149.小牧山城 その1

とても短いが中身の濃い歴史を持つ城です。

立地と歴史

信長の橋頭保

小牧山城は、現在の愛知県西部、濃尾平野にある標高85mの小牧山の上にありました。この山には織田信長が1563年に築城するまで城はありませんでした。この築城の理由は、信長が現在の名古屋市にあった清州城からこの城に本拠地を移そうとしたことにあります。信長は現在の岐阜市にありその当時は斎藤氏がいた稲葉山城を手に入れようとしていたのです。小牧山は清州より稲葉山のずっと近くにありました。しかし、戦国大名やその家臣たちにとって、拠点を他に移すことはとても稀でした。先祖が住んでいた場所に住み続けることが普通だったのです。

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小牧山城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

3つの特徴

信長による小牧山城は3つの際立った特徴がありました。一つ目は、頂上にある本丸は巨石を使って築かれた石垣によって囲まれていました。いくつかの巨石は他の山から運ばれてきました。当時は城に石垣を築くことは稀で、小牧山のような使い方は他にはなかったようです。権威を示すために石垣を使う最も早い事例でした。

山上に残る石垣

二つ目ですが、この城は2つの城主のための館があり、1つは山上に、もう1つは山麓にありました。2つの館を持っていたのは、他の山城を持つ戦国大名も同様でした。彼らは通常麓にある方に住み、戦が起こったときに山の上の方を使いました。ところが、信長の場合は山の上にある館に住んでいたようなのです。彼はこの山を特別な場所として意識していたのかもしれません。彼の次の本拠地となる岐阜城でも似たような事例が見られます。

山上の発掘現場

最後に、山麓から山の中腹に大手道が、安土城のようにまっすぐ伸びていたことです。他の戦国大名にとっては、山にこのような道を作るのは異常なことでした。防御に不利だからです。なせこのような作り方をしたのかは今だ不明ですが、信長の発想によることは間違いないでしょう。更には、城下町が以前なにもなかった所に先進的な方法で作られました。町は武士、商人、職人が住む場所が整然と分けられていました。このような城下町の作り方は、通常は次の世紀に見られるものです。

真っすぐ伸びる山麓の大手道
現地にある城下町の町割り模型

家康の本陣

信長によるこの城があったのはわずか4年間でした。1567年に信長が稲葉山城を獲得できたためです。彼は再び本拠地を稲葉山城に移し、岐阜城と名を改めました。小牧山城は直ちに廃城となります。1584年、この城は徳川家康が天下人の豊臣秀吉と小牧長久手の戦いを行ったときに再利用されました。家康は、ここを本陣として犬山城にいた秀吉に対抗するために、城を取り囲む囲む土塁と空堀を作り、強化しました。この戦いは引き分けに終わり、家康は存在感を示し、後に徳川幕府の創始者となるのです。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
家康が築いた土塁

「小牧山城その2」に続きます。

39.岐阜城 その3

観光と歴史の人気スポット

その後

1600年の戦いの後、岐阜城は廃城となり、代わりに徳川幕府は近くの平地に加納城を築きました。1910年、地元の人々によって初代の模擬天守が建てられました。現在の天守は1956年に建てられた2代目です。両方とも市の重要なシンボルとされ、観光の振興に大いに貢献してきました。近年、発掘と研究が進んできたことで、金華山周辺は史跡としても注目されています。その結果、2011年以来、岐阜城跡として国の史跡に指定されています。

現在の模擬天守
山上からの眺め

私の感想

私は実は最近まで、岐阜城はただ山の上にあったものだと思っていました。実際に訪れ、そして城のことを学んでみて、この城には様々な側面があることがわかりました。特に織田信長は城を受け継ぎ、自身のやり方で発展させました。信長は城の潜在能力を十二分に発揮させ、彼の権威を高めたのです。きっとまた何か新しい発見が私たちを驚かせてくれるでしょう。

織田信長木像、複製(岐阜城天守閣)
山麓にある信長の居館跡

ここに行くには

車で行く場合:
東海北陸自動車道各務ヶ原ICから約6kmのところです。
岐阜公園に駐車場があります。
公共交通機関の場合は、JR岐阜駅の12番か13番バス乗り場から岐阜バスに乗って、岐阜公園歴史博物館前バス停で降りてください。
東京から岐阜駅まで:
東海道新幹線に乗って、名古屋駅で東海道線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

岐阜城天守閣、岐阜市公式ホームページ
・「信長と家臣団の城/中井均著」角川選書
・「戦国の山城を極める/加藤理文、中井均著」学研
・「日本の城改訂版第103号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。
「岐阜城その1」に戻ります。
「岐阜城その2」に戻ります。

39.岐阜城 その2

山上と山麓、両方の城跡に注目です。

特徴

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天守
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

山上の城跡へ

現在、金華山周辺の地区は岐阜県で最も人気のある観光地の一つとなっています。金華山ロープウェイを使えば簡単に山の頂上に行くことができます。もし登って行かれたいのであれば、通常はかつて城への大手道であった七曲り登山道を登っていきます。この登山道は比較的なだらかな坂になっていて、麓から約300m登って、頂上に着くには約1時間ほどかかります。

市街地から見える天守
七曲り登山道の入口
七曲り登山道
山頂へ向かう

頂上もまた、まさに観光地化していて、ロープウェイの発着場、レストラン、動物園、そして模擬天守があります。頂上周辺の道は、現代的な舗装がされています。それでも、どこでもチャートによるごつごつした岩の面が見られます。城跡としては一ノ門跡があり、門にあった巨石が転がっています。防衛のために加工された「堀切」を見たあとは、二ノ門跡が現れます。ここの白壁は近年再建されたものですが、一部の石垣はもとからあったものです。そして、二ノ門から天守に向かう道の下にある二段の石垣は必見です。この石垣の作り方はとても古く、よって、信長により築かれたと考えられています。

頂上に到着
一ノ門跡
転がっている巨石
堀切
二ノ門跡
天守への道下にある石垣
二段積みになっています。

素晴らしい天守からの眺め

模擬天守は、加納城の三階櫓の絵図に基づいて1956年に建てられました。その櫓は江戸時代に焼けてしまったのですが、元は岐阜城から移築されたという言い伝えがありました。天守の内部は博物館として使われていて、城の歴史と信長についての展示があります。また、最上階は展望台になっていて、長良川を含むこの地域一帯のすばらしい景色を眺めることができます。天守を支える石垣はとても古いものに見えます。実際は、石自体はもとからあったのですが、この天守を作るときに積み直されたのです。

模擬天守
天守からの眺め(長良川)
天守からの眺め(山側)
天守の石垣

山から下るときは、例えば裏門からなど、別の登山道を使うこともできます。裏門もかつては巨石を使っていて、道すがら残っている一部の石が見られます。しばらく下っていくと、「烏帽子岩」と呼ばれる巨大な聖なる岩も見学できます。伊奈波神社はもともとこの岩の周辺にありました。

裏門跡
残っている巨石の一部
随所にみられるチャート
烏帽子岩

信長の居館跡

山麓に着いたら、是非信長の居館跡に行ってみてください。実はそこが城の中心地だったかもしれないからです。入口では、互い違いに並べられた巨石跡を見ることができ、かつては高さが1.7mありました。階段状になっている石垣の辺りの階段を上がっていくと、広い空き地があり、そこには母屋が建っていました。その後ろ側には茶室や展望のための建物が、巨石を使った人口の池泉庭園とともにありました。池を使ったもう一つの庭園がとなりにあり、人工の川が滝から流れ出て、庭園の間を流れていました。更にこれらの庭園と母屋とは、空中回廊を通じてつながっていました。信長は、彼の居館を公的行事や重要な客のもてなしのために使っていたようです。

居館跡入口
母屋跡への階段
母屋跡
庭園跡
庭園周辺の想像図(岐阜城天守閣)
居館跡
居館想像図(現地説明板より)

「岐阜城その3」に続きます。
「岐阜城その1」に戻ります。

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