91.島原城 その1

島原の乱に宿命づけられた城

立地と歴史

松倉氏が本拠地として築城

島原城は、九州地方の西部分に位置する島原半島にある城です。中世の期間、この半島の周辺地は、基本的には有馬氏が支配していました。16世紀後半の有馬氏の当主であった有馬晴信は、キリシタン大名として知られていました。そのため、キリスト教はこの半島周辺に急速に広まったのです。ところが、彼は1612年に徳川幕府により罰せられてしまいます。彼の息子も1614年に他の地に移されました。その後、松倉重政が1616年に徳川幕府により島原藩主として宛がわれました。彼は最初は有馬氏が居城としていた日野江城に住んでいましたが、すぐに自身の本拠地として新しい城を築くことを決めました。これが島原城で、1624年に完成しました。

城の位置

有馬晴信像複製、福井県坂井市台雲寺蔵、有馬キリシタン遺産記念館にて展示

島原藩は比較的小規模の藩であり、4万3千石の石高を有していました。ところが、この城は10万石の規模の藩の城に値すると言われていました。このことは、島原藩の領民が高い年貢に苦しみ、城の建設にも多くの労役に駆り出されていたことを意味します。この城には3つの曲輪があり、南から北に向かって一列に並んでいました。本丸と二の丸は内堀に囲まれており、廊下橋によってのみつながっていました。城の外から敵が本丸を攻めようとしても、まず二の丸の入口を攻撃する必要があったのです。

「島原城廻之絵図」部分に加筆、熊本県立図書館蔵、島原城天守閣の展示より
廊下橋跡

高石垣と5層の天守

また、全ての曲輪は屏風折れの高石垣に囲まれており、守備兵から見て死角をなくし、敵に対して側面攻撃を可能としていました。特に本丸には、天守と11もの櫓がありました。天守は5層で、典型的な層塔型に作られていました。他の城にある天守は通常、破風や火灯窓などの装飾がありました。島原城の天守は単純に四角いフロアが、上階に向かって逓減して積まれており、屋根も最小限のものでした。この方式により、天守の建設がより効率的になり、防衛にも適していました。

本丸の屏風折れの高石垣
復元された層塔型の天守

松倉氏の圧政により島原の乱が勃発

重政は、領民に圧政を加え、より多くの収入を得るために重税を課しました。徳川幕府がキリスト教を禁じた後は、改宗しないキリシタンを拷問しました。これは、幕府に忠誠を誓う彼なりのやり方だったようです。重政が亡くなった後、彼の息子、勝家は父親のやり方を踏襲し、更にエスカレートしました。クリスチャンを含む島原半島の人々は憤激し、1637年に島原の乱を起こしました。彼らはまず島原城を攻撃しました。反乱軍は、以前有馬氏に仕えていた浪人たちによって相当高いレベルまで訓練されていました。勝家はそのとき、城ではなく江戸に滞在していました。しかし、彼の部下たちが反乱軍を撃退しました。島原城は皮肉にも、住民たちと戦うことでその強さを証明したのです。

松倉氏の圧政の様子を再現した展示、有馬キリシタン遺産記念館
「島原の乱大手門の戦い」、島原城天守閣にて展示

反乱軍の人たちは、原城に3ヶ月籠城した後鎮圧されました。幕府は松倉氏に対して、島原藩の藩主から改易処分を言い渡しました。松倉勝家は、失政のかどで処刑されました。その後、いくつかの大名家が島原藩と島原城を江戸時代末まで統治しました。1792年、松平氏の施政下において、島原大変と呼ばれる大規模な天災が発生しました。雲仙岳で発生した噴火と地震が、その手前にある眉山の崩壊を引き起こしたのです。山からの土石流により、多くの人々が亡くなりました。島原城もこの災害により一部が破壊されました。

島原陣図屏風部分、秋月郷土館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より
原城跡
島原大変を記録した絵図、島原城天守閣にて展示

「島原城その2」に続きます。

188.原城 その3

城跡は世界遺産となりました。

特徴、見どころ

城を支える自然の地形

駐車場からは、海岸沿いの遊歩道を歩いていくこともできます。そして、二の丸下の自然の急崖を見上げてみましょう。驚くべきことにこの崖は、約9万年前に阿蘇山の火砕流が有明海を越えてここに作られたものなのです。

海岸沿いの遊歩道
二の丸下の自然の急崖
本丸の崖

その後

島原の乱の後、幕府は仏教徒である農民を島原半島に植民しました。そのためこの地域では今に至るまでキリスト教徒が非常に少なくなっています。原城跡は、1938年に国の史跡に指定されました。しかし、城の詳細は1990年に始まった発掘により、最近になって明らかになってきたのです。その甲斐もあって、2018年には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産に登録されました。

本丸の石垣
二の丸がある丘陵

私の感想

島原の乱後、幕府のもとの大名の統治は、比較的穏やかになり、害がないとされれば時には潜伏キリシタンを大目にみるということもあったと言われています(土俗宗教の一つと見なされたようです)。島原の乱で反乱を起こした人たちの尊い犠牲は、無駄ではなかったと思います。この乱と原城の詳細については、まだ多くの謎が残っています。将来、少しずつその事実が明らかになるよう望みます。

本丸の櫓台跡
本丸にある十字架型の記念碑

ここに行くには

車で行く場合:長崎自動車道の長崎ICから約75分かかります。
温泉施設「原城温泉真砂」のそばにある観光客向けの駐車場を使うことができます。
公共交通機関を使う場合は、島原鉄道の島原駅から島鉄バスに乗り、原城前バス停で降りてください。
東京か大阪から来られる場合は、まず飛行機で長崎空港に行かれることをお勧めします。その後、諫早駅行きのシャトルバスに乗り、そこで島原鉄道に乗り換えてください。

原城温泉真砂
駐車場付近から見える雲仙岳

リンク、参考情報

世界遺産のまち 南島原
・「原城発掘/石井進・服部英雄編集」新人物往来社
・「よみがえる日本の城21」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「原城その1」に戻ります。
「原城その2」に戻ります。

188.原城 その2

広大な城跡を見ることができます。

特徴、見どころ

丘陵と谷が広がっている城跡

今日、原城跡はかなりの大きさを維持しており、その外周は約4kmに及びます。本丸はその多くが公有地となっていて、観光客向けに整備されています。二の丸と三の丸を含む城跡の多くは私有地となっており、畑地として使われています。その城跡の地を歩き、見渡してみると、そこには広大な丘や谷があり、城の姿を想像することができます。通常、日本の多くの城の曲輪は緊密に連携しながら機能していました。ところが、原城の曲輪を見てみると、まるで近代的な要塞のように独立して運用されていたのではないかと感じます。このことが、反乱軍が幕府と互角に渡り合うことができた理由かもしれません。

本丸は史跡として整備されています
二の丸と三の丸は畑地となっています
広大な城跡
谷部分から城跡を見上げています

二の丸と三の丸を歩く

もし車で城跡を訪れる場合は、二の丸と三の丸の中間の海際にある駐車場に車を停めることができます。その駐車場から本丸までは、約800m歩く必要があります。歩きながら、この城の大きさを実感することができます。大手門跡を通り過ぎた後の最初の交差点で右に曲がってみると、三の丸にある板倉重昌の記念碑に至ります。彼は島原の乱の初期段階において、ここで撃たれて亡くなりました。

城周辺の地図

観光客向けの駐車場
大手門跡
駐車場から本丸に至る道路上の交差点
三の丸
板倉重昌の記念碑

本丸に向かう道に戻ってみると、左側には広大な二の丸が見え、右側には二の丸出丸が見えます。地元の人たちによると、2万人もの反乱軍の遺骨がいまだに畑地の下に埋まっているといいます。

二の丸付近の道路
二の丸
谷の右側が二の丸出丸

日本有数の本丸虎口

本丸に近づくにつれて、今も本丸を囲む立派な石垣が見えてきます。しかし、この石垣は幕府によってほとんど埋められた後、発掘により姿を現したものなのです。歴史家でさえこのような石垣が城にあったと思っていませんでした。もちろん、この石垣は破壊される前はずっと高かったはずです。

本丸周辺の地図、点線はかつての虎口内の推定進路

本丸に近づきます
発掘され姿を現した本丸石垣

虎口と呼ばれる本丸の入口も発掘され、観光客向けに整備されました。実はここは、殺された反乱軍の人たちの骨が石垣と一緒に埋められていた場所なのです。この入口は、桝形と呼ばれる四角い空間が連結され、この場所を防御するために迷路のようになっていました。歴史家によると、城があった当時は、本丸の中に入るまでに5回から10回も曲がらなければならなかったのではないかとのことです。発掘により、原城の虎口は日本でこれまで見つかったものの中で最大級と判明しました。

発掘された本丸虎口
発掘現場のレプリカ、有馬キリシタン遺産記念館にて展示
虎口の途中にあった埋(うずみ)門跡

広場になっている本丸内部

本丸の中は現在広場になっています。本丸の外周に沿って、本丸門跡、櫓台、池尻門跡があります。また、島原の乱の記念碑や天草四郎の銅像などもあります。本丸は、海沿いの急崖の上にあるため、有明海や、遥かに雲仙岳の素晴らしい眺めを楽しむことができます。

本丸門跡
本丸内部
櫓台
池尻門跡
天草四郎像
本丸からの景色(有明海)
本丸からの景色(城跡と雲仙岳)

「原城その3」に続きます。
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