特徴、見どころ
自然の地形を生かした防御システム
現在、新高山城跡はビジター向けにハイキングコースとしてよく整備されています。城のオリジナルの大手道と同じか似たルートのようです。大手道入口から小道に入っていくと、右側にある峰に沿って進んでいきます。この峰の上には荒神社(こうじんしゃ)という神社がありますが、かつては敵から大手道を防御するための出丸であったと言われています。
城周辺の地図道に戻ると大きな案内板があり、大手道はそこから左側にある別の峰に沿って進んでいきます。この峰は、鐘の段という曲輪として使われていて、大手道をコントロールしていました。この曲輪はこの城では最も古い部分の一つと言われていて、小早川氏の以前の本拠であった高山城の支城として使われていたかもしれない場所です。
大手道は次には谷沿いの川にかかった橋を渡り、また別の峰の方に移動します。かつてここにあった橋は、戦いが始まれば意図的に落とされたことでしょう。道は今度は右側にある三段構造となっている峰沿いに進みます。ここにはかつて守衛のための番所があって、兵舎のような建物があったと思われます。ここまで見た限りでは、大手道は自然の地形を生かして、強固に守られていたことがわかります。
小早川隆景が父親をもてなした場所
そうするうちに、山の中腹にある「匡真寺(きょうしんじ)跡」と呼ばれる広々とした場所に至ります。この寺は1577年に、城主の小早川隆景によって、父親の元就の死後、その菩提を弔うために建築されました。新高山城が廃城となった後は、三原城に近い場所に移されました。地面の上には寺に由来すると思われる多くの瓦の破片や、一部だけ残っている石や岩が見えます。補足すると、1561年の元就が城に滞在した記録によれば、城には隆景の兄、隆元が宿泊した寺があり、先ほど述べた「匡真寺」と同じか似たような名前でした(「巨真寺」または「栖真寺」と記載されています)。よって歴史家は、儀式が開かれた会所の建物も、当時この場所にあったと推測しています。
更に進んでいくと、ジグザグの道を経由して城の頂上部に近づいていきます。やがて、右側(東側)ある本丸と左側(西側)にある西の丸に挟まれた、中の丸に着きます。この曲輪は、城の要の場所であったようです。西の丸は、この方向から城に向かうもう一つのルートを監視し、コントロールするために築かれました。このルートはこれまで登ってきた大手道よりはなだらかです。よってその斜面には多くの竪堀が作られ、敵が城を容易に攻められないようになっていました。ところが、これら西の丸周りの史跡を見るにはガイドをお願いする必要があります。この辺りはまだ一般のビジター向けには整備されていないからです。
石垣が一部残る本丸
ついに本丸に向かって登っていきます。本丸は、大きな石や岩によって築かれた石垣によって囲まれていましたが、ほとんどは新高山城が廃城となったときに撤去され、三原城に持ち去られました。しかし、足下の部分にはいくらか残っている石垣を見ることができます。オリジナルの石垣がどんなだったか想像はできるかもしれません。本丸の入口は、桝形と呼ばれる四角い防御のためのスペースとなっています。かつては大手門の建物もありました。この大手門は、移転した匡真寺(現在は宗光寺という名前になっています)に移築され、寺の山門になったと言われています。本丸の内部は何もありませんが、角の方に礎石群が残っています。これは恐らく、御殿か、隆景が父親をもてなした別亭の基礎として使われたのではないかと思われます。