その後
明治維新後、延岡城は廃城となり、ほとんどの城の建物は撤去されました。太鼓櫓などいくつかの建物はしばらくの間残っていました。ところがこの櫓も焼け落ちてしまいました。1877年の西南戦争として知られる、維新の英雄であった西郷隆盛が政府に対して反乱を起こしたときです。西郷の軍は南方の鹿児島から熊本城への攻撃を開始したのですが、城の占領に失敗し撤退を強いられ、今度は九州各地で戦いを展開しました。延岡はそのうちの一つでした。実は延岡城は既に政府軍によって確保されていたのですが、味方の海軍が誤って城に砲撃を始めました。城にいた友軍は城は既に落ちていることを示すために自ら櫓に火をつけたのです。
もう一つのこの城の興味深いエピソードは、千人殺しの石垣に関するものです。実は、このニックネームは城が廃城になった後、明治時代に初めて現れたのです。石垣の基礎となった石には隙間があり、そこに子供たちが入って遊んでいたと言われています。そのような様子を見た誰かが想像し、この石垣の素晴らしさを表わすために千人殺しのストーリーを考えたのではないでしょうか。
特徴、見どころ
市街地となった砂州
現在、JR延岡駅から歩いて延岡城跡に向かう場合は、五ヶ瀬川にかかる橋の一つを渡っていきます。橋からは、城跡がある丘が少し遠くの方に見えます。2つの川に挟まれた砂州は、多くの官公庁ビルが建つ現代的な市街地になっています。かつてあった堀も残っていません。そのため、簡単に城跡の東端に到着します。
延岡周辺の地図城山公園となった城跡
城跡は城山公園という名の公園になっていて、北側と南東側に2つの入口があります。前者は城の大手道であり、後者は搦手道でした。両方ともビジター向けによく整備されています。もし北側の入口に行こうとして、丘の周りを歩いていくと、古い石垣が部分的に丘を覆っているのが見えます。そして、復元された北大手門を通って公園に入っていきます。
城周辺の地図ニックネームがあったために石垣を改修
門を通り過ぎて、二の丸に入っていくと、早くも城のハイライトである千人殺しの石垣が姿を現します。この石垣は二の丸のすぐ上にある本丸を囲んでいるので、二の丸からは間近に見ることができます。見るからに壮観であり、石工たちが粗野な自然石を使ってどうやって19mもの高さに積み上げたのか想像だにできません。石垣の隅の基部の石、つまり石垣の崩壊を起こすかもしれなかった石を見てみると、コンクリートで固められています。その場の説明版を読んでみると、1935年の昭和天皇のこの城への訪問前に固められたとあります。事実としては千人殺しの石垣という異名は廃城後に作られた、素晴らしい石垣であることを表わす誇張表現だったのです。ところが、天皇は第二次世界大戦前は「現人神」という扱いだったため、延岡の人たちは万万が一にも不祥事が起こらないよう石に手を加えたのでしょう。