36.丸岡城 その2

魅力的な天守について、これまでずっと議論がかわされてきました。

特徴、見どころ

とても古く見える天守

今日、丸岡城には本丸の丘陵部分に天守だけが残っています。天守は約12mの高さがあり、2層3階です。日本に残っている他の天守に比べるとそんなに大きくはありません。しかし、天守を周辺から眺めてみると、27mの丘陵と6mの高さの天守台石垣の上に立っているので、よく目立って見えます。

丘の上で目立っている天守

城周辺の地図

もし車で来られるのでしたら、元二の丸だった所にある駐車場に車を停めて、観光客向けによく整備された通路を通って天守の方に歩いて行くことができます。

元二の丸だった駐車場
天守への通路

天守を見たとき、とても古いものに感じるかもしれません。他の多くの人たちも同じような感想を持っています。この天守のタイプは望楼型と呼ばれていて、入母屋屋根を持つ大型の櫓の上に小型の望楼が乗っています。このタイプは、日本の天守の中では初期のものとされています。丸岡城天守の最上階には回り縁が取り付けられていて、これは望楼型でも初期のものに該当する特徴です。また、多くの板張りの部分がむき出しになっていて、これも初期望楼型の特徴です。更に、この地域の冬の寒冷な気候にも耐えられるようにするため、この天守の瓦は石で作られています。12ある現存天守の中では唯一の事例です。この瓦がより一層天守を古く見せているのです。これらの理由により、多くの人々は丸岡城天守は、日本で最古の天守ではないかと思っていたのです。

古風な丸岡城天守
天守二階の窓から見える石瓦

丸亀城天守は最古か否か

一方専門家の中には、丸岡城天守は他の現存天守と比べてそんなに古くはないと主張している人もいました。その理由の一つは、丸岡城天守の回り縁は実用的ではなく、単なる飾りであるというものでした。回り縁を飾りに使うのは、丸岡城天守が一番古いと思っている人たちが期待する時期より、ずっと後の時代の城に見られるというのです。建築家の中にも、丸岡城天守の設計にもずっと後の時代に見られる特徴があるという意見がありました。

天守最上階では回り縁に出ることはできません

丸岡城天守は1950年以来、重要文化財に指定されてきました。そして坂井市は、もしこの天守が最古であると確認されれば、今度は国宝になるのではないかと考えたのです。2018年、坂井市は最新の科学技術を使っていつ天守ができたのか判明させるべく、調査を行いました。この調査は主に年輪年代測定という手法により行われ、天守の建造に使われた木材がいつ切り出されたのか確認したのです。その結果、その木材は1620年代に伐採され、天守はその時代かもっと後に作られたというものでした。この結果は市が期待していた時代より随分後でした。つまるところ、この天守は本多氏が丸岡城の独立城主となった後に建造されたと考えられるのです。天守の建築者は恐らく本多氏で、意図的に古いスタイルで建造したということになります。

最古ではなかった丸岡城天守

天守の内部

丸岡城天守は最古ではありませんでした。しかし訪れる価値は十分にあります。まずは、オリジナルの石段を登って天守の一階に入ります。

天守の入口

一階は櫓部分にあたり、屋内はかなり広くなっています。そして、石瓦を含む天守の重みを支えるために、多くの柱があります。

天守の一階部分

また壁沿いには天守防衛のために作られた、鉄砲狭間や、石落としが備えてある出窓の空間を見ることができます。

鉄砲狭間
出窓の空間

そして二階に行くには、65度の角度があり補助ロープさえ付いている、とても急な階段を登っていきます。二階は望楼部分の屋根裏部屋になっていますが、一階の屋根部分を使った窓が備えてあります。

二階への階段
天守二階

最上階に行くときもよく気を付けてください。最上階への階段は、更に急で角度が67度もあります。最上階には全ての方角に窓があり、開放的で明るくなっています。そこからは、市街地の眺めを楽しめるとともに、石でできた鬼瓦の後ろ姿を見ることができます。

更に急な最上階への階段
天守最上階
最上階からの眺め
鬼瓦の裏側

「丸岡城その3」に続きます。
「丸岡城その1」に戻ります。

36.丸岡城 その1

越前国北部にあった城

立地と歴史

柴田勝豊が戦国時代に築城

丸岡城は、現在の坂井市にあたる、越前国の北部にありました。この城には日本に12基ある現存天守のうちの一つがあります。この城は、最初は戦国時代の1576年に柴田勝豊によって築かれました。彼の親族である柴田勝家が越前国を領有しているときでした。1583年に柴田氏が羽柴秀吉に倒された後は、松平氏などいくつかの氏族がこの城を所有しました。この城の初期の頃について詳細は分かっていませんが、その頃から初代の天守がそこにあったと考えられています。初代天守のために作られた現存する石垣が、現在ある天守より古いものだからです。

城の位置

丸岡城の現存天守
丸岡城天守の石垣

本多成重が丸岡藩として独立

1624年、松平氏の家老であった本多成重(なりしげ)が丸岡藩の創始者として、独立した丸岡城城主となりました(彼の父、本多重次が家族に宛てた手紙が「日本一短い手紙」として有名であり、現在の丸岡城でも顕彰されています)。彼は城の大改修を始め、現在ある天守の再建築などを行いました。この改修は、成重の息子の代になって完了しました。

天守内にある本田成重のイラストレーション(左側、右側は父親の本多重次)

天守がある本丸は丘陵の上にありました。二の丸御殿がある二の丸は、本丸脇の平地にありました。これらの曲輪は、内堀に囲まれていましたが、その内堀は五角形のような形をしていました。この堀の形は、敵が攻めてきたときに、その敵を混乱させるためにこのようになったと言われています。また、武家屋敷があった三の丸と外堀が、内堀の更に外側にありました。

天守内にある城の模型(左側が本丸、右側が二の丸)
越前国丸岡城之絵図、江戸時代(出展:国立公文書館)

有馬氏が幕末まで統治

1695年、本多氏はお家騒動のために徳川幕府により改易となってしまいます。その後、有馬氏が丸岡城と丸岡藩の領主となりました。有馬氏は、江戸時代末期まで城を維持し、藩を統治しました。(キリシタン大名として有名な有馬晴信の家系に当たります。)

有馬氏の家紋、有馬瓜  (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)

「丸岡城その2」に続きます。

137.福井城 その3

この城跡は、今も福井県の中心地であり続けています。

特徴、見どころ

初期の北ノ庄城跡

福井城から約300m南の方にある、柴田勝家が築いた北ノ庄城跡も訪れてみることをお勧めします。その城に関しては石垣の基礎部分(根石)しか見ることはできません。福井城がその北ノ庄城跡地の上に築かれたからです。

越前北ノ庄城址
こちらは福井城の石垣
初期北ノ庄城石垣の根石

しかし、他にも勝家、彼の妻(お市の方)、三人の娘(茶々、初、江)の銅像を見ることができます。この女性たちは日本の歴史で大変よく知られているのです。三姉妹の一人(茶々、後の淀殿)は天下人、豊臣秀吉の側室となりました。もう一人(江)は、福井城の創始者の結城秀康の弟、徳川秀忠の正妻となりました。

柴田勝家の銅像
勝家の妻(お市の方)の銅像
三姉妹(左から茶々、江、初)の銅像

その後

明治維新後、福井城は廃城となりました。城の全ての建物は撤去され、城の中心部を除く区域は市街地となっていきました。1873年、元城主であった松平氏は城の中心部に松平試農場を開設し、1921年に他に移動するまでそこに存在していました。1923年には、代わりに福井県庁が本丸に移ってきました。それ以来、城跡はかつて福井城がそうだったように、地方政府の中枢となっているのです。

松平試農城、福井県文書館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
本丸にある県庁(右側)と県警本部(左側)の建物

私の感想

本丸は通常城の中心でした。そして江戸時代にはその周辺地を支配するために、そこには福井城のようにだいたい天守及び(または)御殿がありました。現存している本丸の多くは現在、歴史公園、神社、博物館のような施設のために使われています。ところが福井城の本丸は、今でも地方政府(県)によって使われているのです。私が思うに、本丸が県庁として使われている唯一の事例です。ある人は、このことを「日本で最強の県庁」と言ったりしています。

福岡城本丸(歴史公園となっている例)
高岡城本丸(神社となっている例)
大坂城本丸天守(博物館となっている例)
最強に見える福井県県庁

ここに行くには

車で行く場合:
北陸自動車道の福井ICから約15分かかります。
城跡周辺にいくつか駐車場があります。
平日には県庁の地下駐車場を使うこともできます。
(県庁受付で駐車券にスタンプを押してもらうことが必要です。)
公共交通機関を使う場合は、JR福井駅から歩いて10分以内で着きます。
東京から福井駅まで:北陸新幹線に乗って、金沢駅で北陸線の特急に乗り換えてください。
大阪からは:特急サンダーバード号に乗ってください。

福井駅

リンク、参考情報

福井城址、福井県公式観光サイト
・「結城秀康/志木沢郁著」学研M文庫
・「よみがえる日本の城8」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「福井城その1」に戻ります。
「福井城その2」に戻ります。