122.大多喜城 その1

本多忠勝が築いた謎多き城

立地と歴史

係争の地、上総国にあった城

現在の千葉県は、過去には三つの国に分かれていました。房総半島の南から北に向かって、安房国(南部)、上総国(中部)、下総国(北部)です。戦国時代の15世紀、里見氏と北条氏が半島の支配を巡って何度も戦いました。里見氏は、南の安房国を本拠地としており、一方北条氏は当初北の下総国に侵入しました。真ん中にある上総国は自然と双方による戦いの場となりました。上総国には、武田氏や正木氏のような多くの地元領主がいました。彼らは、状況次第でときには独立し、北条氏に従ったり、また里見氏に従ったりしていました。

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大多喜城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
上総国の範囲と大多喜城の位置

大多喜(おおたき)城の前身である小多喜(おだき)城は、15世紀前半に武田氏によって築かれたと言われています。15世紀中頃には正木氏が所有していました。この城は丘の上に築かれ、南側は夷隅(いすみ)川に面しており、西側は深い谷となっていました。よって、城を築きまたは維持したこれらの領主は城を防衛するため、いくつもの曲輪を築き、東側には空堀を作り、北側には支城を配置しました。城は自然の地形を利用した土造りであり、これはその当時の典型的な城の作り方でした。

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大多喜城
Leaflet|国土地理院
城周辺の起伏地図

本多忠勝が城を大改修

1590年の豊臣秀吉による天下統一がなされる前に、里見氏はついに小多喜城を含む上総国を奪取します。ところが、秀吉は上総国を里見氏から取り上げ、北条氏の後に関東地方の領主となった徳川家康に与えました。そして、1591年に徳川四天王の一人であった本多忠勝が小多喜城主となり、その後城は大多喜城という名前に変わりました。忠勝は、そのときまだ安房国にいた里見氏に備えるため、城の大改修を行い、併せて城下町の整備も行いました。しかし、忠勝がどのように城を改修したのかは不明です。歴史家の中には、丘の頂上にあった本丸に三層の天守が築かれたと推測している人もいます。

本多忠勝肖像画、良玄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大多喜城の復元模型、千葉県立中央博物館大多喜城分館にて展示

初期の大多喜城の状況を示す唯一の手がかりは、スペインの政治家、ドン・ロドリゴが残した記録(「日本見聞録」)です。彼は、1609年にメキシコに向かう航路の途上、遭難して日本に漂着し、偶然この城を訪れることになったのです。彼は、城の第一の門は鉄で作られ、15mの高さの城壁の上にあると書いています。これは恐らく大手門でしょう。また、堀には跳ね橋が架けられていたとあります。

上記復元模型の大手門部分

更に彼は、第二の門は石垣または石積みに囲まれていて、内側には城主のための豪華な御殿があり、金銀によって飾られていたと書いています(ここは恐らく二の丸でしょう)。ところが、彼は本丸のことやそこに天守があったかどうかは記述していないのです。

上記復元模型の二の丸部分

忠勝は既に1601年、桑名城に移っており、そのときは忠勝の息子、本多忠朝(ただとも)がドン・ロドリゴをその御殿で応接しました。本多氏はやがて1617年に大多喜城から移されました。

関ヶ原合戦図屏風に描かれた本多忠朝 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

頻繁に変わる城主

本多氏が大多喜城から離れた後、城主は青山氏や阿部氏などに頻繁に変わりました。特に1702年の稲垣氏の場合には、その支配期間はなんとわずか21日でした。その結果、城は放置され、誰も面倒を見る者がいないような状態になってしまいました。1703年に松平氏が城主になってからはやっとその支配が安定しました。松平氏の記録によると、二の丸に御殿だけが存在しているという状況でした。松平氏の統治は江戸時代の末まで続きました。1844年には、天守が焼け落ちたと言われていますが、城の状況から考えると、天守があったとする裏付け情報がもっと必要です。松平氏は、江戸時代の終わりまで必要最小限の城の建物を維持していたと考える方が妥当でしょう。一方、城下町の方は、今もその街並みが残る通り、房総半島を横断する街道の宿場町としても繁栄しました。

果たして天守はあったのか、上記復元模型より
今も残る城下町の風情

「大多喜城その2」に続きます。

148.浜松城 その3

この城にはまだ多くの謎があります。

特徴、見どころ

城の周りの見どころ

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東照宮(引間城)
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

もしお時間があるようでしたら、現在は東照宮となっている引間城跡に行ってはいかがでしょうか。そこからは遠くに現在の浜松城がよく見えて、そこが良い立地だということがわかると思います。

引間城跡
引間城跡にある東照宮

また、三方ヶ原の戦いの跡地として、犀ヶ崖を訪れてみることもお勧めです。そこにある谷は元は約40mもあったといいますが、現在でも13mの深さがあります。傍らには犀ヶ崖資料館があり、家康の半生を振り返るような展示があります。

現在の犀ヶ崖
出撃する家康のジオラマ(犀ヶ崖資料館)

資料館の北方約10kmのところには、三方ヶ原の戦いの記念碑があります。

三方ヶ原の戦いの記念碑

その後

明治維新後、浜松城は廃城となり、城の全ての建物は撤去されました。多くの城の敷地は市街地となっていき、中心部分だけが展望台として残りました。第二次世界大戦後、浜松市がその地を買い上げ、浜松城公園として公開しました。浜松市は、できるだけ城の昔の姿を再現しようと検討しているところです。

復興天守
復元された天守門

私の感想

私はかつて、浜松城に残っている石垣は家康が築いたと思っていました。しかし調べてみると、この城の遺産は、多くの時代の大名たちによって残されたのだとわかりました。また、この城にはまだ多くの謎が残っていることも学びました(オリジナルの天守の姿、家康に関する伝説など)。今後発掘や研究が進むことで、これらの謎が少しずつ明らかになることを望みます。

天守曲輪の現存石垣
天守曲輪の石垣越しに見える復興天守

ここに行くには

車で行く場合、東名自動車道の浜松ICから約30分かかります。公園にビジター用の駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR浜松駅から歩いて約20分かかります。
東京か大阪から行く場合:東海道新幹線に乗ってください。

リンク、参考情報

浜松城公園
・「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
・「よみがえる日本の城11」学研
・「日本の城改訂版第77号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「浜松城その1」に戻ります。
「浜松城その2」に戻ります。

148.浜松城 その2

オリジナルの天守台石垣に、小さな復興天守が乗っかっています。

特徴、見どころ

公園入口へ

現在浜松城は、浜松城公園として開発されています。公園内には、天守曲輪と本丸の一部が残されています。もし浜松駅から公園の方に歩いていった場合、浜松市役所が左側に見えてきますが、ここは過去は二の丸の一部だったのです。市役所の北側から公園の入口への道に入っていきます。そうすると右側に、発掘中の本丸と二の丸がフェンス越しに見えます。そして、現代になって切り崩された本丸の断面によってできた壁に突き当たります。

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浜松市役所
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

浜松市役所
浜津城公園への入口
公園入口に向かう道
発掘中の二の丸と本丸の一部

よって、公園に入るにはその壁の右側か左側に回り込む必要があります。どちらの入口から入っても、本丸の残存部分に着きます。そこには、徳川家康の銅像があったり、土塁の上にある富士見櫓跡があります。

本丸の断面にある壁と公園入口への道標
右側の入口から本丸へ向かいます
本丸内部
徳川家康銅像
富士見櫓跡

古風な現存石垣

この城のハイライトといえば、本丸と天守曲輪にある現存石垣でしょう。この石垣は基本的に自然石を使って積み上げられていて、城の石垣の中では最も早い時期の手法の一つで野面積みと呼ばれます。とても古風であり、元は堀尾吉晴が築きました。

富士見櫓跡から見た天守曲輪
天守曲輪の石垣

天守曲輪の裏側の方に行っていただくと、石垣が自然地形の上の方に築かれているのが見えます。これも初期の手法の一つで、鉢巻石垣と呼ばれ、高石垣を築く技術がないときに用いられました。この石垣は、屏風のように巧みに曲げられていて、文字通り屏風折れと呼ばれています。こういった構造より、敵が城に攻めてきたときに、守備兵が石垣の任意の場所から敵を直接攻撃できるようになっていました(例えば、折れた部分から敵の側面を攻撃できます)。

天守曲輪の裏側の鉢巻石垣
「屏風折れ」の石垣

天守門は、発掘の成果を基に、最近2014年に伝統的工法で復元されました。門の下を通るだけではなく、門の建物の中にも入ってみることができます。

復元された天守門
天守門内部への入口

オリジナルより小さな復興天守

それ以外には、現存する天守台石垣の上に復興天守が1958年に建てられ、それ以来城のシンボルとなっています。この天守が「復興」と呼ばれる理由は、オリジナルの天守の姿が不明であることと、実はこの天守は天守台と比較してとても小さいのです。恐らく、この天守台に合う天守を作るには予算が不足していたと思われます。

オリジナルの天守台石垣に載った小さな復興天守
復興天守と推定されるオリジナル天守の大きさ比較、復興天守内にて展示

それでも、天守の中に入ってみれば、城のことを学べたり、浜松市街を一望することができます。歴史博物館及び展望台として使われているのです。

発掘された天守内の井戸、復興天守内にて展示
復興天守内の展示の一部
展望台からの市街地の景色

「浜松城その3」に続きます。
「浜松城その1」に戻ります。

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