208.屋嶋城

今日は、徳島城を見学に行った足で、高松駅に来ています。高松城は以前ご紹介しているので、この近くに行ける城は他にないでしょうか?そういえば、屋島に城の門が復元されたと聞いたことがあります。源平合戦で有名なところですが、古代山城の一つだったとのことです。

Introduction

今日は、徳島城を見学に行った足で、高松駅に来ています。高松城は以前ご紹介しているので、この近くに行ける城は他にないでしょうか?そういえば、屋島に城の門が復元されたと聞いたことがあります。源平合戦で有名なところですが、古代山城の一つだったとのことです。以前九州の大野城の勉強をしたときにも、名前が出てきました。この記事では、最初に古代山城、および屋嶋城の歴史に関するご説明をして、それから現地をご案内したいと思います。

高松駅

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(古代山城と屋嶋城)

大宰府と大野城が作られる少し前の、7世紀前半、朝鮮半島には3つの国が並び立っていました(高句麗・新羅・百済)。中国大陸では、618年に統一王朝の唐が成立し、朝鮮半島に勢力を伸ばそうとしていました。唐はまず、新羅と同盟して、百済を滅ぼします(660年)。百済の遺民は国の復興を目指し、友好関係にあった倭国(以下日本と表記)に救援を要請しました。皇太子で実力者だった中大兄皇子は援軍を送る決意をし、その結果起こったのが白村江の戦いだったのです(663年)。しかし日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗しました。その結果を受けて、皇子が恐れたのが、唐・新羅による日本侵攻でした。皇子は、日本の防衛体制を整備していくのです。

白村江の戦いの図l (incensed by Samhanin via Wikimedia Commons)

朝廷の正史「日本書紀」によれば、敗戦の翌年(664年)、に対馬・壱岐・筑紫などに防人と烽火を配備し、警備体制を作りました。また九州北部に、防衛線として水城を築きました。そして665年には、百済からの亡命官僚を派遣して、水城の背後に、大野城、基肄城を築城したのです。

水城跡
大野城跡
基肄城跡

その後も整備は進み、朝鮮への最前線の対馬(金田城)からお膝元の大和(高安城)まで、城を築きました(667年)(下記補足3)。その中に屋嶋城があります。

(補足3)(天智天皇6年11月) 倭(やまと)国高安城(たかやすのき)・讃吉(さぬき)国山田郡の屋嶋城(やしまのき)、対馬国の金田城(かなたのき)を築く。(日本書紀)

主要な古代山城の位置

古代山城または朝鮮式山城は、朝鮮で確立し、百済からの亡命者の指導のもとに、日本に導入された築城方式によって築かれました。先ほどご説明した通り、朝鮮半島では内乱や外国からの侵攻が続いていました。この築城方式は、土塁や石垣によって山を囲ってしまうというやり方で、当時の朝鮮の人たちは、敵軍が攻めてくると、その山城に逃げ込み、敵の補給を切れるのを待って、反撃に転じるという戦法を取っていました。一旦逃げ込む先として準備していたのです。その城の中には、倉庫などを建てて、備蓄もしていたのでしょう。この方式が、唐・新羅の連合軍による侵攻に備える日本にも、導入されたのです。

屋島の地形図を見ると「メサ」と呼ばれる特徴的な地形になっています。テーブル状の台地で、山上が平らで、周囲は急な崖に囲まれています。山を丸ごと囲い込む古代山城にはうってつけの地形だとわかります。結局唐などの侵攻はなかったので、城はすぐ廃城になったと思われ、長い間「幻の城」と呼ばれてきました。1998年になって本格的に発掘調査が始められました。その結果などから、全長約7kmの城壁のうち、人工的なものは約1割と考えられています。屋島の自然の地形を最大限生かしたのでしょう。その人工的なものの中で、最大の発見が、これからご案内する城門です。これにより、屋嶋城の実在が証明され、古代山城の中でも最大級の門とのことです。しかし、この城の全貌はまだまだベールに包まれているのです。それでは現地に向けて出発しましょう。

屋島周辺の起伏地図

復元された城門

ここに行くには(自然と歴史の地・屋島へ)

今回のご案内は、電車とバスを使って、お気軽に行けるコースをご紹介します。高松から、電車で屋島駅に向かいます。屋島が見えてくるのですが、特徴的な地形だとわかります。古代山城にはもってこいです。

車窓から見える屋島

駅に着いたら、バスに乗り替えます。結構混んでいます。人気の観光地でなのでしょう。

屋島駅
屋島山上行きバス


急な坂を登っていたはわかりましたが、思ったより、すぐに着いてしまいました。ほんとうに上は、まっ平です。

バスで登っています
山上の駐車場に到着

これから、駐車場から近い範囲を、歩いて屋島山上を回りながら、復元された城門を見学することにします。

屋島山上(南嶺)案内図

駐車場からは、第八十四番札所の屋島寺に向かう人が多いのですが、違う方向に行きます。ずっとまっすぐの道で、本当に平らだと感じます。もうすぐ東側の崖に着きます。説明パネルがあります。「源平屋島合戦史跡 案内図」というタイトルです。

屋島寺(東大門)
まっすぐの道を進みます
東側の崖に到着
「源平屋島合戦史跡 案内図」


この眼下に見える一帯が、古戦場なのです。那須与一が海辺で扇の的を射たところだから、山の上ではないと思っていましたが、あの場所での出来事だったと初めて知りました。

古戦場の眺め

特徴、見どころ

城門に到着、見学!

いよいよ城門に向かいますが、今歩いている道はお遍路道にもなっています。85番目の札所に向かう分岐点があります。

八十五番札所への分岐点


目指す城門は、西側の崖にあるのですが、この辺は屋島の南嶺の山上部分が細くなっているので、そんなに遠くはありません。逆に、そういうところだからこそ、門を作ったのかもしれません。もう案内が見えてきました。

道はまだ崖の東側を進んでいます
程なく崖の西側に着きました、門の案内があります

ここから少し下っていきます。なんだか、風の音がして、風雲急を告げているようです。視界が急に開けてきました、すごい景色です!山の西側が一望できます。ちょうど夕方になってきているので、神秘的にも感じます。

門に向かって下ります
城門に到着です
城門からの眺め

修復された城門石垣をよく見るためには、さらに階段を下ります。さすが、よく整備されています。下ってから石垣を見上げると、崖と一緒に立ちはだかっているように見えます。城壁は約6メートルの高さで、崖の前に築かれています。

階段を下ります
城門石垣

右手前の登山道から改めて近づいてみましょう。門の建物もあったはずですが、残念ながらその痕跡はほとんど残っていなかったそうです。それでも、戦国時代の城のような石垣が、1300年以上も前に築かれていたことはすごいと思います。しかし短期間で廃城になって、石垣の技術も城とともに幻になって、一旦忘れられてしまったのでしょう。

右手前の登山道を上がったところです

門の作り方として注目なのは、懸門です。入口に、高い段差を設けて入りにくいようにしています。当時は梯子がかけられていたと考えられます。

懸門

もう一つは門の中に入ったところで、甕城(おうじょう)といいます。岩盤が敵の行く手を阻み、左側に進ませるようになっています。敵がその通り進んだら、周りから兵士が側面攻撃するのです。近世の城の枡形みたいなものです。

甕城

実は全部が屋嶋城?

帰り道は、屋島寺に寄ってみましょう。参道が見えてきました。お遍路の人は、左側から登ってきます。右側にあるのが仁王門です。そのルートに合流しましょう。

屋島寺の参道に突き当たります
こちらからお遍路の人が登ってきます
仁王門

四天門、重要文化財の本堂、と進みます。このお寺自体、屋嶋城が廃城になった後、北嶺から南嶺に移されたとも言われます。狸伝説のお寺でもあります。

四天門
本堂
狸石像

せっかくなので、北側の眺めを見に行きましょう。駐車場から、北西側に回り込んでいきます。北嶺が見えます。

駐車場から北側の眺め、右側が北嶺

今度は、海が一望できます。高松の海岸が良く見えます、ここにも「屋島城跡」と表示があります。唐突感はありますが、屋島中が城だったということでしょう。今後、屋嶋城の謎がだんだん明らかになるかもしれません。

南嶺北西側からの眺め
ここにも「屋島城跡」とあります

リンク、参考情報

屋嶋城詳細へ、高松市公式ホームページ もっと高松

これで終わります、ありがとうございました。

76.徳島城 その2

今日は、徳島駅前に来ています。さすが阿波踊りの本場だけあって、街なかではフィギアがお出迎えです。ところで、徳島城はどこにあるのでしょうか。ここ、徳島駅は城があった「ひょうたん島」のど真ん中にあるのです。徳島城へもここから出発します。

ここに行くには

今日は、徳島駅前に来ています。さすが阿波踊りの本場だけあって、街なかではフィギアがお出迎えです。ところで、徳島城はどこにあるのでしょうか。ここ、徳島駅は城があった「ひょうたん島」のど真ん中にあるのです。徳島城へもここから出発します。

徳島駅
阿波踊りのフィギア

城周辺の航空写真

徳島という名前も、島状の地形から来ているのかと思ってしまいます。かつてこの辺りは「渭津(いのつ}」と呼ばれていましたが、藩祖の蜂須賀家政が「徳島」に改めました。恐らく縁起を担いだのだろうと言われますが、はっきりしないそうです。しかも、定着するのに100年くらいかかりました。地名にも謎と歴史があるのです。

今、線路際を歩いていますが、ここはかつて島を貫く寺島川でした。線路の向こうに山が見えますが、最初に城が築かれた城山(当初は「猪山」)です。城はすぐ近くです。城跡がある徳島中央公園へは、歩道橋を渡ります。

かつて寺島川だった線路
歩道橋を渡ります
歩道橋からかつての寺島川を見ています

歩道橋を下るところに最初の見どころがあります。川を攻めてくる敵を迎え撃つために屏風折れ塀がありましたが、それを支える「舌石(したいし)」が残っているのです。

「舌石」についての説明パネル
舌石

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

山麓の御殿跡を巡る

復元された城の正門、鷲の門の前にやってきました。すぐそばには、城跡の石碑もあります。鷲の門に入っていきましょう。

鷲の門
城跡の石碑

城周辺の航空写真

次は、御殿の入口にあたる「下乗橋」です。ここからは、駕籠などの乗り物から降りて渡ったことに由来しています。橋を渡った先は、大手門にあたる黒門がありました。建物はありませんが、すごい石垣の枡形が残っています。「阿波の青石」を使った素晴らしい石垣です。

下乗門と黒門跡
黒門の枡形
阿波の青石を使った石垣

枡形を出るところの石垣も注目です。真ん中にある大きな石の色がちがいます。紅簾片岩(こうれんへんがん)と呼ばれる赤い石が、ところどころに使われています。青い石と、赤い石の組み合わせ、これは見ものです。

枡形出口にある阿波の赤石

隅のところにあった太鼓櫓跡に登ってみましょう。黒門跡を上から見てみます。旧海軍の駆逐艦(「追風」)のマストが展示されています。さっき渡った下乗橋、黒門の枡形もお見通しです。

太鼓櫓跡
駆逐艦「追風」のマスト
上から見た下乗橋
上から見た黒門枡形

枡形に戻って、ここから御殿跡に進みます。大体、右側が表御殿、左側が奥御殿だったとのことです。御殿跡の奥の方には、徳島城博物館があります。

御殿跡
徳島市立徳島城博物館

御殿の建物はなくても、その庭園が残っています(旧徳島城表御殿庭園)。国の名勝に指定されていて、手前側が枯山水の庭園になっています。すごく長い石橋があります。10メートル以上あるそうです。奥側は築山泉水という水を取り入れた庭園になっていて、2つの異なる様式が組み合わされています。桃山時代の武将茶人、上田宗箇が作庭したとされています。

庭園入口
枯山水部分
築山泉水部分

それでは、御殿跡から、石垣の合間を歩いて、城山に向かいましょう。

城山に向かいます

本丸のある城山を登る

城山の端にやってきました。なんとここには縄文時代の貝塚の遺跡があるのです。そんなに前から人がここで活動していたのです。

城山の貝塚遺跡

ここが、山上への入口です。なにか別のお城に行くみたいです。

山上への登り口

では、登っていきましょう。階段はよく整備されています。途中には、山の岩と石垣が混ざっている感じの場所があります。本格的な石垣もあります。

石垣と岩が混在しています
本格的な石垣も見えます

ここが東二の丸です。天守があった場所です。向こうに天守跡があります。当初本丸にあった天守が、中腹に移されたという珍しいケースです。その理由として、老朽化とも、幕府への遠慮とも言われましたが、拡大した城下を見下ろす位置に移動したという意見もあります。そこからは、街並みと海も見えます。

東二の丸
天守跡からの眺め
街並みと海も見えます

もう次は本丸です。古そうな石垣が続きます。

本丸の石垣

本丸に着きました。天守や御殿が移動した後の本丸は、番所・櫓などが残りました。今は広場になっています、

本丸
かつての本丸の様子、現地説明パネルより

最初の天守はどこにあったかというと、弓櫓跡にあったと考えられています。でも、ここにいるだけだと、ピンときません。では、逆側から本丸に登ってみましょう。

弓櫓跡

西三の丸に入るところから再スタートします。枡形になっています。続いて、西二の丸に入ります。石垣が立派になって、しかもここも枡形です。更に脇には、帳(とばり)櫓が控えていました。

西三の丸への入口(虎口)
帳櫓跡から見た西二の丸入口

そして、再度の本丸突入です。当初の天守台と考えられている弓櫓跡の石垣が来ました。これは大迫力です。本丸入口も、大きな石が散りばめられています。「鏡石」ということなのでしょう。今歩いたルートが、当初の大手道だろうとも考えられています。

当初の天守台と考えられる弓櫓石垣
本丸入口の石垣
大手道だったと思われる本丸入口(西側)

後回しになりましたが、本丸からの眺めをチェックしましょう。ここからは、山が見えます。徳島のシンボル、眉山(びざん)です。次は、この山を登ります。

本丸からの景色(眉山)

眉山に登って海を感じる

眉山を登るのに、今回は奮発して、片道だけロープウェイを使うことにしました。

山麓駅は阿波踊り会館のところにあります
ロープウェイ乗り場

どんどん登っていくと、景色がよくなってきます。

ロープウェイ中からの眺め

山頂駅に到着しました。さっそく景色を楽しみましょう。素晴らしい景色です。徳島平野や、吉野川まで一望できます。そんな中でも城山は目立っています。

ロープウェイ山頂駅
山頂駅からの眺め
城山

それより少し上の展望台からだと、また一味ちがいます。今度は、平野や川の向こうの海が良く見えます。徳島が、海に開かれているということが、わかっていただけると思います。

展望台周辺
展望台からの眺め

ところで、帰りはどうするのかというと、山頂部の眉山公園の案内図で見ると、山頂駅の反対側に、家祖・蜂須賀小六正勝の墓があります。そこを下ると、歴代藩主の万年山墓地というのがあり、そこに行こうと思います。お殿様の墓は、寺にあるのが普通ですが、十代藩主・蜂須賀重喜が儒教式に改めたのです(仏教式も併存)。

眉山公園の案内図、山頂駅は右側、蜂須賀小六正勝の墓は左側
蜂須賀重喜肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

公園の駐車場や、お花見広場を越えていきます。

眉山公園駐車場
お花見広場

墓の入口から、入っていきます。亡くなった大坂の地から、移されたとあります。お参りを済ませたら、裏手から下っていきます。

蜂須賀小六正勝の墓への入口
蜂須賀小六正勝の墓

ところで、墓所を作った蜂須賀重善はどんな人だったのかというと、秋田の佐竹氏から養子に来て、当時大借金を抱えていた徳島藩で改革を始めた藩主です。この墓所も、その改革の一環で作ったのです。下っていくとすごい岩があって、文字が刻まれています。重喜が建てた「万年山墓域碑」です。

万年山墓域碑

その下に、重喜の子・治昭の墓所があって、その向こうの見晴らしのいい場所に、重喜自身の墓所があるのです。

十一代藩主・蜂須賀治昭の墓

ところで、重喜改革はうまくいったのかというと、人材登用など改革が急すぎて、幕府から強制隠居させられたのです。改革の成果が出たのは、さっきの子の代になってからだったそうです。悲劇のヒーローだったのです。

蜂須賀重喜の墓

彼の墓の周りにもお墓がいくつもあります。側室たちや、夭折した子どもたちのお墓も、一緒に設けられているのです。これらは、歴史に埋れがちな人たちの歴史史料にも       なっています。今でも家族と一緒に、徳島を見守っているということです。

重喜側室・三浦民崎の墓
重喜五男・義功の墓
墓所からの眺め

ひょうたん島を巡る

最後のセクションでは、ひょうたん島を囲む川の一つ、助任川にかかる福島橋にやってきました。お殿様が参勤交代のときは、鷲の門からここまで来て、川に乗り出したそうです。川の街道だったのです。

福島橋

それから、上流の徳住橋辺りから、当時の松並木が残っています。橋のたもとは「雁木広場」と呼ばれていますので、ここからも舟が出たのでしょう。川沿いには石垣も築かれ、城の外郭という位置づけでした。ひょうたん島が防衛ラインだったのです。

雁木広場
藩政時代の松並木

河口の方に進みましょう。参勤交代のお殿様は、沖合で小舟から御座船に乗り替えたそうです。今度は海の道を進んだのです。そういえば、高松城のお殿様も同じようにしました。飛行機も連絡橋もない時代だったのです。

助任川の河口近く
徳島藩の御座船、現地説明パネルの右側

河口を折り返して、新町川に入ります。船がたくさんあって、海を感じることができます。眉山も正面に見えて、そろい踏みです。かつて新町川沿いには、藍商人の蔵が並んでいて、川側にも出入り口が開いていて、雁木と呼ばれる石造りの船着場から、大坂に向けて、舟で藍玉(染料)を出荷したそうです。水面の下に見える、石垣みたいのがそれなのかもしれません。

新町川河口部に並ぶ船と、背後には眉山
新町川沿い
新町橋周辺

万年山のところで出てきた、蜂須賀重喜は、藍玉が大坂商人に買いたたかれないよう、徳島に大市を開こうとしましたが、やはり実現するまで時間がかかりました。しかしそれが実現し、お客と取引が成立したとき、藍商人たちは、祝杯を上げ、そこで、踊りを踊ったそうです。これも、阿波踊りにつながったのでしょう。新町橋を渡って、駅の方に向かいます。なんとそこでは、阿波踊りをやっていました!イベントでのお披露目に、たまたま当ったのです。城めぐりの、最高の締めくくりでした。

新町橋
「徳島学生合同連」の阿波踊り

リンク、参考情報

徳島城博物館、徳島市
とくしまヒストリー、徳島市公式ウェブサイト
・「史伝 蜂須賀小六正勝/牛田義文著」清文堂出版
・「歴史群像132号記事、戦国の城 阿波徳島城/福永素久著」学研
・「徳島から探求する日本の歴史/地方史研究協議会編」文学通信
・「よみがえる日本の城13」学研
・「徳島藩駅路寺制に関する一考察/衣川仁著」徳島大学機関リポジトリ
「「徳島の文化を学ぶ」徳島大学オンライン講演会 第3回 徳島の歴史と文化」Youtubeテレビトクシマ公式チャンネル
「マジすか?蜂須賀!2時間スペシャル」YoutubeJRT四国放送公式チャンネル
「徳島城博物館・旧徳島城表御殿庭園」Youtubeディスカバー徳島

「徳島城 その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

76.徳島城 その1

今回は徳島城を取り上げます。徳島と言えば阿波踊りですが、城のイメージはピンとこないかもしれません。徳島城は、蜂須賀氏が築き、江戸時代末までずっと維持した城です。蜂須賀といえば、蜂須賀小六正勝が有名ですが、その小六子、家政が秀吉から阿波国を与えられたのが徳島城築城のきっかけなのです。小六には「盗賊、野武士の頭というイメージがありますが、実際は尾張国の土豪出身で、秀吉の参謀役として活躍したいっぱしの武将だったのです。

立地と歴史

Introduction

今回は徳島城を取り上げます。徳島と言えば阿波踊りですが、城のイメージはピンとこないかもしれません。徳島城は、蜂須賀氏が築き、江戸時代末までずっと維持した城です。蜂須賀といえば、蜂須賀小六正勝が有名ですが、その小六子、家政が秀吉から阿波国を与えられたのが徳島城築城のきっかけなのです。小六には「盗賊、野武士の頭というイメージがありますが、実際は尾張国の土豪出身で、秀吉の参謀役として活躍したいっぱしの武将だったのです。それに、徳島城は、秀吉の城郭ネットワーク戦略の下、築かれた城なのです。更に、阿波踊りなど、徳島の文化も、城や城下とともに発展した、庶民たちの中から生まれてきたのです。この記事では、そんな徳島城やそれにまつわる文化を、蜂須賀正勝の武将人生から追ってみることにします。

蜂須賀小六正勝肖像画(模写)、出展:東京大学史料編纂所データベース (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

何者?蜂須賀小六正勝

蜂須賀氏は、尾張国蜂須賀村を本拠とした中小地元領主の一つでした。正勝が生まれた後の尾張国は、実質的に守護代とその家老職を務めていた織田一族によって分割されていました。蜂須賀氏がいた下四郡地域は、信長の父・信秀の勢力圏でした。蜂須賀氏は信秀と折り合いが悪く、先祖の地から、上四郡の方に移住したのです。当時の地元領主たちは、その地の大名に必ずしも従っていたわけではなく、状況に応じて主君を変えていました。結果として、信秀以外の織田氏や、美濃の斎藤氏に仕えることになりました。

織田信秀木像、萬松寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

濃尾平野は、今でも木曽三川が流れる地として知られていますが、当時はそれら大河が乱流し、戦国大名の統治もあまり及ばない地域になっていました。その地域の治安や商業・流通などを担っていた集団がいて、史料によっては「川並衆(「武功夜話」)と呼ばれたりします。正勝は、地元領主や商人・民衆と付き合いながら、その集団で頭角を現していったようなのです。その中には、野武士のような人や、略奪行為を行う者もいたのでしょう。そのイメージが、後の秀吉・日吉丸が、橋の上で盗賊の頭・小六に出会った「太閤記」のエピソードにつながったのかもしれません。(その話は、明治になって、当時はその橋がなかったことがわかって、事実ではないとされました。)

『美談武者八景 矢矧の落雁』月岡芳年作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

やがて、信長が台頭し、尾張統一が進むと、正勝たちも仕える先が限られるようになります。また、信長としても、桶狭間合戦に勝利した後でもそれほど兵力は多くなく、正勝たちのグループは無視できない存在でした。そんなときに両者を結び付けたのが、後の天下人・木下藤吉郎秀吉でした。秀吉・正勝の最初の大活躍の場が、有名な墨俣一夜城築城と言われてきました。しかし近年、このイベントが記載されている史料が限られ(「武功夜話」など」)、その信憑性が疑われていることから、彼らによる築城はなかったという説もあります。(補足1は、秀吉・小六が登場しない「信長公記」の記述、補足2は登場する「蜂須賀家記」の記述)ただ、尾張を統一した信長が、美濃を攻略する流れや、正勝たちのその後のポジションから、同様の活躍があったのではないでしょうか。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

(補足1)十四条合戦の事
永禄四年辛酉五月上旬、木曽川・飛騨川大河打ち越え西美濃へ御乱入、在々所々放火にて、其の後、洲股御要害丈夫に仰せ付けられ、御居陣のところ五月廿三日、井口より惣人数を出し、十四条という村に御敵人数を備へ候。則ち、洲股より懸け付くる足軽ども取り合ひ、朝合戦に瑞雲庵おとゝうたれ引き退く。
信長は夜の明くるまで御居陣なり。廿四日朝、洲股へ御帰城なり。洲股御引払ひなさる。(「信長公記」)

(補足2)九年丙寅秋、右府、諸将を召し、美濃を取ることを議して曰く、吾、砦を洲股河西に構へ、以て進取を図らんと欲す、誰か能く守るものぞと、衆、其の川を阻て敵地に入るを以て之を難ず。右府、密に之を太閤に謀る。太閤、曰く、篠木・柏井・科野諸邑、土豪多し、宜しく収めて我が用と為すべし、臣、請ふ、之を率ゐて砦を守らんと、右府、之を許す。太閤、乃ち土豪及び其の党属千二百余人の姓名を記して以て連む。公及び弟又十郎君と・・・(以下略)(「蜂須賀家記」)

信長は、美濃攻略後上洛しますが、ここで小六は意外な仕事に就きます。秀吉とともに、京都の奉行職になったのです(小六は代理人)。しかも、その働きにより、将軍・足利義昭から褒賞を与えられたのです。槍働きの武将だけではなかった一面が見て取れます。その後は、秀吉配下の武将として、戦いに明け暮れます。秀吉が中国地方の軍司令官格になったときには、播州龍野の大名に取り立てられました。ただ、やはり戦いに明け暮れ、現地を治める暇はなかったようです。本能寺の変を経て、秀吉の天下取りのフェーズになると、正勝は秀吉の参謀役に、子の家政は蜂須賀軍団を率いるようになります。

足利義昭坐像、等持院蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1585年、秀吉軍の四国攻めが終わると、四国のうち、阿波国が家政に与えられました。本来であれば、当然親の正勝に与えられるべきところ、老齢を理由に、子の方になったようです。実際、正勝は前後して病気がちになり、戦にも出られなくなっていました。家政には遺訓を、後見する重臣たちにも家政をよろしく頼む旨、書き送っています(下記補足3)。そして1586年、秀吉の天下統一の完成を見ることなく亡くなりました。残された家政は、阿波国領主として秀吉に仕えますが、阿波国はひとかたならぬ土地柄だったのです。

(補足3)当国の様子・諸式、一書を以て、阿波守へ申し渡し候間、其の意を得られ、申すに及ばず候へども、国衆幷に今度渡海の御牢人衆、御堪忍候様に御心得、肝要に存じ候。阿波守、年、若う候間、何事も、諸事引き取られ、御意見頼みに存じ候。若、又、各々の御才覚にも及ばざる儀候はば、拙者へ仰せ越さるべく候。恐々謹言。(天正十三年十一月三日 西尾利右衛門正吉(家政家老)宛 小六正勝書状)

戦国時代の阿波国

戦国時代に先立つ室町時代には、阿波国の守護は、幕府重臣の細川氏が務めていました。幕府のある京都に近く、細川氏の権力をバックアップする地域でした。細川氏は、水上交通の便がいい吉野川沿いの勝瑞に守護所を置き、ここが阿波国の中心地になりました。

勝瑞城館跡

やがて戦国時代になると、細川氏の配下である三好氏が勢力を強めるようになります。ついには、三好長慶が幕府の権力者に登り詰め、三好政権を確立しました。最近では、長慶は「最初の天下人」と称されています。阿波の拠点、勝瑞城館には弟の実休が控えていて、長慶の危機には援軍に駆け付けたりしました。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、実休・長慶が相ついで亡くなると、三好氏の勢力は衰え、内部分裂を起こします。一時当主がいなくなったため、重臣の一部はその弟を擁立しますが、他の重臣は、土佐国の長宗我部元親と連携したのです。四国統一を目論んでいた元親はこれを口実に阿波攻略を開始し、勝瑞城館は落城しました。

長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三好氏以外の領主たちも、長宗我部になびき、元親は阿波、讃岐、そして伊予と、四国統一をほぼ果たしました。このときから、防御力の弱い平城より、一宮城のような山城が使われるようになります。本能寺の変後、秀吉は信長の後継者となるべく柴田勝家や徳川家康と対峙しますが、元親は反秀吉側に回り、背後から秀吉を脅かしたのです。秀吉は、四国や阿波国の重要性を改めて思い知ったに違いありません。

一宮城跡


四国攻めで元親を降伏させた秀吉は、阿波国に蜂須賀家政を入れました。しかし、まだ若い家政に全てを任せるのではなく、城に関して、2つの施策を実行させました。一つは、阿波国の反乱勢力を抑え込むための9つの支城「阿波九城」の設定でした。そして城主として「蜂須賀七人衆」を送り込んだのです。家政は当初、本城として「九城」の一つ、一宮城に入ったのですが、二つ目の施策として新たに本城を築くことにしました。それが徳島城です。

蜂須賀家政肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城の位置

徳島城築城

秀吉は、四国攻めの後の領地配分をしたとき、「小六の居城は、猪山がいいだろう」と述べています(下記補足4)。そこから徳島城が築かれました。猪山とは、四国の大河・吉野川の下流域のデルタ地帯にある、標高約60mの丘陵でした(現在の「城山」)。地形図で見ると、この丘陵が目立っているのがわかります。戦国時代から小規模な城があったようです。

(補足4)
一、阿波国城々不残蜂須賀小六ニ可相渡候、然者小六居城事、絵図相越候面ハいゝの山尤ニ覚候、乍去我々不見届事候条、猶以其方見計よき所居城可相定、秀吉国を見廻ニ四国へ何頃にても可越候条、其時小六居城よき所と思召様なる所を、其方又ハ各在陣の者とも令談合、よく候ハん所相定、さ様ニ候ハヽ大西脇城かいふ牛木かゝせてよく候ハん哉、小六身ニ替者可入置候、但善所ハ立置悪所ハわり、新儀にも其近所ニこしらへ尤候事、(天正十三年八月四日付羽柴秀吉朱印状写(毛利博物館蔵文書))

城周辺の起伏地図、猪山(城山)がデルタ地帯の中で目立っています

次は、現在の航空写真ですが、城のある中州が残っているのがわかります。当時、この周辺は「渭津(いのつ)」と呼ばれていました。現在でもこの中洲は「ひょうたん島」として親しまれています。

城周辺の航空写真

江戸時代の城の絵図を見ると、当時の地形がもっとよくわかります。中州のど真ん中にお城があります。木曽三川もそうですが、昔の大河流域はこんな感じだったのでしょう。

「阿波国徳島城之図」、江戸時代(出展:国立公文書館)、城が中州にあることがわかります

秀吉はこの地を選んだ理由としては、阿波の新たな中心地にしようとしただけでなく、秀吉の城郭ネットワーク戦略との関連が指摘されています。秀吉の本拠地は、ご存じの通り大坂城だったので、その周りに家臣たちを大名として配置し、城を築かせたり、強化させたりして防御を固めました。蜂須賀もそのうちの一つでした。その城の多くは海や川に面した、水運の便利なところに築かれ、経済の発展や、水軍の運用にも適した立地だったのです。特に徳島は、大坂湾への入口に面した重要な場所でした。家政も、地元出身の重臣に、水軍を編成させています。そして、小田原合戦や、朝鮮侵攻に利用されることになりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

徳島城と大坂城の位置関係

築城の経緯から、工事には他の豊臣大名も動員され、阿波入国翌年の1586年に完成しました。下の図は初期の姿を残す、江戸時代初期の絵図です。この頃の規模は小さく、山の上の防御を固めることが中心でした。最も高いところの本丸には、御殿の他、天守が築かれたと考えられています。当初天守台だったと思われる石垣が残っています。山麓には、家臣の屋敷地や城下町がありましたが、範囲は限られています。多くの家臣が阿波九城に分散していたからです。

「讃岐伊予土佐阿波探索書添付阿波国徳島城図」、出展:徳島大付属図書館 貴重資料高精細デジタルアーカイブ
初期天守台と考えられる弓櫓跡の石垣

それでも、川から攻めてくる敵を想定して、城を、屏風折れの塀で囲み、敵船を、いろんな方向から攻撃できるようにしました。、

屏風折れ塀の現地説明パネル

城と城下の発展

家政は、豊臣大名として小田原合戦、朝鮮侵攻などに参陣しました。しかし秀吉没後は、その進路選択に悩むことになります。関ヶ原の戦いのときには領地返上、大坂の陣のときには豊臣方につこうとしたとも言われます。一方、後継ぎの至鎮(よししげ)は、徳川家康の養女を妻にしていて、関ヶ原では東軍、大坂の陣では幕府方につき、戦功をあげました。結果的に、阿波国が安堵され、淡路国が加増になったのです。家政は、秀吉の恩は忘れがたく、秀吉を祀った豊国神社を維持したそうです。以後、その領地と徳島城は、徳島藩として、蜂須賀氏の下、ずっと続いていきました。

蜂須賀至鎮肖像画、徳島城博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

徳島城の方も、平和な時代の訪れとともに変化がありました。本丸にあった天守が、城下や海を臨む、東二の丸に移りました。山麓には、藩政の中心となる表御殿、奥御殿が建てられました。その手前にも、三重櫓(太鼓櫓)がありました。更にその手前の「鷲の門」が城の正門になります。

「阿波国徳島城之図」の山上部分
「阿波国徳島城之図」の山麓部分

現在、徳島城の建物は残っていませんが、御殿の跡には、徳島城博物館があり、鷲の門も復元されています。そしてなにより、表御殿の庭園はまだ残っているのです。「阿波の青石」と呼ばれる地元で採れる緑泥片岩をふんだんに使った石組みと、海水を取り入れていたという「潮入り庭園」としても知られています。

徳島市立徳島城博物館
復元された鷲の門
旧徳島城表御殿庭園

御殿の周りも、同じ種類の石を使った石垣に囲まれています。他の御殿があるような城の精密な石垣とは違いますが、この城にしかない味わいがあります。

御殿周りの石垣

いわゆる一国一城令が幕府から出されると、支城である阿波九城は廃城になり、分散していた家臣が徳島に集中するようになりました。下の絵図は、ちょうどその頃のものです。初期の頃の絵図より、城下が広くなっています。ひょうたん島の外に新しい町ができていきました。

「阿波国徳島城之図」、江戸時代(出展:国立公文書館)、町がが中州の外に広がっていることがわかります

藩政が安定すると、現在につながる地場産業が発展します。いくつかの要因が重なって、藍産業が栄えました。それから、交通面では駅路寺制度というのが定められました。蜂須賀家政が、八つのお寺を指定して、旅人の便宜を図ったのです。その中には、八十八か所巡礼の札所になったものもあります。お遍路もその頃からありました(下記補足5)。

(補足5)定 駅路山何寺
一  当寺之義往還旅人為一宿令建立候之条専慈悲可為肝要或辺路之輩或不寄出家侍百姓等行暮ー宿於相望者可有似合之馳走事(慶弔3年 6月 12日 各駅路寺宛定め書き)

藍染のハンカチ

そして、お待ちかねの阿波踊りの起源です。家政が、徳島城完成祝いに、無礼講の踊りを許してからという言い伝えがありますが、記録上は、2代藩主の忠英が、町人を招いて盆踊りを見たというのがあります。最近の研究によると、江戸時代後期の盆踊りの一種「ぞめき踊り」が直接のルーツとのことです。

街なかにある阿波踊りのフィギア

「徳島城 その2」に続きます。

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