122.大多喜城 その2

この城に天守はあったのでしょうか。

特徴、見どころ

博物館としての天守

城周辺の地図

現在、オリジナルの大多喜城に関するものはほとんど残っていません。千葉県は、本丸の上に「大多喜城」と呼ぶ天守の形をした歴史博物館を建設しました。

千葉県立中央博物館大多喜城分館「大多喜城」
博物館の入口

夷隅川に沿って本丸へ

この現代の大多喜城に大多喜駅から行く場合には、概ね2つのルートがあります。一つ目は車で来られた方向けで、駅前から南の方に走り、模擬の大手門をくぐります。道は西の方角に向かって右に曲がり、夷隅川に沿って進みます。この辺りの道はメキシコ通りと呼ばれており、ドン・ロドリゴのエピソードにちなんで名づけられました。

大多喜駅近くの模擬大手門
メキシコ通り

この通りは、急な崖の中腹に作られており、城があった丘を右手に川を左手に見ながら進みます。城にとっては天然の障壁となっていました。駐車場は、本丸の近くにあります。

城が築かれた丘の急崖
夷隅川を見下げる
本丸からメキシコ通りを見下ろす

二の丸を通って本丸へ

もう一つのルートは歩いて行く方のためで、駅の裏側から進みます。本来の大手門跡が近くにあります。しかし、それを示す標柱があるだけです。この辺りは住宅地になっているからです。道に沿っていくと、今は高校として使われている二の丸に到着します。道は土塁の上方の二の丸の方に登っていきます。かつてはここに領主のための御殿がありました。

二の丸に登っていく道
現在の二の丸

ここには城に関する2つの史跡があります。一つは御殿の裏門で、一旦売却されたのですが、後に現在の場所に復元されました。もう一つは大井戸で、周囲の長さが17mもあります。この辺からは、本丸の最高地点にある天守の姿が望めます。

かつての御殿の裏門「薬医門」
大井戸
本丸から見た大井戸
二の丸から本丸の天守を望む

本丸にある古い城の痕跡と新しい模擬天守

本丸へは、前の方(二の丸)からでも、後ろの方(駐車場がある所)からでも登って行くことができます。その途中では、古い土塁や空堀、人工で作られた急崖(切岸)などを見ることができ、これらは恐らく城の初期の時期からあったものと思われます。実際、発掘を行った際には、その初期の小多喜城と呼ばれていたころの痕跡が発見されたそうです。

二の丸から本丸への道
本丸に残る土塁
駐車場から本丸への道
途中で見ることができる空堀(または堀切)
本丸の裏手にある曲輪下の切岸

ところが、オリジナルの天守やその天守台石垣と思われる痕跡は見つからなかったのです。現在ある天守とその天守台石垣は現代になって建てられたもので、城下町の古い商家から発見されたオリジナルの三層天守の図面に基づいているとのことです。しかし、通常これだけでは確たる証拠とは言えないのではないでしょうか。よってこの天守は、模擬天守という位置づけになると思います。

本丸にある模擬天守
天守台も現代の建築

「大多喜城その3」に続きます。
「大多喜城その1」に戻ります。

122.大多喜城 その1

本多忠勝が築いた謎多き城

立地と歴史

係争の地、上総国にあった城

現在の千葉県は、過去には三つの国に分かれていました。房総半島の南から北に向かって、安房国(南部)、上総国(中部)、下総国(北部)です。戦国時代の15世紀、里見氏と北条氏が半島の支配を巡って何度も戦いました。里見氏は、南の安房国を本拠地としており、一方北条氏は当初北の下総国に侵入しました。真ん中にある上総国は自然と双方による戦いの場となりました。上総国には、武田氏や正木氏のような多くの地元領主がいました。彼らは、状況次第でときには独立し、北条氏に従ったり、また里見氏に従ったりしていました。

上総国の範囲と大多喜城の位置

大多喜(おおたき)城の前身である小多喜(おだき)城は、15世紀前半に武田氏によって築かれたと言われています。15世紀中頃には正木氏が所有していました。この城は丘の上に築かれ、南側は夷隅(いすみ)川に面しており、西側は深い谷となっていました。よって、城を築きまたは維持したこれらの領主は城を防衛するため、いくつもの曲輪を築き、東側には空堀を作り、北側には支城を配置しました。城は自然の地形を利用した土造りであり、これはその当時の典型的な城の作り方でした。

城周辺の起伏地図

本多忠勝が城を大改修

1590年の豊臣秀吉による天下統一がなされる前に、里見氏はついに小多喜城を含む上総国を奪取します。ところが、秀吉は上総国を里見氏から取り上げ、北条氏の後に関東地方の領主となった徳川家康に与えました。そして、1591年に徳川四天王の一人であった本多忠勝が小多喜城主となり、その後城は大多喜城という名前に変わりました。忠勝は、そのときまだ安房国にいた里見氏に備えるため、城の大改修を行い、併せて城下町の整備も行いました。しかし、忠勝がどのように城を改修したのかは不明です。歴史家の中には、丘の頂上にあった本丸に三層の天守が築かれたと推測している人もいます。

本多忠勝肖像画、良玄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大多喜城の復元模型、千葉県立中央博物館大多喜城分館にて展示

初期の大多喜城の状況を示す唯一の手がかりは、スペインの政治家、ドン・ロドリゴが残した記録(「日本見聞録」)です。彼は、1609年にメキシコに向かう航路の途上、遭難して日本に漂着し、偶然この城を訪れることになったのです。彼は、城の第一の門は鉄で作られ、15mの高さの城壁の上にあると書いています。これは恐らく大手門でしょう。また、堀には跳ね橋が架けられていたとあります。

上記復元模型の大手門部分

更に彼は、第二の門は石垣または石積みに囲まれていて、内側には城主のための豪華な御殿があり、金銀によって飾られていたと書いています(ここは恐らく二の丸でしょう)。ところが、彼は本丸のことやそこに天守があったかどうかは記述していないのです。

上記復元模型の二の丸部分

忠勝は既に1601年、桑名城に移っており、そのときは忠勝の息子、本多忠朝(ただとも)がドン・ロドリゴをその御殿で応接しました。本多氏はやがて1617年に大多喜城から移されました。

関ヶ原合戦図屏風に描かれた本多忠朝 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

頻繁に変わる城主

本多氏が大多喜城から離れた後、城主は青山氏や阿部氏などに頻繁に変わりました。特に1702年の稲垣氏の場合には、その支配期間はなんとわずか21日でした。その結果、城は放置され、誰も面倒を見る者がいないような状態になってしまいました。1703年に松平氏が城主になってからはやっとその支配が安定しました。松平氏の記録によると、二の丸に御殿だけが存在しているという状況でした。松平氏の統治は江戸時代の末まで続きました。1844年には、天守が焼け落ちたと言われていますが、城の状況から考えると、天守があったとする裏付け情報がもっと必要です。松平氏は、江戸時代の終わりまで必要最小限の城の建物を維持していたと考える方が妥当でしょう。一方、城下町の方は、今もその街並みが残る通り、房総半島を横断する街道の宿場町としても繁栄しました。

果たして天守はあったのか、上記復元模型より
今も残る城下町の風情

「大多喜城その2」に続きます。