17.金山城 その1

北関東地方の重要で強力な城

立地と歴史

新田義貞を輩出した新田荘

金山城は、現在の群馬県太田市にある金山に位置していました。太田市周辺の地域は中世には新田荘と呼ばれていて、皇室を起源とする源氏の一族である新田氏が定住していました。新田荘は、関東地方の主要街道である東山道沿いにあり、この地方の二大大河である利根川と渡良瀬川に挟まれてもいました。過去においては大河は肥沃な耕地を人々に与え、水上交通に使われたり、戦の際には障壁としても機能しました。そのため、新田荘があった地域は重要とされたのです。

太田市の範囲と城の位置

岩松家純が築城

新田義貞は、1333年に鎌倉幕府を攻めて滅亡させたことで、新田氏の中でも最も有名な人物でしょう。しかし1338年には不幸にも、同じ源氏の一族の足利尊氏が設立した足利幕府の軍勢によって倒されてしまいました。その後、新田氏の支族の岩松氏が、足利幕府を支持したことにより新田荘を受け継ぎます。岩松氏の当主はもともと、岩松(氏)館と呼ばれた平地にある居館に住んでいました。ところが、そうすることが危険な時代がやってきます。1454年に起こった享徳の乱以降、関東地方全域で戦が頻発する状況になってしまったのです、そこで当時の当主であった岩松家純(いえずみ)は、新田荘の北部にある金山に新しい本拠地を築くことを決めたのです。それが金山城で、1469年に完成しました。

新田義貞肖像画、藤島神社蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
岩松氏館跡、現在は岩松山青蓮寺になっています
岩松氏館付近から見える金山

下剋上により由良氏が城主に

金山城が現役であった戦国時代には、家臣が主君を凌駕する下剋上の風潮が広まりました。岩松氏の場合は、重臣の横瀬氏が、傀儡の主君を立てたり、言うことを聞かない主君を殺したりして、のし上がりました。例えば、岩松尚純(ひさずみ)は強制的に隠居させられ、連歌の道に没頭しました。横瀬氏はついには苗字を由良(ゆら)と変え、実は自分たちも新田氏の支族であり、源氏の末裔であると称したのです。その時代に一地方の戦国大名として生き残るには、武力だけはなく、人々が尊敬できるような権威も必要とされたのです。

岩松尚純自画像、青蓮寺蔵、日本で最も初期の自画像の一つとされています  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
岩松尚純の墓、青蓮寺の近くにあります

北条氏が城を奪い完成させる

16世紀後半は、由良氏よりももっと勢力が大きい北条、上杉、武田といった戦国大名が関東地方の覇権をめぐって争いました。由良氏は他家の当主たちと同じく、その時々で一番強い者に従うという方針でこの状況に対処しました。当時の当主、由良成繁(ゆらなりしげ)は1569年に、北条氏と上杉氏との間を仲介し、講和の交渉の場として金山城を提供することもしていました。しかし残念ながら、この講和は短期間で破綻してしまいました。一つの強大な戦国大名に従うということは、他の有力大名に攻められる可能性がありました。金山城は実際に、上記3つの大名(北条、上杉、武田)全てから何度も攻撃されました。ところが一回も落城しませんでした。よってこの城は難攻不落の城とされ、関東七名城の一つと言われました。関東地方はやがて北条氏によって治められるようになり、由良氏は1585年に金山城を北条氏に強制的に引き渡されました。

城跡の近くの金龍寺にある由良成繁の墓(真ん中)
成繁が仲介を行った北条氏の当主、北条氏康肖像画、小田原城所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
成繁が仲介を行った上杉氏の当主、上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

初期段階の金山城は、山頂周辺に限られ、土造りだったようです。時が経つにつれ、城は大いに整備拡張されました。北条氏が城の最終形を作り上げたと言われています。城の範囲は、山頂から山の西峰や南峰にまで拡大され、城の主要部分は石垣によって強化されました。更には敷石までもが築かれました。城には西日本の有名な城のような天守はありませんでしたが、当時の東日本で総石垣造りの城であること自体大変珍しかったのです。

石垣が復元された金山城跡(大手虎口)
同じ部分の復元模型、史跡金山城跡ガイダンス施設にて展示

あっけない城の最後

金山城の城としての本来の歴史は、天下人の豊臣秀吉が日本統一のために北条の領地に攻め込んだ1590年にあっけなく終わってしまいます。金山城は北条の代官が治めていたのですが、多くの城兵は北条の本拠地である小田原城に集められていました。よって金山城には僅かな兵しか残っていませんでした。そのため、前田利家に率いられた侵攻軍に攻撃されたとき、降伏開城せざるを得ませんでした。その後、城は廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小田原城

「金山城その2」に続きます。

133.鮫ヶ尾城 その1

御館の乱と上杉景虎の終焉の地

立地と歴史

春日山城の支城

鮫ヶ尾城は、現在は新潟県である越後国の西部にあった山城でした。この城が最初にいつ築かれたのかは分かっていませんが、16世紀後半には上杉謙信の本拠地である春日山城の支城の一つとなっていました。謙信は、その当時の日本では最も有力な戦国大名の一人であり、その本拠地を守るために城のネットワークを構築したのです。鮫ヶ尾城は、実のところ、支城としてよりも御館(おたて)の乱の最終決戦地として、そしてその乱で敗者となった上杉景勝の終焉の地として有名となっています。

城の位置

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
春日山城を中心とした支城ネットワーク、上越市埋蔵文化財センターにて展示、鮫ヶ尾城は赤丸内

景虎、北条氏から上杉氏の養子となる

上杉景虎は謙信の養子でしたが、もとは謙信と関東地方をめぐって戦っていた北条氏の一族として生まれました。景虎が上杉家に来ることになった理由は、1569年に武田氏に対抗して上杉と北条が一時的に講和を結ぶことになったからです。武田氏(武田信玄)は、武田・今川・北条による三国同盟を今川氏の両国に攻め込むことで破っていたのです。北条氏(北条氏康)はこれに大いに怒っていました。ところが、上杉と北条の新しい同盟はたった2年しか続かず、北条は上杉との同盟を止めて1571年に再び武田と同盟を結びました(北条が氏康から氏政に代替わりしたことが大きな要因でした)。通常であれば、ここで景虎は北条に返されるはずでした。ところが謙信はなぜか景虎を上杉の一員として留めたのです。一説として謙信が景虎を個人的に気に入っていたと言われています。景虎の肖像画は残っていないのですが、記録によれば、彼は魅力的でかつ眉目秀麗だったとされています。

上杉景虎の想像画、現地説明板より

謙信の死後、2人の養子が対立

北条との同盟が手切れになったことで、謙信は親族よりもう一人の養子を迎えます。それが上杉景勝でした。謙信は、景虎が景勝を支え、お互いに協力していくことを願ったようです。また多くの歴史家は、謙信は1578年3月の突然の彼の死までに、明確に後継者を決めていなかったと言います。実際には、二人の養子は養父の死後しばらくは、景勝が当主であるかのごとく同じ春日山城で暮らしていました。ところが周りの状況が二人の平穏を許してくれなかったのです。景勝の古くからの家臣は、上杉家の中枢として当然景勝を支持しました。越後国の地方領主や他国の戦国大名は景虎を支持しました。彼が外部出身者だからです。特に景虎の実家である北条氏とその同盟者である武田氏は、景虎が後継者となることを望みました。このことにより二人の候補者は1578年5月に戦うことになってしまったのです。この戦いは御館の乱と呼ばれています。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

御館はもともと、元関東管領で、謙信の養父でもあった上杉憲政の屋敷でした。景虎は春日山城から約5km離れた御館に避難していたのです。この場所は乱の間、1年近く彼の本拠となりました。この戦いの初期の段階では景虎の方が他からの支援を受けられることで、景勝より優位な立場にありました。6月には武田勝頼が軍勢を率いて景虎を支持するために越後国に達していたのです。ところが景勝は、多額の金銭贈与と領土の割譲を約束することで、勝頼を引き返させてしまったのです。その結果、状況は逆転しました。景勝は多くの忠誠を誓う家臣がいる一方、景虎はその出自のせいで頼りになる家臣は少なかったのです。景勝はついに御館の屋敷に対して総攻撃をかけ、1579年3月に御館は陥落しました。景虎はそこから逃れ、彼の実家である北条氏の本拠地である小田原城に至ろうとしたのです。そして、彼を支援する堀江宗親(ほりえむねちか)の城に立ち寄りました。そして、そこが彼の最後の地となったのです。それが鮫ヶ尾城でした。

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
炎上する御館の想像図、斐太歴史の里総合案内所にて展示

景虎敗れ、鮫ヶ尾城で自刃

鮫ヶ尾城は一支城でしたが、規模は大きく、それは謙信と勝頼の父である武田信玄が何度も戦った信濃国(現在の長野県で越後国の南方)の途上にある場所だったからです。この城は当時の典型的な山城であり、自然の地形を利用して防御を固めていました。土造りの多くの曲輪が山の峰上に築かれていました。これらの曲輪は人工的な堀切によって区切られ、両側を垂直にカットされた細い通路によってつながっていました。谷を通る通路は曲がりくねって作られ、敵が城を容易に攻撃できないようになっていました。

川中島古戦場にある武田信玄(左)と上杉謙信(右)の銅像
鮫ヶ尾城跡図、現地説明板より

いくら強力な城に滞在しているとは言え、景虎は他からの援軍がなければ生き残ることはできません。彼は、景勝は発した景虎追討軍にすぐに追いつかれ攻撃されました。ある記録によれば、城主である堀江宗親まで景虎を裏切ったと言われています。景虎はついに、景勝の軍勢により火をかけられた城内で自刃しました。享年26歳でした。

鮫ヶ尾城跡

「鮫ヶ尾城その2」に続きます。

119.杉山城 その1

先進的防御システムをもった謎の城

立地と歴史

地味なのに有名な城

杉山城は、現在の埼玉県西部にあたる比企郡に築かれた城でした。この城の城跡は、日本の歴史ファンの間で最近有名になっています。この城跡は、それほど大きくもなければ、建物も石垣もありません。基礎は全て土造りです。更には、いつ誰がこの城を築き使ったのかもわかっていません。この城に関する明確な記録がないのです。それでは、なぜこの城は有名になったのでしょうか。それは、この城が地方の小さな城としては、驚くほど巧みな防御システムを持っていたからなのです。

城の位置

「杉山城問題」

歴史家は長い間、杉山城がいつ誰によって築かれたのか解明しようとしてきました。ところが、その結論は、ますます複雑化してしまっています。城跡で発掘調査が行われたのですが、発掘された遺物から多くの研究者は、この城は16世紀初頭に築かれ、そして使われたと考えました。その当時この城の周辺地域では、関東地方を支配していた上杉氏が内紛を起こしていました(山内上杉氏と扇谷上杉氏との間で起こった長享の乱など)。上杉氏がこの城を築いたとしたのです。一方、縄張り研究者たちは、杉山城に見られる複雑な防御システムは、16世紀後半くらいの、もっと後の時代に見られるものだと反論しました。こちらは、上杉氏の後に関東地方を支配した北条氏が、このような先進的な防御システムを築いたに違いないとしたのです。この議論は「杉山城問題」と言われています。この問題が、この城をより一層有名にしたのかもしれません。

上杉家の家紋、上杉笹 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)
16世紀後半の北条氏当主、北条氏康肖像画、小田原城所蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「築城の教科書」

杉山城は、麓からの高さ42mの丘陵の上に築かれました。城には中心部のものを含め、10個の曲輪がありました。それらの曲輪は、南北と東の三方向に広がっていて、城の中心部の本郭を守るように作られていました。城の西側は急な崖となっていて、崖下に流れる川とともに天然の障壁となっていました。全ての曲輪は、土塁そして空堀に囲まれていて、土橋か木橋によって接続されていました。この城の防御システムの最も重要な特徴は、全ての曲輪の入口が横矢(側面攻撃)によって守られていることでしょう。この仕組みは、巧みな土塁の屈曲と曲輪への導線によって成り立っていました。この城の設計は高いレベルで洗練されていて、現在では度々「築城の教科書」とも呼ばれています。

杉山城跡の模型(嵐山町役場にて展示)

一時的な目的で築城か

発掘の結果によると、杉山城には、館、櫓、門といった常設の建物はありませんでした。恐らく、小屋や柵といった仮設の建物だけがあったと思われます。また、この城は短期間しか使われなかったことがわかっています。火をかけられて破壊されるまで、一度も改修されていないからです。これは、この城が単一の目的か戦いのために作られたからと考えられます。杉山城の周辺には、他にも多くの単一目的で作られたであろう城が存在しました。これらの城には、例えば小倉城のように、それぞれ明確な特徴があるのです。戦国時代の16世紀には、この地域には多くの戦いが起こりました。この地域の戦国大名は、自分たちが住むための城だけでなく、戦いに勝ち抜くために使い捨ての城も築きました。たとえ杉山城が後者のうちの一つであったとしても、驚くほど技巧的な防御システムを持った城であることには変わらないのです。

杉山城跡全景(嵐山町役場説明板より)
小倉城跡、その当時の関東地方の城としては珍しく石垣が築かれています

「杉山城その2」に続きます。