156.鎌刃城 その2

今は動物の世界となっている城跡

特徴、見どころ

城跡へのルート

現在、鎌刃城跡を訪れるには、登山の準備が必要です。城跡へはいくつかのルートがあり、もっとも一般的なのは旧中山道の番場宿から行くルートでしょう。城の正面側に至る道だからです。約1時間かけてこのルートを歩いていく必要がありますが、案内標識がたくさんあるので道に迷うことはないでしょう。宿場からは最初、名神自動車道の彦根44番か43番ゲートをくぐって進んでいきます(このルートも2つに分かれています)。これらのゲートを通るときにはフェンス扉を開けた後、動物が外側から侵入しないようしっかり閉める必要があります。この扉の内側は、今では基本的には動物たちの世界になっているわけです。彦根44番からのルートは比較的緩やかですがその分長いです。彦根43番からのルートは短い分急です。この43番からのルートが元々の大手道だったようです。

城周辺の地図

旧中山道番場宿
城跡がある山の遠景
名神自動車道の彦根44番ゲート
名神自動車道の43番ゲート

もし彦根44番ゲートを選んだ場合、かなりの部分はトレッキングそのものとなります。30分以上自然の谷や峰に沿った山道を進んでいきます。案内標識が城跡まであとどのくらいの距離なのか表示してくれます。また、熊除けのためのベル(鐘)が途中にあり、自分で鳴らすことができます。このような場所にかつては先進的な城があり、多くの人々が行き交っていたとはちょと想像できません。

44番ゲートから山道を進みます
ところどころにある熊除けベル
峰の上を進みます
もうすぐ城跡です

大堀切と大石垣

そのうちにまず、城の北端にある大堀切に到着します。一見して自然の谷のようにも思えますが、実際には人工に作られたものです。この堀切の奥にある曲輪は、北― VI(第六)曲輪と呼ばれています。

城周辺の地図

大堀切
大堀切から北―VI(第六)曲輪を見上げます

この曲輪の西側には大石垣が見られます(石垣がはっきり見えるのは隣の曲輪の側面のようですが)。この石垣は独特の方法で築かれていて、石の隙間を埋めるのに粘土が使われています。

大石垣
現在では石の隙間の粘土は見ただけではわかりません

大櫓と虎口の跡

大規模な土塁もこの曲輪に残っていて、過去には大櫓を支えていました。現在は、簡単な木組みの展望台があります。

北― VI(第六)曲輪
曲輪に残る土塁
展望台から大堀切の方を見下ろす
展望台からの眺め

その次の北―V(第五)曲輪には、主郭とは別に、石段と石積が残っている虎口跡があります。

北―V(第五)曲輪の虎口跡
この曲輪には水源から水が引かれています

そこから先の北―IV(第四)曲輪には、木組みの展望台がもう一つあります。おそらくそこが絶好のビューポイントだからでしょう。そこからは、琵琶湖沿いに広がる近江平野の景色が見えます。

北―IV(第四)曲輪
曲輪にある展望台
展望台からの眺め

「鎌刃城その3」に続きます。
「鎌刃城その1」に戻ります。

156.鎌刃城 その1

先進的なシステムを持った山城

立地と歴史

近江国南北の境目の城

鎌刃城は、近江国(現在の滋賀県に当たります)にあった戦国時代の山城です。この城はこの国の中央部分にありましたが、当時この国は北部と南部に分けられていました。その結果、二つの戦国大名、南側は六角氏が、北側は浅井氏がこの国を治めていて、この城は双方から奪ったり奪われたりしていました。鎌刃城は、霊仙(りょうぜん)山の峰の一つ(標高384m)に築かれました。城の名の「鎌刃」は、両側が急崖になっているその峰の形から由来しています。この城は主要街道の一つ、中山道の近くにあり、戦の際にも移動する際にも便利な位置にありました。

近江国の範囲と鎌刃城の位置

城周辺の起伏地図

戦国時代の16世紀中盤、堀氏がこの城の城主でした。堀氏は、状況に応じてその主君を度々変えていました。一例として1553年に六角氏が鎌刃城を攻めたとき、堀氏は一旦逃亡して、結局は六角氏に降伏しその配下となりました。ところが、浅井氏が勢力を広げていると見ると浅井氏と同盟を結ぶことにしたのです。そして1570年に浅井氏が織田信長と戦ったときには、その当時の当主であった堀秀村は、信長の部下でその後天下人、豊臣秀吉となる羽柴秀吉の説得により、今度は信長の味方となりました。これは、境目の城の城主としての運命だったのかもしれません。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城主、堀秀村の過酷な運命

秀村が秀吉との共闘を始めてから、浅井氏は最後には滅亡しました。それだけでなく、1571年に鎌刃城が浅井氏に攻められたときには、秀吉は城を守る秀村を助けたりしました。そして、1573年には信長、秀吉、秀村は小谷城(浅井氏の本拠地)を攻め落としたのです。ところが、その成功のわずか1年後の1574年、秀村は家臣の落ち度により、信長から改易されてしまいます。改易の本当の理由については、今でもわかっていません。しかし、信長の苛烈な性格から来ていることは想像できます。歴史家の中には、パワーバランスの不均衡を指摘する人もいます。すなわち、秀村は信長との同盟により増々力をつけていました。そして、当時信長の重要な部下であった秀吉よりも領土を広げていました。信長は秀村による反乱を恐れたかもしれず、単に秀村から領地を取り上げたかったのかもしれません。中国のことわざ「狡兎(こうと)死 しして走狗(そうく)烹(に)らる」に言われているような、秀村にとっては過酷な運命でした。歴史家によれば、最後には秀村は秀吉や秀吉の弟、秀長に仕えたようです。

小谷城跡
豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

独自に発展した鎌刃城のシステム

鎌刃城は、1575年についに廃城となりました。歴史家は、この城は土造りで(後の時代の)他の城より劣っているのではないかと考えていました。早い時期に廃城となったからです。ところが、最新の発掘の成果によると、鎌刃城は実際には、他の山城に比べてずっと進んだシステムを備えていたことが判明したのです。鎌刃城の北の曲輪群のところには、天守のような、少なくとも三重の大櫓があったのです。この櫓は、守備兵が攻撃してくる兵に対して矢を放つために使われたと考えられています。また、その前面には大堀切があり、攻撃兵がそこに釘付けになれば、櫓の守備兵からはちょうど標的になるようになっていました。多くの曲輪は石垣によって囲まれていました。更に、城の中心部分の主郭には「虎口」と呼ばれる、石垣や石段に囲まれた四角いスペースがある入口がありました。このような形式のシステムに似たものとして、1579年に信長が築いた安土城などが挙げられます。これらの発見を目の当たりにすると、鎌刃城は安土城よりかなり先駆けていたのではないかと思ってしまいます。

鎌刃城大櫓の想像図、鎌刃城公式サイトより引用
安土城想像図、岐阜城展示室より

一方で、鎌刃城と安土城の間には、いくつか違うところもあります。鎌刃城の大櫓は土塁の上に据えられていて、石垣の上には建っていません。ここの石垣は、崩壊を防ぐために土塁を支えているだけです。安土城の場合は、その天守は石垣の上に直接乗っていました。鎌刃城の虎口は、御殿の門として作られていて防御のためではありません。安土城以後の虎口は、複雑な通路と組み合わされて、防衛のための能力を持っていました。歴史家は、鎌刃城で使われたシステムは独自に発展したが、そのうちに安土城から始まる別のシステムに置き換えられたしまったと考えています。それでも、鎌刃城の大櫓のデザインは、その後他の城に築かれる天守に影響したかもしれません。それは、後に天守を含む大坂城を築くことになる秀吉が、鎌刃城の秀村と一緒に働いたときに、きっとこの大櫓を見ていたはずだからです。

鎌刃城の石垣
安土城の天守台石垣
鎌刃城の虎口
安土城黒金門の虎口

「鎌刃城その2」に続きます。

50.彦根城 その3

彦根市の多大なご努力に感謝尊敬します。

特徴、見どころ

城の裏手の守護神、西の丸

彦根城には、もっと多くの見どころがあります。本丸の後方には西の丸があります。ここには、城の裏手を守るための西の丸三重櫓が現存しています。この櫓の前には、城の正面側と同じようにもう一つの大堀切があり、橋がかけられています。この城は、正面も裏手も両方抜かりなく防御されていたのです。

城周辺の航空写真

西の丸三重櫓
櫓の前の大堀切
大堀切を渡る橋
櫓の三階内部
三階からの眺め

広大なかつての城の正面

それから、表門と反対側の城の南西部分を歩いて回られてはいかがでしょう。そこには、中堀と内堀に囲まれた広大な敷地が今でも残っています。堀沿いを歩きながら天守を見上げてみるのもいいと思います。中堀を渡ったところには京橋口門跡があり、内堀を渡ったところには大手門跡があります。他にも見どころがいくつもあります。この辺りはもともと城の正面であり、この方向のはるか先には豊臣氏がいた大坂城があり、これに対抗するためにこの城が建てられたのだと実感できます。

京橋口門跡
中堀と内堀の間の敷地
大手門跡
中堀からのもう一つの入口、船橋口門跡
中堀の外側から西の丸三重櫓を見上げる
中堀の外側から天守を見上げる

その後

明治維新後、彦根城は日本陸軍の管轄となり、売却されることになっていました。1878年に明治天皇が彦根を訪問したとき、この城が失われるのを残念がり、保存することを命じました。そのため、この城は皇室財産となり、その後は井伊家や彦根市に引き継がれました。1945年の第二次世界大戦のとき、米軍は8月15日の夜に彦根空襲を計画していました。まさに昭和天皇が終戦を宣言したその夜のことだったのです。彦根城は天皇の決断により、二度救われた格好になりました。彦根市は現在、城を世界遺産に登録するための活動を行っています。

ライトアップされた彦根城
天秤櫓前の大堀切
本丸の天守
城にある庭園、玄宮園

私の感想

彦根城を訪れた時、天守だけでなく、ほとんどの現存櫓の中に入ることができ、とても満足しました。他の城に比べるととても珍しいことだったからです。そこで、そのことについて係員の方に聞いてみたところ、城の建物に残っていた物は、全て彦根城博物館に収蔵したため、ビジターを入れることが可能になったというお答えでした。私はそれで納得し、彦根市が未来永劫この城を保存継承していくための多大なご努力に対して、改めて敬意を表したい思いです。

天秤櫓
天秤櫓の内部
太鼓門櫓の入口
西の丸三重櫓
西の丸三重櫓の内部
本丸から見た彦根城博物館

ここに行くには

車で行く場合:名神自動車道の彦根ICから約10分のところです。城がある区域にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR彦根駅から歩いて約15分かかります。
東京から彦根駅まで:東海道新幹線に乗り、米原駅か京都駅で琵琶湖線に乗り換えてください。

馬屋のとなりにある駐車場

リンク、参考情報

国宝 彦根城、公式ホームページ
・「彦根城を極める/中井均著」サンライズ出版
・「よみがえる日本の城22」学研
・「日本の城改訂版第6、128号」デアゴスティーニジャパン
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書

これで終わります。ありがとうございました。
「彦根城その1」に戻ります。
「彦根城その2」に戻ります。