立地と歴史
関ヶ原の戦いの後に築城
鹿児島城は、江戸時代の間島津氏の本拠地であり、また1877年に起こった日本最後の内戦である西南戦争の最後の戦場となったことでも知られています。島津氏は15世紀中盤から16世紀までの戦国時代における九州地方南部の有力な戦国大名でした。ところが、1600年の天下分け目の関ヶ原の戦いでは、島津氏を含む西軍は、徳川幕府の創始者となる徳川家康率いる東軍に完敗しました。約1500人の兵による島津軍は、中部地方にあった戦場から何とか逃れ、九州地方の薩摩国にあった本拠地にたどり着きましたが、そのときまで生き残った人数はたった80人でした。
城の位置島津氏は、幕府軍が薩摩国を直接攻撃してくるのではないかと憂いていました。そこで、本拠地としての新しい城を築くことを決めたのです。それまでの本拠地はシンプルな館だったので、それよりはずっと強力なものでした。城は西側にある城山の麓に築かれ、山は緊急事態のときの詰め城とされました。城には本丸と二の丸があり、北・東・南側を石垣と水堀が囲んでいました。本丸の内部には領主の御殿があり、御楼門(ごろうもん)と呼ばれる日本でも最大級の門がありました。しかし、それでもこの城の防衛システムは、天守・多層階の櫓、高く巧みに曲げられた石垣といったものがあった日本の他の城ほど複雑ではありませんでした。これは、島津氏が治めていた薩摩藩には外城(とじょう)と呼ばれた独特な防衛システムがあったからなのです。それは、藩が多くの藩士を地元に送り、その拠点を自身で守らせるというものでした。他の藩では通常、藩士を本拠地の城下に集住させていたので、薩摩藩のやり方は異なっていました。
幸運にも幕府は、薩摩藩に薩摩国を江戸時代末期まで統治することを認めました。1863年に起こった薩英戦争のときのことですが、イギリスの軍艦が鹿児島市街地を砲撃しましたが、城は砲撃目標とされませんでした。高層の建物がなかったからです。明治維新後、城は県庁と陸軍施設として使われました。しかし残念ながら、本丸の建物は1874年の失火により焼け落ちてしまいました。
西南戦争の勃発
ついに、この城の最大の出来事が1877年に起こります。維新三傑の一人である西郷隆盛が、他の二傑、大久保利通と木戸孝允に反発し、政府での職を全て辞して1873年に故郷の鹿児島に帰ってきました。彼は1874年に鹿児島城の二の丸に私学校を設立し、若い武士たちの教育を始めました。西郷は穏やかに若手をコントロールしようとしたのですが、結局大久保率いる政府に対する反乱の首謀者に担ぎ上げられてしまったのです。大久保は、帯刀などの武士の特権を廃止し、1876年には代々受け継がれた家禄をも取り上げました(秩禄処分)。同年からいくつか反乱が発生したのですが、その最大のものが1877年2月に起こった西郷による西南戦争でした。
西郷とその軍勢は、北の方に行き熊本城を占拠しようとしました。彼とその側近たちは最初は楽観的でした。彼らはプロの武士集団であり、九州地方の他の地域から集まった支援者たちを加えると、その兵数は最大時で3万に達しました。一方、熊本城の守備兵の数はわずか3千超であり、多くは徴集された農民兵でした。西郷軍は、城の守備兵はすぐにでも降伏するとさえ考えていました。幹部の何人かは薩摩出身だったからです。ところが、谷将軍が率いる守備兵は決して降伏せず、大久保は援軍を城に送りました。その援軍の多くも徴収兵でしたが、西郷が思うよりずっとよく訓練され、西郷軍よりもずっと装備や兵站が充実していました。政府側は電信のような先端の情報技術さえ駆使しました。西郷側にはとてもそのようなものはありませんでした。4月には西郷は熊本城から撤退せざるをえず、人吉城などの九州の他の地域に滞陣しようとしますが、全て失敗しました。西郷はついに8月に反乱軍の解散を宣言します。わずか400名近くとなってしまった彼と側近たちは、最期の決死の戦いを、故郷且つ本拠地である鹿児島城で行うことを望みました。
西郷と城の最期
彼らは9月初めに鹿児島城に何とかたどり着き、城山の麓と山上に兵を配置しました。もちろん5万人からなる政府軍からの攻撃を防ぎきれるものではありません。もし、これが戦国時代の出来事であったなら、西郷は山上に本陣を置いたでしょう。しかし、それは大砲の標的となってしまうため不可能でした。そのため、彼は山と麓の狭間の谷にあった洞窟に留まらざるをえず、そこは後に西郷洞窟と呼ばれるようになります。政府軍は、人っ子一人逃げられないよう完全に薩摩の反乱軍を包囲しました。そして9月24日に総攻撃を開始したのです。西郷は洞窟から突撃を敢行しましたが、銃撃され、最後は切腹して果てました。