190.八代城 その1

3つの八代城がありました。

立地と歴史

奪い合いの対象となった初代八代城

八代市は、九州地方の西部にあって、農業と工業が盛んなことで知られています。これらの産業は江戸時代以来、耕地及び工場の敷地を拡大させることで発展してきました。八代の人たちは八代海を干拓し、八代平野の面積を3倍にしたのです。干拓を行う前、八代は水陸交通の結節点として栄えていました。八代城は元来、海の近くにあり交通をコントロールできる位置にあったのです。

八代市の範囲と城の位置

実は、歴史的には八代城は3つあったのです。それらの元々の名前はそれぞれ、古麓(ふるふもと)、麦島(むぎしま)、松江(まつえ)といいました。これらの城は同時には存在しておらず、それぞれの時代で地域を代表する城を「八代城」と呼んだのです。その3つの城の歴史を調べてみると、八代市の多くを学んだということになるでしょう。最初の八代城である古麓城は、14世紀から16世紀に丘の上に築かれた典型的な山城でした。地方領主の名和氏が居城としていましたが、内陸の人吉城にいた相良氏が八代城の立地の良さに目を付け、侵攻しようとしました。相良氏は何度も八代城を攻め、ついには1504年に占領しました。しかし天下統一事業が進んだ16世紀後半には、八代城は島津氏、そして豊臣秀吉の手に渡りました。

城周辺の起伏地図

古麓城跡、八代市ホームページより引用

水上交通の要となった2番目の八代城

秀吉は配下の小西行長を、南肥後の国主として送り込みました(肥後はほぼ現在の熊本県に相当します)。行長は古麓城を廃城とし、代わりに麦島城を築きます。これが2番目の八代城となります。この城は球磨川の河口に築かれ、八代海に面しており、水上交通の要衝となりました。この場所に城が築かれた理由の一つは、秀吉がかねてから計画していた朝鮮侵攻の準備のためでもありました。行長は実際、1592年に侵攻が行われたとき、その先鋒を務めたのです。その立地に加え、この城は総石垣造りで築かれました。それが私たちが現在目にする、最後の八代城の雛形になったと言われています。1600年の関ヶ原の戦いで行長は敗軍の将となり、肥後国は加藤氏に引き継がれます。加藤氏の本拠地は熊本城でしたので、麦島城は支城として、その重臣の加藤正方(まさかた)が入りました。

麦島城跡の発掘現場  (licensed by Emeraldgreen at Japanese Wikipedia via Wikimedia Commons)
加藤正方肖像画、浄信寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1615年、徳川幕府は一国一城令を発しました。肥後国にあった支城群は破壊されましたが、麦島城はなぜか例外とされました。その理由はこれまでいろいろと議論されていますが、結論は定まっていません。一説には、加藤家の当主、加藤忠広がまだ幼少だったので、幕府はその後見として麦島城にいる重臣の正方が支えるべきと考えたからとされています。その後1619年に麦島城は地震により倒壊してしまいます。ところがまたも例外として別の場所での城の再建が認められたのです。または公式には、別の場所に城を移しただけだとも言われます。いずれにせよ、正方は実際には近くに新しい城を築いたわけで、松江城と呼ばれ、現在では(3代目の)八代城ということになっています。

加藤忠広肖像画、本妙寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
肥後国八代城廻絵図(部分)、出典:国立公文書館、この城も河口・海の近くにありました

例外として築かれ生き延びた3代目八代城

この新しい城は部分的に麦島城の設計を、またその一部の部材をも使って築城されました。例えば、4層の天守が本丸の角部分に築かれましたが、これは豊臣時代の古いスタイルでした。一方で、この城は「桝形」とよばれる先進的な防御システムも使われていました。桝形とは、城の入口において石垣によって囲まれた四角い空間のことを指します。この城の桝形は、本丸の外郭のラインから少しはみ出して作られていて、敵の側面を攻撃できるようになっていました。この形態は、桝形の最終形とも言われています。城は1622年に完成しました。

八代城主要部の模型写真、現地説明板より
隅に配置された天守、現地説明板より
はみ出している八代城の桝形

加藤氏は1632年に残念ながら幕府によって改易になってしまいますが、その後の肥後国は細川氏が治めました。細川氏も本拠地を熊本城とし、八代城は当主の父親である細川三斎(さんさい)の隠居所として使われました。彼は、戦国時代の生き残りであり、かなり気ままな性格だったようです。それが、幕府が八代城を廃城とすることを強制できなかった理由の一つのようです。三斎は亡くなる前、八代城をもって独立した藩にしようと考えたほどでした。結果的に八代城は江戸時代を通して存続しました。最終的には細川氏の熊本藩の重臣、松井氏が城主となっていました。

細川三斎(忠興)肖像画、永青文庫蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
熊本城
八代城跡

「八代城その2」に続きます。

183.Kurume Castle Part3

Kurume offers unique culture in Japan.

Later History

After the incident in 1871, Kurume Castle was abandoned. All the buildings of the castle were demolished or sold. Even the stone walls of the Main Enclosure were sold and about to be taken out. However, local volunteers were worried and bought them back. That’s why we can still see the great stone walls as the castle ruins. As a result, the Sasayama Shrine was established in the Main Enclosure in 1877. The ruins have been a Prefectural Historic Site of the Fukuoka Prefecture since 1983.

Sasayama Shrine
The stone walls of the Tatsumi Turret

My Impression

Let me tell you about the other attractions in other places related to the Kurume Domain. The lord of the domain, like the others, possessed two residences, one in Kurume and one in Edo. The Suitengu Shrine was transferred from Kurume to the main residence in Edo. The shrine was open to the public and became very popular. This practice was rare at that time. Since then, the shrine has been a popular attraction in Tokyo.

Arima’s main residence in Edo, drawn on the right in a Ukiyoe painting, attributed to Hiroshige Utagwa the Second, exhibited by the National Diet Library of Japan
The present Suitengu Shrine in Tokyo (licensed by tak1701d via Wikimedia Commons)

Yoriyasu Arima, the 15th lord of the clan, promoted sports such as horse race and professional baseball in the 20th Century. A major horse race in Japan called Arima Kinen was named after his contribution.

Yoriyasu Arima (licensed by tak1701d via Wikimedia Commons)

How to get There

If you want to visit the ruins by car, it is a few minutes away from Kurume IC on the Kyushu Expressway.
You can park in the parking lots for visitors below the eastern side of the Main Enclosure. That space used to be the Mikan-maru or the Mandarin Enclosure.
If you want to use public transportation, it takes about 20 minutes on foot from the Kurume Station.
To get to Kurume Station from Tokyo or Osaka:Take the Sanyo Shinkansen super express or fly to Hakata Station and from there take the Kyushu Shinkansen super express or the limited express.

The entrance to the parking lot
The parking lot at the Mikan-maru Enclosure

That’s all. Thank you.
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183.久留米城 その3

久留米はユニークな文化を発信しています。

その後

1871年の事件(久留米藩難事件と呼ばれています)の後、久留米城は廃城となり、城の全ての建物は撤去されるか売られていきました。本丸の石垣でさえ売却され、持ち出されるところでした。ところが、地元の有志たちがこの状況を憂え、その石垣を買い戻したのです。そのおかげで、われわれが今日城跡の石垣を見ることができるのです。そして、1877年には本丸に篠山神社が設立されました。1983年以来、城跡は福岡県の史跡に指定されています。

篠山神社
巽櫓跡の石垣

私の感想

久留米藩に関連して、他の場所で見られる他の見どころを紹介させてください。久留米藩の藩主は、他の大名と同じように2つの住居を持っていました。一つは久留米にあり、もう一つは江戸です。水天宮が、久留米から江戸にあった藩邸に勧請されました。そして民衆にも公開され、大変な人気となりました。当時このようなことはとても珍しかったのです。水天宮は現在の東京でも人気のある観光地になっています。

浮世絵に描かれた久留米藩上屋敷、二代歌川広重「東都名所芝赤羽根増上寺」、藩邸は右側、出典:国立国会図書館
東京にある現在の水天宮  (licensed by tak1701d via Wikimedia Commons)

有馬頼寧(よりやす)は有馬家第15代目の当主で、20世紀に競馬やプロ野球(東京セネタースを設立)などのスポーツ振興に尽くしました。日本でメジャーな競馬レースである有馬記念は、彼の功績にちなんで名づけられました。

有馬頼寧  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには

車で行く場合:九州自動車道の久留米ICから数分のところにあります。本丸の東側下に観光客向けの駐車場があります。その場所は、かつては蜜柑丸という曲輪でした。
公共交通機関を使う場合は、久留米駅から歩いて約20分かかります。
東京または大阪から久留米駅まで:山陽新幹線に乗るか飛行機で博多駅まで行き、そこから九州新幹線か特急に乗ってください。

駐車場入口
蜜柑丸にある駐車場

リンク、参考情報

久留米城跡、久留米観光コンベンション国際交流協会
・「よみがえる日本の城20」学研
・「日本の城改訂版第50号」デアゴスティーニジャパン
・「知るっぱ久留米、久留米入城400年」ドリームスFM

これで終わります。ありがとうございました。
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