81.松山城 その3

城の建物と石垣両方を堪能

特徴、見どころ

本壇とそこに立つ天守

この城のハイライトは、本丸後方にある天守を含む本壇でしょう。まさに壮観であり、現存する建物と復元された建物がうまくミックスされています。

本壇正面

本壇周辺の地図

天守に到達するには一ノ門、二ノ門、三ノ門(いずれも現存)がある本壇内部のジグザグの通路を通っていかねばなりません。その途中には狭間を備えた現存する土塀もあります。狭間からは(昔の守備兵がそうしたように)他のビジターの姿も見えたりします。

一ノ門
二ノ門
三ノ門
現存する筋鉄門東塀(すじがねもんひがしべい)
狭間から人の姿が見えます

そうするうちに天守中庭に到着します。この天守は連立式なので、この中庭は大天守、小天守、その他の櫓群に囲まれていることになります。敵がそれまでに複雑なルートを辿って中庭に着いたとしても、ここでやられてしまうでしょう。

天守群への入口、筋鉄門(すじがねもん)
中庭

現在のビジターは、大天守の地下室である穴蔵から入り、廊下のようになっている他の建物を城に関する展示を見ながら歩いて回ります。実はここ(連立式天守)にある大天守以外の建物は1933年の放火により燃えた後復元されたものです。その際オリジナルと同様に再建されました。よって、そう言われなければ復元されたものとは思えないかもしません。

大天守の穴蔵
連立式の他の建物を先に回ります
復元された小天守への階段
小天守二階
小天守の屋根裏
小天守から中庭を見下ろしています

連立式の建物群を一周した後は、現存する天守にもう一回入ります。最上階の三階に上がるには、急な木造の階段を登っていきます。最上階は開放的で、そこからの景色は更にすばらしいです。

大天守一階
大天守二階
最上階への階段
最上階内部
大天守から西側の眺め(手前が連立式の建物群、奥が市街地と瀬戸内海)
大天守から南側の眺め(手前が本丸、奥が市街地)

素晴らしい石垣群

もしお時間があれば、本丸の裏側の方も見ていただきたいです。こちらにもいくつもの現存または復元建物があるからです。例えば、野原櫓はこの城では最古の部類に入る建物です。二階建ての望楼式の櫓としては唯一の現存事例となります。

本丸周辺の地図

本壇の裏側(左が連立式天守の北隅櫓、右が南隅櫓)
野原櫓

また、搦手門にあたる復元された乾(いぬい)門から外に出て、大手門跡の方に向かって歩いていくと、道すがらすばらしい長大な高石垣を眺めることができます。縦のラインはまるで扇のようで、横のラインはまるで屏風のようでとても美しいです。しかしもともとは城を攻撃する敵を効果的に撃退できるためにこのように作られました。

乾門
本丸北西部分の石垣、向こうに見えるのは野原櫓
本丸北東部分の石垣、一番古い部分とのことです
本壇近くの本丸石垣、見えている建物は本壇二ノ門
石垣が延々と続きます
本丸巽櫓下の素晴らしい石垣

最後に、山麓の方に戻られるときには、県庁裏口を通ってみることをお勧めします。このルートはよく整備されていますし、現存する南登り石垣を間近に見ることができるからです。北側の登り石垣は残念ながらほとんど破壊されてしまったのですが、南側のものは今でも健在で、230m以上もの長さで山坂を覆っています。洲本城彦根城米子城など他の城でも登り石垣が現存していますが、松山城のものはもっともコンディションが良いと言われています。

県庁裏口ルート
ルートに沿っている登り石垣
こちらも延々と続いています
彦根城の登り石垣

私の感想

松山城は、松山市のもっとも有名なシンボルの一つです。市街地を歩いて回ってみると、ほとんどどこからでも山上の建物群を仰ぎ見ることができます。更に、そこに行って見てみると、過去の人たちと同じように、今でも城がどのように築かれ使われたのか理解し且つ追体験できるのです。これは松山市が大変な努力をして、現存している建物などを維持するだけなく、多くの建物を元通りに復元しているからです。私自身もこの城から多くを学びましたし、是非実際に行って見ていただきたいです。

松山城の天守と本壇

ここに行くには

車で行く場合:松山自動車道の松山ICから約30分かかります。公園内に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR松山駅か伊予鉄道松山市駅から、道後温泉行の市電に乗り、大街道(おおかいどう)停留所で降りてください。公園までは歩いて約5分ほどです。
東京または大阪から松山市まで:飛行機を使い、空港からバスかレンタカーで行かれた方がよいと思います。

リンク、参考情報

松山城
・「よみがえる日本の城10」学研
・「日本の城改訂版第10号」デアゴスティーニジャパン
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書

これで終わります。ありがとうございました。
「松山城その1」に戻ります。
「松山城その2」に戻ります。

157.八幡山城 その1

悲劇の関白、豊臣秀次の城

立地と歴史

叔父の秀吉に翻弄された人生

八幡山城は、現在の滋賀県にあたる近江国の琵琶湖沿いにありました。この城は、悲劇の関白とされる豊臣秀次によって築かれました。彼は、15世紀後半の天下人であった豊臣秀吉の甥であり、彼の母親ともが秀吉の姉でした。彼の一生は秀吉に翻弄され続けましたが、この城と、現在の近江八幡市となる城下町を残したのです。

城の位置

秀次は、戦国時代の1568年に生まれました。その当時、叔父の秀吉は有力戦国大名の織田信長に仕えていました。1572年、秀次が4歳のとき、秀吉により近江国の宮部氏のところに養子に出されました。宮部氏を織田信長の味方に引き入れるためです。これは当時の武将にとって普通のやり方でした。しかし、秀吉の場合は自分の子どもがいなかったので自分の甥を送り込んだのです。その後秀次は、信長と秀吉が侵攻しようとしていた四国にいた三好氏に再び養子に出されました。ところが、1582年に起こった本能寺の変により信長が殺され、状況が劇的に変化し始めます。秀吉は自分が天下人になろうと画策し、今度は秀次に自分の部将となるよう求めました。秀次は、叔父の期待に応えるため懸命に戦い、1584年の長久手の戦いでは手痛い敗北を喫したりしました。1585年に秀吉が天下人として関白に任官したとき、秀次は近江国に大きな所領を与えられました。秀次は、秀吉の指導もあり、本拠地として新しい城を築きました。それが八幡山城でした。

豊臣秀次肖像画部分、瑞泉寺像 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城、城下町、水路を新しく建設

この城が築かれた山はもともと八幡山と呼ばれていました。日牟禮(ひむれ)八幡宮が山頂にあったからです。よって、城を築くのに最初にやったことはその神社を山麓に移すことでした(もともと山麓にも建物があり、そこに統合したという説もあります)。この山は標高が294mで、麓からの比高は180mありました。そして非常に急峻であり、城を守るには適していました。本丸が山頂に築かれ、そこには天守や御殿があったと言われています。そして二の丸、北の丸、西の丸が、山頂から広がった峰に沿って築かれました。これらの曲輪は総石垣造りでした。また、出丸が西の丸の下の方に築かれました。それに加えて、山麓には秀次のための豪華な御殿が築かれました。山頂は居住には適さなかったからです。その御殿の前には、安土城のように長く真っ直ぐな大手道が作られました。

八幡山城想像図、現地説明板より
安土城の大手道

秀次はまた、山の傍らに城下町を建設するために、廃城となった安土城の城下町の商人を新しい町に移しました。市街地は、近代都市のように碁盤の目状に区切られ、商売や居住の利便性が高まりました。秀次は、城と町の間に、琵琶湖とつながる八幡堀を開削しました。この堀は基本的には防衛のためでしたが、水上交通にも使われ、その結果商業が栄えたのです。この町は、城が廃城となった後でも繁栄を続けました。

近江八幡惣絵図、近江八幡市立資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の八幡堀

短い栄光と秀次切腹事件

秀次は、1590年に秀吉の跡継ぎとしてついに関白となり、更に大きな領地(尾張国、本拠地清州城)に移っていきました。これは、秀吉の実子や養子であった男子が全て若くして亡くなってしまったからです。秀次は、多くの貴族や大名たちとよく交際し、秀吉の後の次の天下人たろうとしました。ところが、1593年に秀吉の最後の子、秀頼が誕生すると、再び状況が激変します。1595年、秀頼は突然、秀吉の奉行たちに秀吉への謀反の疑いにより召喚されました。そして、秀吉と会うこともないまま、高野山に送られ、切腹を強要されたのです(自らの意思という説もあります)。秀吉は、秀次のほとんど全ての妻たちと子どもたちを罪人とて処刑するよう命じました。秀次と関わりがあった多くの貴族や大名たちも罰せられました。秀次の母であり、秀吉の姉でもあったともは悲嘆にくれ、一人で京都に瑞龍寺を設立し、秀次とその家族の菩提を弔いました。

高野山での秀次を描いた絵画、月岡芳年作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在は八幡山城跡にある瑞龍寺

ところが、秀次による謀反の証拠は一切見つかりませんでした。この事件が起こったのは、秀次が殺生関白と呼ばれるようなことをしたからだという話もありますが、これも極めて不確かです(名刀で辻斬りをしたとか、あるいは単に狩りが禁止されている期間にそれをやったという類いのものまで)。結局のところ、最後は狂気の独裁者と化した秀吉の犠牲者となったか、奉行や大名たちの争いに巻き込まれたということのようです。秀吉は、秀次の後、京極氏が引き継いでいた八幡山城の破壊さえ命じました。京極氏は、別の城である大津城に移らざるを得ませんでした。ここに、大津城から天守が移されたという彦根城に関して興味深い話があります。徳川幕府が建てた彦根城から、金箔が押された豊臣形式の瓦が発見されたのです。徳川と豊臣は対立していたので、そんなことは本来あり得ないはずです。しかし歴史家の中には、秀次が建てた天守か他の建物が京極氏によって大津城に移されて使用されていたものが、最後は彦根城にもたらされたのではないかと考えている人もいます。

大津城天守が移されたと伝わる彦根城天守

「八幡山城その2」に続きます。

50.彦根城 その3

彦根市の多大なご努力に感謝尊敬します。

特徴、見どころ

城の裏手の守護神、西の丸

彦根城には、もっと多くの見どころがあります。本丸の後方には西の丸があります。ここには、城の裏手を守るための西の丸三重櫓が現存しています。この櫓の前には、城の正面側と同じようにもう一つの大堀切があり、橋がかけられています。この城は、正面も裏手も両方抜かりなく防御されていたのです。

城周辺の航空写真

西の丸三重櫓
櫓の前の大堀切
大堀切を渡る橋
櫓の三階内部
三階からの眺め

広大なかつての城の正面

それから、表門と反対側の城の南西部分を歩いて回られてはいかがでしょう。そこには、中堀と内堀に囲まれた広大な敷地が今でも残っています。堀沿いを歩きながら天守を見上げてみるのもいいと思います。中堀を渡ったところには京橋口門跡があり、内堀を渡ったところには大手門跡があります。他にも見どころがいくつもあります。この辺りはもともと城の正面であり、この方向のはるか先には豊臣氏がいた大坂城があり、これに対抗するためにこの城が建てられたのだと実感できます。

京橋口門跡
中堀と内堀の間の敷地
大手門跡
中堀からのもう一つの入口、船橋口門跡
中堀の外側から西の丸三重櫓を見上げる
中堀の外側から天守を見上げる

その後

明治維新後、彦根城は日本陸軍の管轄となり、売却されることになっていました。1878年に明治天皇が彦根を訪問したとき、この城が失われるのを残念がり、保存することを命じました。そのため、この城は皇室財産となり、その後は井伊家や彦根市に引き継がれました。1945年の第二次世界大戦のとき、米軍は8月15日の夜に彦根空襲を計画していました。まさに昭和天皇が終戦を宣言したその夜のことだったのです。彦根城は天皇の決断により、二度救われた格好になりました。彦根市は現在、城を世界遺産に登録するための活動を行っています。

ライトアップされた彦根城
天秤櫓前の大堀切
本丸の天守
城にある庭園、玄宮園

私の感想

彦根城を訪れた時、天守だけでなく、ほとんどの現存櫓の中に入ることができ、とても満足しました。他の城に比べるととても珍しいことだったからです。そこで、そのことについて係員の方に聞いてみたところ、城の建物に残っていた物は、全て彦根城博物館に収蔵したため、ビジターを入れることが可能になったというお答えでした。私はそれで納得し、彦根市が未来永劫この城を保存継承していくための多大なご努力に対して、改めて敬意を表したい思いです。

天秤櫓
天秤櫓の内部
太鼓門櫓の入口
西の丸三重櫓
西の丸三重櫓の内部
本丸から見た彦根城博物館

ここに行くには

車で行く場合:名神自動車道の彦根ICから約10分のところです。城がある区域にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR彦根駅から歩いて約15分かかります。
東京から彦根駅まで:東海道新幹線に乗り、米原駅か京都駅で琵琶湖線に乗り換えてください。

馬屋のとなりにある駐車場

リンク、参考情報

国宝 彦根城、公式ホームページ
・「彦根城を極める/中井均著」サンライズ出版
・「よみがえる日本の城22」学研
・「日本の城改訂版第6、128号」デアゴスティーニジャパン
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書

これで終わります。ありがとうございました。
「彦根城その1」に戻ります。
「彦根城その2」に戻ります。

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