50.彦根城 その3

彦根市の多大なご努力に感謝尊敬します。

特徴、見どころ

城の裏手の守護神、西の丸

彦根城には、もっと多くの見どころがあります。本丸の後方には西の丸があります。ここには、城の裏手を守るための西の丸三重櫓が現存しています。この櫓の前には、城の正面側と同じようにもう一つの大堀切があり、橋がかけられています。この城は、正面も裏手も両方抜かりなく防御されていたのです。

城周辺の航空写真

西の丸三重櫓
櫓の前の大堀切
大堀切を渡る橋
櫓の三階内部
三階からの眺め

広大なかつての城の正面

それから、表門と反対側の城の南西部分を歩いて回られてはいかがでしょう。そこには、中堀と内堀に囲まれた広大な敷地が今でも残っています。堀沿いを歩きながら天守を見上げてみるのもいいと思います。中堀を渡ったところには京橋口門跡があり、内堀を渡ったところには大手門跡があります。他にも見どころがいくつもあります。この辺りはもともと城の正面であり、この方向のはるか先には豊臣氏がいた大坂城があり、これに対抗するためにこの城が建てられたのだと実感できます。

京橋口門跡
中堀と内堀の間の敷地
大手門跡
中堀からのもう一つの入口、船橋口門跡
中堀の外側から西の丸三重櫓を見上げる
中堀の外側から天守を見上げる

その後

明治維新後、彦根城は日本陸軍の管轄となり、売却されることになっていました。1878年に明治天皇が彦根を訪問したとき、この城が失われるのを残念がり、保存することを命じました。そのため、この城は皇室財産となり、その後は井伊家や彦根市に引き継がれました。1945年の第二次世界大戦のとき、米軍は8月15日の夜に彦根空襲を計画していました。まさに昭和天皇が終戦を宣言したその夜のことだったのです。彦根城は天皇の決断により、二度救われた格好になりました。彦根市は現在、城を世界遺産に登録するための活動を行っています。

ライトアップされた彦根城
天秤櫓前の大堀切
本丸の天守
城にある庭園、玄宮園

私の感想

彦根城を訪れた時、天守だけでなく、ほとんどの現存櫓の中に入ることができ、とても満足しました。他の城に比べるととても珍しいことだったからです。そこで、そのことについて係員の方に聞いてみたところ、城の建物に残っていた物は、全て彦根城博物館に収蔵したため、ビジターを入れることが可能になったというお答えでした。私はそれで納得し、彦根市が未来永劫この城を保存継承していくための多大なご努力に対して、改めて敬意を表したい思いです。

天秤櫓
天秤櫓の内部
太鼓門櫓の入口
西の丸三重櫓
西の丸三重櫓の内部
本丸から見た彦根城博物館

ここに行くには

車で行く場合:名神自動車道の彦根ICから約10分のところです。城がある区域にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR彦根駅から歩いて約15分かかります。
東京から彦根駅まで:東海道新幹線に乗り、米原駅か京都駅で琵琶湖線に乗り換えてください。

馬屋のとなりにある駐車場

リンク、参考情報

国宝 彦根城、公式ホームページ
・「彦根城を極める/中井均著」サンライズ出版
・「よみがえる日本の城22」学研
・「日本の城改訂版第6、128号」デアゴスティーニジャパン
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書

これで終わります。ありがとうございました。
「彦根城その1」に戻ります。
「彦根城その2」に戻ります。

50.彦根城 その2

見どころが山ほどある城です。

特徴、見どころ

佐和口から入城

現在、彦根城は、中堀(内堀から数えて2番目の堀)の内側がビジター向けによく整備されています。過去と同じようにこの堀を超えて中に入って行く道が3つあります(佐和口、京橋口、船町口)。その内、彦根駅に一番近く正面口となっている佐和口から行くのが最も一般的でしょう。もしこのルートを通ってみる場合は、最初に左手に、現存する佐和口多聞櫓と天守の遠景が見えてくるでしょう。城への入口は、この櫓と、右手の復元された櫓から構成されています。ここから入ると、現存する馬屋も見えてきます。日本の城の中に残っている唯一の馬屋です。

城周辺の航空写真

佐和口多聞櫓と天守の遠景
佐和口
佐和口の内部
現存する馬屋
馬屋の内部

彦根城博物館の豊富な展示

内堀にかかる橋を渡って、城の正面入り口である表門跡に入って行きます。門跡の内側には彦根城博物館があり、同じ場所にあったかつての表御殿と同じ外観で建てられています。この博物館は井伊氏と彦根藩に関する9万以上の文物を収蔵し、その内約100点を展示しています。

内堀を渡る橋
内堀
表門跡
彦根城博物館

博物館では、例えば赤鎧、刀剣、茶道具、能面、そして現存する能舞台を見学することができます。博物館の奥の方には城主の奥向(日常生活の場)と庭園が一部復元されており見ものです。これらは記録や発掘の成果に基づき、木材を使った伝統的工法で建てられました。

井伊直政所用と伝わる鎧、彦根城博物館にて展示
茶壷「瀬戸鉄釉四耳壺(せとてつゆうしじこ)」、彦根城博物館にて展示
現存する能舞台、彦根城博物館にて展示
復元された奥向の「御座の御間」、彦根城博物館にて展示
復元された庭園、彦根城博物館にて展示

強力な大堀切周辺の防御線

次に城の中心部分に向かって、山を登ってみましょう。長く幅広い石段を登っていくと、橋がかかっている巨大な深い堀切が見えてきます。城の中心部に向かうには、堀切の右側にある太鼓丸を通って行く必要があります。しかし、それにはまず堀切の底を通って、左に曲がり、左側の別の曲輪である鐘の丸に行き、その後橋を渡って太鼓丸に行き着きます。もし敵であったなら、堀切の底で両側の曲輪から攻撃を受け、橋は落とされてしまうでしょう。橋の背後には天秤櫓が立っており、太鼓丸を守っています。この櫓は、長浜城の大手門を移築したものだと言われています。

城の中心部へ向かう石段
天秤櫓前の大堀切
過去の大堀切周辺の絵図(現地説明板より)に進行ルートを追記(赤矢印)
左折して鐘の丸へ
橋を渡って天秤櫓へ
橋の上から大堀切を見下ろす
天秤櫓から橋を見下ろす

対照的な天守の外装と内装

太鼓丸を通り過ぎると、本丸の入口である、現存する太鼓門櫓に至ります。本丸には、天守だけが残っていますが、とても華麗な外観です。

本丸へ向かいます
現存する太鼓門櫓
本丸からの眺め
本丸の現存天守

この三層の天守には、金飾りがある唐破風、入母屋破風、切妻破風、花頭窓、高欄付きの回り縁など多くの装飾がなされているからです。

唐破風
入母屋破風
切妻破風
花頭窓と高欄付き回り縁

天守の中に入って一階から最上階の三階まで見て回ることができます。天守の内装は、外観と比べると実用的です。壁には多くの隠し狭間が備えてあり、使うときには外側の壁を壊すようになっていました。実際に使う機会がなかったので、隠されたままだったということになります。また、調査によりこの天守は、大津城の4層天守を移築し、3層に減じて建てられたことがわかっています。

天守入口の鉄扉
天守一階
壁に備わった隠し狭間
天守二階
天守最上階へ
天守最上階
回り縁には出られません

「彦根城その3」に続きます。
「彦根城その1」に戻ります。

50.彦根城 その1

幕府譜代筆頭、井伊氏の本拠地

立地と歴史

幕府が井伊氏を重要拠点に配置

彦根城は滋賀県の琵琶湖近くにあり、日本では最も人気のある歴史スポットの一つです。ここの天守は、現存12天守の一つであり、国宝5天守の一つでもあります。また、この城には5棟の重要文化財に指定されている建物もあります。城の主要部分も、これらの建物や石垣、その他の構造物とともにとてもよい状態で残っています。そのため、城がある区域は1956年以来、国の特別史跡に指定されています。

彦根城の現存天守(国宝)
彦根城の西の丸三重櫓(重要文化財)

徳川家康と石田三成の間で争われた1600年の関ヶ原の戦いの後、家康は天下人として日本の実権を握りました。家康は重臣の井伊直政を、三成が領していた琵琶湖沿いの地域の領主としました。直政は最初、三成が居城としてた山城の佐和山城にいたのですが、自身の居城としては不十分で、もっと強力かつ便利な城が必要と感じました。その当時は豊臣氏がまだ大坂城に健在で、更に西日本には、徳川ではなく豊臣が主君であると思っている大名が多くいました。彼らが結束して、家康が東日本に設立した徳川幕府を攻撃するかもしれなかったのです。直政の領地は、まさにその東日本への攻撃を防ぐための位置にあったのです。

城の位置

井伊直政肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天下普請による築城

直政は1602年に亡くなってしまいますが、彼の息子、直継が新しい城の立地について家康に相談しました。そして、最終的には琵琶湖近くの約50mの高さがある低山上に城を築くことにしました。これが彦根城です。この城の建設は天下普請として行われ、10以上の他家の大名が合力しました。工事の完成を急ぐために、佐和山城など廃城となった城の廃材が活用されました。それでも城の規模が大きいため、1603年の開始以来、工事は長年に渡って続きました。

山上から山麓にかけて広がっている彦根城

城を守り易くするために、天守、御殿、櫓群がまとまって、且つそれらが石垣に囲まれ、山の峰上に築かれました。城の中心部分への敵の侵入を防ぐために、峰の両端周辺には深い堀切が掘られました。その上、5本の長い石垣(登り石垣)が山の斜面に築かれ、敵が(斜面の横方向を)スムースに動けないようにしました。

山上の城の中心部分(現地説明板より)
太鼓丸前の大堀切
大手門奥にある登り石垣

城の中心部分は三重の水堀に囲まれ、大手門はその堀を渡ったところに建てられました。大手門は、南西方向に向いており、その先には豊臣氏がいる大坂城がありました。この方角の堀の更に外側には芹川が流れており、4重目の堀ともいうべきものでした。

「彦根御城下惣絵図」(出展:彦根城博物館)
かつての大手門絵図(現地説明板より)
現在の大手門跡

平和な時代の城に転換

彦根城は、起工から約20年後の1622年に完成しました。ところが、工事期間中の1615年には状況が劇的に変わっていました。その年に徳川幕府が豊臣氏を滅ぼしたのです。その後、工事は彦根藩単独で行われ、居住や統治のための屋敷が作られました。その結果、城主のための御殿が、大手門とは反対側の山の麓に新たに築かれました。御殿に至る門は、まるで新しい大手門のごとく「表門」と呼ばれました。城の周辺には城下町も開発されました。城や町は、水上交通の便をよくするため、水路や内湖を通じて琵琶湖とつながっていました。

復元された御殿
現在の表門跡

幸いにして、平和であった江戸時代を通じて彦根城では戦さは起こりませんでした。城主であった井伊氏は、譜代大名筆頭として幕府中枢でも重要な役目を果たしました。265年間続いた江戸時代の間、10人しか任命されなかった大老の内、5人は井伊氏が輩出したのです。その中で一番有名なのは、何といっても幕末に大老となった井伊直弼でしょう。彼は、1858年に日米修好通商条約を結ぶことによって開国を推し進めました。ところが不幸にも、彼は1860年に江戸城の桜田門外において、反対派の浪人に暗殺されてしまいました。この事件により、徳川幕府の権力、権威は衰えることになり、明治維新へのきっかけとなったのです。

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸城桜田門

「彦根城その2」に続きます。