143.美濃金山城 その2

自然公園の中にある城跡

特徴、見どころ

石垣がよく残る出丸

現在、美濃金山城跡には建物は残っていませんが、自然公園の一部としてよく整備されています。多くの人たちがこの公園にくつろぎに来ています。もし城跡に車で来られるのでしたら、山の中腹に位置する出丸にある駐車場に停めることができます。この曲輪の周りにある石垣を見逃さないようにしましょう。この城では唯一今でも健在な石垣だからです。その理由は、そこから本丸の方に登っていくとわかります。

かつての城全体の想像図、、戦国山城ミュージアムにて展示

城周辺の地図

かつての出丸の想像図、現地説明板より
現在の出丸
出丸に残る石垣

破城の跡が残る三の丸

駐車場からは、最初に三の丸に入って行きますが、そこでは石垣が部分的に崩れているのが見えます。これは城が、城主により意図的に破壊された痕跡なのです。このことにより、他の者がそこに新たに城を築かないように、また城が廃されたということのサインなのです。この曲輪の反対側にはもう一つ入口があり、城下町の方に通じています。しかし、このルートは今は使えなくなっています。

三の丸への入口
かつての三の丸の想像図、現地説明板より
現在の三の丸(門跡)
部分的に壊された石垣
もう一つの入口跡

三の丸の上方には二の丸があり、そこでも部分的に崩れた石垣を見ることができます。

かつての二ノ丸の想像図、現地説明板より
三の丸から見える、部分的に残る二の丸の石垣
現在の二の丸

城を守る重要ポイント、桝形

二の丸を過ぎて、更に本丸の周りを囲む腰曲輪の方に進んでいきます。その途中では、かつて石垣に使われていたであろう多くの崩れた石がころがっているのが見えます。

腰曲輪へ
二の丸から見える、腰曲輪の斜面
あちこちに散乱している石

腰曲輪には、桝形と呼ばれる防御のための四角いスペースがあり、その前には大手門が立っていました。城を守るためには重要なポイントだったのです。今では、手前にある石段と、四角いスペースを囲む石垣がいくらか残っています。二の門跡が、桝形の右側にあり、そこから本丸に向かっていきます。

かつての桝形の想像図、現地説明板より
現在の大手門跡と桝形
二の門跡

「美濃金山城その3」に続きます。
「美濃金山城その1」に戻ります。

143.美濃金山城 その1

勇猛な森氏の本拠地

立地と歴史

森氏の過酷な歴史

美濃金山城は、現在の岐阜県にあたる美濃国の東部にありました。この城は、北側を木曽川に、南側を中山道に挟まれた山の上にありました。多くの戦いが起こった戦国時代には、この場所は交通をコントロールできる重要地点でした。この城は最初は16世紀初頭に斎藤氏によって築かれたと言われています。初期の頃には、烏峰(うほう)城と呼ばれていました。その後、1565年に森氏が城主となってからより注目されるようになり、金山(かねやま)城と改名されました。森氏は、戦国時代から江戸時代初期までに3人の天下人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えました。森氏の歴史を見てみると、彼らの厳しい生き様と、その中でどうやって生き残ってきたのかがわかります。

城の位置

城周辺の起伏地図

当主や兄弟が次々に戦死

森可成(よしなり)は16世紀後半の森家の当主で、織田信長がまだ一地方の大名だった頃から仕えていました。そのため、信長が美濃国を手に入れたときに美濃金山城の城主に抜擢されたのです。しかし可成は、信長の命令により他国での多くの戦いにも従軍しなければなりませんでした。そして可成は、1570年に近江国(現在の滋賀県)での浅井・朝倉連合軍との戦いの中で戦死してしまいます。可成の息子、長可(ながよし)が父の跡を継ぎ、彼もまた信長の下で活躍しました。

浮世絵に描かれた森可成、落合芳幾作「森三左エ門可成」、1867年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
森長可肖像画、常照寺所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長可は、その勇猛さから鬼武蔵(官位として武蔵守を称していたことに由来)と呼ばれました。彼の三人の弟は信長の小姓となり、その内の一人、乱丸(蘭丸)は日本の歴史の中でも有名人です。信長が殺された1582年の本能寺の変を描く現代のドラマでは、信長役とともに、乱丸役も必ず演じられるからです。信長は実際乱丸を気に入っていたようで、長可が別の領主(信濃川中島)となった後、乱丸を3代目の美濃金山城主としました。しかし事実として、その小姓となった兄弟は三人とも本能寺の変で討ち死にしてしまいました。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』楊斎延一作、1896年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浮世絵に描かれた森乱丸、落合芳幾作「森蘭丸長康」、1867年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最後に一人だけ残った跡継ぎ

本能寺の変後、長可は美濃金山城に戻ってきて、信長の後継者となった豊臣秀吉に従いました。1584年、秀吉と徳川家康との間で小牧長久手の戦いが起こりました。長可は遊撃部隊に加わったのですが、家康はそれを察知し、密かに待ち伏せし奇襲攻撃をかけたのです。不幸にも長可は、銃撃により戦死してしまいました。その結果、森家の跡継ぎとしては、一番下の弟である忠政(ただまさ)だけが残ったのです。長可はその死の前、遺言を残しておりその中で、忠政は美濃金山城主になってはらなないと書いていました。彼の真の意図は不明ですが、忠政にこれ以上戦いに参加して死ぬことがないように配慮したとも考えられます。

「小牧長久手合戦図屏風」豊田市郷土資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

忠政は結局、秀吉の指示により、美濃金山城城主を含む長可の地位を継承しました。彼は秀吉に仕えましたが、彼の兄を殺したが秀吉死後の次の天下人と目される徳川家康に主君を変えました。この決断にはいくつもの理由があったでしょうが、生き残るためには冷静な判断が必要だったのです。1603年、彼はついに美作国の国主となり、それまでよりずっと大きい領地を手に入れました。ちなみに、既に1600年には美濃金山城から他の領地(兄の長可がいた信濃川中島)に移されていました。

美作津山城跡にある森忠政像

織豊系城郭の一つ

美濃金山城そのものについては、森氏によって改築され、強化されていました。この城があった山には階段状にいくつもの曲輪がありました。頂上には本丸が、中腹には出丸があり、その間には二の丸と三の丸がありました。この城は、当時信長、秀吉とその部下たちが日本中で築いた典型的な織豊系城郭の一つでした。このタイプの城には主に3つの特徴がありました。石垣を作ること、建物を礎石の上に築くこと、屋根に瓦を葺くことです。それ以前、これらの物は寺院、高級官庁や皇居にしか使われていませんでした。信長は、彼が築いた安土城に見られるように、彼と部下たちの城でそれらを使い始め、権威と権力を見せつけたのです。美濃金山城の曲輪も石垣で囲まれていました。少なくとも本丸の建物は、礎石の上に建てられ、屋根瓦が乗っていました。しかし、1600年に忠政が他の城に移された後に廃城となってしまいました。

安土城想像図、岐阜城展示室より
美濃金山城想像図、戦国山城ミュージアムにて展示

「美濃金山城その2」に続きます。

144.大垣城 その3

水の都と城下町の雰囲気を感じてみましょう。

特徴、見どころ

旧外堀を歩く

城周辺の地図

もし、水城のような大垣城がどんな感じだったのか知りたければ、元外堀であった水門川周辺を歩いてみてはいかがでしょう。この川は今でも城だったところの北側と西側を流れています。川の流れに沿って、北から西の方に歩いてみれば、過去における城の大きさを実感できると思います。例えば、北側には辰之口門跡がありますし、西側には竹橋口門跡があります。

水門川
辰之口門跡
かつての辰之口門絵図、現地説明板より
竹橋口門跡

他には、川の北西の角のところには大垣湧水がありますし、南西の角には水都公園があり、大垣市が今でも水の都だということがわかります。

大垣湧水
水都公園

旧美濃街道を歩く

水都公園にいらっしゃるのでしたら、そこから旧美濃街道を歩いていくことができます。この街道は、旧城下町の中を通っており、城の南側と東側に当たります。この街道の舗装は、通常の道路とは違う色(ベージュ)で塗装されているので、間違わずに道を歩くことができます。

旧美濃街道
街道部分は違う色で舗装されています

街道沿いには、古くからある羊羹店、大垣宿の本陣跡、問屋場跡など伝統を感じさせる見どころがたくさんあります。城下町の様子がどうだったか想像できるのではないでしょうか。

趣のある羊羹店の屋根
大垣宿本陣跡
問屋場跡
古い煎餅店

私の感想

関ヶ原の戦いの前までは、三成が家康を倒すチャンスがあったのかもしれません。もし三成がもっと長く大垣城に留まっていたならば、彼の主君であった秀頼を含めて、彼に味方する人数はもっと増えたことも考えられます。しかし結局は、家康は三成より武将として一枚も二枚も上手だったと思うのです。家康は、小早川秀秋を味方に引き入れることで、三成に罠をかけたのです。そして、三成が大垣城を出なければならによう仕向けたのでしょう。家康は若かりし頃、1573年の三方ヶ原の戦いでの敗戦から多くを学んだのだと思います。家康はそのとき武田信玄に、居城であった浜松城から自ら出てくるよう仕向けられ、敗北を喫したのです。そして、三方ヶ原でやられたことを、今度は関ヶ原でやり返したのでしょう。

浜松城にある徳川家康像
現在の浜松城
三方ヶ原の戦いの記念碑

ここに行くには

車で行く場合は、名神自動車道の大垣ICから約15分かかります。公園周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR大垣駅から歩いて約10分のところです。
東京か大阪から大垣駅まで:東海道新幹線に乗って、名古屋駅で東海道本線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

大垣城、大垣市公式ホームページ
・「東海の名城を歩く 岐阜編/中井均 内堀信雄編」吉川弘文館
・「新説 戦乱の日本史」SB新書
・「よみがえる日本の城16」学研
・「日本の城改訂版第60号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「大垣城その1」に戻ります。
「大垣城その2」に戻ります。