.

Part of the illustration of Okayama Castle in Bizen Province, exhibited by the National Archives of Japan
The Portrait of Toshitaka Ikeda, owned by Hayashibara Museum of Art (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The remaining Nishite Turret, which is located in front of the inner moat
The Portrait of Tadakatsu Ikeda, owned by Setai-in Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The miniature model of the main enclosure of Okayama Castle, exhibited by Okayama Castle
The remaining Tsukimi Turret, This turret is located on the bottom left corner of the diorama shown above

After Mitsumasa Ikeda became the lord, he improved the civil administration and cultural affairs in his domain. He learned Confucianism to lead the people in the domain. He also established the Okayama Domain School in 1669 for the Samurai-class people. He also built the Shizutani School in 1670 for the lower-class people, which was said to be the earliest school for commoners in Japan. The constructions of the schools were instructed by his excellent close vassals like Nagatada Tsuda. On the other hand, the castle town of Okayama often suffered natural disaster damages like floodings of Asahigawa River. This was because the river was artificially converged as a natural moat when the castle was renovated. As a result, the water of the river would sometimes overflow to the town during harsh weathers. Mitsumasa ordered Nagatada to prepare preliminary measures for possible natural disasters. Nagatada decided to build spillways called “Hyakkenn-gawa” (which means 180m-wide river) at the upstream of Asahigawa River which were the ideas from a Confucian, Hanzan Kumazawa. The spillways usually worked as banks, but they changed to a river when the flow of Asahigawa River overflowed.

The Portrait of Mitsumasa Ikeda, owned by Hayashibara Museum of Art (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The ruins of the Okayama Domain School
The auditorium of the Shizutani School
The explanation of Hyakkenn-gawa River, exhibited by Okayama Castle
The second bank of Hyakkenn-gawa River

Mitsumasa’s successor, Tsunamasa liked culture and entertainment very much.
After the spillways were completed, the site across Asahigawa Rivet from the castle became a wasteland. Tsunamasa launched the construction of his garden there, called Gokoen which is the current Okayama-Korakuen, one of the three great gardens of Japan. It is also instructed by Nagatada, who was like a superman! The garden was mostly consisted of fields, where farmers worked, as if a real countryside, by Mitsumasa’s interests. He commuted his own garden by a boat from the castle day by day. As time passed, the appearance of the garden was changed by his descendants. For example, most of the fields were turned into grass. Artificial hills and ponds were built on some points of the garden, which resulted in what we see in it. The garden was also used for guests and opened to the public on somedays during the later Edo Period.

The Portrait of Tsunamasa Ikeda, owned by Hayashibara Museum of Art (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The current Okayama-Korakuen
The illustration of the Gokoen garden, 1n 1863, exhibited by the Cultural Heritage Online

To be continued in “Okayama Castle Part2”