90.平戸城 その2

独特な特徴を持つ城

特徴、見どころ

山鹿流によるレイアウト

現在の平戸城に近づいて行って、丘の上の模擬天守やいくつかある再建された櫓を見てみると、これらの建物の配置が少し変になっていると感じるかもしれません。他の城では通常、天守と他の建物は自然の地形に沿って配置されます。しかし、平戸城のそれらの建物は、それぞれがバラバラの方向に向いているように見えるのです。これは恐らくこれらの建物が、城を囲んでいる山鹿流軍学に基づく石垣の複雑なラインに沿って築かれているからでしょう。

丘の上に見える模擬天守と櫓群

城周辺の航空写真

もし車で城を訪れるのでしたら、頂上近くにある丘の北側部分にある駐車場まで登っていくことができます。車を停めた後、頂上にある本丸に至る通路を歩いて登っていきます。その通路は、城で唯一現存している建物である北虎口門と狸櫓のところに着きます。この門の脇にある石垣は、地蔵坂櫓という隣の櫓まで鋭角に立ち上がっています。この面白い特徴もまた、山鹿流によるものかもしれません。門を通り過ぎると、石垣に囲まれたジグザグの道を、本丸に向かっていきます。

駐車場から山上への通路
北虎口門
狸櫓
地蔵坂櫓に至る石垣
本丸に向かいます

大手道は亀岡神社の参道

城には南から大手道を通って向かうこともできます。この道はまた二の丸にある亀岡神社にも通じています。大手門跡はこの途中にあります。この門跡には今でも防御のために作られた、桝形と呼ばれる石垣に囲まれた四角い空間が残っています。そして、二の丸門跡の、幅が広い石段を進んでいくと二の丸に入っていきます。ここには、平戸藩主が住んでいた二の丸御殿がありました。三階建ての乾櫓が、現在では土産物屋として再建されています。亀岡神社は、本丸下の二の丸の奥の方にあります。

大手道
大手門跡
大手門の桝形
二の丸門跡
再建された乾櫓
亀岡神社

天守から見下ろす城、町、海

本丸には模擬天守と2基の再建された櫓があります。この天守がある所にはもとは沖見櫓というもう1基の櫓がありました。この模擬天守は実際には、近代的ビルであり、歴史博物館と展望台として使われています。最上階からは、この城周辺地域の素晴らしい景色を楽しめます。北の方には平戸港、東の方には平戸海峡が見えて、いずれも玄界灘につながっています。本丸の面白い形も眼下に見えます。

模擬天守
天守からの景色(北側)
本丸からの景色(東側)
本丸を見下ろします

「平戸城その3」に続きます。
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90.平戸城 その1

山鹿流軍学によって築かれた城

立地と歴史

松浦氏が前身の日の岳城を築城

平戸城は、九州地方の北西部に位置する平戸島にあります。この島の周辺地域は、日本と朝鮮との間にある玄界灘に面しています。このことから、この地域は古代から海外貿易を含む海上交通によって栄えていました。中世には、松浦党(まつらとう)として知られる武士団が、水軍やときには海賊まで動員して大いに活躍しました。16世紀、松浦党の一領主、松浦隆信(まつらたかのぶ)が勢力を伸ばし有力な戦国大名の一人となりました。彼はまた、天下人の豊臣秀吉を支持することで、平戸島周辺の彼の領地を維持することができたのです。

城の位置

松浦隆信肖像画、松浦史料博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

隆信の息子、鎮信(しげのぶ)は徳川幕府を支持することで1600年に平戸藩の創始者となりました。彼はまた1599年に平戸島の端にあった亀岡の上に、新しい城の建設を始めました。平戸城の前身にあたる日の岳(ひのだけ)城です。日の岳城の詳細の多くは不明ですが、唯一オランダの宣教師が描いた絵図が残っています。この絵図によると、この城には壮大な高層の天守が立っていました。ところが、恐らくはその完成直後の1613年に、この城は焼け落ちてしまいます。この火災の原因もはっきりしませんが、一説には鎮信自身が幕府の彼への疑惑を払拭するために火をつけたとも言われています。その疑惑とは、鎮信がいまだに幕府に反抗している豊臣氏を支持しているのではないかというものでした。

松浦鎮信肖像画、松浦史料博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日の岳城天守図、17世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

国際貿易港としての平戸の盛衰

一方、平戸藩の地域は、1550年のポルトガル船の来航以来、国際貿易港として繁栄していました。藩が設立されたときには、平戸港の傍にはオランダとイギリス両方の商館がありました。特にオランダ商人は、台湾から絹製品を持ち込み、日本産の銀と交換し、莫大な利益を得ていました。そして、平戸藩もまた城の存在がなくても、貿易によりその力を維持していました。ところが、徳川幕府は1641年に外国商人に対し、平戸の商館を廃止し、長崎に移るよう命じました。これは恐らく幕府が外国との貿易の独占を狙ったからだと思われます。また幕府は、1637年に日本のキリスト教信者によって起こされた島原の乱の後、キリスト教の拡大を恐れたとも考えられます。いずれにせよ、平戸藩の力はこの幕府の決定により衰えました。

復元された平戸オランダ商館 (licensed by Hkusano via Wikimedia Commons)
島原陣図屏風部分、秋月郷土館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より

5代目藩主、松浦棟が平戸城を再建

5代目の平戸藩主の松浦棟(たかし)は、日本の政界で影響力を持ちたいと思っていました。しかし、松浦氏は外様大名の一つであり、基本的に中央政界で重要な役割は与えられていませんでした。棟は、1691年に外様大名としては初めての寺社奉行となりました。これは、5代将軍の徳川綱吉と彼との強いつながりによるものでした。そして、彼が次に掲げた目標は松浦氏独自の城を再建することでした。基本的に新たな城の建設は、幕府に反抗することに結びつくため認められていませんでした。しかし、松浦氏の城の再建も恐らくは将軍との良好な関係により承認されました。

松浦棟肖像画、長寿寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川綱吉肖像画、土佐光起筆、徳川美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

棟は、1703年から1707年の期間に日の岳城と同じところに平戸城を再建しました。この城は、山鹿流として知られた最新の軍学を駆使して築かれました。この方式による城の特徴の一つは、複雑に形作られた外郭でした。この城には丘の頂上から麓部分にかけて3つの曲輪がありました。本丸、二の丸、三の丸です。それぞれの曲輪は、巧みに曲げられた石垣によって囲まれていました。こういった作りをした理由は、敵の攻撃を受けたときに守備兵から見て死角がないようにするためと考えられています。城があった場所は、北と東西の三方向が海に面していて自然の障壁となっていました。大手門は南側に向かっていて、その前にはこの方向からの攻撃に備えて深い空堀がありました。
再建された城には天守はありませんでしたが、その代わりに三階建ての乾(いぬい)櫓が城のシンボルとして二の丸にありました。松浦氏は、江戸時代末までこの城と平戸藩を統治しました。

肥前国平戸城図、1703年、松浦史料博物館蔵、城の再建の前に幕府に提出された絵図の写し、平戸城内の展示より
上記絵図の本丸部分を拡大
復元された乾櫓

「平戸城その2」に続きます。

87.肥前名護屋城 その3

秀吉だけにこの戦いの責任があったのでしょうか。

特徴、見どころ

城の「裏側」も歩いてみましょう

また、本丸からは西の方角に、遊撃丸や二の丸を見下ろすことができます。前者には、明朝からの使節のための宿舎がありました。この曲輪の名前「遊撃」とは、使者の一人の官職名に由来しています。後者には、合坂(あいさか)と呼ばれる多くの石段からなる遺跡があります。これは、兵士たちが石垣を素早く登ったり降りたりするために使われました。

二の丸周辺の地図

本丸から見た遊撃丸
遊撃丸の内部
本丸から見た二の丸
二の丸に残る合坂

もし本丸からそちらの方に行くときは、搦手門跡から外に出て、本丸の周りを歩いて水手口と船手口を通りすぎていく必要があります。

名護屋城博物館の模型写真に本丸から二の丸へのルートを追記
本丸の搦手門跡
水手曲輪下(水手口周辺)
遊撃丸下を通ります
二の丸の入口(船手口周辺)

これらの曲輪から本丸の石垣を見上げてみると、その石垣がV字型に破壊されていることがよくわかると思います。これは行政側(佐賀県)が、石垣が意図的に壊された直後の状態を保存しようとしているからです。

遊撃丸から本丸天守台を見上げる
V字型に破壊された状態で保存されています

その後

肥前名護屋城が廃城となった後、全ての城の建物は撤去されました。その内の一部は、唐津城の建設に再利用されたと言われています。前述した通り、石垣の多くの部分が意図的に破壊されました。歴史家はこの石垣の破壊は以下のいずれかの理由によるものと推測しています。
・徳川幕府によって発せられた一国一城令によって実施された。
・島原の乱のように、幕府に反抗する勢力によって城が使われないようにするために石垣を壊した。
・朝鮮からの使者に友好関係を示すために実施された。
この城跡は、1955年以来国の特別史跡に指定されています。

唐津城
破壊された遊撃丸の石垣

私の感想

現在の日本の多くの人たちには、豊臣秀吉によって起こされた朝鮮侵攻について、あまり触れないようにしている傾向があります。また、現在の朝鮮との関係を鑑み、この戦争は秀吉個人の狂った考えから起こされたとも考えがちです。しかしながら、当時の多くの日本の人たちは、より多くの領土を欲していたと思うのです。秀吉でさえ、周りの人々の協力なしにはこのような巨大な規模の城は築けなかったでしょう。また、本当の歴史の共有なしには、外国との真の友好関係は築けないとも思うのです。
もしお時間があれば、城の周囲にある秀吉以外の大名が築いた陣屋跡も併せて訪ねてみてはいかがでしょう。私は肥前名護屋城の後、残念ながら1ヶ所しか行くことができませんでした。

城の搦手口
搦手口ルート下の石垣
毛利秀頼陣屋跡

ここに行くには

この城跡を訪れる際は、車を使われることをお勧めします。
西九州自動車道の唐津ICから約30分かかります。
佐賀県立名護屋城博物館の駐車場を使うことができます。

佐賀県立名護屋城博物館
博物館の駐車場周辺

リンク、参考情報

肥前名護屋城、肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会
佐賀県立名護屋城博物館
・「佐賀県立名護屋城博物館総合案内」
・「黒南風の海、「文禄・慶長の役」異聞/伊東潤著」株式会社コルク
・「よみがえる日本の城21」学研
・「逆説の日本史11 戦国乱世編/井沢元彦著」小学館

これで終わります。ありがとうございました。
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