11.二本松城 その2

多くの異なる時代から成り立つ城跡

特徴、見どころ

城周辺の航空写真

山麓部分

城周辺の地域は、霞ヶ城公園(霞に包まれた城という意味)という公園となっています。加藤氏が築いたと言われる素晴らしい石垣が山麓に残っています。箕輪門、二階櫓、多聞櫓の建物が、現代になってから石垣の上に再建されています。通常、観光客は箕輪門から入っていきます。その手前には、二本松少年隊の像が立っています。

山麓の石垣
再建された箕輪門
二本松少年隊像 (licensed by baku13 via Wikimedia Commons)

石垣に囲まれた曲がりくねった通路を過ぎると、三の丸に入っていきます。そこは今は空き地になっていますが、かつては城主のための御殿があり、江戸時代には城の中心でした。

箕輪門の内側
三の丸入口
三の丸

山上部分

その後、畠山氏がもともと作ったであろう山道を通って、山の頂上にある本丸に登って行くことができます。山の部分は、城の中では最初にできた所と言われています。もう少しで頂上というところで、本丸下の緩斜面に大規模な古い石垣が目に入ってきます。これは大石垣と呼ばれ、恐らく蒲生氏が築いたものとされています。また、東北地方では最も古い石垣の一つでもあります。ここからはすぐに頂上に到達します。

山道を登っていきます
大石垣

頂上にある本丸は、まだ目新しく見える素晴らしい石垣に囲まれています。この石垣は最初は加藤氏か丹羽氏によって築かれたのですが、最近の発掘によって近年復元されました。この中には、天守、東櫓、西櫓のための3つの石垣台も含まれています。東櫓と西櫓はこれらの台の上に実際にあったようなのですが、天守があったかどうかを示す証拠は見つかっていません。もし何か建物があったことを証明する遺物か絵図が見つかれば、見解は覆ることになるでしょう。

復元された本丸石垣
本丸内部、奥側は東櫓台
天守台石垣

本丸からの素晴らしい景色

いずれにせよ、石垣の頂上部からは、城周辺地域の素晴らしい眺めを見渡すことができます。遥かかなたには、安達太良山などの東北地方の山々が見えます。多くの山から成り立つ地方にいることを身をもって実感できます。他には、戊辰戦争で自刃した重臣のことを記した記念碑が天守台石垣の脇にあります。

本丸からの景色
安達太良山を遥かに望む
二本松藩重臣自刃の碑

「二本松城その3」に続きます。
「二本松城その1」に戻ります。

11.二本松城 その1

多くの大名が欲しがった重要な城

立地と歴史

二本松氏が築城後、伊達氏などが所有

二本松城は現在の福島県二本松市にあった長い歴史を持つ城です。この城は東北地方の重要な街道であった奥州街道沿いにあり、会津郡など他の重要な内陸部の地域にも接続していました。14世紀初頭に足利幕府が設立されたとき、幕府は親族の畠山氏を東北地方にその地の支配のために派遣しました。畠山氏はそこに定着し、15世紀初頭に二本松城を築きました。最初は単純な山城でしたが、後に変化をとげていきます。

城の位置

彼らはのちに二本松氏と名乗るようになり、城とその周辺の地域を長い間支配しました。戦国時代の16世紀後半、有力な戦国大名の一人であった伊達政宗が二本松城を攻撃し、1586年に二本松氏はついに降伏しました。それ以来この城は、伊達氏の本拠地であった会津郡の若松城の支城となりました。若松城の城主は、蒲生氏、上杉氏、加藤氏と変わっていきましたが、二本松城も石垣が築かれるなど改修されました。

伊達政宗像、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
若松城

江戸時代は概ね丹羽氏が統治

江戸時代の1643年、丹羽氏が徳川幕府によりこの城に移され、城は二本松藩の藩庁として使われました。丹羽氏は併せて城の大改修を行います。山の頂上に天守台石垣が築かれましたが、実際に天守が築かれたかどうかは全く分かっていません。山麓には城主のための御殿も築かれました。また、城の防衛システムも整備されました。奥州街道が城の近くから丘を越えた向こう側に移されました。街道から城に行くには、丘にある大手門を通らなければなりませんでした。城の周辺地は郭内と呼ばれ、大手門を含む5つの門によって守られていました。丹羽氏は江戸時代末期まで平和裏の内に城を治めます。

初代二本松藩藩主、丹羽光重肖像画、大隣寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
奥州二本松城之絵図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)

戊辰戦争で一日で落城

ところが、明治維新が起こった1868年、この城は戊辰戦争に巻き込まれました。新政府軍がまだ徳川幕府を支持していた二本松藩を攻撃したのです。そのとき藩の多くの武士は、二本松城の南にあった白河小峰城に、味方に加勢するために派遣されていました。そのため、12歳から17歳の少年兵を含む数少ない守備兵で城を守らざるをえませんでした。そして、突然の攻撃による混乱の中、 城はわずか1日で落城しました。藩の重臣など何名もの武士は自刃し、ほとんどの城の建物は焼け落ちました。少年兵の多くも殺され、この悲劇の戦いを象徴する二本松少年兵として語り継がれています。

白河小峰城
二本松城と二本松少年隊の銅像

「二本松城その2」に続きます。

13.白河小峰城(Shirakawa-Komine Castle)

白河駅から見た白河小峰城(A view of Shirakawa-Komine Castle from Shirakawa Station)

Location and History

現在白河市となっている地域は、日本の東北地方の入り口でありました。古代にはこの地域には、現代においてもよく知られている白河の関がありました。中世にはこの地域にはいくつか城が築かれましたが、白河小峰城はそのうちの一つでした。江戸時代になって、丹羽氏がこの城を治め、御三階櫓と呼ばれた三層の櫓を含め城を完成させました。御三階櫓は14mの高さがあり、その大きさからは事実上の「天守」と言っていいものでした。
The area now called Shirakawa city was the entrance of the Tohoku district in Japan. In the Ancient Ages, the area had the Shirakawa Barrier which is very famous even now. In the Middle Ages, several castles were built in this area, one of them was the Shirakawa-Komine Castle. In the Edo Period, the Niwa clan took over and completed the castle including the three story turret called “Gosankai-Yagura”. Gosankai-Yagura was so large that it could actually be the castle keep “Tenshu” which was 14m tall.

奥州白河城絵図部分、江戸時代(Part of the illustration of Shirakawa Castle in Oshu District in Edo Period)|出典:国立公文書館

城主は丹羽氏から松平氏など他の大名に何度か変わりました。明治維新のとき、白河口の戦いがこの城の周辺で、新政府軍と旧幕府軍の間で起こりました。幕府軍は新式の装備を備えた政府軍に敗れ去りました。そしてこの城は破壊され、御三階櫓もまた焼け落ちたのです。
The lords of the castle changed from Niwa to others such as the Matsudaira clan. During the Meiji Restoration, the Battle of Shirakawaguchi took placed between the new Government Amy and the former Shogunate Amy around the castle. The Shogunate Amy was beaten by the Government Amy with modern equipment, and the castle was destroyed. Gosankai-yagura was also burned down.

破壊された白河小峰城(The destroyed Shirakawa-Komine Castle)licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

Features

それでも今なお、元の御三階櫓と全く同じ木造建築を見ることができています。
We can still see the wooden building exactly the same as the original Gosankai-Yagura.

復元された御三階櫓(The restored Gsankai-Yagura)

それは、一時期城主だった松平定信が詳細な図面を作成させ、それが幸運にも現代に残っているからです。それに加えて白河市が、元来の工法で櫓を再建することを決断したからです。
That’s because the once lord Sadanobu Matsudaira ordered to make drawings of the castle in details and they luckily still remain. In addition, officials decided to rebuild the building in the original way.

松平定信自画像(The self-portlait of Sadanobu Matsudaira)licensed under Public Domain via Wikimedea Commons

ビジターは中に入ることができます。中はどちらかというと狭く、暗く、階段は急です。それは元通りに作られ、そもそも戦いのための建物だったからなのですが。案内係の方が安全に見て回れるよう誘導してくれます。また、城の周りを囲む石垣も見ものです。この石垣は、2011年の東日本大震災でかなり崩れてしまったのですが、現時点では復旧しています。
Visitors can enter inside. The inside is rather narrow, dark and the stairs are steep as it is made in the old style and originally made for battles. Official instructors will guide you in order to look around safely. It is also recommended to see stone walls surrounding the castle. These walls partly collapsed due to the Great East Japan Earthquake in 2011. But they have already been restored now.

石垣とその向こうに見える御三階櫓(The stone walls with Gosankai-Yagura over there)

Later Life

明治時代、城跡は公園に転用され、そこには野球場が建設されました。しかし、昭和時代の後半になって、市民の多くの要望により白河市は城跡の整備方針を変更しました。城を往時の状態のまま復元できないか考え始めたのです。それは、大型の城郭建築物を再建する方法としては、現代日本において初めての試みでした。
In the Meiji Era, the ruins of the castle were turned into a park in which the baseball stadium was constructed. But in the late Showa Era, officials changed its policy of developing the ruins because of a lot of request from citizens. They were wondering if the castle would be restored to the original condition. That would be the first attempt in the way large castle buildings are rebuilt in present day Japan.

1970年代の城周辺の航空写真(The aerial photo of the area around the castle in 1970s)


しかし、そこには大きな法的制約がありました。日本の建築基準法は高さ13mを超える木造建築物に厳しい規制を課していました。この法に従えば、白河小峰城の櫓のような新築で大型の、且つ伝統的工法の木造建築物は作れないことになっているのです。そこで白河市は櫓の復元を続けるにあたって、それを建築物ではなく、法で認められる工作物として届け出ました。そして1991年に復元は完成したのです。
However, there was a big problem with the law. Japan’s Building Standard Act has very strict restrictions on wooden buildings which are over 13m tall. According to this law, new large old-style wooden buildings like the Shirakawa-Komine castle turret are not allowed to be built. So officials continued the restoration of the turret as not a building, but a structure that would be allowed by the law. It was completed in 1991.

復元された御三階櫓(The restored Gsankai-Yagura)

ところが新たな問題が発生しました。国の当局が、櫓は「建築物」ではないのだからビジターを櫓のほとんどの場所には入れてはいけないと言ってきたのです。最終的には1993年に建築基準法に歴史的建築物に対する例外規定が追加され、御三階櫓は全て公開されることになったのです。
But another problem occurred as the government made the most part of the turret inaccessible visitors, because it was not “a building”. At last, the law had the provisions to be exempt for historical buildings in 1993. The three story turret Gosankai-yagura was finally open to visitors.

御三階櫓を見上げる(Looking up Gosankai-Yagura)

My Impression

本当に白河市の職員、市民の方々の成果に対しては尊敬の念を抱きます。その真摯な努力は、日本の城郭維持の新しい方法への流れを導いたと言えます。白河小峰城のケースは、その後続く白石城、掛川城、大洲城などの「平成の木造復元ブーム」のさきがけとなったのです。
I really respect the achievement of the officials and people in Shirakawa City. Their great effort led to the movement towards new methods for maintaining castles in Japan. The case of Shirakawa-Komine Castle was the pioneer of “The boom of wooden restoration in the Heisei era” followed by other castles such as Shiroishi, Kakegawa, Ozu and so on.

復元された掛川城(The restored Kakegawa Castle)taken by Oshiro-man from photo AC
復元された大洲城(The restored Ozu Castle)

How to get There

白河小峰城は、JR白河駅からすぐ近くです。白河駅のプラットフォームからも御三階櫓の素晴らしい眺めを見ることができます。
東京から白河駅まで:東北新幹線で新白河駅まで行き、東北本線に乗り換え。次の駅が白河駅です。
The castle is very near the JR Shirakawa station. You can even see the nice view of Gosankai-yagura from the platform.
From Tokyo to the station: Get the Tohoku Shinkansen super express to the Shin-Shirakawa st., and transfer to the Tohoku Line. The destination will be the next station.

白河駅のプラットフォームからの眺め(A view from the platform of Shirakawa Station)

Links and References

小峰城跡【こみねじょうあと】 | 白河市公式ホームページ(City of Shirakawa)
埋木帖~城の復元と法令① 白河小峰城三重櫓(only Japanese)