124.品川台場 その3

品川台場跡は、人々に過去にどんなことが起こったのかを知らしめるとても有機義な史跡だと思います。目に見える史跡というのは、ただ記録が残っているとか説明板があるだけよりも、明らかに優れています。

特徴、見どころ

三番台場跡を見学

台場公園、すなわち三番台場跡は、海岸とは通路によってつながっています。この道は、公園ができたときに付け加えられたと思われます。台場自体はもともと海の孤島だったわけです。台場に近づくにつれ、跳ね出しとい独特の仕組みを持った石垣が見えてきます。跳ね出しとは、最上段の石が全て張り出していて、敵がよじ登ってくるのを防ぐ仕組みです。ヨーロッパの城郭を模倣したものです。跳ね出しが見られる日本の城は稀で、他には江戸時代末に築かれたか改修された、五稜郭龍岡城人吉城のみで見ることができます。実は、この入口付近が唯一跳ね出しをすぐ近くで見ることができる場所です。他の場所では、石垣に近づくことが禁止されているからです。

三番台場周辺の航空写真

台場公園への通路
三番台場の跳ね出し石垣
他の場所では石垣に近づくことができません
五稜郭の跳ね出し石垣

台場本体へは、船に乗るようにステップを登って入っていきます。次に見えてくるのは台場の近景です。台場は一辺が160mある大きな方形で、外周部分が中心部分より高くなっています。ただ、現存している遺物がほとんどないので、歴史の知識なしで訪れた場合には、史跡であると気が付かない人もいるかもしれません。入口から土塁で固められた外周部分を歩いていくと、周りの景色が素晴らしいです。左側にはお台場海浜公園、右側にはレインボーブリッジや6番台場、そして前方には東京湾が見えます。

階段を使って台場に上がります
台場の近景
外周の上を歩いていけます
正面の東京湾
右側の六番台場とレインボーブリッジ

砲台に関する遺跡

入口とは反対側の外周部分の土塁上には、2基の模擬砲座があります。しかし歴史家によると、これらは正確に再現されておらず、レプリカとも言えないとのことです。それに加えて、かつては大砲群の前方に、長大な土の防護壁(「胸牆(きょうしょう)」と呼ばれます)が設置されていましたが、崩れてしまったようです。また、それぞれの大砲の間には土造りの側壁もありましたが、台場が廃止となった後に撤去されました。大砲が並んでいたこの面は、敵に対峙する真正面だったのです。

2基の模擬砲座
周りにあった防護壁は残っていません

正面側土塁の下方内側に向き合うように、火薬庫の跡があります。土造りの堤によって囲まれています。堤の内側に、火薬庫がありましたが撤去され、今ではその代わりに竈のような石造りのものがあります。これは元から台場にあったものではないそうです。更には、堤は一部石垣によって支えられていますが、これは1923年の関東大震災の被害から復旧する際に、築かれたものです。

火薬庫跡
火薬庫跡の内部
土堤の石垣は後世の補修により築かれました

また、弾薬庫の跡が複数箇所にあります。弾薬は台場においては最も注意を要する危険物で、爆発事故を起こしかねないため、倉庫は厳重に作られ、外周の土塁の内部に石室と木枠が設置されました。現在は土盛りの背後に石室が見えるのですが、この土盛りは保存のためなのでしょうが、後の時代に作られたようです。

弾薬庫跡

陣屋と船着き場の跡

台場の平らな中心部分には、陣屋の礎石跡が並んでいるだけです。陣屋は簡易な木造作りで風呂もなく、武士たちが休憩、寝泊りするだけのものでした。戦いが起こったときには、燃えてしまう前にそこから避難する必要があったでしょう。

台場の中心部
陣屋跡

船着き場の跡は、現在の入口からとなりの角部分にあります。ビジターは立ち入ることができず、内側の方から見物するのみです。コンクリートで固められた部分がありますが、これも後の時代の産物で、公園にするときに使われたものでしょうか。

船着き場跡
船着き場には立ち入りできません

この船着き場の手前には、これまで紹介したものとはまた違った土塁があり、「一文字堤(いちもんじつつみ)」と呼ばれています。これは、船着き場がかつては台場の入口であったために、当時のビジターから容易に中を見られないよう、また船着き場から攻撃してくる敵を防ぐために設けられました。

船着き場前の一文字堤

私の感想

品川台場跡は、人々に過去にどんなことが起こったのかを知らしめるとても有機義な史跡だと思います。目に見える史跡というのは、ただ記録が残っているとか説明板があるだけよりも、明らかに優れています。東京のウォーターフロントエリアは、日本全国の経済にとってとても重要な地域です。全ての台場跡が撤去されても仕方がない状況でした。台場の持ち主であった東京都の決定(2つの台場を残す)は英断であったと思います。現時点において、1点だけお願いしたいのは、現地にある模擬の台座を、本物に近いレプリカに交換していただきたいです。そうすれば、ビジターが台場の過去の姿を理解するのに大いに役立つのではないでしょうか。

三番台場にある模擬砲座

リンク、参考情報

台場の歴史、お台場海浜公園&台場公園、海上公園なび、東京港埠頭株式会社
・「お台場 品川台場の設計・構造・機能/淺川道夫著」錦正社
・「歴史群像146号、図解 品川台場」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「品川台場その1」に戻ります。
「品川台場その2」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

93.人吉城 その2

球磨川の豊かな水は、温泉、球磨焼酎、鮎などの土地の名産、名物を生み出すとともに、時には洪水の被害も引き起こします。

特徴、見どころ

豊かな恵みやときには水害をもたらす球磨川

現在、人吉城跡に近づいていくと、人吉盆地の周りの山々からの水を集めた球磨川の雄大な姿が目に入ってきます。そこでは学生たちがカヌーの練習をしているのも見えたりします。

雄大な球磨川
カヌーの練習に使われています

この川の豊かな水は、温泉、球磨焼酎、鮎などの土地の名産、名物を生み出すとともに、時には洪水の被害も引き起こします。最近の出来事としては、2020年6月に球磨川水害が発生し、実際に川沿いにある城跡に深刻な被害をもたらしたのです。城跡は既にビジターを受け入れるところまで復旧していますが、2023年9月時点で人吉城歴史館はまだ休館となっています。

「人吉温泉」の施設
休館中の人吉城歴史観
水がここまで来ました

謎の地下室水槽

歴史館は、城では一番低い川岸地区にあり、かつてそこには大手門、藩の施設、重臣の屋敷などがありました。櫓(隅櫓、大手門脇多門櫓)とこの地区を囲む白壁が復元されています。実は歴史館は、江戸時代に追放された相良清兵衛の屋敷と全く同じ場所にあるのです。

城周辺の航空写真

川岸地区の武家屋敷跡
大手門跡
復元された大手門脇多門櫓
復元された隅櫓

この屋敷について大変興味深いことがあるのですが、屋敷跡の地下室から石造りの水槽が発見されたのです。水槽の水は川から引かれていて、その深さは2m以上あります。今のところ、他の日本の城には類似した事例は見つかっていません。中には、これはユダヤ教の神殿の沐浴施設だったのではないかと考える人もいます。実際の施設とよく似ているとのことです。人吉地域にはキリスト教が禁止されていた江戸時代の間、隠れキリシタンの人たちがいました。そのうちの誰かがユダヤ教に関わっていたのかもしれません。

発見された地下室の水槽、人吉市ウェブサイトから引用

御殿跡を巡る跳ね出し石垣

となりの地区は、以前「御館(みたて)」と呼ばれる城主の御殿だったところです。現在では相良護国神社となっています。御殿に関連するものとしては、池泉庭園、入口のところの堀にかかっている石橋、そして御殿を囲んでいた石垣が残っています。

御館跡
相良護国神社
池泉庭園
入口の石橋と堀

特に、川に面した部分ある石垣は跳ね出し形式になっていて、最上部の列の石が飛び出して積まれ、敵が登って侵入してくるのを防いでいました。そのため、この仕組みは「武者返し」とも呼ばれています。日本の他の城でも滅多に見られないもので、江戸時代末期に築かれた「五稜郭」「品川台場」「龍岡城」に見られるのみです。

人吉城の跳ね出し石垣
五稜郭の跳ね出し石垣
品川台場の跳ね出し石垣
龍岡城の跳ね出し石垣

その石垣の手前の方には水の手門跡があって、球磨川の方に開いています。かつて城が水上交通にも関与していたことがわかります。

水の手門跡
川側から見た水の手門跡

「人吉城その3」に続きます。
「人吉城その1」に戻ります。

129.龍岡城 その1

二番目の五稜郭

立地と歴史

将軍家の親族、松平家

龍岡城は、現在の長野県にあたる信濃国にありました。この城は江戸時代末期に築かれ、北海道の五稜郭とともに、日本で2つしかない星形城郭の一つとなります。この城を作ったのは、龍岡藩の藩主であった松平乗謨(まつだいらのりかた)です。実はこの時代には、徳川幕府将軍家の親族である、数多くの松平家が存在していました。「徳川」という苗字は、将軍になる資格がある数少ない家系にのみ使用が許されていました(いわゆる徳川宗家、御三家、御三卿)。それ以外の徳川の親族は「松平」と苗字を名乗りましたが、この苗字は初代将軍の家康が「徳川」を名乗り始めるまで、もともと使っていたものだったのです。

松平乗謨写真、明治時代  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この松平家(氏)は大体のところ、3つに分類することができます。1つめのグループは、家康か他の将軍の子どもたちから由来するもので、例えば福井城にいた越前松平家や若松城にいた会津松平家がそれに当たります。彼らは将軍家からとても信頼されていて、多くは広大な領地や巨大な城を有していました。2つめのグループは、家康が生まれる前から存在していた家系で、十八松平とも称されます。実は家康も、このうちの一つ、安城松平家(あんじょうまつだいらけ)出身なのです。彼らも家康の親戚であることには変わらないのですが、家康にとっては競合する相手になりうる存在だったため、1つめのグループよりは信頼されていなかったようです。その結果、2つ目のグループの多くは領地が小さく、その規模の制限から城を持てないこともしばしばでした。最後のグループは、家康や他の将軍と直接の血のつながりはないが、特別な事情により松平姓の使用を許された人たちです。

福井城跡
若松城

松平家の一人、乗謨が築城

松平乗謨は、上記のうち2つ目のグループに属しており、彼の家系は大給松平氏(おぎゅうまつだいらし)とも呼ばれていました。大給は彼らの発祥の地であり、その地名が他の多くの松平氏と区別するためにも使われているのです。実は、大給松平氏自体も長い歴史のうちにいくつもの支流が生じていました。乗謨は、奥殿藩(おくとのはん)の藩主でしたが、藩の石高はわずか1万6千石であり、城を持つことは許されていませんでした。更には彼の領地は、三河国(現在の愛知県の一部)の奥殿の小さい領地と、龍岡の大きな領地に分割されていました。藩は奥殿を本拠地にしており、そのため奥殿藩と呼ばれていたのですが、藩主は奥殿陣屋と呼ばれた御殿に住んでいました。

復元された奥殿陣屋  (licensed by Bariston via Wikimedia Commons)

この状況は、日本がいくつかの西洋諸国に対して開国した1854年に変わりました。幕府はこれらの国からの脅威に対抗するため、大名たちへの規制を緩和したのです。乗謨は優れた政治家であり、多くの西洋の文物を学んでいました。彼はこの新状況を、幕府の新しい政策に従い、これまで学んだ知識を使って何かできるチャンスであると考えました。その一つが、本拠地を大きな方の領地である龍岡に移すことであり、もう一つが彼自身の城を築くことでした。それが龍岡城です。

城の位置

乗謨の試みは幕府に承認され、城の建設は1864年に始まりました(公式にはまだ陣屋ということにされました)。この城は西洋式城郭として設計され、星の形のように五つの稜堡(りょうほ)を備えていました。城の形は乗謨の構想に基いており、敵の攻撃がどの方向から来たとしても城を守れるように考えられました。この五芒星(ごぼうせい)の形をした城は、全て当時最新の石垣に囲まれており、亀甲積みや跳ね出し(一番上の列の石垣がはみ出して作られ、敵の侵入を防ぐもの)といった技術が採用されていました。また、水堀が城全体を囲んで掘られ、大砲が全ての稜堡の内側に設置される予定でした。城の内部には、領主のための御殿と練兵場がありました。城はついに1866年に完成し、これは1864年に北海道に築かれた最初の星形城郭として知られる五稜郭に次ぐものでした。乗謨は大変満足し、地元の民衆を招待し、城を見学させたりしました。そして、彼が藩主を務める藩の名前は、龍岡藩と改められました。

龍岡城の平面図、現地説明板より
龍岡城の石垣
北海道にある五稜郭

実験的要素が多い城

しかし、実際には城にはいつくもの弱点もありました。第一に、龍岡城は五稜郭よりもずっと小型でした。その全長は150m程で、約300mの五稜郭の約半分であり、面積では約4分の1でした。石垣の高さは3.5mで堀の幅は最大でも約10mでした。これでは戦国時代であっても不十分だったでしょう。堀は城の全周の3分の2しかカバーしておらず、大砲は1つの稜堡にしか設置されませんでした。その上にこの城は、城から約500m離れた山の上から大砲により容易に砲撃できる位置にあったのです。これらの事実をどう捉えればよいのでしょうか。恐らく乗謨は、この城を戦いにために使うことを想定しておらず、藩の権威を高めることや新技術を導入するための実験場として使ったものと思われます。その後すぐに明治維新を迎えたため、この城の歴史は数年で終わりました。

堀幅は大きくありません
裏側は堀なし

城周辺の起伏地図

「龍岡城その2」に続きます。