186.金田城 その1

金田城は、西日本にあった古代山城のひとつでした。これらの城は、663年に朝鮮で起こった白村江の戦いの後、朝廷によって築かれました。金田城は唐・新羅連合軍の侵攻の恐れに対峙する最前線に当たりました。金田城ががあった対馬は朝鮮からわずか約50kmのところに位置していたからです。

古代山城(朝鮮式山城)の一つ

金田城は、西日本にあった古代山城のひとつでした。これらの城は、663年に朝鮮で起こった白村江の戦いの後、朝廷によって築かれました。日本は百済を助けようとしましたが、唐と新羅の連合軍に敗れました。天智天皇は、連合軍による日本侵攻を恐れ、城の建設を命じたのです。金田城は連合軍の侵攻に対峙する最前線に当たりました。金田城ががあった対馬は朝鮮からわずか約50kmのところに位置していたからです。

主要な古代山城の位置

白村江の戦いの図 、緑色部分が百済、青色部分が新羅 (licensed by Samhanin via Wikimedia Commons)

古代山城はまた、朝鮮式山城と呼ばれていて、これは朝鮮で確立し、百済からの亡命者の指導のもとに日本に導入された築城方式です。古代朝鮮(現在の北朝鮮と韓国に相当)では、中国からの侵攻と三国(百済、新羅、高句麗)による内乱が続いていて、多くの戦いが起こっていました。この築城方式は、石垣もしくは土塁により山の周りを囲ってしまうというやり方で、後に確立した日本式の城郭とは随分違っていました。当時の朝鮮の人たちは、敵軍に攻撃されると山城に逃げ込み、敵の補給が切れるのを待ってから、反撃に転じるという戦法を取っていました。この方式が、唐・新羅の連合軍による侵攻に迅速に備えるため、日本にも適用されたのです。

金田城跡のジオラマ、対馬観光情報館にて展示

山の全周を囲む石垣

朝廷は、最初の古代山城として、664年に水城を建設しました。その後、最古の公式の歴史書である「日本書紀」によると、大野城基肄(きい)城が665年に、高安城・屋島城・金田城が667年に築かれました。トータルでは、記録されているものもされていないものも含め、30近くもの古代山城が、想定された侵攻ルートである北九州から瀬戸内海に沿って築かれたと考えられています。また、朝廷は「防人(さきもり)」と呼ばれた兵士を東日本から徴発し、北九州地方に送って防衛と監視にあたらせました。それとともに、狼煙(のろし)によって情報伝達が迅速にできるようになっていました。

水城跡
大野城跡
基肄城跡

金田城は、対馬の中心部の浅茅(あそう)湾に面した城山(じょうやま)に築かれました。城は、現在の厳原(いずはら)港近くの対馬国府から北に約15km離れたところにありました。これは恐らく、城の使われ方が朝鮮の場合に準じて、避難所という位置づけだったからと思われます。その全周は約2.2kmで、大半が石垣によって囲まれていました。大半が土塁によって囲まれていた鬼ノ城(きのじょう)などの他の山城とは対照的です。金田城の北側と西側は、山の険しい峰に沿っていて、自然の要害となっていました。一方、南側は谷に向かって開いていて、城の入口であったようです。また、東側は湾に面していました。よってそれらの場所では、門や高石垣が築かれたりしていました。発掘の結果によると、城の内側には官庁や倉庫の建物はなく、防人が駐屯した兵舎のような建物があったと考えられています。

城周辺の航空写真

浅茅湾
金田城の石垣(東南角石塁)
鬼ノ城の土塁

城周辺の起伏地図

侵攻の脅威が遠のき短期間で廃城

城が築かれた一方で、外国との交渉が続けられていました。例えば、666年に唐と高句麗との戦いが始まりましたが、両方の国が日本に支援を求めてきました。天智天皇は667年に飛鳥からより内陸の大津に都を移しました。そして、恐らくは徴兵の準備のために670年に最初の戸籍(庚午年籍)を作成させました。668年に唐が高句麗を滅ぼした後は、日本と唐の緊張関係はピークに達しました。そのとき唐は実勢に、日本遠征計画を立てていたと言われています。しかし、670年に唐と新羅との戦いが始まったことで、その計画は中止になりました。そして新羅が唐を撃退し、676年に朝鮮統一を果たす結果となります。天智の跡をついだ天武天皇は新羅との友好関係構築に努め、日本への深刻な脅威は遠のきました。

大津宮跡 (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)

その結果、古代山城を維持する必要がなくなりました。金田城を含む多くの古代山城は、7世紀の終わり頃までは修繕や拡張がなされていました。しかし、金田城については、8世紀初頭には廃城になったと考えられています。日本の最古の歌集である「万葉集」が8世紀終わり頃に編纂されましたが、そこには対馬で任務にあたっていた防人の短歌が収められています(巻14-3516:対馬の嶺は下雲あらなふ可牟の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも)。しかし興味深いことに、この短歌が世に出たのは、城が廃城となってから1世紀近く経ってからということになります。金田城が現役であったのはわずか30~40年のことでした。

金田城跡(一の城戸)

「金田城その2」に続きます。

191.中津城 その2

一般的には新しい石垣はより加工された石を使います。ところが、中津城の石垣の場合は真逆のように見えるのです。

特徴、見どころ

民営となっている模擬天守

現在、中津城跡は「中津城公園」という観光地として整備されています。そのように言う理由は、城跡の本丸石垣の角に、大変よく目立つ五層の天守があるからです。しかし、これは模擬天守であり、元はオリジナルの他の櫓があった場所に建てられたものです。以前城主であった奥平家が経営していた会社が、観光振興のために建設したのです。その経緯によりこの天守では、奥平家歴史資料館として奥平氏が支配した中津藩の歴史を主に展示しています。しかし赤字運営のために、奥平家は天守を他の民間会社に売却しました。現在の中津城は、唯一の民間経営の城とされていて、現地では民間企業らしくお客を呼び込む従業員の姿が見られるかもしれません。もし、城の創立者である黒田孝高のことをより知りたければ、天守の手前にあって、中津市が運営している黒田官兵衛資料館に行ってみてはいかがでしょう。

中津城の模擬天守
模擬天守の入口側
天守(奥平家歴史資料館)の中の様子
展望台から見える中津川の眺め
黒田官兵衛資料館の展示の一部

黒田時代と細川時代の石垣が共存

城に関する歴史的遺物は、石垣や水堀など、主に本丸にあります。本丸北側の石垣を見てみると、石垣は右側の古い部分と左側の新しい部分に分かれています。古い部分のかつては角であった継ぎ目がはっきりと見て取れます。一般的には新しい石垣はより加工された石を使います。ところが、中津城の石垣の場合は真逆のように見えるのです。左側の新しい石垣の石は自然石で、右側の古い石垣の石は前者よりずっと加工されているのです。その理由は、創始者の黒田孝高が新しい城の建設を急ぐために、近くにある古代山城の唐原山城(とばるさんじょう)の石を運んできて使ったからだそうです。

城周辺の航空写真

左側が細川時代の新しい石垣、右側が黒田時代の古い石垣
天守の石垣は細川時代のものか?

本丸は今でも中津川沿いに位置していますが、その間は遊歩道があるコンクリートの護岸壁となっています。川と城を一緒に眺めながら遊歩道を歩いてみるのもよいでしょう。古代山城にあった石を使って築かれた石垣が、川沿いに並んでいます。この石垣の上に建物を築くことで、川の方から見た城の見栄えが良くなるようにしていたと思われます。しかし今ではその石垣の上に現代の住居や神社の建物があって、面白いコントラストとなっています。本丸の端には水門の石垣があって、過去には城と川が直接つながっていたことがわかります。

川沿いの遊歩道へ
川沿いに残る黒田時代の石垣
この石垣台の上に天守のような大櫓があったかもしれないようです
石垣の一部には現代住宅が乗っかっています
水門跡の石垣 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)

川の反対側には、孝高が最初に築いた別のタイプの石垣があります。この石垣は長く伸びていますが、そんなに高くはありませんし、細川氏の時代に使われていたものより小さな自然石を使って築かれています。最近になって手前にある水堀と一緒に修繕されて、その周りを歩いてみることができます。

川と反対側にある石垣と堀
向かい側には遊歩道と中津市歴史博物館があります

本丸の新旧正門

更には、神社の鳥居がある本丸の正面入口では、その石垣の断面を見ることができます。それは、この入口が明治時代にこの石垣を壊した場所に作られたからで、鳥居は昭和になってから建てられました。

本丸の正面入口
石垣の断面(内部に見える石垣が黒田時代のもので、細川時代に積み増しているようです)
入口のもう片側の石垣は上半分が撤去されていましたが復元されています

この現在の正面入口の近くには、オリジナルの本丸正門である椎木門(しいきもん)跡があります。この場所は今も石垣に囲まれています。この門の背後には防衛のために別の石垣で囲まれた扇形のスペースがあったのですが、今では一部しか残っていません。

椎木門跡
扇形の石垣のうち残存部分
かつてはこのようになっていました、現地説明版より(赤枠内が残存部分)
今は門の内側は開けています

「中津城その3」に続きます。
「中津城その1」に戻ります。

184.基肄城~Kii Castle

見張り台のような城
A castle like a lookout

立地と歴史~Location and History

古代山城の一つ~One of Ancient Mountain Castles

基肄城は、西日本にあった古代山城の一つです。663年に朝鮮で起きた白村江の戦いの後、朝廷により築かれました。日本は百済を助けようとしましたが、唐と新羅の連合軍に敗れたのです。天智天皇は、この連合軍による将来の侵攻の可能性を恐れ、百済からの難民の助けも借り、これらの城の築城を命じたのです。そのため、これらの城は「朝鮮式山城」とも呼ばれています。
Kii Castle is one of ancient mountain castles in western Japan. It was built by the Imperial Court after the Battle of Baekgang, Korea in 663. Japan tried to help Baekje, but was beaten by the ally of Tang and Silla. Emperor Tenchi, worried by the future possibility of invasion by this alliance, ordered the construction of these castles with the help of Baekje refugees. That’s why these castles are also called “Korean style mountain castles”.

白村江の戦いの図~The map about the Battle of Baekgang(licensed by Samhanin via Wikimedia Commons)

城特有の役割~Castle’s own Role

基肄城は、九州地方で記録がある五つのうちの一つです。その他は、大野水城麹池、そして金田です。それぞれの城には独自の役目がありました。基肄城は、物見のための城だったように思います。もし、連合軍が日本を攻めた場合、2つの考えられる侵攻ルートがありました。両方とも最初は金田城が築かれた対馬海峡にある対馬は通るでしょう。そして、壱岐島の辺りで2つに分かれることが推測され、一つは北の方角から博多湾経由で福岡平野に上陸し、もう一つは西の方角から有明湾経由で佐賀平野に上陸するものです。
Kii Castle was one of the five recorded ones in Kyushu region. The others were Ono, Mizuki, Kikuchi, and Kaneda. Each castle had its own role. I think Kii Castle was kind of a lookout castle. If the ally were to attack Japan, there would be two possible routes to enter from. Both would first pass through Tsushima Island on Tsushima Strait where Kaneda Castle was built. There are speculations that the routes may be divided around Iki Island, one would land on the Fukuoka plain through Hakata Bay from the north direction, and the other would land on the Saga plain through Ariake Bay from the west direction.

九州地方の5つの記録された古代山城の位置~The location of five recorded ancient mountain castles in Kyushu region

基山(標高404m)の上にあり、その頂上からは福岡、佐賀両平野が見渡せます。この城は主に佐賀の防衛の備えとされ、一方水城は福岡の方の備えとされました。基山には3つの峰(山頂、北峰、東峰)があり、南方になる谷を取り囲んでいました。それらの峰に沿って土塁が築かれ、その総延長は3.9kmありました。南側の谷には石垣が築かれ、排水口により水量を調整していました。城には4つの門があり、内側には倉庫や兵舎など多くの建物がありました。
Kii Castle was built on Kizan mountain (404m above sea level) and from its top both the Fukuoka and the Saga plains are visible. It was mainly prepared for the protection of Saga, while Mizuki was built for the protection of Fukuoka. Kizan mountain has three ridges (the top, the North Peak, and the East Peak) surrounding the valley on the south. The earthen walls were built along the ridges whose overall length was 3.9km. The stone walls were also built on the southern valley which had drains to control water. The castle had four gates and lots of buildings inside such as warehouses and barracks.

城周辺の起伏地図~The relief map around the castle

戦国時代に再利用~It was reused in Sengoku Period

古書によれば、基肄城は665年に築かれ、698年に修繕されました。結果的には連合軍は幸いにも日本を攻撃しませんでした。城の倉庫や兵舎は8、9世紀頃はで使われたとする歴史家もいます。15、16世紀頃、戦国時代として知られる時期には、その立地の良さから戦国大名によって再び城は使われました。
Old books say that Kii Castle was built in 665, and repaired in 698. As a result, the ally fortunately did not attack Japan. Some historians believe that the castle’s warehouses and barracks were used until around the 8th and 9th centuries. Around the 15th and 16th centuries which is also sometimes known as “Sengoku” Period or the Warring State Period, the castle was used again by some warlords, because of its good location.

戦国時代の城跡~The ruins of the castle in the Sengoku Period

特徴~Features

現在(2021年2月)、城跡の中心部に入ることと、全体を歩き通すことはできません。2018年の西日本での豪雨によりこの辺りが深刻な被害を受けたからです。行政がこの地域の道路と山道の通行を禁止しているのです。このため、観光客は行政が許可したいくつかの地点のみ見ることができます。それでは、現在行くことができる2つの地点をご紹介しましょう。
Now (in February 2021), it is impossible for anyone to enter the center of the castle ruins, and walk straight through the whole area. This is because the area was seriously destroyed by the heavy rain in western Japan in 2018. The local government bans the use of roads and trails in that area. For this reason, visitors are able to see only some spots that the Local Government has opened. I will describe two spots you can visit now.

城周辺の地図~The map around the castle

基山山頂~Summit of Kizan

ここは城の最高地点だった所で、土塁の西側部分に当たります。そしてまた戦国時代の城の本丸でもありました。その外側は急坂になっていて、現在ではグラススキー場のゲレンデとして使われています。山頂の麓には駐車場があり、城跡を訪れる際駐車することができます。15分程山頂の方に登っていくと、その途中に沢山の溝が見えてきます。それは何か入口のように見えるかもしれませんが、実は戦国時代の城主により作られた「いものがんぎ」と呼ばれる空堀跡なのです。
This was the highest spot of the castle and the western part of the earthen walls, as well as the Main Enclosure of the castle in Sengoku Period. The outside is steep slope, so it is now used as a grass ski ground. There is a parking lot on the foot of the summit where you can park your cars while visiting the ruins. Its 15 minutes climb to the top and on the way you will see many ditches . You may think they are some of the entrances, but they are, in fact, ruins of dry moats called “Imono-gangi”, made by the lord of the Sengoku castle.

土塁外側の急坂~The steep slope outside of the earthen walls
「いものがんぎ」と呼ばれる空堀跡~The ruins of dry moats called “Imono-gangi”

その空堀を越えていくと、土塁の上のよく開けた場所に至ります。土塁は南北に走っています。北の方角には基肄城を示す標識があり、福岡平野を望むことができます。
Over the dry moats, you will enter the widely open area, on the earthen walls. You can see the ridge of the mountain, the earthen walls, that goes both north and south. You can also have a view of the Fukuoka plain with the signboard of Kii Castle on the north.

基肄城の標識~The signboard of Kii Castle
福岡平野の眺め~A view of the Fukuoka Plain

次に、反対側の南の方角に向かってみると、人工の土盛りが見えてきます。これらは戦国時代の本丸の跡なのです。この本丸は山の頂に作られたのです。もう一つ、天智天皇に関わる記念碑がここにあります。山頂からは、佐賀平野を見渡すことができます。
Next, if you go to the opposite side on the south, you can find artificial mounds, which are also the ruins of the Main Enclosure in Sengoku Period. The Enclosure is situated on the top of the mountain. There is another monument for Emperor Tenchi. You can also see the Saga plain from the top.

南の方角を見る~Lookng at the south direction
戦国時代の本丸跡~The ruins of the Main Enclosure in Sengoku Period
天智天皇の記念碑~The monument for Emperor Tenchi
佐賀平野の眺め~A view of the Saga Plain

水門跡~Ruins of Water Gate

この場所は、城の南の部分に当たり、谷を埋めるため、水門と共に石垣が築かれました。石垣と水門の一部が今に残っています。ここに行くには違う道筋を進む必要があります。現存の石垣は全長26m、高さ8.5mあります。水門は石垣の下に設置され、住吉川の水を内側から外側に排出しています。
This spot was located on the southern part of the castle where the stone walls were built with the water gate to fill the valley. Part of the stone walls with the gate remain now. To visit them, you have to take a different route. The remaining stone walls are 26m long and 8.5m tall. The water gate is placed under the wall to drain the water of Sumiyoshi-gawa River from the inside to the outside.

水門跡~The ruins of the water gate(licensed by Wxrx via Wikimedia Commons)

その後~Later History

江戸時代(18、19世紀頃)においてでも、人々は基肄城が古代の遺跡であることを認識していました。というのは、公式の歴史書である「日本書紀」にこの城のことが記録されていたからです。城跡は最終的に1954年に国の特別史跡に指定されました。
Even in the Edo Period (around the 18th and 19th centuries), people recognized Kii Castle as ancient ruins, because the castle have been recorded in an official history book called “Nihon-Shoki”. The ruins were finally designated as a Special National Historic Site in 1954.

基肄城の土塁~The earthen walls of Kii Castle

私の感想~My Impression

私が基山山頂を訪れたとき、その山頂からは福岡・佐賀両平野の素晴らしい景色が見えました。そのときこの城はとても良い立地にあることが理解できたのです。役所によると城跡の中心地の道路は2022年3月までに復旧するとのことです。その後またこの城跡を訪れてみたいと思います。
When I visited the summit of Kizan, and saw great views both of the Fukuoka and Saga plains from the top, I really found out the castle had a very good location. The local government says that the roads in the center of the ruins will be repaired by March 2022. I would like to visit them again after that.

基山山頂付近~Around the top of Kizan mountain

ここに行くには~How to get There

ここには車で行くことをお勧めします。
九州自動車道の筑紫野ICから5km以内のところです。
もし基山町役場に立ち寄ることができれば、職員の方が城跡への道のりを詳しく教えてくれます。
I recommend you to go there by car at this point.
The ruins are within 5 km away from the Chikushino IC on Kyushu Expressway.
If you drop by at the Kizan Town hall, the officials will offer you the detailed routes to the ruins.

リンク、参考情報~Links and References

基肄城跡、基山町(Kizan Town Official Website)