164.洲本城 その1

淡路島にある素晴らしい城

立地と歴史

独立した淡路国に築かれた城

洲本城は、日本の本州と四国、そして2つの細い海峡(明石海峡と鳴門海峡)に挟まれた淡路島にありました。また、淡路島は播磨灘、大阪湾、紀伊海峡にも囲まれています。この島は、日本の中心とされた京都にも近く、近代以前には、特に海上交通をコントロールしたり監視したりするための重要な拠点と見なされていました。その結果、淡路島は、淡路国として独立した国となっていました(現在では兵庫県の一部となっています)。

城の位置

戦国時代の16世紀、三好氏の配下であった安宅(あたぎ)氏が最初に洲本城を築き、水軍を率いました。しかし、安宅氏は1581年に天下人の豊臣秀吉に降伏しました。秀吉は(一旦仙石久秀にこの城を与えますが)最終的には1585年に、部下の脇坂安治(わきざかやすはる)を洲本城に送り込みます。安治は、大洲城に転封となる1609年までの24年間、洲本藩の藩主としてこの城を統治しました。

脇坂安治肖像画、龍野神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

脇坂安治が大幅に強化

洲本城は、もともと土造りの単純な山城であり、三熊山の上に築かれました。その頂からは、周辺の海域(東側の大阪湾と南側の紀伊水道)を見渡すことができます。安治は、洲本城を大幅に改修し、山の上に石垣や天守を含む多くの櫓を築きました。こういった城の構造は、秀吉やその部下たちによって成された典型的な築城方法でした。この築城方法は、秀吉の天下統一事業の間、日本中に広まりました。城をより強化することで、人々に権威を誇示していたのです。安治はまた、山麓に御殿を築き、城下町を開設しました。彼は最後に、登り石垣と呼ばれる階段状の石垣を、山麓と山頂をつなぐ直通ルートとして建設しました。登り石垣は、安治を含む数名の大名が、朝鮮侵攻の際、連絡あるいは防衛のために開発したものです。洲本城にあるものは、現存する数少ない登り石垣の一つです。安治は、日本に戻った後、登り石垣を洲本城に応用したのです。これにより、洲本城は完成したとされています。

城周辺の起伏地図

本丸の石垣
登り石垣

一時は廃城に

ところが、安治が転封となった後、洲本城は他の大名たち(池田氏、蜂須賀氏)によって使用されませんでした。これは、淡路国がその大名たちの所領の一部になったこと(池田氏は播磨国、蜂須賀氏は阿波国が本拠)、淡路国では他の城を支城として使ったこと(岩屋城や由良城)がその理由です。更には、洲本城は、1615年に徳川幕府により発せられた一国一城令により一時廃城となってしまいます。山上の全ての建物は、当時淡路国と阿波国(現在の徳島県)を治めていた蜂須賀氏によって撤去されました。一説によると、洲本城が廃城となる前に、その天守が脇坂安治により大洲城に移設されたとのことです。大洲城の天守の形式が、安治が洲本城にいた時に一般的であった天守の形式の一つに該当するそうです。

淡路島にあった支城群の位置

大洲城

蜂須賀氏の支城として石垣を維持

1631年、蜂須賀氏は、何らかの理由で洲本城を淡路国の支城として復旧しました(交通の便のためとも言われています。それまで使っていた、大阪湾入口近くにあった由良城は廃城となりました)。蜂須賀氏は、家老の稲田氏を城代として城に派遣しました。しかし、城の中心部は山の麓に設定され、城主の御殿が再建されました(御殿は城主である蜂須賀氏のためであり、稲田氏は別の屋敷に住んでいました)。山の部分は基本的には脇坂氏が築いた石垣のみが維持され、新しい門がいくつか添えられただけでした。これは恐らく、蜂須賀氏にとって、本拠地の徳島城とは違い、洲本城はあくまで支城の一つであり、山上は非常時にのみ必要な場所だったからでしょう。この城の珍しい形態は、19世紀半ばの江戸時代末期まで維持されました。

淡路国(洲)本城下之絵図、江戸時代(出展:国立国会図書館)山上部分は既に石垣のみとなっています
山麓部分の城跡 (licensed by Reggaeman via Wikimedia Commons)

「洲本城その2」に続きます。

177.引田城 その1

讃岐国東部の「忘れられた城」

立地と歴史

港を守る山にあった城

引田城は、現在の香川県に当たる讃岐国の東部分にあった、標高82mの城山に築かれた城です。播磨灘に面する引田港が傍らにあり、この山が強風が港に吹き込むのを防いでいました。この港は古代より風待ちの船により賑わいました。また、山の方も当時からのろし台として使われてきたと言われています。中世になって、何人かの大名がこの山を引田城として使いました。例えば、1583年には天下人の豊臣秀吉配下の仙石久秀が引田城を活用して長宗我部元親と戦いました。つまるところ、この城は必要の都度、使われてきたのです。その時点では自然の地形を利用した城でした。

城の位置

城周辺の航空写真

仙石久秀肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

讃岐国の重要な支城の一つ

天下統一が進む中、1587年に秀吉は家臣の生駒親正に讃岐国を与えました。当初、親正は引田城に住んでいましたが、すぐに別の城に移り、最終的には新しい本拠地として高松城を築きます。しかしながら、引田城は高松城の支城の一つとして維持されました。山の上にあった曲輪を取り囲む形で石垣が築かれました。その一部は今でも山に残っています。これらの石垣は特に、訪問者が来る場所や、山麓から地元民が見上げるような場所に築かれたのです。このやり方は、秀吉やその部下たちが新しい領地において人々に権威を見せるためのものでした。これはもともと、織田信長の安土城や、三好長慶の飯盛城で始まったやり方だと言われています。

生駒親正肖像画、弘憲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城
現存する引田城の石垣
安土城跡
飯盛城跡

曲輪の上には、城の建物も築かれましたが、どの建物も残らなかったため詳細は不明です。しかし、その建物は高松城のようではなかったかと言われています。両方の城から、同じ鋳型から作られた屋根瓦が発掘されたからです。生駒氏が所有していた讃岐国にあった3つの城は似通っていたのかもしれないのです。国の中央には高松城、東側には引田城、西側にはもう一つの支城である丸亀城がありました。引田城は17世紀の初めに繁栄を極めました。引田港のとなりには城下町も設けられました。

丸亀城

一国一城令により廃城

ところが、引田城は1615年に徳川幕府から発せられた一国一城令により、廃城となってしまいます。それ以降は高松城のみが存続を許されました。丸亀城も、引田城と同じ時に一時廃城となりました。しかし、丸亀城はその後他の大名たちにより讃岐国が分割されたときに再建されました。結局引田城のみが、天下泰平のもと、使われないままとなり、長い間忘れられることになったのです。

引田城跡

「引田城その2」に続きます。

78.丸亀城 その1

先進的で素晴らしい石垣に覆われた城

立地と歴史

高松城の支城としてスタート

丸亀城は、讃岐国(現在の香川県)の讃岐平野の西部に位置する亀山と呼ばれる山上に築かれました。この平野の一部には、突起のような山がいくつかあり、例えば、飯野山はその美しい姿から讃岐富士として知られています。亀山は、それらの山のうちの一つですが、讃岐富士よりはずっと低い(標高が66m対422m)ものの、武士たちが城を築くには絶好の場所でした。

城の位置

城周辺の起伏地図

讃岐富士

奈良氏が亀山の上に砦を築いたのが最初と言われていますが、1597年に生駒氏が丸亀城という名前で城を築きました。生駒氏は、1587年から1640年までの間、豊臣氏とその後は徳川幕府に従うことで讃岐国を支配していました。丸亀城は、生駒氏の本拠地である高松城の支城だったのです。そして、1615年には徳川幕府から発せられた一国一城令により、一時廃城となってしまいます。城は不幸にも破壊されてしまい、その古い石垣の残骸が現代の発掘により見つかっています。

生駒氏の初代、生駒親正肖像画、弘憲寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城

山崎氏、京極氏により再建

1641年に生駒氏がお家騒動が原因で他に転封となった後、山崎氏が徳川幕府により讃岐国の西半分を与えられました。そして山崎氏は、新しい本拠地として丸亀城の再築を許可されたのです。亀山の周り中に三段の石垣が築かれました。その石垣は当時の最新の技術によって築かれ、それは貴重なものとなりました。当時は、新しい城を築くことは原則として認められなかったからです。この再建工事は30年間続きました。山崎氏は、跡継ぎがなかったことで工事中の1657年に徳川幕府により不幸にも改易されてしまいます。山崎氏の後釜となった京極氏が、1663年までに天守を築き、工事を完成させました。

丸亀城の天守と高石垣
丸亀城に移された京極高知肖像画、丸亀市立資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

石垣で固められた要塞

丸亀城の最終型は、以下のようになっていました。山の上には、本丸、二の丸、三の丸がありました。これら全ての曲輪は石垣で覆われ、山の高い位置で一体化していました。本丸は、最も高い位置にあり、天守と4基の隅櫓が多聞と土壁により連結されていました。二の丸と三の丸は本丸よりも低い位置にあり、ここにも櫓が何基かありました。内堀は山を囲んでいました。大手門は北側の内堀のすぐ内側にあり、搦手門は南側にありました。更には、武家屋敷が内堀の外側に建設され、ここもまた外堀により囲まれていました。

丸亀城の模型(丸亀城天守内で展示)
丸亀城の大手門と内堀
讃岐国丸亀絵図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)

京極氏は、丸亀城と丸亀藩を江戸時代の終わりまで統治しました。実は、城の城主は山裾にある御殿に住んでいました。これは平和な時代においては通常のやり方でした。いずれにせよ、丸亀城は石造りの要塞のように見えていたことでしょう。

山裾にあった御殿跡 (taken by あけび from photoAC)

「丸亀城その2」に続きます。