56.竹田城 その2

現在の見学ルートは、城にもとからあったバイパスルートをほぼなぞって設定されています。つまり、過去に城の守備兵のために作った通路が、現在のビジターが城跡をスムーズに移動するためにも役立っているのです。

特徴、見どころ

よく整備されている城跡

現在、竹田城跡はよく整備されていて、城跡を維持していたり、多くのビジターにうまく対応しています。もし車で城跡に行きたいのでしたら、「山城の郷」という観光施設に駐車する必要があります。そしてそこからは、タクシーかバスか徒歩で城跡まで行くことになります。タクシーを使った場合でも、降車場所から城跡の入口である券売所までの最後の1キロほどは歩いていく必要があります。入口までの道は舗装されていますが、歩いている途中で見る山の地形は急で険しいのがわかります。このような山の上に、あのような立派な石垣をなぜ、どうやって築いたのだろうと不思議な思いをされるかもしれません。

城周辺の地図

山城の郷
ここからは皆歩きです
道の脇は急坂です
券売所に到着です

この城跡では、見学路は一方通行に設定されていて、ビジターが歩き回れる範囲も杭にロープが張られて規制されています。城の石垣と基礎はとてもよく維持されているように見えます。これは毎年決まった時期に城跡を閉鎖し、その間に修繕を行っているからです。こういった活動により、城跡の状態がよく保たれ、ビジターの安全も確保されているわけです。具体的には、ビジターは最初に北峰の端にある北千畳に入っていきます。それから峰上を歩いていき、本丸にある天守台石垣の脇を通り過ぎ、南峰を進んで最後はその峰の端から外に出ます。このルートは、城にもとからあったバイパスルートをほぼなぞって設定されています。つまり、過去に城の守備兵のために作った通路が、現在のビジターが城跡をスムーズに移動するためにも役立っているのです。

城周辺の地図

石垣の端には立ち入りできません

厳重に守られている城の入口と通路

北峰の端に戻って説明すると、そこは「桝形」と呼ばれる高石垣によって囲まれた四角いスペースによって守られています。かつてはその上に門の建物が乗っかっていました。敵が攻めてきたときには、そこから鉄砲や矢で反撃できるようになっていました。もし敵が門に到達したとしても、桝形の中に閉じ込められる仕組みになっていたのです。

城跡の入口
北峰の端にある桝形(現地では大手門と表記されています)
桝形を内側から見ています

この入口の内側には広大な北千畳曲輪があります。その名前が示す通り、過去には多くの兵員や物資を収容でき、現在では観光客のグループの待機場所になったり、イベントも開催できるような場所になっています。

北千畳
北千畳の周りの風景
北千畳から三の丸を見ています

城跡の中心部分に行くには、もう一つの桝形を通って三の丸に行き、ジグザグの通路を経由して、石垣によって食い違いになっている出入口を通って二の丸に向かいます。

三の丸入口の桝形
三の丸に入っていきます
三の丸
二の丸に向かいます

そして、三の丸と二の丸がある細い北峰上を歩いていくと、多くの石垣がある城の中心部分や、眼下には周辺地域の景色が見えます。見学路の道順は案内板によって示されていて、この狭い場所でもビジターが安全に見て回れるようになっています。

見学順路がきちんと設定されています
二の丸
二の丸から見た城の中心部の石垣
眼下の竹田の街並み

天守台石垣が残る本丸

そうするうちに、天守台石垣が残る城の中心部である本丸に着きます。見学路は木製の階段になり、天守台の脇を通っています。別の階段が天守台の方に向かっています。天守台は、野面済みという自然石あるいは粗く加工された石を使う手法によって積み上げられています。とても壮観です。歴史家は、天守台の大きさから三層の天守がその上に建っていたのではないかと推定しています。

本丸に到着
見学ルートは天守台をバイパスします
天守台石垣
天守台の上
天守台からの景色

「竹田城その3」に続きます。
「竹田城その1」に戻ります。

56.竹田城 その1

竹田城を完成させた斎村政広の領地は2万2千石で、城の豪華な石垣を築き維持していくには少なすぎる石高でした。よって、この城の建設には豊臣秀吉のバックアップがあったものとされています。

立地と歴史

天空の城として有名に

竹田城は、現在の兵庫県北部にあたる但馬国の虎臥山(とらふすやま、標高354m)にあった城です。竹田城跡は最近、歴史ファンだけではなく一般の観光客の間でも、「天空の城」として大変な人気となっています。城跡には建物は何もありませんが、素晴らしい石垣が高い山の上に残っていて、秋から冬にかけての朝に気候条件が整えば、雲海の上に浮かんでいるように見えるのです。日本のマチュピチュなどとも称されています。天空の城は現代になって新たにできた観光地であり、城跡そのものからはずっと離れた場所に行って見学することになります。しかし、この呼称は城の歴史や立地から生まれたものとも言えるでしょう。

「天空の城」竹田城の写真、現地説明版より

山名氏が最初に築城

但馬国は現代の人々にはあまり馴染みがありません。この国は小さく、最終的には兵庫県に統合されてしまったからです。しかし、過去においてはその立地からとても重要視されていました。中世の多くの期間に渡って、山名氏が山陰地域とも呼ばれる中国地方北部のいくつもの国を領有していました。但馬国は山名氏の領国の東端にあり、播磨国と丹波国と国境を接していました。そのため、山名氏が攻守の要の基地として、15世紀頃に竹田城を最初に築いたのです。その当時は、領主たちが身を守るために高い山の上に城を築くことがよく行われていました。竹田城を含むこれらの城は、その時点ではすべて土造りで、石垣は築かれていませんでした。

但馬国の範囲と城の位置

多くの戦いが起きた戦国時代の16世紀には状況はもっと複雑化します。山名氏の力が衰える一方、但馬国外の他の領主たちはより多くの領土を欲したからです。例えば1571年には、山名氏の当主、山名祐豊(すけとよ)は丹波国に攻め込みますが、逆に反撃を受けてしまい、1575年には丹波国の黒井城主、荻野直正に一時竹田城を占領されてしまいました。祐豊は自身の領地を守るために、状況に応じて織田信長や毛利氏のような最強と思う戦国大名に助けを求めるつもりでした。ところが信長は1577年に、後に天下人となる羽柴秀吉の弟である羽柴(豊臣)秀長に軍勢を預け、但馬国に派遣したのです。これによって信長は竹田城を支配下に置きました(そのとき戦いが起こったのか、降伏によって開城したか不確かです)。1582年に信長が亡くなり、秀吉が天下人になると、弟の秀長に竹田城に留まり、改修するよう命じました。城の周辺に莫大な収益をもたらす生野銀山があったことが関係していたようです。山頂に石垣が築かれ始めたのは、この頃のことと考えられます。やがて1585年に秀長が和歌山城に移されると、城の改修は、秀吉の別の家臣である斎村政広に引き継がれます。

山名氏の家紋、五七桐に七葉根笹  (licensed by Houunji 1642 via Wikimedia Commons)
荻野(赤井)直正のイラストレーション、黒井城跡現地説明版より
豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

斎村政広が城を完成

政広はもともと赤松広秀という名前で、播磨国の龍野城にいた地方領主でした。1577年に秀吉が播磨国に侵攻したとき、政広は秀吉に降伏したのですが、城を取り上げられ、秀吉の家臣とされました。政広は元の城を返してもらうため、秀吉の下で一生懸命働きました。その結果、秀吉は政広に領地を与えたのですが、龍野ではなく、竹田城がある地でした。政広の領地は2万2千石で、竹田城の豪華な石垣を築き維持していくのには、少なすぎる石高でした。よって、この城の建設には秀吉のバックアップがあったものとされています。政広は秀吉への貢献を続け、秀吉の命により朝鮮侵攻にも従軍しました。竹田城のいくつかの門の構造には、朝鮮で築かれた倭城の影響が表れていると言われています。

赤松氏の家紋、二つ引き両に右三つ巴  (licensed by KfskzsuRPkwt via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
竹田城跡の山上の石垣

竹田城が築かれた山は3つの峰から成り立っていて、北方と南方の峰は長く、西方の峰は短くなっています。頂上部分には本丸が築かれ、天守もあったのですが、その詳細は分かっていません。それぞれの峰にはいくつも曲輪がありましたが、その内の大きな曲輪では兵士の駐屯や物資の備蓄ができるようになっていました。峰の端部分は外部との出入口となっていましたが、虎口によって厳重に守られていました。城は総石垣造りであり、野面積みと呼ばれる、自然石か粗く加工された石を使って積まれました。石積み専門の職人集団が招かれてこの仕事を行いました。この城の縄張りで進んでいる点の一つは、3つの峰の間をバイパスを使って移動できることです。守備兵は、ある峰から別の峰へとスムーズに動けることで、敵の攻撃に柔軟に対応することができたのです。

城周辺の航空写真

竹田城の天守台石垣

政広と竹田城のあっけない最期

政広は普段は山麓にある御殿に住んでいて、その間城下町も整備しました。彼は儒教にも関心があり、国内の儒学者たちや朝鮮の高官と交流を重ねました。山上の城にも儒学の聖堂を建てたとも言われています。ところが、政広と竹田城の時代は突然終わってしまいます。1600年に徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍との間で天下分け目の戦いが起こりました。政広は西軍に属していたのですが、関ヶ原において三成が家康に敗れたと聞くと、東軍に鞍替えします。彼は、家康に対する忠誠を示すために、他の西軍に属した大名がいた鳥取城の城下町を焼き打ちしました。しかし家康の裁定は、焼き打ちの責任を取らせるということで、政広に切腹を命じるものでした。これは理解に苦しむ決定内容ですが、家康と彼の徳川幕府が生野銀山を確保するために、政広のような謀反を起こすかもしれない人物を排除しようとしたのだと、歴史家は解釈しています。

鳥取城跡
鳥取にある政広を祀った赤松八幡宮跡

「竹田城その2」に続きます。

158.福知山城 その3

福知山城の天守台石垣を見る限り、明智光秀は信長信長の城郭建築の方針に従っていたように思えます。つまり光秀は、忠実な信長への追随者だったのです。

特徴、見どころ

復元天守からの眺め

現在の天守は復元されたとはいっても、実際には近代的なビルであり、歴史博物館と展望台として使われています。天守の中では明智光秀のことや城の歴史を学ぶことができます。最上階からは、城周辺の市街地の景色を眺めることができます。例えば西の方には、住宅地となった元二の丸地区の向こうに、市役所となった三の丸が右側に、公園となっている伯耆丸が左側に見えます。

城周辺の地図

天守の内部
天守からの西方の眺め
市役所となっている三の丸
伯耆丸公園

北の方には、由良川と光秀が築いた川に沿った堤防が見えます。その堤防は「明智藪」と呼ばれていますが、この名前は、光秀が堤防を強固にするために竹を植えたことに由来します。

天守から北方の眺め
明智藪

唯一の現存建物

もう一つの城の見どころは、唯一の現存建物である銅門番所(あかがねもんばんしょ)で、現在は本丸の中にあります。この建物はもともと二の丸の中にあったのですが、二の丸が撤去されてしまったために現在地に移されました。参考に、銅門そのものは、市内の正眼寺(しょうげんじ)に移され山門として使われています。

城周辺の地図

本丸にある銅門番所
銅門があった場所
正眼寺山門、福知山市ホームページより引用

その後

明治維新後、福知山城は廃城となり、天守を含む城のほとんどの建物は撤去されるか移設されました。二の丸については、旧日本陸軍の第20歩兵連隊が駐屯地と演習場の移動の利便のために破壊したと言われています。一方、福知山の人たちは長い間、天守が復元されることを願っていました。その天守の復元は、江戸時代の城絵図が見つかったのをきっかけに1968年に検討が始まりました。一時、予算不足の問題に陥りますが、市民からの寄付もあり1986年に完成しました。最終的には費用の半分以上が寄付により賄われました。

撤去された二の丸は市街地となりました

私の感想

光秀が本能寺の変を起こした理由としてよく言われていたのは、信長と光秀との性格の違いでした。信長は革新的だったのに対して、光秀は伝統を重視していたというのです。しかし、福知山城の天守台石垣を見る限りの話ですが、光秀は信長の城郭建築の方針に従っていたように思えます。つまり、城の建設を急ぐためには仏教のために使われていたものでも何でも使うということです。正直に言わせていただくと。墓石を石垣のために使うということには少々違和感を感じます。当時の人たちにとっては、尚更だったのではないでしょうか。光秀は、忠実な信長への追随者だったと思います。最近提示された推論では、信長が四国征伐を行うにあたり、光秀の立場が危うくなっっていたということです。信長が光秀の意見(長宗我部氏を支持する)を退け、ライバルの秀吉の意見(三好氏を支持し、長宗我部氏を倒す)が採用されたのです。その四国征伐が行われる直前に、本能寺の変が起こったのです。光秀の決断の理由が明らかになるのではないかと期待します。

福知山城天守台石垣の新しい部分(左側)と古い部分(右側)の継ぎ目がわかる箇所
織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには

車で行く場合:舞鶴若狭自動車道の福知山ICから約3kmのところです。城がある丘の脇に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR福知山駅から歩いて約15分かかります。
東京から福知山駅まで:東海道新幹線に乗って、京都駅で山陰本線に乗り換えてください。

福知山城公園の駐車場

リンク、参考情報

福知山城 明智光秀が築いた城、福知山市
・「明智光秀・秀満:ときハ今あめが下しる五月哉/小和田哲男著」ミネルヴァ書房
・「明智光秀の城郭と合戦/高橋成計著」戒光祥出版
・「よみがえる日本の城19」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「福知山城その1」に戻ります。
「福知山城その2」に戻ります。