118.忍城 その1

「忍城の戦い」の舞台として有名な城

立地と歴史

成田氏が大河間の湿地帯を利用して築城

行田市は埼玉県北部にあり、関東地方の大河である利根川と荒川に挟まれています。市の地形はとても平坦であり、居住に便利な地として開発されてきました。しかし中世においては、この地は川の氾濫により沼地や湿地帯となっていました。15~16世紀の戦国時代のときにはこの地は「忍(おし)」と呼ばれていて、成田氏が支配していました。15世紀後半にその成田氏が忍城を最初に築いたと言われています。その当時は関東地方では多くの戦いがあり、地方領主は強力な城を築き、身を守る必要があったのです。箕輪城を築いた長野氏や、金山城を築いた岩松氏のように、山城を築く領主がいた一方、成田氏の選択はこの地の特徴を生かし、川沿いの沼地や自然堤防の間にあった島状の土地を利用し、水城を築くことでした。その土地を利用した曲輪群は、橋や土塁の上に作られた通路によってつながっていました。

行田市の範囲と城の位置

忍城の戦いが起こり水攻めに遭う

この城の強さは実際に、1590年に豊臣秀吉が天下統一を完成させるために関東地方に侵攻したときに証明されました。当時関東地方全域は、北条氏によって支配されていて、成田氏も仕えていました。北条氏は忍城を含む支城に対して、秀吉に対抗するため、本拠地である小田原城に兵を集結させるよう命じました。忍城の城主であった成田氏長も、小田原城に入りました。そのため、氏長のいとこである長親が城代として、わずかな兵士とともに忍城に残りました。秀吉は、20万以上の軍勢をもって北条の領地に侵攻し、その軍勢は小田原城だけでなく、支城群にも派遣されました。例えば、北条からの代官が治めていた金山城は、簡単に開城してしまいました。ところが、長親に率いられた忍城内のわずか500名の兵士と2500名の住民たちは、2万人以上の攻城軍に対して、決して降伏しませんでした。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小田原城

攻城軍の指揮官は、秀吉から厚い信頼を受けていた家臣の石田三成で、与力大名としては浅野長政や真田昌幸が参戦しました。秀吉は現地にはいませんでしたが、三成に対して堤防を作って城を囲み、水攻めにするよう指示したのです。秀吉の考えは恐らく、地形的な特徴と、秀吉自身が同じ戦法を採用して成功した備中高松城の戦いでの経験から来ていたのでしょう。三成は、城の南方、約2kmのところにある丸墓山古墳に本陣を置きました。彼の軍勢は突貫工事により、わずかな日数で古墳の周辺に15kmから25kmとも言われる堤防を築き、川からの水をせき止めました。地元の言い伝えによれば、このとき農民たちが高額な対価で、堤防を築くために土嚢を持ってくるよう言われたそうです。

石田三成肖像画、杉山丕氏蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
丸墓山古墳
三成が築いた「石田堤」の現存部分

この水攻めが成功したかどうかは不確かで、ある記録によれば、守備兵が密かに堤の一部を切り、水が溢れたことで攻撃兵が溺れたとのことです。事実として確認できることは、与力大名が城を強攻しようとしたのですが、秀吉が止めさせ、水攻めを続けるよう強制したのです。包囲戦は約1ヶ月続きましたが守備側は、主君である小田原城の北条氏が降伏するまで屈しませんでした。忍城は異名として「浮き城」または「亀城」と呼ばれていますが、この包囲戦のときに城がどのように見えたかという所から来ているようです。

「天正年間成田氏忍城之図」、明治時代に郷土史家が忍城の戦いを考証した図、行田市郷土爆物館にて展示
堤を切ったと伝わる場所にある堀切橋

江戸防衛の拠点に

江戸時代の間、忍城は将軍の親族または譜代大名によって、忍藩として治められました。それは、この城が南方の将軍の本拠地、江戸城の守りにとって重要な拠点だっだからです。何回も幕府の老中を輩出した阿部氏が城を完成させたと言われています。これらの大名たちも、堀や沼地の間にあった島状の曲輪からなる城の基本的構造をそのまま使いました。但し、城の防御システムをより強化するために、三階櫓(天守の代用)、他の櫓や門を建設しました。城と藩は最終的に奥平松平氏に引き継がれます。奥平松平氏の創始者は、奥平信昌の子で、信昌は長篠城での戦いで幕府の創始者となる徳川家康に大変貢献し、家康の娘が嫁いでいたのです(よってその子は家康の孫ということで松平姓を許されていました)。奥平松平氏は幕府に頼られていたため、幕末には品川台場(第三台場)の警備を命じられました。この台場は西洋の軍艦の潜在的脅威に備えて、江戸湾に面して設置されていたのです。

江戸時代の忍城を復元した模型、行田市郷土博物館にて展示
再建された忍城三階櫓、場所はオリジナルとは違います
品川台場(第三台場)

「忍城その2」に続きます。

15.Ashikaga Clan Hall Part3

The hall survived because it became a temple.

Features

Ashikaga School

The Ashikaga School is next to Bannaji Temple in the southeast. The school teaching Confucianism was said to be moved to the current place during the Muromachi Period and have as many as 3,000 students during the Sengoku Period. Its remaining buildings are few such as the Confucian Shrine and some gates, but other parts including the school buildings, earthen walls and water moats were recently restored. You may feel it is more likely to look like a warrior’s hall than the temple.

The map around the castle

The remaining Nyutoku-mon Gate of Ashikaga School
The Confucian Shrine of Ashikaga School
The restored school building of Ashikaga School
The restored earthen walls and water moats surround the school

Ruins of Kabasaki Temple

The ruins of Kabasaki Temple (the current Kabasaki Hachimangu Shrine) are about 5km away from Bannaji Temple in the northeast. Kabasaki Temple had been originally built by Yoshikane Ashikaga as his retreat, and considered the holy of the hollies for his clan. However, it declined after the Meiji Restoration for the same reason as Bannaji Temple with the only one building remaining. The site was recently excavated and has been developing as a historical site by officials. There, you can see the foundations of its buildings such as the Multi-Treasure Pagoda and the Mausoleum. That’s why there might have been similar scenery to Bannaji Temple in the past. In addition, restored stone steps go down from the ruins to the restored Pure Land style pond garden. The style refers to the builder who wanted to create a Pure Land in his garden so that they could go the real Pure Land after their death. The garden probably shows Yoshikane’s religious faith.

The shrine building
The ruins of the Multi-Treasure Pagoda
The ruins of the Mausoleum
The restored Pure Land style pond garden
The restored stone steps (on the right)

My Impression

I had little complex impression about Ashikaga Clan Hall when I visited the ruins. They don’t have outstanding items for a castle, instead, they remained as a temple. If the hall continued to be used as the hall, it wouldn’t have survived until now because of some battles or conversions. Hence, I understood that it is rare to see such many old remaining buildings in one place as the hall was turned into the temple.

The main building of Bannaji Temple

How to get There

If you want to visit Ashikaga Clan Hall Ruins by car, it is about a 15-minute drive away from Ashikaga IC on the Kita-Kanto Expressway. There is a parking lot for visitors of the tourist information center in Ashikaga City, called Taiheikikan, near the ruins. It would be better to use a car if you also want to visit Kabasaki Temple Ruins.
If you want to use public transportation, it takes about 10 to 15 minutes on foot from JR Ashikaga Station or Tobu Ashikagashi Station.
From Tokyo to JR Ashikaga Station: Take the Tohoku Shinkansen super express and transfer to the Ryomo line at Oyama Station.
From Tokyo to Tobu Ashikagashi Station: Take the JR Ueno-Tokyo Line from Tokyo Station and transfer to the Ryomo limited express on the Tobu Isesaki Line at Kitasenju Station.

That’s all. Thank you.
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15.足利氏館 その3

寺になったことで館跡として今に残ったのでしょう。

特徴、見どころ

足利学校

足利学校は、鑁阿寺の南西となりにあります。この学校は儒教の教育を行っていましたが、室町時代に現在の地に移転してきて、戦国時代には3千人もの生徒がいたと言われています。現存している建物としては聖廟や門(入徳・学校・杏壇の三門)がありますが、他の校舎などの建物や土塁・堀は最近になって復元されたものです。その姿は、鑁阿寺よりも武士の館のように感じられるかもしれません。

城周辺の地図

足利学校の現存する入徳門
足利学校の現存する聖廟
復元された足利学校の校舎
復元土塁と水堀に囲まれた足利学校

樺崎寺跡

樺崎寺跡(現在の樺崎八幡宮)は、鑁阿寺の北東、約5kmの場所にあります。樺崎寺は、もともと足利義兼の隠居所として建てられましたが、足利氏にとって最も聖なる奥の院とされました。しかし明治維新後は、鑁阿寺と同じ理由で衰退し、たった一つの建物が残るだけとなりました。この場所は最近になって発掘され、史跡として整備が進められています。ここでは、多宝塔や御廟などの基礎部分(礎石)を見学することができ、つまりは昔は鑁阿寺と同じような光景であったかもしれないのです。更には、史跡からは復元された石段が、これも復元された浄土式庭園に向かって下っています(ビジターは通れません)。この形式の庭園は、施主がその庭に浄土の姿を再現し、死後に本物の浄土に行けるように願ったことを示しています。この庭園は恐らく、義兼の宗教観を表していると考えられます。

樺崎八幡宮の建物
多宝塔跡
御廟跡
復元された浄土式庭園
復元された石段(右側)

私の感想

足利氏館跡を訪れたとき、少々複雑な思いを持ちました。そこには城として特筆すべきものはありませんが、その代わりに寺として残っています。もしこの館が館として使い続けられていたとしたら、戦いの場となったり用途変更により今に残ることはなかったのではないでしょうか。よって、館が寺に変わったことにより、稀に見るまでに一ヶ所にこのような多くの古い建物が残っているのだと思いました。

鑁阿寺の本堂

ここに行くには

車で行く場合:北関東自動車道の足利ICから約15分のところです。館跡近くの観光案内所「太平記館」にビジター向け駐車場があります。樺崎寺跡にも行こうとするならば、車を使った方がよいでしょう。
公共交通機関を使う場合は、JR足利駅か、東武線の足利市駅から歩いて約10分から15分かかります。
東京からJR足利駅まで:東北新幹線に乗って、小山駅で両毛線に乗り換えてください。
東京から東武足利市駅まで:東京駅からJR上野東京ラインに乗って、北千住駅で特急りょうもう号に乗り換えてください。

リンク、参考情報

国宝 鑁阿寺
・「人を歩く 足利尊氏と関東/清水克行著」吉川弘文館
・「下野足利氏 シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻/田中大喜著」戎光祥出版

これで終わります。ありがとうございました。
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