204.佐和山城 その1

滋賀県彦根市にある城といえば「彦根城」となるでしょうが、もう一つ歴史上重要な城がありました。佐和山城です。城跡にはほとんど遺物が残っていませんが、最後にその役割を彦根城に引き継いだためと見るべきでしょう。この記事では、佐和山城の歴史を4つの時代区分で説明していきます。

立地と歴史

滋賀県彦根市にある城といえば「彦根城」となるでしょうが、もう一つ歴史上重要な城がありました。佐和山城です。彦根駅をスタート地点とした場合、彦根城は西口から向かいます。佐和山城(跡)は、東口の方に行くと、佐和山城の案内と、城があった佐和山が目に入ってきます。それでは、佐和山城といえば、何を思い浮かべるかというと、やはり「石田三成」ということになるでしょう。「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近と佐和山の城」という俗謡が有名です。しかし、この城は三成の時代のもっと前から、重要な役割を果たしていたのです。そして、その役割は変化しながら三成に受け継がれたのです。城跡にはほとんど遺物が残っていませんが、最後にその役割を彦根城に引き継いだためと見るべきでしょう。この記事では、佐和山城の歴史を4つの時代区分で説明していきます。

彦根城
佐和山城跡

南北近江の境目の城

佐和山城があった近江国(現在の滋賀県)は、京都に近く、早くから産業(農漁工商)や交通(水陸)が発達していました。よって領主や城の数も多く、室町時代には南近江・北近江それぞれに守護が置かれ、分割統治されていました。南近江は六角氏、北近江は京極氏で、北近江の範囲は京極5郡(伊香・浅井・坂田・犬上・愛知)と呼ばれたりしました。戦国時代になると、家臣の浅井氏が京極氏に取って代わり、戦国大名として六角氏と対立しました。佐和山城は、その南北近江の国境近くにあり(位置としては坂田郡)、両勢力の争奪の対象となりました。似たような位置づけの城としては、近くの鎌刃城が挙げられます。

近江国の範囲と城の位置

鎌刃城跡

佐和山城が最初に築かれたのは、鎌倉時代に遡ると言われています(下記補足1)。「境目の城」として現れるのは、1552年(天文21年)のことです。当時は六角氏の勢力が大きく、佐和山城は六角氏が有していました。その年に当主の六角定頼が亡くなると、跡継ぎの義賢は佐和山城を拠点(後詰)に北近江の浅井久政領に攻め込みます。ところが、逆に久政の反撃を受け、佐和山城は浅井氏のものになりました。その後、両者は攻防や和睦を繰り返しますが、佐和山城はおおむね浅井氏が維持しました。1561年(永禄4年)以後は、浅井氏の重臣、磯野員昌が最前線の城として守っていました。

(補足1)佐保山(佐和山)ハ昔佐々貴十代ノ屋形太郎判官定綱ノ六男佐保六郎時綱居住ノ所ナリ(淡海温故録)

江戸時代の浮世絵に描かれた六角義賢  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浅井久政肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸時代の浮世絵に描かれた磯野員昌 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

六角氏の観音寺城、浅井氏の小谷城・鎌刃城は、早くから石垣が導入された事例として知られています。もしかすると、佐和山城にもこのころから石垣が築かれていたかもしれません。

小谷城の石垣
鎌刃城の石垣

信長の近江国での居城

やがて織田信長が台頭すると、佐和山城も新たな局面を迎えます。浅井家の当時の当主、浅井長政は信長と同盟を結び、1568年(永禄11年)の信長上洛時には、宿敵の六角義賢を駆逐しました。このとき、信長は佐和山城に入り、長政と初対面したと伝わります。ところが、2年後の1570年(元亀元年)に信長が朝倉氏を攻めると、突如長政は信長に敵対します。同年6月、信長・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で姉川の戦いが起こり、信長方が勝利しました。磯野員昌は翌年2月まで、佐和山城に籠城しますが、ついに降伏開城しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

以降、信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配置しました。佐和山城は、東西日本を結ぶ東山道が傍を通っていて、当時の信長の本拠地・岐阜城と京都の中間点に当たりました。信長にとっても重要な拠点だったのです。それだけでなく、信長は佐和山城に頻繁に滞在しました。信長の伝記「信長公記」には、元亀2年以後13回も信長が滞在した記録があります。同国に自身の本拠、安土城を築くまでは、佐和山城を近江国での居城としていたのです。

丹羽長秀肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特に、1573年(元亀4年)5月からは、大船建造のため、2ヶ月も滞在しています(下記補足2)。この当時は、琵琶湖の付属湖の一つ、松原内湖(まつばらないこ)が、佐和山城のすぐ近くまで入り込んでいました。その松原で、信長は陣頭指揮を取り、長さ約53メートル、幅約13メートルもの当時としては巨船を建造したのです。信長は早速、7月6日にその船で坂本まで乗り付け、26日には高島攻めにも使いました。ところが、その大船の活躍の記録はそれきりで、3年後には解体され、十艘の小舟に作り替えられてしまったのです(下記補足3)。湖で使うには大きすぎて、入れる港や場所が限られたためです。それでもその後、城主の丹羽長秀は安土城普請の総奉行となり、大船建造の棟梁・岡部又右衛門は天主建築の大工頭を務めました。

(補足2)五月廿二日、佐和山に御座を移され、多賀・山田山中の材木をとらせ、佐和山山麓の松原へ勢利川通り引下し、国中鍛冶、番匠、杣(そま)を召し寄せ、御大工岡部又右衛門棟梁にて、舟の長さ三十間・横七間、櫨(ろ)を百挺立てさせ、艫舳(ともえ)に矢蔵を上げ、丈夫に致すべきの旨、仰せ聞かせられ、在佐和山なされ、油断なく夜を日に継仕候間、程なく、七月五日出来訖。事も生便敷(おびただしき)大船上下耳目を驚かす、案のごとく(信長公記)

(補足3)先年佐和山にて作置かせられ候大船、一年公方様御謀反の砌、一度御用に立てられ、此上は大船入らず、の由候て、猪飼野甚介に仰付けられ取りほどき、早舟十艘に作りをかせられ(信長公記)

大船の模型、安土城考古博物館にて展示

信長は後に、安土城を中心とする琵琶湖岸の城郭ネットワークを構築し、支城には重臣を配置します。佐和山城は水上交通の拠点でもあったので、その中でも最重要の支城の一つになりました。佐和山城跡からは、信長時代のものと思われる瓦片(コビキA)が発見されています。瓦葺きの建物があったということです。他の琵琶湖岸の支城、坂本城には「天主」があったという記録があるのと、信長が長期滞在していることから、佐和山城にもこの頃から「天主」があってもおかしくはありません。一歩譲って、石垣の上に、信長のための御殿はあったのでしょう。

安土城天主模型、安土城郭資料館にて展示

秀吉領国の最前線→そして三成登場

1582年(天正10年)本能寺の変が起き、信長が明智光秀に討たれますが、その後は豊臣(羽柴)秀吉が天下統一を進めます。1584年(天正12年)に、徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが起きたときには、近江国は秀吉領の最前線に当たりました(味方の池田氏が美濃国にいましたが)。佐和山城には、秀吉の重臣・堀秀政が入っていました。秀政が出陣するときには、多賀秀種を城代としていました。秀種は、後に大和国(奈良県)の宇田松山城を整備したことでも知られています。この頃「広間之作事」を行ったという記録があるので、佐和山城の拡張も行ったのでしょう。(堀秀政書状、多賀文書)

堀秀政肖像画、長慶寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
多賀秀種肖像画、石川県立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇陀松山城跡

翌年には、近江国に当時の秀吉の後継者候補・豊臣秀次の居城・八幡山城が築かれました。佐和山城には、秀次を補佐する堀尾吉晴が配置されました。吉晴は、後に浜松城の天守・石垣を整備した人物です。家康との緊張関係は続いていたため、佐和山城も更に強化されたと見るべきでしょう。関ケ原の戦いのときには天守があったことが記録されていますが(伊達家文書・結城秀康書状)吉晴の時代までに整備されていたのではないかという意見もあります。天守は5層であったという伝承もありますが(西明寺絵馬)、山上の天守なので3層程度であろうという推定もあります(中井均氏など)。

八幡山城跡
堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浜松城の復興天守と現存石垣
佐和山の山麓にある5層天守の模型

1590年(天正18年)の小田原合戦により秀吉の天下統一がなされると、家康が関東に移り、秀次とその家老たちも東海地方に移っていきました。秀吉の家康に対する前線が東に移動したことになります。その空いた近江国は秀吉の直轄領になりますが、その代官として佐和山城を任されたのが石田三成だったのです(彼自身の領地は美濃国にありました)。そして文禄の役(朝鮮侵攻)の後、1595年(文禄4年)頃、佐和山城を含む北近江の大名(約20万石)となりました。三成は文禄の役のとき、他の奉行とともに朝鮮に渡り、中央と現地との調整に奔走していて、その論功とも考えられます。

石田三成肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三成自身は秀吉を支える最側近であり(秀吉が病のときには片時も離れることを許さなかったといいます)、政権の奉行として国内外の政策(各大名の取次・指導、太閤検地、朝鮮侵攻など)に多忙であり、城にはほとんどいませんでした。そのため城を守っていたのは、父親の正継や兄の正澄でした。領地の統治は、家臣の嶋左近などに任せていました。

石田正継肖像画(写)、妙心寺寿聖院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、その方針については、三成が1596年(文禄5年)に領内に発布した掟書が残されています。
その掟書には、主には以下のことが定められていました。
・領主側の夫(人足)遣いの制限
・検地帳記載者に対する耕作権の保証
・年貢率の決定プロセスの明示化
・升の公定と統一
・身分確定と居住地の固定化
・百姓訴訟権の保証(目安)など
領民として認められる権利と、それに対応する義務が明確化されていました。他の大名と比べ、きめ細かさが際立っていて、三成が優れた官僚・民政家だったことが伺われます。三成の時代には、城全体を惣構(土塁・堀)で囲んだという記録があり(須藤通光書状)これが城の完成形と言われています。大手門や城下町は、もともと東側の山麓にありました。しかし、三成の居館は西側にあったとされるので、城の大手や城下町が、西側に移動または拡張したとも考えられます。

「佐和山城古図」彦根市立図書館蔵

井伊家つなぎの城

秀吉が亡くなると、三成は豊臣政権の中枢である5奉行の一人となりました。ところが、いわゆる「三成襲撃事件」の収拾策として、佐和山に隠退となりました。その後はご存じの通り、西軍の総大将として、1600年(慶長5年)9月15日、関ケ原で家康と戦い敗れてしまいました。しかし、総大将は大坂を動かなかった毛利輝元であり、三成は現地司令官として悪戦苦闘したという見方もあります。三成は佐和山城に戻れず、北近江の領内に潜伏しているところを捕縛され、京都で斬首となりました(嶋左近は関ケ原で戦死)。佐和山城は、関ケ原の2日後、東軍に包囲され落城しました。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦後、三成の領地は、家康の筆頭家老ともいうべき井伊直政に与えられました。今度は、大坂に居座る豊臣家に対する最前線・包囲網という位置づけでした。やはり、この地は家康にとっても重要な拠点だったのでしょう。そして、家康と井伊家は、新しい拠点として彦根城を築城します。しかし、井伊直政は当初、佐和山城に入城し、1602年(慶長7年)にそこで亡くなったのです。直政の家老たちの屋敷も、佐和山の山上にありました。彦根城を築城したのは、跡継ぎの直継なのです。

井伊直政肖像画、彦根城博物館 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐和山城の建物や石垣は、彦根城に部材として転用されました(下記補足4、5)。佐和山の南側の斜面は、不自然にえぐられていますが、石垣を搬出する経路だったのではないかという意見があります(中井均氏)。三成の城であったため、徹底的に破壊されたとの見解が多いですが、むしろ利用されたと言うべきでしょう。佐和山城の役割は、彦根城に引き継がれたのです。佐和山の山麓には、井伊家の菩提寺である清凉寺と龍潭寺が建てられ、山自体も「御山」として彦根藩により維持されました。山は今でも、両寺の所有となっています。

(補足4)石垣ノ石櫓門等マテ佐和山・大津・長浜・安土ノ古城ヨリ来ル(井伊年譜)

(補足5)本丸之天守茂只今之より高ク御拝領之後御切落シ被遊候由、九間御切落とも云又七間とも申候実説相知レかたく(古城御山往昔咄聞集書)

城周辺の起伏地図

清涼寺
龍潭寺

リンク、参考情報

・「近江佐和山城・彦根城/城郭談話会」サンライズ出版
・「近江の山城を歩く/中井均編著」サンライズ出版
・「よみがえる日本の城22」学研
・「石田三成伝/中野等著」吉川弘文館
・「歴史群像153号、戦国の城 近江佐和山城」学研
・「信長と家臣団の城/中井均著」角川選書
・「週刊日本の城改訂版第21号」デアゴスティーニジャパン
・「堀尾氏ゆかりの城館を辿る」堀尾吉晴公共同研究会
・「佐和山城と石田三成/米原市柏原宿歴史館」稲枝地区公民館講座資料
・「文化財教室シリーズ124 近世の古城Ⅲ 佐和山城」滋賀県文化財保護協会
・「埋蔵文化財活用ブックレット5(近江の城郭1) 佐和山城跡」滋賀県教育委員会」
・「びわこの考湖学22・23」産経新聞滋賀版
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫

「佐和山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

118.忍城 その3

忍城周辺のお勧めスポット

特徴、見どころ

石田堤

石田堤周辺の地図

城の近くにある、忍城の戦いに関する歴史スポットにも行かれてはいかがでしょうか。一つは石田堤跡で、忍城跡から南東に約4km離れたところにあります。その戦いのときに石田三成が築いた28kmあったとも言われる堤のうち、一部分の300m近くが残っています。

堤沿いにある「石田堤歴史の広場」
江戸時代末に建てられた石田堤碑

その堤は、北側を川に南側を道に沿っています。そして、上には松の木が植えられていて、古い街道であることを示しています。江戸時代には日光街道の脇街道として使われ、それ以前には中山道そのものであったとも言われています。

堤の北側にある川
南側の街道と堤上にある松並木

現存する堤の端にあって、川にかかっている堀切橋は、忍城の守備兵が三成に対抗するため、堤を切って中の水を溢れさせた場所とも伝わっています。

堀切橋

さきたま古墳群

もう一つのお勧めのスポットは、忍城よりずっと早い5世紀から7世紀にかけて築かれた「さきたま古墳群」です。しかし、忍城と関係しているものがあります。丸墓山古墳は古墳群の一つで、円墳としては日本最大であり、高さ17m、直径は105mあります。忍城の戦いが起こったとき、三成はここに本陣を置き、堤の工事を指揮しました。実際、この古墳の頂上からは再建された忍城の三階櫓の上層部分を遠くに眺めることができます。三成にとっては、水攻めの状況を見て取るのに格好の場所であったでしょう。古墳への参道もまた、石田堤の一部であったと言われています。

さきたま古墳群周辺の航空写真

丸墓山古墳
丸墓山古墳の頂上部分
丸墓山古墳から忍城方面の景色
忍城三階櫓をズームアップ
石田堤の一部と言われる丸墓山古墳への参道

更には、鉄砲山古墳は江戸時代末期の忍藩の歴史に関わっています。藩士たちは、この古墳の側面を加工して鉄砲の砲術訓練をしていました(「角場(かくば)と呼ばれていました)。江戸湾にある品川台場などでの防衛任務の準備をしていたと思われます。

鉄砲山古墳
鉄砲山古墳の平面図、現地説明版より、濃紺部分が角場

その後

明治維新後、忍城は廃城となり、水城であった部分は埋められて、近代的公園や建物がある場所に変わっていきました。これはこの都市を近代化するのに必要なことだったのでしょう。市の名前は、日本の伝統的な靴下である「足袋」を生産して栄えた地区の名前から、「行田」となりました。

行田足袋  (licensed by katorisi via Wikimedia Commons)
足袋の製造現場を再現した展示(行田市郷土博物館)
行田市に残る足袋倉

公園には一時球場がありましたが、城にかつてあった三階櫓のような外観を持つ行田市郷土博物館に置き替えられました。市の観光施設として、博物館周辺には鐘楼、門、塀なども復元されています。

1970年代の本丸周辺の航空写真

現在の本丸
行田市郷土博物館の入口

私の感想

忍城の戦いの結果は、1590年に秀吉が天下統一のために関東地方に侵攻したときの唯一の失敗と言われてきました。そしてそれは石田三成が愚かな武将だったからともされています。しかしその評価は、1600年の関ヶ原の戦いで三成が徳川家康に敗れたという結果から後付けされたものであって、正当とは言えません。三成は忍城の戦いにおける秀吉の命令の忠実な実行者であり、少なくとも城を包囲することには成功しているのです。仮に城の守備兵が成田長親ではなく、北条氏から派遣された代官に指揮されていたらどうだったでしょうか。三成にすぐに降伏していたかもしれません。忍城の戦いは、長親と三成ががっぷり四つに渡り合った名勝負だったのではないでしょうか。

成田氏の家紋、丸に三つ引き、行田市郷土博物館にて展示
堀切橋から見た石田堤

ここに行くには

車で行く場合:東北自動車道の加須ICか羽生ICから約30分かかります。城跡周辺にいくつか駐車場があります。もし石田堤跡やさきたま古墳群にも行かれるのでしたら、車を使った方がよいでしょう。
公共交通機関を使う場合は、東武線の行田市駅から歩いて約15分かかります。
東京から行田市駅まで:上越新幹線に乗って、熊谷駅で東武線に乗り換えてください。

本丸跡の石碑がある行田市郷土博物館の駐車場

リンク、参考情報

忍城跡、行田市
・「よみがえる日本の城15」学研
・「天正十八年~関東の戦国から近世~」行田市郷土博物館
・「描かれた忍城」行田市郷土博物館

これで終わります。ありがとうございました。
「忍城その1」に戻ります。
「忍城その2」に戻ります。

118.忍城 その1

「忍城の戦い」の舞台として有名な城

立地と歴史

成田氏が大河間の湿地帯を利用して築城

行田市は埼玉県北部にあり、関東地方の大河である利根川と荒川に挟まれています。市の地形はとても平坦であり、居住に便利な地として開発されてきました。しかし中世においては、この地は川の氾濫により沼地や湿地帯となっていました。15~16世紀の戦国時代のときにはこの地は「忍(おし)」と呼ばれていて、成田氏が支配していました。15世紀後半にその成田氏が忍城を最初に築いたと言われています。その当時は関東地方では多くの戦いがあり、地方領主は強力な城を築き、身を守る必要があったのです。箕輪城を築いた長野氏や、金山城を築いた岩松氏のように、山城を築く領主がいた一方、成田氏の選択はこの地の特徴を生かし、川沿いの沼地や自然堤防の間にあった島状の土地を利用し、水城を築くことでした。その土地を利用した曲輪群は、橋や土塁の上に作られた通路によってつながっていました。

行田市の範囲と城の位置

忍城の戦いが起こり水攻めに遭う

この城の強さは実際に、1590年に豊臣秀吉が天下統一を完成させるために関東地方に侵攻したときに証明されました。当時関東地方全域は、北条氏によって支配されていて、成田氏も仕えていました。北条氏は忍城を含む支城に対して、秀吉に対抗するため、本拠地である小田原城に兵を集結させるよう命じました。忍城の城主であった成田氏長も、小田原城に入りました。そのため、氏長のいとこである長親が城代として、わずかな兵士とともに忍城に残りました。秀吉は、20万以上の軍勢をもって北条の領地に侵攻し、その軍勢は小田原城だけでなく、支城群にも派遣されました。例えば、北条からの代官が治めていた金山城は、簡単に開城してしまいました。ところが、長親に率いられた忍城内のわずか500名の兵士と2500名の住民たちは、2万人以上の攻城軍に対して、決して降伏しませんでした。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小田原城

攻城軍の指揮官は、秀吉から厚い信頼を受けていた家臣の石田三成で、与力大名としては浅野長政や真田昌幸が参戦しました。秀吉は現地にはいませんでしたが、三成に対して堤防を作って城を囲み、水攻めにするよう指示したのです。秀吉の考えは恐らく、地形的な特徴と、秀吉自身が同じ戦法を採用して成功した備中高松城の戦いでの経験から来ていたのでしょう。三成は、城の南方、約2kmのところにある丸墓山古墳に本陣を置きました。彼の軍勢は突貫工事により、わずかな日数で古墳の周辺に15kmから25kmとも言われる堤防を築き、川からの水をせき止めました。地元の言い伝えによれば、このとき農民たちが高額な対価で、堤防を築くために土嚢を持ってくるよう言われたそうです。

石田三成肖像画、杉山丕氏蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
丸墓山古墳
三成が築いた「石田堤」の現存部分

この水攻めが成功したかどうかは不確かで、ある記録によれば、守備兵が密かに堤の一部を切り、水が溢れたことで攻撃兵が溺れたとのことです。事実として確認できることは、与力大名が城を強攻しようとしたのですが、秀吉が止めさせ、水攻めを続けるよう強制したのです。包囲戦は約1ヶ月続きましたが守備側は、主君である小田原城の北条氏が降伏するまで屈しませんでした。忍城は異名として「浮き城」または「亀城」と呼ばれていますが、この包囲戦のときに城がどのように見えたかという所から来ているようです。

「天正年間成田氏忍城之図」、明治時代に郷土史家が忍城の戦いを考証した図、行田市郷土爆物館にて展示
堤を切ったと伝わる場所にある堀切橋

江戸防衛の拠点に

江戸時代の間、忍城は将軍の親族または譜代大名によって、忍藩として治められました。それは、この城が南方の将軍の本拠地、江戸城の守りにとって重要な拠点だっだからです。何回も幕府の老中を輩出した阿部氏が城を完成させたと言われています。これらの大名たちも、堀や沼地の間にあった島状の曲輪からなる城の基本的構造をそのまま使いました。但し、城の防御システムをより強化するために、三階櫓(天守の代用)、他の櫓や門を建設しました。城と藩は最終的に奥平松平氏に引き継がれます。奥平松平氏の創始者は、奥平信昌の子で、信昌は長篠城での戦いで幕府の創始者となる徳川家康に大変貢献し、家康の娘が嫁いでいたのです(よってその子は家康の孫ということで松平姓を許されていました)。奥平松平氏は幕府に頼られていたため、幕末には品川台場(第三台場)の警備を命じられました。この台場は西洋の軍艦の潜在的脅威に備えて、江戸湾に面して設置されていたのです。

江戸時代の忍城を復元した模型、行田市郷土博物館にて展示
再建された忍城三階櫓、場所はオリジナルとは違います
品川台場(第三台場)

「忍城その2」に続きます。