155.赤木城 その2

戦略的な防御システムを持った山城

特徴、見どころ

よく整備されている城跡

現在、赤木城跡は熊野市によって史跡として維持整備されています。熊野市はまた、熊野杉のような木材の産地としても知られています。この城の周りの地域は、過去には金、銀、銅、鉄などの金属資源も算出していました。赤木城は、これらの産物を運ぶ街道(いわゆる熊野街道)をコントロールできる位置にありました。車で城跡を訪れるのであれば、通常は東の峰下にある駐車場に車を停めて、そこから歩いて行きます。城跡には建物は残ってはいませんが、石垣がよい状態で維持されています。

東峰下にある駐車場周辺
東峰への登り口

城の正面口、東峰

その東峰は城の正面であったと考えられています。この城の中では最も戦略的な防御システムを持っていたからです。今でも、この部分がどのように守られていたのかがわかります。峰を登り始めて鍛冶屋敷跡を過ぎると、峰の上にある石垣に囲まれた二つの曲輪(東郭)の中間点で、道は左に曲がり急になります。

東峰から本丸へのルート(赤矢印)、現地説明板を北を上にして使用
鍛冶屋敷跡
道は右に曲がります

この場所には1番目の門(1番目の虎口)が築かれていて、城を守るための重要なポイントでした。

一番目の門跡
東郭の石垣
門跡を石垣の上から見る

そこから道は右に曲がり、峰上を登っていきます。道は再度右に曲がり、石垣の上にある本丸に向かっていきます。しかし、過去にその石垣に上に登るには梯子を使っていました。現在のビジターは、城跡を整備したときに設置された木製の階段を使います(ここが2番目の虎口に相当)。

峰上を登ります
本丸に向かうための木製階段(過去には橋子が使われていました)
階段部分を上から見ています

その後、桝形と呼ばれる四角い防御空間になっている本丸虎口(3番目の虎口)に到達するには、あと3回曲がる必要があります。ここは城の最後の入口となるので、この城では最も高く最も豪華な石垣が使われています。

本丸前の石垣が障害物になっています
本丸虎口の石垣
本丸虎口を内側から見ています

巧みに築かれた石垣が囲む本丸

本丸の内部は、現在は広場となっています。しかし発掘により、礎石の上に城では最大の建物があったことがわかっています。そこからは、城跡の周りの集落をよく見渡すことができます。きっと昔の城主も同じような眺めを見ていたことでしょう。

本丸内部
本丸からの眺め

本丸の外側を歩いて回ることもできます。本丸を囲む石垣のラインが巧みに曲げられていて、城の守備兵が敵の側面に反撃できるようになっていたことがよく見て取れます。

本丸石垣
本丸石垣の屈曲部分

北の峰上にある単独の曲輪(北郭)が直接本丸につながっています。この曲輪には石垣が部分的にしかありません。こちらは城の裏面だったからでしょう。しかし、防御面では手前に堀切があり、しっかり守られています。

本丸から見た北郭

城周辺の航空写真

「赤木城その3」に続きます。
「赤木城その1」に戻ります。

155.Akagi Castle Part1

The starting point of Takatora Todo as a castle construction master

Location and History

Takatora was seeking his Ideal Master

Akagi Castle was located in the mountain part of Kii Province what is now Wakayama Prefecture. The castle was built around 1589 by Takatora Todo who would be a well-known master of castle construction later. The castle was one of his earliest castles, so it can be seen as the starting point of his castle construction. Takatora came from Omi Province near Kyoto during the Sengoku Period when so many warlords divided the country and often battled with each other. He was well built and distinguished himself in many wars, however, his masters didn’t always survive. As a result, he changed his masters as many as seven times like an excellent business person changes one’s job several times now. In 1576, he found his fourth master, Hidenaga Toyotomi, the little brother of Hideyoshi Toyotomi who would become the ruler of Japan later.

The range of Kii Province and the location of the castle

The portrait of Takatora Todo, private owned (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Hedenaga was a nicely balanced leader joining his brother’s unification of Japan. Takatora was promoted by Hidenaga to one of his senior vassals and also learned many elements of the enterprise, one of which was how to build castles. He must have experienced it through many battles under Hidenaga. In 1585, Hideyoshi had conquered Kii Provence which was given to Hidenaga. Hidenaga also gave part of the province to be governed to Takatora. However, it was not easy because many local lords still didn’t want to be ruled by others, who also had guns which were popular weapons in the province at that time. One of Takatora’s answers to the question was to build his new castle called Akagi Castle.

The portrait of Hidenaga Toyotomi, owned by Shungakuin Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
Matchlock guns which were popular weapons at that time

Mountain Castle with Advanced System

Akagi Castle was a simple mountain castle with its Main Enclosure on a hill and its other enclosures on the three ridges in the north, east, and west. They are similar to many other castles built at that time so far. Takatora added advanced systems with his own ideas and experiences using the current technology. First, the Main Enclosure was basically square shaped and surrounded by high stone walls. The line of the walls was also bended elaborately to make a side attack to enemies. Its entrance was guarded by a small square space called Masugata. These features can be seen in other castles Takatora built later such as Imabari and Tsu Castles. Other enclosures were also surrounded by stone walls and placed wisely. For example, if visitors or enemies wanted to go the Main Enclosure by passing the enclosures on the eastern ridge, they had to go through three alternated entrances called Koguchi.

The layout of Akagi Castle, from the signboard at the site, adding the red letters for the Enclosures’ names
The stone walls of the Main Enclosure at Akagi Castle Ruins
The ruins of Tsu Castle
Imabari Castle

Takatora succeeded in governing the area around the castle. The castle probably provided relief from dangerous battles and Takatora’s authority to the local people. However, his stable governance was not done by only the castle, but also by his strict policy. He executed 160 rebels including local warriors and farmers, called Kitayama Uprising, at Tabirako Mountain Pass near the castle just after the completion of the castle. The reason for the uprising is said that they were against Hideyoshi’s nationwide land survey because the government before Hideyoshi did not recognize how much field people had. People had to pay more tax after the government survey. That was one of the realities in the Sengoku Period.

The relief map around the castle

Castle is followed by Asano Clan before abandoned by One Castle per Province Law

In the first 17th Century, the Asano Clan governed Kii Province. They were based in Wakayama Castle, but also used Akagi Castle as the Kitayama Uprising people rebelled again. The clan executed more people than Takatora. Akagi Castle was finally abandoned due to the Law of One Castle per Province by the Tokugawa Shogunate in 1615.

Wakayama Castle

To be continued in “Akagi Castle Part2”

155.赤木城 その1

築城の名手、藤堂高虎の原点

立地と歴史

理想の主君を求めた高虎

赤木城は、現在の和歌山県に当たる紀伊国の山間部にあった城でした。この城は1589年に、後に築城の名手と言われるようになる藤堂高虎によって築かれました。この城自体が高虎が築城した中では初期のものとなるため、彼の築城術の原点として位置付けることができます。高虎は、京都の近くの近江国出身であり、その当時は戦国時代で多くの戦国大名が割拠し、互いに戦によりしのぎを削っていました。彼は並外れた体格を持ち、多くの戦いで武功を挙げました。しかし、彼の主君は必ずしもこの時代を乗り切ることはできませんでした。その結果、現代の優秀なビジネスマンが転職を重ねるがごとく、高虎はその生涯で7回主君を変えています。そして1576年に、4度目の主君として、後に天下人となる豊臣秀吉の弟、豊臣秀長を見出しました。

紀伊国の範囲と城の位置

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀長は、周りとの調和を重んじたよきリーダーであり、秀吉の天下統一事業を支えました。高虎は、秀長により重臣の一人として抜擢され、事業を進めるための様々な要素について学びました。その一つが築城術だったのです。彼は、秀長の下での多くの戦いを通じて実践的にそれを学んだに違いありません。1585年、秀吉は紀伊国を征服し、この国を秀長に与えました。秀長はまた、紀伊国を統治するために、その一部を高虎に与えたのです。しかし、地場の領主たちはいまだ他者により統治されることを好まず、当時武器の主流となっていた鉄砲も多く所持していました。よってその統治には困難が伴っていました。その問いへの高虎の回答が、新しく赤木城を築くことだったのです。

豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
当時の主力武器、火縄銃 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最新のシステムを導入した山城

赤木城はシンプルな山城で、本丸が丘の上にあり、他の曲輪は北、東、西の三つの峰の上にありました。ここまでは、それまでにあった他の多くの城に似たものでした。高虎は、彼自身のアイデアと経験をもとに、その当時の最新の技術を使った新しいシステムを城に導入したのです。まず本丸は、基本的に四角い形に作られ、高石垣に囲まれていました。また、石垣のラインは巧みに曲げられていて、敵に対して側面攻撃ができるようになっていました。本丸の入口は、桝形と呼ばれる小さな四角い空間によって防御されていました。これらは、今治城や津城など、高虎が後に築く城にも見られる特徴です。他の曲輪群も石垣に囲まれ、よく考えられた配置をしていました。例えば、もし現代のビジターや過去には敵が、東の峰にある曲輪を通って本丸に行こうとした場合、虎口と呼ばれる食い違いになっている入口を3つ通り過ぎなければなりません。

赤木城の縄張り図、現地説明板より(北が下側になっている)
赤木城t跡の本丸石垣
津城跡
今治城

高虎は、この城の周辺の地域を治めることに成功しました。この城は恐らく、戦いによる危険から身を守り、高虎の権威を地元の人々に示したことでしょう。しかし高虎の安定した統治は、この城によってのみ果たされたのではなく、厳しい政策も実行された結果だったのです。彼は城の完成直後に、北山一揆と呼ばれる、反抗した地元の武士や農民たちを、近くの田平子(たびらこ)峠において160人も処刑したのです。一揆が発生した理由は、秀吉が全国的に実施した太閤検地にあると言われています。秀吉以前の政権は、人々の田畑の規模を正確には把握していませんでした。検地によって、人々は多くの年貢を納めなければならなくなったことでしょう。これが戦国時代の一つの現実でした。

城周辺の起伏地図

浅野氏に引き継がれ、一国一城により廃城

17世紀初頭、浅野氏が紀伊国を統治しました。彼らは和歌山城を本拠地としていましたが、北山一揆が再び起こったため、赤木城も使っていました。そして高虎の時以上の人たちを処刑したのです。赤木城は、最終的には1615年に徳川幕府によって発せられた一国一城令により廃城となりました。

和歌山城

「赤木城その2」に続きます。