74.岩国城 その2

この城のことをもって知ってみましょう。

その後

明治維新後、山麓にあった居館は1885年に吉香(きっこう)公園となりました。錦帯橋は277年間残りましたが、1950年のキジア台風により発生した洪水のために流されてしまいました。岩国市の人たちは、1953年に元の工法で橋を復元しました。老朽化のため、2004年には再度再築されました。そのためか橋はまだ新しいように見えます。1922年以来、国の名勝に指定されています。

現在の錦帯橋

岩国城に関しては、1963年に山の上の天守が再建されました。しかし、山麓から錦帯橋とともにもっとよく見えるよう、元あった位置より約50m移動した場所に建てられました。1964年には山麓と山頂を結ぶロープウェイが開業し、観光客が多く訪れるようになりました。

山麓からもよく見える現在の岩国城天守

特徴、見どころ

錦帯橋から再建天守へ

現在、岩国城周辺を訪れるビジターにとっては、城そのものにはあまり興味はないかもしれません。まず最初には、錦帯橋を眺めて歩いて渡ってみたいでしょう。また、ロープウェイに乗って山の頂上まで行き、錦帯橋を含む周辺の素晴らしい景色を眺めてみたいでしょう。再建された天守に行ってみるのは、3番目になってしまうでしょうか。麓から見る錦帯橋の景色の引き立て役といった感じです。しかし、この城のことをもっと知ってみると、新たな一面を発見できると思います。

錦帯橋を渡ります
ロープウェイの車窓からの眺め
山上から見える錦帯橋

ロープウェイの山頂駅から降りた後は、城へ向かう2つのルートの案内板が目に入ります。それによれば、左側の道に行くよう促されていますが、実は右の方がおすすめです。それは、右の道に行けば、城の正面の方に出られるからです。道の右側には石垣の端の部分が、三角形の石の列となって並んでいるのが見えます。左側には、二の丸の立派な石垣も見えます。更に進んでいくと、出丸が前面にはみ出しています。ここには、桝形と呼ばれる四角い防御のための空間が内側にあり、そこが城の大手門となっていました。その門跡の内側が二の丸となっていますが、内部は今では改変され現代風のロックガーデンになっています。

城周辺の地図

案内板では左側の広い道が推奨されています
今回は右側の山道を選びます
二の丸下の石垣
張り出している出丸の石垣
出丸の石垣を見上げています
大手門跡
二の丸内部

再建天守とオリジナルの天守台

本丸は、二の丸の北隣にあります。再建された天守が眼前に立ちはだかってとても目立ちます。この天守のデザインは、オリジナルのものを描いたと言われる断面図を元に作られているので、恐らく外観はオリジナルに近いはずです。この天守は4層ですが、三階がはみ出しています。こういったタイプの天守は珍しく、南蛮造りと呼ばれています。実際には現代的なビルディングで、内部は歴史博物館や展望台として使われています。オリジナルの天守台も発掘調査をもとに、元の位置に復元されています。

二の丸から再建天守のある本丸の方を見ています
「南蛮造り」の再建天守外観
「断面図」についての岩国城内の展示
最上階展望台からの眺め
復元されたオリジナル天守台

「岩国城その3」に続きます。
「岩国城その1」に戻ります。

74.岩国城 その1

吉川広家の人生を反映した城

立地と歴史

毛利氏を守った広家

岩国は、5連の木造アーチ橋の美しい景観で知られています。錦川(にしきがわ)にかかる錦帯橋は、岩国城を背景としてとても絵になります。岩国を訪れるビジターは、これらは全て昔のままと思うかもしれませんが、少なくともこの城には多くの逸話があり、試練の歴史を経てきたのです。

山上の岩国城を背景とした錦帯橋

吉川広家(きっかわひろいえ)がこの城を築城したのですが、彼は毛利氏の親族で且つ重臣でした。毛利氏は16世紀の終わり頃において、120万石の石高をもって中国地方のほとんどを領有していました。ところが、天下人の豊臣秀吉が1598年に死去したことで政治状況は不安定になりました。多くの大名たちが、250万石の石高を持ち東日本で最大の大名であった徳川家康を、次の天下人として頼ろうとしました。一方、石田三成を含む他の大名はまだ豊臣氏を支えていました。三成は、西日本で最大の大名である毛利輝元を、彼のグループのリーダーに担ごうとしました。毛利家中の意見は真っ二つに割れました。一つは三成に加勢し、輝元を家康の代わりに(豊臣家を戴きつつ)次の天下人にするというもので、主に安国寺恵瓊によって主張されていました。広家はそれに反論し、家康に加勢し毛利氏の領土を維持しようとしました。

吉川広家肖像画、東京大学史料編纂所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1600年に関ヶ原の戦いが起きたとき、輝元は西軍の総大将となりましたが、実態としては三成が主導していました。輝元は天下人になりたかったのです。広家は、冷静な判断ができる武将であり、主君の輝元は家康率いる東軍を凌駕することはできないとみていました。よって彼は家康に密かに通じ、毛利の領土保全を条件に毛利の軍勢は戦いでは一切動かないことを約束しました。結果、家康は三成を破ったのですが、戦後になって輝元が天下を取ることを欲していた証拠を見つけたのです(広家は家康に、輝元にはその野心はないと伝えていたようです)。家康は、毛利から全ての領土を取り上げ、その中の2ヶ国(長門と周防)を広家に与えることとしました。広家は家康に、その2ヶ国を広家の代わりに輝元に与えるよう嘆願しました。最終的には、毛利の領土が形式上、120万石からその2ヶ国わずか37万石に削減されることで決着しました。それが長州藩となります。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石田三成肖像画、杉山丕氏蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新領地に岩国城を築城

広家は、難しい立場に立たされました。彼は実際には毛利家の救世主だったのですが、家中の多くの藩士は逆にぶち壊されたと思っていたからです。彼は最終的に、長州藩の領地の東端にあたる、3万石の石高の小さな領地を主家から与えられました。広家は1601年に本拠地として新しい城を築き始めました。それが岩国城となるのです。まず最初に、自然の外堀ともいうべき錦川沿いに御土居と呼ばれた居館を建設しました。その居館は人口の内堀にも囲まれていました。その後、山城部分の建設を行い、山の嶺の北から南の方角に沿って、北の丸、本丸、二の丸を設けました。これらの曲輪は全て石垣によって囲まれており、本丸には4層の天守がありました。城の完成は1608年となります。

長州藩(現山口県)の範囲と城の位置

城周辺の起伏地図

苦渋の決断により山城部分を破却

ところが、1615年に徳川幕府が豊臣氏を滅ぼした後、広家はまたも困難に直面します。徳川幕府は同年、全ての大名に一国一城令を発布し、大名が住んでいる一城を除き、全ての城を破却するよう命じました。幕府は、多くの強力な城を頼りに、大名たちが幕府に反抗することを防ごうとしたのです。この法令によれば岩国城は、周防国ではただ一つの城となり、幕府も広家の吉川家を独立の大名として認めていたため、存続することが可能でした。ところが、毛利主家は吉川氏を単なる毛利の家臣と考えていたため、それを認めませんでした。関ヶ原の戦い以来の両者の悩ましい関係が続いていたのです。広家は毛利家との将来の関係を鑑み、城を破却することを選びました。

意図的に破壊された山上の石垣

その際、山城部分が実際に破却され、川沿いの居館は残され、江戸時代末期まで公式には城ではなく、岩国陣屋と呼ばれるようになりました。錦帯橋は1673年に、3代目の領主である吉川広嘉(きっかわひろよし)によって、居館と川の反対側にあった城下町をつなぐために架橋されました。この橋は(もともと外敵を防ぐための川に架けられたという意味で)当時から平和な時代のシンボルともいえるものでした。

山麓の御土居跡
葛飾北斎「諸国名橋奇覧」より「すほうの国きんたいはし」、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「岩国城その2」に続きます。

170.浜田城 その3

城は見る人の視点によって全然違うものです。

特徴、見どころ(歴史ファン向け)

参道入口から中ノ門跡へ

もし歴史にすごく興味がある方だったら、神社の参道の入口まで戻って、先ほど見えた中ノ門跡に至るオリジナルのルートを探してみてはいかがでしょう。丘の麓にはかつては御殿や武家屋敷があったのですが、今では住宅地になっています。よって、その住宅街の間の細い道をぬって進んでいくと、突然中ノ門の大きな石垣が突然現れます。この石垣はオリジナルでとても見栄えがしますが、一部は崩壊防止のためのネットで覆われています。

城周辺の地図、赤破線は推定オリジナルルート

神社の参道(左)を外れて住宅街(右)へ
住宅街の細い道を進みます
突然石垣が現れます
ネットで覆われている部分

門跡を通り過ぎると、谷に沿った歩道を進んでいきますが、周りに古い石垣も見えますので恐らくはオリジナルのルートに近い道なのでしょう。そうすると、神社のとなりの中腹部分に到着します。

オリジナルルートに沿った歩道
古い石垣も見えます
中腹部分に到着

二の丸と三の丸を通ってみる

もう一回、門の建物を通り過ぎて、左に曲がってみましょう。でもその次はまっすぐの道の方に行かないで、今度は右の方に曲がります。ここはオリジナルルートで、石垣に囲まれた二段の曲輪群に入って行きます。しかし、石垣は昭和時代に積み直されています。その修繕の前には、こられの石垣に使われた石は既に崩れてしまっていたとも言われています。下段の曲輪は三の丸で、上段は二の丸となります。二ノ門が両者の間に築かれていました。桝形と呼ばれる防御のための四角い空間がその門の背後に設定されていて、今でもその形がわかります。二の丸からは、一ノ門跡を通って本丸に再度たどり着くことになります。

今度は右の方に曲がります
三の丸に入ります
二ノ門跡
二ノ門の復元CG、現地説明板より
二ノ門背後の桝形
本丸に通ずる一ノ門跡

私の感想

浜田城跡を訪れてみて、同じ場所であっても、訪れる人の目的(くつろぎに来ているか、歴史を学びに来ているかなど)によって全然違う印象を持つものだということがわかりました。これは、過去の人にとっても同じようなものでした。記録によれば、浜田城から武士たちがいなくなった後、地震によって崩れてしまうまでは、まだ残っていた天守の中で子どもたちが遊んでいたというのです。この頃であっても、高い身分の武士と低い身分の地元民の間では、城に対して全然違う印象を抱いていたのでしょう。

本丸の天守跡周辺
本丸の復元CG、現地説明板より

ここに行くには

車で行く場合:中国自動車道の浜田ICから約15分のところです。城跡の西側と南側に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR浜田駅から歩いて約20分のところです。
東京か大阪からは、飛行機、高速バス、電車を組み合わせての行程がおすすめです。

城跡西側の駐車場

リンク、参考情報

「浜田城」歴史の散歩道その1~その6、浜田市
・「よみがえる日本の城6」学研
・「日本の城改訂版第60号」デアゴスティーニジャパン
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「城山公園整備事業に伴う県史跡浜田城発掘調査報告書」浜田市教育委員会

これで終わります。ありがとうございました。
「浜田城その1」に戻ります。
「浜田城その2」に戻ります。