114.唐沢山城 その2

現在、唐沢山城跡は唐沢山神社としてよく整備されています。多くの人たちが神社を訪れ、何かをお祈りしたり、ハイキングをしたり、素晴らしい景色を楽しんでいます。最近では、神社に住み着いた人懐こい猫たちを見に来る人も多いです。もちろん、ここにある史跡を見に来る人もいます。

特徴、見どころ

唐沢山神社として整備

現在、唐沢山城跡は唐沢山神社としてよく整備されています。多くの人たちが神社を訪れ、何かをお祈りしたり、ハイキングをしたり、素晴らしい景色を楽しんでいます。最近では、神社に住み着いた人懐こい猫たちを見に来る人も多いです。ここにいる猫たちは、もとは野良猫か捨て猫だったようで、ここでボランティアやビジターのよって養われています。

唐沢山神社に住む猫たち

もちろん、ここにある史跡を見に来る人もいます。山麓から山頂へは、城があったときと同じように、南側と西側の2方面から向かいます。補足すると、現在の道は車道とハイキングコースがそれぞれ設定されているので、少なくとも都合4つのルートがあります(実際にはもっと多くのハイキングコースがあります)。

唐沢山周辺の地図

南登山口
西登山口
西側のハイキングコース(一部がオリジナルの城道)

現在と過去のルート

方面は一緒でも現在の道筋は、城時代のオリジナルのものとは違っています。例えば、2方面から来る舗装された車道は、山頂の駐車場の前で合流します。しかし南側から来る道の一部は、現在も残る「鏡岩(かがみいわ)」の近くで、かつては岩によって塞がれていた場所でした。オリジナルの道はこの岩の前で合流し、ジグザグの道を伝って大手門に向かっていました。

現在の合流地点
過去の合流地点
鏡岩
かつての大手門に向かう道

大手道沿いの見どころ

駐車場から大手門跡に入っていくと、石垣によって典型的な食い違いの虎口があります(この石垣には実際には明治時代に築かれたか、修繕されたそうです)。大手道は門の内側を中心部に進みますが、その左右にも見どころがあります。右側(南側)には天狗岩という別の巨岩があって、過去には物見台だったのでしょうが現在では素晴らしい見晴台になっています。左側(北側)には避来矢山(ひらいしやま)という丘があるのですが、その名前は佐野氏が先祖の藤原秀郷から受け継いだ鎧(敵の矢を避けることができるという云われがある)から由来しています。したがって、そこも防衛拠点であったのでしょう。

城周辺の地図

大手門跡
大手道
天狗岩
天狗岩からの景色
避来矢山

大手道をまっすぐ中心部の方に進んでいくと、左側に「大炊井戸(おおいのいど)」という大きな井戸が見えてきます。直径は9mあり、深さは8m以上で、今も水が湧き出ています。城跡には他の井戸もあり、かつての長い籠城戦にも耐えられるようになっていました。次には四つ目堀という名の長大な空堀があり、ここから先が城の主要部となります。神橋(しんきょう)というコンクリート製の固定橋のみが堀を渡っています。この橋はもとは曳橋で、戦いが起こったときには外されたと言われています。上杉謙信がここまで攻めてきたが撃退されたとも言われています。

大炊井戸
本丸下にある車井戸
四つ目堀
神橋

4段の主要曲輪群

大手道は神社の参道にもなっているのですが、城の主要部の右側を通っていきます。その主要部は4段の曲輪群から構成されています。下の方から、腰曲輪、三の丸、二の丸、そして本丸です。特に、三の丸はその中では最大で、かつては接客のための応接間があったと言われています。三の丸へは脇道を通って行きます。参道にはオリジナルの大手道との分岐点があって、まっすぐ参道を行けば本丸にある神社への石段下に着きます。そこを左に曲がっていくと、二の丸の方に行きます。城巡りに来た方であれば、左の方に曲がってください。右側の方に本丸の素晴らしい石垣が見えてきます。

神社参道
三の丸への脇道(帯曲輪経由)
帯曲輪
三の丸
本丸神社下
左に曲がった場合、右側に高石垣が見えます

「唐沢山城その3」に続きます。
「唐沢山城その1」に戻ります。

114.唐沢山城 その1

最後の城主となった佐野信吉は、関東地方では稀な高石垣を城の主要部に築き上げました。これには豊臣秀吉による援助があったと考えられます。秀吉やその部下たちは、西日本で多くの似たような石垣を築いていたからです。

立地と歴史

佐野氏が戦国時代に築城

唐沢山城は、現在の栃木県佐野市にあった城です。この城は、関東平野の北端に沿った大規模な山城でした。言い伝えによれば、有名な武将であった藤原秀郷が平安時代の972年にこの城を築いたとされていますが、歴史家によれば、秀郷の子孫であり、この城を長く治めた佐野氏によって作られた話であろうとのことです。調査研究の結果、佐野氏は最初は15世紀まではこの山の西麓に館を構えていましたが、戦国時代になって関東地方で多くの戦が起こるようになって、山の上に城を築いたか拡張したと考えられています。金山城箕輪城など関東地方の他の有名な山城は、この厳しい状況を乗り切るために同じ時期に築かれています。佐野氏は最初はこの山城を緊急事態のときに使っていましたが、やがて生き残りのためそこを居城とするようになります。

佐野市の範囲と城の位置

城周辺の起伏地図

佐野氏が当初住んでいた山麓の館跡(現・興聖寺)
唐沢山城跡
金山城跡
箕輪城跡

上杉謙信が執着した城

一方、関東地方を支配したい有力戦国大名は、その有利な立地条件から唐沢山城を確保したいと思うようになります。上杉謙信はそのうちの一人で、その実現に執着しました。そのことを如実に示すエピソードがあります。1560年前後に謙信が最初に関東地方に侵攻したとき、北条氏の大軍が唐沢山城を包囲する中、僅かな近臣とともに城を訪れ、城主の佐野昌綱(さのまさつな)を説得し、謙信への支持を取り付けたのです。ところが、謙信が越後国の本拠地、春日山城に引き上げると、北条氏は領土奪還を始め、地元領主たちに服従を強いました。昌綱もその一人であり、北条方に寝返りせざるをえませんでした。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
春日山城跡

最強の武将の一人とされていた謙信は激怒し、唐沢山城を攻撃しますが、城もまた大変強力であり、強攻策では落とせませんでした。その後、昌綱は謙信に降伏することになりますが、謙信が引き上げると、また同じ事が繰り返されました。その結果、彼らは少なくとも5回も戦いました。謙信は一時、昌綱を城から追放し、親族(虎房丸、人質として引き取った昌綱の子という説もあります)や重臣を送り、城の直接統治を行いました。ところが、謙信はなぜか昌綱に城を返してしまいます。遠くにあるこの城をコントロールする難しさを感じていたのかもしれません。

佐野昌綱肖像画、大庵寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊臣秀吉の援助で高石垣が築かれる

唐沢山城を含む関東地方は、1570年代から1580年代にかけて、北条氏に帰属するようになります。北条氏もまた、謙信が行ったように、この城に一族の北条氏忠を送り込みました。一方、正綱の一族、佐野房綱(さのふさつな)は関東地方から西日本に逃れ、当時天下人として君臨していた豊臣秀吉に仕えました(房綱は当時は天徳寺宝衍(てんとくじ ほうえん)と名乗っていました)。そして、秀吉が1590年に関東地方に侵攻したときには、その先導役を務めたのです。その結果、房綱は唐沢山城の城主に返り咲きました。ところが、秀吉もまたこの城を自身の影響下に置きたかったようです。秀吉は、近臣である富田信高の弟を、房綱の跡継ぎに送り込み、佐野信吉(さののぶよし)となります。そして、彼が最後の当主、最後の城主となりました。これは、秀吉によって関東地方に転封されたライバルの徳川家康を、信頼できる誰かに監視させる目的であったと思われます。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

唐沢山城は、いくつもの峰を持つ大きな山の上に築かれました。山頂と峰上には多くの曲輪が設けられ、そこには矢倉、物見、番所、射撃所(「大鉄砲」「大筒」「国崩し」などと呼ばれました)などが置かれ、敵が来ないか監視し、来た場合には反撃できるようになっていました。峰々や曲輪群は、深い堀切によって区切られ、敵の攻撃を弱らせることができました。城に向かうには南側と西側の2つの主要道があり、山頂近くの大手門の前で合流し、城兵のコントロール下にありました。山麓地区は城主と重臣たちの屋敷地となっていて、防衛のため長大な土塁によって囲まれていました。これらは、佐野、上杉、北条の各氏によって長い期間をかけて構築されてきたのです。

城があった唐沢山
山麓にある土塁跡
山麓にある重臣屋敷跡(隼人屋敷)

この城の基礎部分は基本的には土造りで、当時の東日本での築城においてはそれが一般的でした。しかし、最後の城主となった佐野信吉は、この地方では稀な高石垣を城の主要部に築き上げました。これには秀吉による援助があったと考えられます。秀吉やその部下たちは、西日本で多くの似たような石垣を築いていたからです。一方、関東の家康は、そのような高石垣を築く技術や石工集団をまだ持ち合わせていませんでした。すなわち、強力な唐沢山城にある石垣は、家康にとって大いなる脅威と映ったに違いありません。

唐沢山城の高石垣

徳川家康の命で突然の終焉

秀吉の没後、1600年前後に家康が天下を取ったとき、信吉は家康に味方することで何とか生き延びました。ところが、唐沢山城と佐野氏の没落は突然やってきます。1602年に家康は信吉に、唐沢山から近くの平地にある佐野城への移動を命じました。その理由としては、山城の上から家康の住む江戸城を見下ろすことが無礼とされたから、と言われています。そして1614年に信吉はついに、兄の富田信高の罪に連座して改易となってしまいました。総じてみると家康は、信吉のような者が、唐沢山のような強力な城に籠って反乱を起こすことを、防ぎたかったようです。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
佐野城跡

「唐沢山城その2」に続きます。

108.鶴ヶ岡城 その3

一部残っている藩校致道館の建物にも行ってみて下さい。東北地方では唯一現存している藩校の建物です。二つの門、聖廟、講堂、そして藩主の訪問時に使われた「御入りの間」が残っています。

特徴、見どころ

藩校致道館

また、致道博物館とは反対側の三の丸にある、一部残っている藩校致道館の建物にも行ってみて下さい。東北地方では唯一現存している藩校の建物です。二つの門、聖廟、講堂、そして藩主の訪問時に使われた「御入りの間」が残っています。

城周辺の航空写真

致道館の表御門
聖廟
講堂
御入りの間

建物の中は、藩校や藩の歴史についての展示も行っています。今はなくなってしまった他の建物跡は、屋外に平面展示されています。明治維新のときの、庄内藩の新政府軍への降伏式はここで行われました。また、この藩校があった範囲は、1951年以来、国の史跡に指定されています。

講堂内の展示
藩主のための御居間
屋外にある平面展示

その後

庄内藩は戦いに敗れましたが、その領地を維持することを認められました。一方、同盟を結んでいた会津藩は、狭く貧しい土地に移動させられていました。この大きな差は、新政府のリーダー、西郷隆盛が庄内藩に対して寛容を示したからだとされています。しかし、庄内藩はその代償として新政府に対し、主には本間家から用立てされた莫大な献金をしなければならなかった一面もあります。それでもそれ以来、庄内の人たちは西郷を大いに尊敬し、前藩主の酒井忠篤(さかいただずみ)など藩の首脳たちは西郷の許を訪れ、交流を重ねました。1878年に西郷が政府に反乱を起こしたとき(西南戦争)、庄内の2人の士族が西郷とともに戦い、命を落としました(もっと多くの庄内人も加わろうとしましたが、周りに引き留められたそうです)。西郷が敗れた後も、庄内の人たちは彼を敬愛し続け、1890年には西郷の教えをまとめた「南洲翁遺訓」を出版しました。

西郷隆盛像、エドアルド・キヨッソーネ作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
酒井忠篤 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

鶴ヶ岡城に関しては、1871年に廃城となり、1876年には城の全ての建物が撤去され鶴岡公園となりました。しかし、地元の人たちは、現在見られるようなそれぞれの時代に応じたやり方で、城跡の維持に最善を尽くしています。

鶴岡公園

私の感想

鶴ヶ岡城跡を訪れたとき、現地にある3つの博物館でその歴史を学ぶことができました。そして、それぞれの博物館には特徴があったように思います。致道博物館では、隠居所に城についての展示が多くありました。大宝館では郷土の偉人についての展示が、藩校の致道館では藩の歴史についての展示がありました。短時間で多くのことを学ぶことができましたし、地元の人たちの文化や歴史を次世代に伝えていこうとする熱意も感じることができました。また、鶴岡市と鶴ヶ岡城と両輪の関係にあった酒田市や亀ヶ岡城跡にも行ってみたいと思っています。

致道博物館の隠居所入口
大宝館入口
致道館講堂入口

ここに行くには

車で行く場合:山形自動車道の鶴岡ICから約10分かかります。公園の周りに駐車場がいくつもあります。
公共交通機関を使う場合は、鶴岡駅から湯野浜温泉行の庄内交通バスに乗って、市役所前バス停で降りてください。
東京から鶴岡駅まで:上越新幹線に乗って、新潟駅で特急いなほ号に乗り替えてください。

公園東入口にある駐車場

リンク、参考情報

鶴岡公園(鶴ヶ岡城址)の紹介、鶴岡市
・「シリーズ藩物語 庄内藩/本間勝善著」現代書館
・「藩祖・酒井忠勝 展示解説書」致道博物館
・「よみがえる日本の城17」学研

これで終わります。ありがとうございました。
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「鶴ヶ岡城その2」に戻ります。