20.佐倉城 その2

例えば、JRの佐倉駅から佐倉城跡に向かう場合、駅からだと、ちょっとした丘のように見えるのですが、坂を登ってみると、丘の上は意外と広くてびっくりされるかもしれません。他の方から来られる方も、台地上にある城を実感していただきたいです。

特徴、見どころ

例えば、JRの佐倉駅から佐倉城跡に向かう場合、駅からだと、ちょっとした丘のように見えるのですが、坂を登ってみると、丘の上は意外と広くてびっくりされるかもしれません。他の方から来られる方も、台地上にある城を実感していただきたいです。

跡がある丘陵地帯からJR佐倉駅から見ています
駅から丘陵に登る薬師坂

大手門から本丸へ

それでは、大手門跡から城の中心部に向かいましょう。大手門については、土塁が一部残っています。

大手門跡
大手門の古写真、現地説明パネルより
一部残っている大手門の土塁

大手門の内側には、広大な東惣曲輪などがありました。今は学校用地や、駐車場などもある自由広場になっています。自由広場の手前には「佐倉城址公園センター」があって、城についての展示を行っています。自由広場には、幕末には三の丸御殿、そして堀田正睦が晩年を過ごした松山御殿がありました。

自由広場
佐倉城址公園センター

ここから先が、防御が重視された城の中心部、現在の佐倉城址公園です。まずは、空堀が現れます。きれいに整備されていますが、往時はもっと深かったようです。

公園入口の空堀
公園の入口

まずは三の門跡に着きます。ここが城の中心部への第一関門だったのでしょう。三の門の内側が三の丸で、重臣たちの屋敷地だったそうです。三の丸にはくぼんでいる部分があって、これは空堀を埋めた跡のようです。また、開国を進めたタウンゼント・ハリスと堀田正睦の銅像も佇んでいます。

三の門跡
三の門の古写真、現地説明パネルより
空堀の跡
タウンゼント・ハリスと堀田正睦の銅像

次が、二の丸の入口、二の門跡です。二の門の中が二の丸で、幕末より前には藩主の御殿(対面所)がありました。奥の方(北西側)には城米蔵があって、年貢米を収納していました。今でも、城米蔵ものと思われる礎石が残っています。

二の門跡
二の門の古写真、現地説明パネルより
二の丸御殿跡
城米蔵のものと思われる礎石群

さて、いよいよ本丸です、空堀を渡って入口の一の門跡に向かいます。

一の門跡
一の門の古写真、現地説明パネルより

本丸から台地下へ

本丸は周りを土塁に囲まれていて、包まれ感があります。ここは台地の西端に当たるので、奥まで来たという感じがします。ここにも御殿があったのですが、徳川家康が休息したということで、使われたのはセレモニーがあったときくらいでした。

本丸内部
本丸の模型、佐倉城址公園センターにて展示

土塁の上を歩くことができます。一の門跡の方から歩いていくと、まず銅櫓(どうやぐら、あかがねやぐら)跡を通ります。この櫓には伝承があって、江戸城から移築され、しかもそれは江戸城を最初に築いた太田道潅の館「静勝軒」だったとのことです。

銅櫓跡
銅櫓の古写真、現地説明パネルより
銅櫓の模型、佐倉城址公園センターにて展示

次に進んでいくと、天守跡の土台があります。天守は、この土台の上に直接建てられ、片側が土塁にかかっていました。それもあって、外側からは3階、内側からは4階に見えたそうです。当時は「御三階」などと呼ばれていました。天守は、武器を収納する役所や武器庫として使われました。焼失したきっかけも、盗賊が鉄砲を盗みに来たためとのことです(提灯を置き忘れていた)。

天守跡
天守模型、佐倉城址公園センターにて展示

本丸にはもう一つ、角櫓がありました。この櫓も伝承付きで、おそらくは千葉氏の本佐倉城(「将門山なる根古屋城」)から移築されてきたというものです。早くに老朽化して、江戸時代に大修理が行われたそうです。

角櫓跡

本丸の台所門(裏門)跡から外に出ましょう。この門は普段は締め切りだったそうです。

台所門(本丸裏門)跡
台所門模型、佐倉城址公園センターにて展示

ここから、台地の斜面を下っていきます。結構急なのですが、これも佐倉城らしいところです。中腹には道が巡っていますが、これが帯曲輪です。もともとは空堀だったのが、埋まってこのようになったと言われています。そこから本丸を見上げると、すごく高さがあります。わざわざ石垣を作らなくても、これで十分とも思います。

台地を下っていきます。
帯曲輪
帯曲輪から本丸を見上げています

帯曲輪の外側には、南側の出丸(清水出丸)があります。出丸の外を歩いてみると、水堀に囲まれていて、強力な陣地だったことがわかります。カッコよささえ感じます。出丸の外からだと中の様子はわかりづらいですが、中からは外の様子はお見通しです。

南出丸(内部)
南出丸(外観)
南出丸中から外を見ています

帯曲輪に戻って、西側の出丸にも行くことができます。この帯曲輪は、江戸時代当時も、木に覆われて外からわからなかったそうです。西出丸の水堀も土塁も良く残っています。出丸の出入口には「薬医門」という門があります。城の建物だったのですが、一旦別の場所に移築され、元はどの場所にあったかわからないそうです。

西出丸
西出丸の土塁
薬医門

馬出し、空堀を見学

今度は台地の北側に回り込んで、「愛宕坂」から台地に登ってみましょう。ここには城の裏門(搦手門)である田町門がありました。国立歴史民俗博物館への入口でもあります。城の「椎木曲輪」が丸々博物館の敷地になっているからです。もともとこの曲輪は、武家屋敷として使われ、日本陸軍が駐留したときには、兵舎の敷地になっていました。城の特徴(台地上の広い敷地)を生かし、ずっと有効に使われているのです。

愛宕坂
田町門跡
日本陸軍の兵舎だった時代の椎木曲輪模型、国立歴史民俗博物館にて展示

国立歴史民俗博物館は、床面積だけでも3万5千㎡もあり、日本歴史を5つの時代区分で展示しています。しっかり見ようと思ったら一日がかりになりますので、佐倉城跡見学と併せてスケジューリングされてはいかがでしょう。

国立歴史民俗博物館
多賀城の模型、国立歴史民俗博物館にて展示
一乗谷朝倉氏館の模型、国立歴史民俗博物館にて展示

佐倉城の見どころに戻ると、椎木門の前にあった馬出しが復元されています。陸軍によって一旦埋められましたが、発掘調査後、復元されました。周りを囲む現在の空堀は、オリジナルより浅くなっています(5.6m→3m)。長方形の形をしているので「角馬出」とも呼ばれています(長辺121m、短辺40m)。基本的には防御陣地なので、入口は正面にはなく、門につながる根元のところにあります。ここから反撃することもできたのです。

椎木門前の馬出し

椎木門跡から、三の丸に入っていきましょう。また二の丸、本丸へ進んで行くこともできるのですが、左(東)に向かってまた台地を下りましょう。下ったところが「姥ヶ池」です。名前の由来は、江戸時代に家老の娘の乳母(姥)が、その娘を誤って溺れさせてしまい、自身も池に身を投げたという逸話によります。元は湧水とも用水とも言われますが、大手門側と裏門側のルートを分断して、守り易くする役目があったと言われています。江戸時代の頃から「カキツバタ」や「蛙合戦」の名所にもなっていたそうです。

椎木門跡
椎木門の古写真、現地説明パネルより
姥ヶ池

姥ヶ池から大手門跡の方に戻る通路があるのですが、かつての空堀を利用しています。途中から枝分かれするルートがあるのですが、そちらはまだ本当の空堀の底のままです。通路の方に戻って進むと、最初の公園の入口のところに出ます。

空堀を利用した通路
枝分かれした部分は、空堀のままです

武家屋敷、佐倉順天堂まで行ってみよう

今度は、お城の外に出て「佐倉武家屋敷」に行ってみましょう。武家屋敷がある(現)宮小路町は、江戸時代には中級クラスの武士の屋敷地になっていました。現在ここでは、当時からあったものに、上級・下級クラスの屋敷を移築して、合わせて3棟を公開しているのです。

佐倉武家屋敷通り

当時の武家屋敷は官舎のような扱いで、基本的には藩によって維持されていました。武士のクラスによって異なる作りになっていましたが、身分の差をつけるためだけでなく、藩の懐事情も反映していたようです。

旧河原家住宅(上級クラス)
玄関が立派です
旧但馬家住宅(中級クラス)
座敷は立派です
旧武居家住宅(下級クラス)
質素な座敷です

それから、武士たちの通勤路だったと思われる「ひよどり坂」を歩いてみることもおすすめです。

ひよどり坂

最後は佐倉順天堂記念館です。佐藤泰然が開いた医学塾兼診療所の建物の一部が保存されていて、その歴史展示や遺物とともに公開されています。この場所は城下町の外れで、城からかなり離れています。その理由としては、泰然が藩医として招かれたわけではなかったことが挙げられます。他には、泰然の父親が、時の権力者・水野忠邦の政策(三方領地替え)に反対していて、泰然が活動しづらくなっていたのを、堀田正睦が救ったという事情を反映しているのではないかという意見もあります。

佐倉順天堂記念館
佐藤泰然像

当時の佐倉順天堂の模型が展示してあり、規模が大きかったことがわかります。学んだ塾生は、延べ千人を超えるそうです。

佐倉順天堂の模型

当時の治療のメニューと料金表(療治定)が掲げられています。外科手術がメインだったのですが、当時は麻酔に危険性があったため、使わなかったそうです。当時の患者さんは、治りたい一心で耐えたとのことです。

療治定

佐倉順天堂は、東京の順天堂大学の基になりました。しかし、このとなりに今でも「佐倉順天堂」医院が開業しています。佐倉の伝統と改革は受け継がれているのです。

「順天堂」額

私の感想

最初は普通の公園のように見えましたが、回れば回るほど、お城のことがわかってきました。全国的にお城の建物の復元ブームになっていますが、佐倉城跡は敷地がちゃんと保存されているので、活用の仕方はじっくり考えればいいと思います。それに、建物はなくても、城跡の楽しみ方はあるとも感じました。

これで終わります。ありがとうございました。
「佐倉城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

203.前橋城 その2

残念ながら現状では、前橋城に関わる遺跡はあまり残っておらず、史跡としてもよく整備されているとは言えません。しかし、今後の整備に向けた動きも出始めているため、期待を込めて、今回は4つのエリアに分けてご紹介します。

その後

再築前橋城はわずかな期間で取り壊されましたが、その有形無形の遺産は、後の前橋に生かされました。明治時代に、群馬県の県庁を前橋、高崎どちらにするか綱引きがあったときに、城の敷地と、城を誘致した商人たちの活動が、前橋が県庁所在地になる決め手になったからです。城の本丸御殿は、昭和初期まで県庁舎として使われ、その後建て替えられた本庁舎は「昭和庁舎」として今も保存活用されています。その傍らには、都道府県庁舎として2番目の高さを誇る現・県庁舎ビルがそびえています。

県庁舎として使われた本丸御殿の模型(臨江閣にて展示)
昭和庁舎
現・県庁舎ビル

特徴、見どころ

残念ながら現状では、前橋城に関わる遺跡はあまり残っておらず、史跡としてもよく整備されているとは言えません。しかし、今後の整備に向けた動きも出始めているため、期待を込めて、今回は4つのエリアに分けてご紹介します。

風呂川と旧利根川の痕跡

前橋城周辺の地図(Google Mapを利用)

まず、城の初期からあった風呂川と、東側の旧利根川によってできた崖地帯をめぐってみましょう。例えば前橋公園から風呂川に向かう場合、とても急な坂の階段を登っていきます。この坂は、江戸後期に利根川の流路が、風呂川に迫った時にできた崖の痕跡のようです。

風呂川と前橋公園の間の急坂

風呂川は、この周辺では一番高い所を流れており、不思議な感じがします。用水路として作られたこの川の由来によるものなのでしょう。

風呂川
右側の石堤の上を風呂川が流れています。

やがて、明治時代に作られた迎賓館「臨江閣」の前に出ます。臨江閣の庭園は、城の一番北の空堀の底に当たります(当時は「虎ヶ渕」と呼ばれました)。この空堀は、古い利根川の流路の名残りとも言われていて、先ほどの公園と風呂川の間の坂よりも時代が古いことになります。

臨江閣
臨江閣の庭園

風呂川に戻って進んでいくと、空堀の底は遊園地となります。臨江閣の庭園とは地下道でつながっていて、ここもなんとも不思議な空間です。「前橋の恩人」安井与左衛門の顕彰碑もひっそりと佇んでいます。

遊園地の脇を流れる風呂川
空堀の底にある遊園地「るなぱあく」
遊園地と庭園をつなぐ地下道
与左衛門の顕彰碑

風呂川と空堀と別れ、市街地に出ても、崖の痕跡は続きます。国道を越えて商店街に入っていくと、馬場川通りがあります。馬場川は風呂川から分かれ、崖の縁を流れています。この通りの傍らに「船つなぎ石」が展示されていて、利根川が以前この辺りを流れていた時に使われていたそうです。また、この通りの片側の住居の敷地は、通りより一段高くなっていて、崖の地形の特徴がよくわかります。

馬場川通り
船つなぎ石
崖の地形により、一段高くなっている住居の敷地

大手門からの登城ルート

新旧前橋城の範囲(Google Mapを利用)

商店街から少し戻って、大手門から本丸までのルートをたどってみましょう。2021年のビル工事の際、酒井氏時代の前橋城(この記事では以後「旧前橋城」と呼びます)の大手門の遺構が発見されました。保存のため埋め戻されましたが、今後何らかの形での公開が検討されるそうです。なお、再築前橋城の大手門は、現在は国道などになっている場所にありました。

旧前橋城の大手門があった場所
再築前橋城の大手門があった場所

次の登城ルートの関門は「車橋門」です。幸いなことに、この門の石垣の一部が残っています。この門は、旧前橋城でも再築前橋城でも、同じ場所に同じ名前でありました。残っているのは、再築前橋城時代のものです。通るところの幅が狭いのは、区画整理によって、左側の石垣が内側に8m移動させられたからです。

ちょっと見逃してしまいそうな所にあります。
車橋門の石垣

それでは、県庁舎ビルの方に向かっていきましょう。どこからでも見えるので、まるで天守のようでわかりやすいです。県庁舎がある場所は、利根川の浸食の影響で、旧前橋城では三の丸でしたが、再築前橋城では本丸でした。県庁舎ビル(1999年完成)を建設するときには、旧前橋城三ノ門の遺構が発見されました。2001年には、再築前橋城の本城門の土橋と堀の遺構が発見されました。いずれも埋め戻されています。

県庁舎の敷地

現代の前橋城、県庁舎ビルの32階は、展望ホールとして一般に開放されていて、地上127mから、群馬の山々や、前橋の市街地、そして城があったところも見渡すことができます。

県庁舎ビル入口
エレベーターホール
展望ホール
北方向の眺め(赤城山、城跡など)
東方向の眺め(市街地)

残っている土塁を歩く

城の遺構は、少ないながら他にもあります。再築前橋城の本丸と北曲輪の土塁の一部です。県庁舎から近いのは本丸の土塁で、砲台があったところに前橋城跡の碑があり、ここまでは登っていくことができます。ただし、そこから先の土塁上は、保存のため歩くことはできません。

本丸土塁(砲台跡)
本丸土塁の他の部分は、周りを歩いて見学しましょう

県庁の裏手には、ここに旧前橋城本丸の天守があったことを示す説明パネルがあります。その向こう側は利根川が近いですので、ここから先の旧前橋城の本丸敷地は、浸食によって崩れてしまったのでしょう。見学した日の利根川は穏やかに見えましたが、自然の力とはやはりすごいものです。

旧前橋城本丸天守の説明パネル
利根川がすぐ近くです

北曲輪は、前橋公園の一部になっています。西側の土塁の根元から見ると、結構な高さで10m近くはあるでしょうか。この土塁の上は歩けますので、登ってみるといい景色です。しかし、この土塁の北端まで行って下り、改めて西側から見てみると崖の地肌が露出しています。これは、江戸後期の利根川の蛇行により、削られた痕跡のようです。この土塁は、敵からだけでなく、川からも城を守るために築かれたのかもしれません。

北曲輪の土塁(南端)
北曲輪の土塁から見た前橋公園(西側)
土塁北端の根元部分を西側から見ると、利根川によって削られたと思われる崖があります

与左衛門の石堤?

最後に、安井与左衛門が築いたと思われる石堤を見に行ってみましょう。場所はグリーンドーム前橋の北の方、岩神ポンプ場の手前です。この周辺で南北に伸びる石堤のうち、北側の方が古い時代のものと考えられます。現地に説明パネルなどはなく、土木遺産にはなっているようですが、史跡として与左衛門時代のものとは確定されてはいません。現在使われている利根川の堤防はここよりずっと西にありますが、現代でも洪水の被害は発生しています。この石堤は、地域を守るための戦いの原点と言えるのではないでしょうか。

城周辺の地図

与左衛門が築いたと思われる石堤

私の感想

現代の前橋でさえ洪水の被害が発生しているのですから、昔はもっと大変だったと思います。以下にあげる本などを読み、そんなところでも要害の地として築城したのが現在の前橋の基になっていることを知り、今回取り上げてみました。このような歴史を、もっと多くの人にわかってもらえるよう、目に見える形で史跡の整備を進めてほしいと思います。地域の人たちも、先人たちがこんなにがんばっていたことがわかれば、活力が沸いてくるのではないでしょうか。

大渡橋から見た県庁と前橋城跡

リンク、参考情報

幻の名城 前橋城、前橋まるごとガイド(前橋観光コンベンション協会)
・「前橋城考/野本文幸著」上毛新聞社
・「知られざる13の謎に挑む 前橋歴史断簡/野本文幸著」上毛新聞社
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「企画展 越山、上杉謙信侵攻と関東の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館
・「関東の華・前橋城」前橋市観光協会リーフレット
・「前橋城絵図帳 前橋市立図書館所蔵資料」前橋市教育委員会
・「まえばし地下マップ(中央地区)」前橋市教育委員会リーフレット

これで終わります。ありがとうございました。
「前橋城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

173.新高山城 その2

現在、新高山城跡はビジター向けにハイキングコースとしてよく整備されています。城のオリジナルの大手道と同じか似たルートのようです。大手道入口から小道に入っていくと、右側にある峰に沿って進んでいきます。

特徴、見どころ

自然の地形を生かした防御システム

現在、新高山城跡はビジター向けにハイキングコースとしてよく整備されています。城のオリジナルの大手道と同じか似たルートのようです。大手道入口から小道に入っていくと、右側にある峰に沿って進んでいきます。この峰の上には荒神社(こうじんしゃ)という神社がありますが、かつては敵から大手道を防御するための出丸であったと言われています。

城周辺の地図

大手道入口
右側の峰に沿って進みます
峰の上の荒神社

道に戻ると大きな案内板があり、大手道はそこから左側にある別の峰に沿って進んでいきます。この峰は、鐘の段という曲輪として使われていて、大手道をコントロールしていました。この曲輪はこの城では最も古い部分の一つと言われていて、小早川氏の以前の本拠であった高山城の支城として使われていたかもしれない場所です。

途中にある案内板
左側が鐘の段
鐘の段
案内図における鐘の段の位置(赤丸内)

大手道は次には谷沿いの川にかかった橋を渡り、また別の峰の方に移動します。かつてここにあった橋は、戦いが始まれば意図的に落とされたことでしょう。道は今度は右側にある三段構造となっている峰沿いに進みます。ここにはかつて守衛のための番所があって、兵舎のような建物があったと思われます。ここまで見た限りでは、大手道は自然の地形を生かして、強固に守られていたことがわかります。

谷川を渡って進みます
右側が番所跡
番所があった場所
案内図における番所跡の位置(赤丸内)

小早川隆景が父親をもてなした場所

そうするうちに、山の中腹にある「匡真寺(きょうしんじ)跡」と呼ばれる広々とした場所に至ります。この寺は1577年に、城主の小早川隆景によって、父親の元就の死後、その菩提を弔うために建築されました。新高山城が廃城となった後は、三原城に近い場所に移されました。地面の上には寺に由来すると思われる多くの瓦の破片や、一部だけ残っている石や岩が見えます。補足すると、1561年の元就が城に滞在した記録によれば、城には隆景の兄、隆元が宿泊した寺があり、先ほど述べた「匡真寺」と同じか似たような名前でした(「巨真寺」または「栖真寺」と記載されています)。よって歴史家は、儀式が開かれた会所の建物も、当時この場所にあったと推測しています。

匡真寺跡
瓦の破片が散乱しています
石垣の一部や加工された岩が残っています
案内図における匡真寺跡の位置(赤丸内)

更に進んでいくと、ジグザグの道を経由して城の頂上部に近づいていきます。やがて、右側(東側)ある本丸と左側(西側)にある西の丸に挟まれた、中の丸に着きます。この曲輪は、城の要の場所であったようです。西の丸は、この方向から城に向かうもう一つのルートを監視し、コントロールするために築かれました。このルートはこれまで登ってきた大手道よりはなだらかです。よってその斜面には多くの竪堀が作られ、敵が城を容易に攻められないようになっていました。ところが、これら西の丸周りの史跡を見るにはガイドをお願いする必要があります。この辺りはまだ一般のビジター向けには整備されていないからです。

中の丸
西の丸
案内図における中の丸の位置(赤丸内)

石垣が一部残る本丸

ついに本丸に向かって登っていきます。本丸は、大きな石や岩によって築かれた石垣によって囲まれていましたが、ほとんどは新高山城が廃城となったときに撤去され、三原城に持ち去られました。しかし、足下の部分にはいくらか残っている石垣を見ることができます。オリジナルの石垣がどんなだったか想像はできるかもしれません。本丸の入口は、桝形と呼ばれる四角い防御のためのスペースとなっています。かつては大手門の建物もありました。この大手門は、移転した匡真寺(現在は宗光寺という名前になっています)に移築され、寺の山門になったと言われています。本丸の内部は何もありませんが、角の方に礎石群が残っています。これは恐らく、御殿か、隆景が父親をもてなした別亭の基礎として使われたのではないかと思われます。

本丸に向かいます
足下にのみ残る崩れた石垣
入口に向け登っていきます
内部から見た桝形、わずかにその形が残っています
本丸内部に残る礎石群

「新高山城その3」に続きます。
「新高山城その1」に戻ります。