60.赤穂城 その1

赤穂城は瀬戸内海に面した播磨国の西端、現在の兵庫県赤穂市にあった城でした。この城は、日本の最も有名な歴史イベントの一つ、赤穂事件の舞台の一つとなった場所です。また、赤穂は雨が少ない地域であり、塩田が開発されて以来、製塩業が盛んであることでも知られています。

立地と歴史

浅野長直が城を大改修

赤穂城は瀬戸内海に面した播磨国の西端、現在の兵庫県赤穂市にあった城でした。この城は、日本の最も有名な歴史イベントの一つ、赤穂事件の舞台の一つとなった場所です。また、赤穂は雨が少ない地域であり、塩田が開発されて以来、製塩業が盛んであることでも知られています。

播磨国の範囲と城の位置

1600年に赤穂城を最初に築いたのは、姫路城主であった池田輝政の弟、長政であり、彼らの支城という扱いでした。その後、1615年に池田氏の分家が独立し、赤穂藩が成立し赤穂城を居城としました。ところが、2代目の藩主が錯乱し殺人を犯した罪で、1645年に徳川幕府によって改易となってしまいました。初期の赤穂城の詳細はわかっていません。同年に城と藩を継いだ浅野長直(あさのながなお)が城の大改修を行い、今見られるような姿になったからです。彼は、広島城にいた浅野氏の分家の当主で、笠間城から転封となったのです。1615年に幕府が大坂城の豊臣氏を滅ぼし政権が安定してからは、城の大改修が認められるのは大変稀なことでした。

浅野長直肖像画、花岳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
笠間城跡

その大改修は1648年から1661年までかかりました。城の縄張りは、軍学者の近藤正純と山鹿素行によって行われました。城の石垣のラインは巧みに曲げられて、どの方角にも射撃ができるようになっていました。本丸とそれを囲む二の丸が城の主要部で、背後の南方には海を控えていました。大手門があった三の丸が、主要部の北方に加えられました。これらの曲輪群は平地上にあり、水堀によって区切られていました。よって、この城は平城または海城に分類されています。本丸には、領主のための御殿と天守台石垣がありました。しかし、実際には天守台の上には天守は築かれませんでした。

赤穂城跡にある山鹿素行坐像
赤穂城本丸の石垣
赤穂城の縄張り図、現地説明板より
赤穂城の天守台石垣

浅野長矩が赤穂事件を起こし改易

赤穂事件は1701年に、長直の孫、浅野長矩(あさのながのり、官職名の内匠頭(たくみのかみ)としても知られています)が藩主だったときに起こりました。彼は、江戸城の御殿で将軍である徳川綱吉が勅使を接待する際の饗応役となっていて、吉良義央(きらよしひさ、上野介(こうずけのすけ))の指導を受けていました。3月14日、最も重要な儀式が行われようとしていた日に浅野は突然吉良の背後から切りかかり、殺そうとしましたが失敗しました。浅野は捕えられ、その日のうちに将軍に切腹を命じられました。御殿内での刃傷沙汰は厳しく禁止されていたからです。浅野家は約3百名の藩士ともっと多くの家族とともに改易となりました。一方、吉良はお構いなしとされました。浅野により傷つけられただけで、刀を抜かなかったからです。

浅野長矩像画、花岳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川綱吉肖像画、土佐光起筆、徳川美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

浅野が吉良に切りつけた理由はわかっていません。いくつかの記録によると、浅野は吉良に遺恨があったと話したということです。しかし、その死の前にそれが何なのかは話しませんでした。最近の研究によると、以下のように推測されます。そのとき、浅野は2度目の勅使饗応役を務めていました。浅野は地元の塩産業により豊かでしたが、吉良からの指導に対してそれ程の報酬は払わなくてよいと考えていた節があります。吉良は職務を果たすために多くの金銭が必要でしたが、手元不如意となっていました。彼は高家として身分は高かったのですが、領地の石高はそれ程でもなかったからです。これらのことが重なって、吉良が浅野に対して十分な指導を行わなかったり、公衆の面前で浅野を批判したことが考えられます。これが本当だとしても、このような深刻な事件を起こす動機となるのでしょうか。当時を含め、浅野は乱心したためにこの事件を起こしたのだと考えた人もいました。

刃傷事件があった江戸城本丸御殿跡
事件の現場、松の廊下の模型、江戸東京博物館にて展示  (licensed by Gryffindor via Wikimedia Commons)

お家再興の望みがなくなり討入を実行

赤穂藩の藩士たちは、事件の報せと幕府による赤穂城明け渡しの命令に接し、大変困惑しました。そして幕府の命令に従い開城するか、それとも反抗するか議論に明け暮れました。浅野に親しく仕えていた近臣たちにとっては幕府の決定は受け入れがたく、主君はそれなりの理由があって事を起こしたのだと信じていました。しかし、筆頭家老の大石良雄(おおいしよしお、内蔵助(くらのすけ))の決断により、4月12日に城は明け渡されます。彼は、藩が素直に命令に従えば、幕府が長矩の弟、大学に藩を継がせるのではないかと考えたのです。

大石良雄肖像画、赤穂大石神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

残念ながら、大石の希望はかないませんでした。幕府は大学を、広島城の浅野本家預かりとしたのです。大石は結局、強硬派の勢いに押される形で四十七士のリーダーとなり、旧暦1702年の12月14日に吉良の屋敷に討ち入り、吉良の首級を挙げたのでした。大石は現場に口上書を残していて、そこには「亡主の意趣を継」ぐと書かれています。四十七士は全員捕らわれの身となりましたが、その処分を巡っては幕府の首脳部の間で相当な議論となりました。ある者は彼ら浪人は法を犯して吉良の屋敷に押し入り、「無実」の吉良を殺したのだから厳罰に処すべしと主張しました。一方、彼らは真の忠臣であり、武士の鑑であると反論する者もいました。将軍綱吉の裁定は両者を折半するもので、四十七士に切腹を命じました。これは彼らの主君と同じでしたが、地位とその行為にしては寛大なものでした。

広島城
「忠臣蔵十一段目夜討之図」歌川国芳作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

藩と城は森氏などが継承

赤穂城と赤穂藩はその後、永井氏と森氏に引き継がれました。とりわけ森氏は、1706年から1871年の廃藩置県までの長い間、その地を支配しました。赤穂の製塩業は繁栄を続け、塩田はまるで城を囲むような形で広がりました。一方で、森氏による赤穂藩は財政難に苦しみます。領地が浅野氏当時よりずっと少なかったからです。例えば、三の丸にあった旧大石家の屋敷が1729年に火災に遭ったのですが、再建されませんでした。それは恐らく、藩士の数が以前よりずっと少なかったためにその屋敷を再び使う必要がなかったためと思われます。

赤穂城跡

「赤穂城その2」に続きます。

18.鉢形城 その3

1590年の戦いにおいて攻撃軍が車山から城へ砲撃したと伝わる話がありうることなのか確かめるために、実際に山の上まで登ってみました。

特徴、見どころ

よく復元されている空堀

三の曲輪と二の曲輪の間には、大規模な空堀が木柵とともに復元されています。堀のラインは折り曲げられていて、守備兵が敵の側面を攻撃できるようになっています。曲輪間を行き来できる場所は2ヶ所だけで、大手道から続く通路と、よく復元されている馬出しのところです。また、これら2つの曲輪を見比べてみると、三の曲輪の方が二の曲輪より高い位置にあることがわかります。他の城では通常、本丸に近い二の丸の方が三の丸より高いところにあります。しかし、鉢形城の場合はそうはなっていません。加えて、三の曲輪は北条氏により改修された結果、4つの馬出しがある強力な防御システムを持つに至りました。作家の伊東潤は、北条氏は城の最終段階において、城の中心部を本曲輪から三の曲輪に移したのではないかと言っています。

城周辺の航空写真、赤いマーカーは4つの馬出しの場所を示しています

三の曲輪と二の曲輪の間の空堀
三の曲輪と二の曲輪をつなぐ馬出し
三の曲輪の方が二の曲輪より高い位置にあります
二の曲輪

本曲輪の素晴らしい景観

舗装された自動車道が二の曲輪と本曲輪の間を通っていて、この辺りが過去にどのようであったのか想像するのは難しいかもしれません。鉢形城歴史館での情報によると、その辺りには本曲輪に入っていくための大門があり、門の前には深い空堀があり、木橋が掛けられていたとのことです。

城周辺の地図

二の曲輪と本曲輪の間には自動車道が走っています
現地にある城ジオラマでの本曲輪への入口部分

本曲輪は城のもう一つの高地で、30mの高さの崖の上にあります。城に関する建物はありませんし、純粋な土造りの曲輪です。しかし、整地されていることが今でも見て取れるため、過去には城主の御殿があったのだろうと想像することができます。その高みからは、眼下の荒川とその周辺地域の素晴らしい景色が見えます。また、自然の要害により城が守られてきたことも理解できると思います。

本曲輪
本曲輪上の建物跡
本曲輪からの景色

そして最後には、崖の突端の近くの笹曲輪に到着します。ここは本曲輪より低い位置にあって、荒川に掛かる正喜(しょうき)橋のたもとにあり。城跡の入口にもなっています。

笹曲輪
城跡にかかる正喜橋

崖の先端は私有地になっていて立ち入りはできないので、川の反対側からしか見ることができません。もしその対岸に渡られたのでしたら、橋から下ったところにある玉淀河原から崖の上にある城跡の素晴らしい景色をご覧になってはいかがでしょうか。

対岸から見た崖の先端部分
玉淀河原から見た城跡

その後

昭和時代の初期(1930年辺り)、JR八高線の建設が城跡を貫く路線で検討されていました。地元の人たちは、路線を変更することと、城跡の保存を政府に請願しました。この運動は成功を収め、城跡は1932年に国の史跡に指定されました。寄居町は1997年から2001年の間に二の曲輪、三の曲輪、笹曲輪の発掘調査を行いました。この成果に基づき、鉢形城公園がオープンし、城の構造物が復元公開されました。2004年には鉢形城歴史館が開館し、城の歴史や研究に関する展示があり、ビジターが見学できるようになっています。

鉢形城歴史館

私の感想

私は、1590年の戦いにおいて攻撃軍が車山から城へ砲撃したと伝わる話がありうることなのか確かめるために、実際に山の上まで登ってみました。攻撃軍の武将、本田忠勝が大鉄砲を山に引き上げ、城を砲撃し、大手門を破壊したというのです。車山は標高227mで、城からは約100m高いところにあります。そして、城の三の曲輪からは約1km離れています。山頂から見る城の眺望は、周りに茂っている木々のためにあまりよくありませんでした。個人的な結論を申し上げると、この伝承の全てが本当とは限らないということです。砲撃を行ったというのは事実でしょう。数cmの大きさの大鉄砲の弾が、城の外曲輪から発掘されているからです。しかしながら、それを山の上から行うことが有効であったとは思えません。1614年の大坂冬の陣において、徳川家康は西洋の大砲を借りてきて、川のデルタ地帯にあった陣地から大坂城への砲撃を行いました。城へは約500mの距離がありました。この実績によって考えると、これより24年前に恐らくは日本製の鉄砲を使って、500mも余計に遠くから砲撃することは、たとえ山の上からとはいってもあり得ないという結論です。想像ですが、忠勝は山上に陣地を置いたけれども、ずっと城に近いところから砲撃を加えたのではないでしょうか。

城跡の南側入口周辺から見た車山
車山の頂上
城跡は草木のために本曲輪の一部しか見えませんでした
本多忠勝肖像画、良玄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

鉢形城周辺の起伏地図

大坂城周辺の地図(上と同じ縮尺にしています)

ここに行くには

この城跡を訪れるには、車を使われることをお勧めします。バス便がほとんどないからです。関越自動車道の花園ICから約20分かかります。公園の中にいくつも駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、寄居駅から歩いて約30分かかります。
東京から寄居駅まで:池袋駅から東武東上線に乗るか、東京駅から上越新幹線に乗って、熊谷駅から秩父鉄道に乗り換えてください。

リンク、参考情報

鉢形城公園案内、寄居町公式ホームページ
・「太田道灌と長尾景春/黒田基樹著」戒光祥出版
・「城を攻める 城を守る/伊東潤著」講談社現代新書
・「北条氏康の子供たち/黒田基樹・朝倉直美編」宮帯出版社
・「北条氏邦と鉢形領支配/梅沢太久夫著」まつやま書房

これで終わります。ありがとうございました。
「鉢形城その1」に戻ります。
「鉢形城その2」に戻ります。

18.鉢形城 その2

今回この記事では、城の南側から城跡公園に入り、中心部を通って、崖の先端部まで歩いていくのを追体験する形で進めていきます。

特徴、見どころ

鉢形城公園として整備

現在、鉢形城跡は約5ヘクタールもある広大な鉢形城公園として整備されています。多くの人々がこの公園を訪れ、歴史的な城の遺物や復元物を見学したり、自然の中で散歩したりくつろいだりしています。例えば、公園には大きな桜の木があるのですが、城主であった北条氏邦にちなんで「氏邦桜」として最近有名になっています。是非ご自身で公園を歩き回って、城の重要なアイテムを確認しながら、自分なりに興味を持てるものを見つけていただければと思います。この記事では、城の南側(三の曲輪の外側)から城跡に入り、中心部(本曲輪)を通って、崖の先端部(川の合流地点の近く)まで歩いていくのを追体験する形で進めていきます。

氏邦桜

城の正面入口は、通路と八高線が交差する踏切の近くにあります。踏切を越えた後、通路は3つに分かれます。真ん中の舗装された通常ビジターが進んでいく道路、右側のかつての大手道、そして左側の三の曲輪に至る道です。とりあえず公園に来てみたいという方には真ん中の道が便利なのですが、今回は右側と左側の道を選択して、城のオリジナルの道がどうなっていたのかできるだけ迫ってみたいと思います。

城周辺の地図、赤破線は大手道に近いルート、青破線は三の丸に至るルート

八高線の踏切
3つの通路の分岐点

大手道を進む

右側の大手道は、大手曲輪に沿った大きく深い堀を越えていきます。防りがしっかりしていると感じます。

右側の大手道
大手道入口脇の堀(左側)
大手道右側の大手曲輪

次に、城の防御の要である四角い馬出しのところで左折します。そこからは城の中心部に向かって進み、三の曲輪と二の曲輪の境界の辺りに達します。

馬出しのところで左折します
二の曲輪の方に向かいます
現地にある城ジオラマの大手道部分

もう一つの馬出しが、道から外れたところにあるのですが、かつての大手道はその馬出しの中を通っていました。

現在の通路の右外側にある馬出し
現在の通路はそのまま二の曲輪に入っていきます
城ジオラマでは馬出しを経由して二の曲輪に入っています

諏訪曲輪を通って三の曲輪へ進む

左側の道は、諏訪曲輪と呼ばれている諏訪神社の参道になっています。そこは、四角く区切られた土地で今でも土塁と深い空堀によって囲まれています。見るからに馬出しという感じです。

諏訪曲輪に入っていきます
曲輪を囲む土塁
土塁の外側の空堀

もう一本の細道が、その馬出しの側面から三の曲輪の入口の方に出ています。この入口の守りも固そうです。この組み合わせが典型的な鉢形城の防御システムと言えるでしょう。

諏訪曲輪の馬出しから三の曲輪へ
三の曲輪の入口(虎口)を内側から見ています
城ジオラマの諏訪曲輪部分、赤矢印は現在の通路の方向

重要な拠点、三の曲輪

三の曲輪は城ではもっとも高い位置にあり、厚く高い土塁が曲輪を取り囲んでいます。また、内側ではまるで石垣のように見える石積みが土塁を支えている構造になっています。これらの構造物は、現代になってから発掘の成果により復元されたものです。四脚門も発掘によって存在していたことがわかり、同じく復元されています。これまでのところ御殿のような建物の痕跡は見つかっていませんが、この曲輪は城にとってはとても重要な場所でした。

三の曲輪
曲輪を囲む石積み土塁
復元された四脚門

「鉢形城その3」に続きます。
「鉢形城その1」に戻ります。