196.佐土原城 その2

この城跡に行けること自体が幸運かもしれません。

特徴、見どころ

限られている見学日時とルート

現在、佐土原城跡は2つの部分から構成されています。山麓の二の丸に復元された御殿と、本丸を含む山上に残っている城の基礎部分です。復元された御殿は、鶴松館(かくしょうかん)という名で博物館として運営されていて、城の歴史を学んだり、復元されたり発掘された文物を見学することができます。ただし、2023年の5月時点では、運営上の都合で週末と祝日しか開いていません。

復元された山麓の御殿「鶴松館」
鶴松館の内部

更には、山上部分へのルートも自然災害により常に通れるとは限りません。例えば、山頂へは2つのルートがあるのですが、2023年の5月時点では1つのルートしか通れなくなっていました。それは、2022年の台風14号の暴風雨により土砂崩れが発生し、全てのルートが使用不能になってしまったからです。当局はそれ以来ルートの復旧に努め、2023年1月に1つのルートを復旧させたのです。このような状況はしばしばこの山に発生していて、現代の行政にとっても山上部分の城跡を維持するのは大変なことなのです。このような事情で、かつての佐土原藩も山上部分を廃し、山麓に御殿を建設したのではないでしょうか。

城周辺の起伏地図

中の道を通って山上へ

唯一通ることができる山上へのルートは中の道(なかのみち)と呼ばれていて、城の搦手道とされています。山頂は山麓からわずか40mの高さなのですが、たどり着くには多少困難が伴います。過去においては、それが城の防御力につながっていました。中の道は峰の間の谷間を通っていて、とても急で足元は不安定です。そのため、もし大雨が降った場合は危険を伴います。谷を挟む両峰には曲輪があり、その側面はシラス台地の土壌を垂直に削られていています。もし敵がこのルートを攻めてきても、両側の頭上から攻撃を受けたことでしょう。

城周辺の地図

中の道入口
急な谷間を登っていきます
両側を曲輪に挟まれています
曲輪の側面は垂直に削られています

本丸にわずかに残る天守台

山上に至るとルートは分かれ道になっていて、それが本丸を囲んでいます。本丸の側面も急な崖となっていて、恐らく築城されたときに垂直に削られたと思われます。分かれ道を右の方に行った場合は本丸の裏手口に至ります。

山上の分かれ道
本丸を見上げています
本丸を囲む通路
本丸の裏手口

一方、左の方に行った場合には正面の虎口に至ります。

分かれ道を左の方に行ったときの通路
正面口の手前にある小曲輪
本丸の正面虎口

現在の本丸は、2つの広場がつながっているように見えますが、天守台跡は奥の方の中にあります。天守台跡には地面に並んだ基礎部分の石列しか残っておらず、上の部分は恐らくかつての城主が山城を廃したときに破壊されたのではないかと思われます。このため、この天守台をいつ誰が最初に築いたのかが判別し難くなっています。

本丸(手前の広場)
天守台跡(奥の方の広場にあります)
わずかに残る石列

「佐土原城その3」に続きます。
「佐土原城その1」に戻ります。

196.佐土原城 その1

伊東氏の栄光と凋落を象徴する城

立地と歴史

九州に送られた伊東氏が築城

宮崎県は九州地方の東側にあり、農業県として知られています。南北に長い形をしていて、日が出る方角に向かっています。そのため、農業に向いているといえるでしょう。宮崎県のほどんどのエリアは、かつては日向国(ひゅうがのくに)とよばれていました。まさに日が向く国という意味です。古代より肥沃であったことが容易に想像できます。県の中央部には、4世紀から7世紀の間に築造された西都原(さいとばる)古墳群があります。また、この国から初代天皇となる神武天皇が東征を行い、大和朝廷を設立したいう神話もあります。

宮崎県の範囲と城の位置

西都原古墳群

佐土原城は、日向国の中央部にあった城の一つで、伊東氏の本拠地でした。伊東氏はもとは工藤氏の出で、12世紀に東日本の伊豆半島東部に定住したときに、土地の名前を苗字としました。その世紀の末に鎌倉幕府が設立されて以来、武士たちは幕府により地方に領地を与えられ、その統治のために各地に送られました。伊東氏の支族も同様に日向国に出向きました。行った土地の名前に由来した田島伊東氏が、14世紀に佐土原城を最初に築いたと言われています。

伊豆半島の範囲(青線内)と城の位置

伊東四十八城の頂点

その間、時代は南北朝時代となり、足利幕府は地方支配のために改めて、伊東氏本家から武士を送り込みました。2系統の伊東氏はやがて統合し、佐土原城を本拠として強力な戦国大名に成長しました。15世紀から16世紀の戦国時代の間、伊東氏は南から進出してきた島津氏と日向国をめぐって戦いを繰り広げました。当時の当主であった伊東義祐(よしすけ)は相当攻撃的で、1569年に南日向の主要な城である飫肥城を陥落させました(島津氏の依頼による将軍家の仲裁にも耳を貸さなかったそうです)。この時点が彼の絶頂期であり、日向国に48もの城を有していました(伊東四十八城と称されます)。そして、その頂点に佐土原城があったのです。城下町は国府のように繁栄し、九州の小京都とも言われました(義祐は高位の官位を取得し、京風の文化や町割りを導入しました)。

伊東義祐肖像画、「堺市史 第七巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
飫肥城跡

佐土原城は基本的に、南九州型城郭の一つとされています。このタイプの城は、この地方で山あるは丘のように見えるシラス台地上に築かれました。シラス台地は、古代の大噴火によって噴出した火山灰によって形作られています。その土壌はもろく、容易に崩れて崖を形成します。この地域の武士たちは、よくこの性質を利用して城を築きました。自然の地形を加工すれば、容易に強固な防御システムを構築することができたからです。例えば、深い空堀、曲輪下に高く立ちはだかる壁、狭く防御に優れた門などが土を加工して作られたのです。このような城の代表例として、知覧城、飫肥城、そして佐土原城が挙げられます。

佐土原城の大手口
知覧城の空堀 (licensed by PIXTA)

伊東崩れにより城は島津氏のものに

しかし、伊東義祐の栄光は長く続きませんでした。1573年の島津氏との木崎原の戦いでの敗戦をきっかけに、義祐は伊東四十八城を一つ一つ失っていきました。島津の勢いと伊東の凋落は、次々に部将たちの離反を招きました。彼は佐土原城に籠って抗戦できないか思案しましたが、状況はそれさえも許しませんでした。彼は城を後にせざるをえず、家族とわずかな供回りとともに日向国から北の、同盟者の大友宗麟が治める豊後国に逃れていきました。この出来事は「伊東崩れ(または豊後落ち)」と呼ばれました。彼らはついには全てを失い、やがて漂泊者となりました(大友宗麟が伊東救援を名目に島津氏と戦った耳川の戦いに大敗したことで居場所を失いました)。義祐は1585年に放浪の途中で亡くなってしまいますが、息子の祐兵(すけたけ)は天下人の豊臣秀吉に仕え、1588年には日向国の飫肥城への帰還を果たします。

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊東祐兵の肖像画、日南市教育委員会所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐土原城は必然的に島津氏のものとなりました。島津氏の下で城が改修され、頂上に天守が作られたとされていますが、いまだ事実としては確定していません。天守があったとしたら、日本最南端の天守であったろうと言われています。1600年に、城主であった島津豊久が関ヶ原の戦いで戦死してしまった後は、城は一旦幕府直轄となり、その後は島津以久(もちひさ)とその後継者が佐土原藩として江戸時代末まで統治しました。持久の息子、忠興(ただおき)は山上の城を廃し、山麓に御殿を築き、そちらに移りました。シラス台地にある城を維持するのは大変な困難を伴い、平地にある館の方が平和な江戸時代における統治に適していたからです。

佐土原城の天守台跡
島津以久の肖像画、東京大学史料編纂所データベースより (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
歴史資料館として復元された山麓の御殿

「佐土原城その2」に続きます。

17.金山城 その3

金山城はもっと有名になっていたかもしれません。

特徴、見どころ

城の生活の場と聖地

谷の上段の方の曲輪群は、防衛の拠点であるとともに生活の場としても使われました。発掘によって、カマドや井戸の跡が発見されています。これらは、石垣と同じ時期に大手虎口南上段曲輪に、小屋とともに復元されています。最上段のところにある南曲輪は、現在休憩所として使われていて、ここも景色がよい所です。

城主要部の地図

大手虎口南上段曲輪に復元されている小屋
小屋の中に復元されたカマド
南曲輪と休憩所
南曲輪からの景色

山の頂上にある本丸に行くには、「日ノ池」と呼ばれる、これも石積みによって覆われていますが、月ノ池よりもっと大きな池を通り過ぎていきます。これは実は貯水池ではなく、井戸なのです。この城が築かれるよりずっと前の古代のときから聖地として人々の間で知られていました。よって、城にいた人たちもこの池を宗教的な儀式の際に使っていました。

日ノ池
上方から見た日ノ池

神社になっている本丸

山の頂上周辺には、本丸、二の丸、三の丸があります。しかし後者の二つの曲輪は私有地となっているので立ち入りはできません。よって、頂上の本丸に行くしかありませんが、そこは現在は新田神社になっています。城跡としては、本丸の周りの武者走りを呼ばれるところを歩いてみると、部分的に城のオリジナルの石垣が残っています。しかし、これを誰が最初に築いたかは不明とのことです。

二の丸は立ち入り禁止です
本丸にある新田神社
本丸からの眺め
本丸裏手にある現存石垣
本丸を囲む馬走り(腰曲輪)

その後

金山城が廃城となった後、徳川幕府は庶民を山域に立ち入ることを禁じ、江戸時代の間、そこで採れる松茸は将軍に献上されていました。実は、金山で採れた松茸は1964年まで皇室に納められていたそうです。

金山一帯は今でもアカマツに覆われていますが、マツタケは老木化のため採れないそうです(写真は東山ハイキングコース)

幕府はまた、以前新田荘だった地域を保護し、世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)、金龍寺(きんりゅうじ)、大光院(だいこういん)などの寺社仏閣を建設しました。幕府は、徳川将軍家も新田氏の支族であると称しました。つまり皇室の子孫ということになります。幕府でさえも全国を治めるのにそれ相応の権威を必要としたのです。城跡としては、金山城跡は1934年に国の史跡に指定されました。太田市は1995年以来、史跡として調査発掘や整備を続けています。

世良田東照宮
金龍寺
大光院

私の感想

由良氏が金山城から追放されたとき、当時の城主(由良国繁)の母、妙印尼(みょういんに、由良成繁の妻)が北条が金山城を接収することに反発し城に籠城しました。結局城は明け渡されますが、1590年には前田軍に合流し、北条攻めに参加します。このとき彼女は77歳でした。このことにより、北条氏がついに滅びてしまった一方、由良氏は生き残ることができました(豊臣秀吉により常陸国牛久城を与えられました)。ところでもし彼女と由良氏が、わずかな守備兵であっても強力な金山城に居続けていたならばどうなっていたでしょう。秀吉が関東地方に侵攻したとき、忍城で成田長親と石田三成が繰り広げたような劇的な名勝負が、金山城でも起こっていたのではないでしょうか。

牛久城跡 (licensed by Monado via Wikimedia Commons)
忍城跡

ここに行くには

この城跡を訪れるには、車を使われることをお勧めします。城跡に直行するようなバス便がないからです。北関東自動車道の太田桐生ICから約10分のところです。いくつか駐車場があり、山麓、中腹、山上それぞれにあります。
公共交通機関を使う場合は、太田駅から歩いて1時間ほどかかってしまいます。それなので、駅からタクシーを使った方がよいでしょう。
東京から太田駅まで:東京駅から上野東京ラインに乗り、北千住駅で東武伊勢崎線の特急りょうもう号に乗り換えてください。

リンク、参考情報

金山城跡、太田市
・「不落の城 新田金山城ガイドブック」群馬県太田市教育委員会
・「上野岩松氏(シリーズ・中世関東武士の研究 第15巻)/黒田基樹編」戒光祥出版
・「戦国の山城を極める 厳選22城/加藤理文 中井均著」学研プラス

これで終わります。ありがとうございました。
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