135.増山城 その1

越中国の重要な山城

立地と歴史

戦国時代の越中国

増山城は、越中国(現在の富山県)にあった大きな山城でした。16世紀前半、越中国には有力な戦国大名がおらず、神保氏、椎名氏、一向宗他の勢力に分割されていました。この国の中央部には富山平野があり、東西と南方向は丘陵地帯に囲まれていました。各勢力はその丘陵地帯に多くの山城を築き、領地を維持していました。増山城は、守山城、松倉城と並んで、越中国の三大山城の一つとされています。

城の位置

増山城は、南方から富山平野に突き出した丘陵地帯の西端に位置していました。和田川がその端際を流れており、自然の水堀となっていました。そして、一ノ丸、二ノ丸といった多くの曲輪がありました。

城周辺の起伏地図

城周辺の地図

増山城の防衛システム

これらの曲輪を守るために、城には峰、崖、谷といった自然の地形を利用した防御の仕組みがいくつもありました。例えば、いくつかの峰は人工的に溝のように切断され、堀切と呼ばれました。崖部分は垂直に削られ、切岸と呼ばれました。そして、谷部分は空堀として使用されました。

山城の防御の仕組み(現地説明板より)

また、この城にはいくつか井戸があり、兵士たちは容易に水を得られるため、長い籠城戦にも耐えられました。増山城のとなりの丘陵には亀山城のような他の城もあり、連携できるようになっていました。最盛期には、山城の麓に城下町も建設されました。

増山城の想像図(現地説明板より)

上杉謙信が三度攻撃

この城がいつ最初に築かれたかは定かではありませんが、戦国時代の16世紀中頃には神保氏がこの城を所有していました。1560年、有力な戦国大名、上杉謙信が越後国(越中国の東)から椎名氏を支援すると称し、越中国に侵攻しました。神保氏は守りを固め、増山城に籠城します。謙信は書状の中で「増山之事、元来嶮難之地、人衆以相当、如何ニも手堅相抱候間」(増山城はもともと要害の地である上に、守備兵を多く揃え、堅固に守られている)と言っています。謙信は三度増山城を攻撃し、ついに1576年に占領しました。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1578年に謙信が亡くなった後、織田氏配下の佐々成政が1581年に増山城を上杉氏から奪います。その後、天下人の豊臣秀吉や後には徳川幕府を支持した前田氏がこの城を所有しました。城には、前田氏の重臣たちが在城していました。この地方一帯を治めるためには、この城は常に重要であり続けたのです。しかし、1615年に徳川幕府によって出された一国一城令により、ついに廃城となってしまいました。最後の方では、重臣の妻で、前田氏の創始者、前田利家の娘でもあった蕭姫(しょうひめ)がこの城を治めていたと言われています。

佐々成政肖像画、富山市郷土博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
前田氏の創始者、前田利家肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「増山城その2」に続きます。

34.七尾城 その2

城の主要部はいまだに際立っています。

特徴、見どころ

駐車場から城の主要部へ

現在、車を使えば七尾城跡の主要部分に直接乗り入れることができます。城跡には今は城の建物はありませんが、城の基礎部分は健在です。長屋敷の下にある曲輪が駐車場になっています。駐車場からは、よく整備された道を歩いて、本丸の方に行くことができます。

城周辺の地図

駐車場
本丸に至る道

そのときには道すがら、本丸と長屋敷の間を隔てる大きく深い堀切や、本丸にある切岸と呼ばれる垂直に切り落とされた崖も見ることができます。これらは人工的に加工されたものです。

本丸と長屋敷の間を隔てる堀切
本丸下の切岸

最初に、桜馬場の下にある調度丸(ちょうどまる)に着きます。ここは武具が準備されている場所でした。もとあった大手道もまた調度丸に着くようになっていました。

調度丸
調度丸に至る大手道
調度丸の想像図(現地案内板より)

素晴らしい石垣群

次は桜馬場に登っていく途中に、大規模な五段積みの石垣が見えてきます。野面積みと呼ばれる自然石を積み上げる方法で作られています。表面が苔に覆われていてとても美しく見えます。前田利家により築かれたもので、この城の呼び物の一つです。

桜馬場への登り口
前田利家が築いた五段石垣
苔むした石垣

桜馬場の正面からは、遊佐屋敷を通ってまっすぐ本丸に行くことができます。しかしこの道は元からあったものではなく、約80年前に本丸に城山神社が創建されたときに作られたと言われています。そのおかげで、本丸の立派な三段の石垣を間近に見ることもできるわけです。

桜馬場の入口
遊佐屋敷
本丸にまっすぐ伸びる道
本丸の三段石垣

よく防御されていた本丸

本丸は、過去にはこの石垣と垂直に切り立った崖により、よく守られていました。元の本丸への道は、曲がりくねって裏側の方から回り込んでいました。そして、本丸の外側に配置された外桝形と呼ばれる四角い空間によって、防御されていました。

本丸を守る石垣と切岸
本丸の本来の入口にある外桝形

本丸の内部は、基本的には空になっていますが、城の記念碑が立っています。神社は天守跡にあります。天守は檜皮葺きか杮葺きであったと考えられています。発掘によっても瓦が発見されなかったからです。本丸からの眺めは素晴らしいです。もし天気がよければ、七尾湾と能登半島を含む七尾市の全景を見渡すことができます。

本丸の内部
本丸に立つ記念碑
天守跡に立つ城山神社
本丸からの眺め

「七尾城その3」に続きます。
「七尾城その1」に戻ります。

39.岐阜城 その2

山上と山麓、両方の城跡に注目です。

特徴

城周辺の地図

山上の城跡へ

現在、金華山周辺の地区は岐阜県で最も人気のある観光地の一つとなっています。金華山ロープウェイを使えば簡単に山の頂上に行くことができます。もし登って行かれたいのであれば、通常はかつて城への大手道であった七曲り登山道を登っていきます。この登山道は比較的なだらかな坂になっていて、麓から約300m登って、頂上に着くには約1時間ほどかかります。

市街地から見える天守
七曲り登山道の入口
七曲り登山道
山頂へ向かう

頂上もまた、まさに観光地化していて、ロープウェイの発着場、レストラン、動物園、そして模擬天守があります。頂上周辺の道は、現代的な舗装がされています。それでも、どこでもチャートによるごつごつした岩の面が見られます。城跡としては一ノ門跡があり、門にあった巨石が転がっています。防衛のために加工された「堀切」を見たあとは、二ノ門跡が現れます。ここの白壁は近年再建されたものですが、一部の石垣はもとからあったものです。そして、二ノ門から天守に向かう道の下にある二段の石垣は必見です。この石垣の作り方はとても古く、よって、信長により築かれたと考えられています。

頂上に到着
一ノ門跡
転がっている巨石
堀切
二ノ門跡
天守への道下にある石垣
二段積みになっています。

素晴らしい天守からの眺め

模擬天守は、加納城の三階櫓の絵図に基づいて1956年に建てられました。その櫓は江戸時代に焼けてしまったのですが、元は岐阜城から移築されたという言い伝えがありました。天守の内部は博物館として使われていて、城の歴史と信長についての展示があります。また、最上階は展望台になっていて、長良川を含むこの地域一帯のすばらしい景色を眺めることができます。天守を支える石垣はとても古いものに見えます。実際は、石自体はもとからあったのですが、この天守を作るときに積み直されたのです。

模擬天守
天守からの眺め(長良川)
天守からの眺め(山側)
天守の石垣

山から下るときは、例えば裏門からなど、別の登山道を使うこともできます。裏門もかつては巨石を使っていて、道すがら残っている一部の石が見られます。しばらく下っていくと、「烏帽子岩」と呼ばれる巨大な聖なる岩も見学できます。伊奈波神社はもともとこの岩の周辺にありました。

裏門跡
残っている巨石の一部
随所にみられるチャート
烏帽子岩

信長の居館跡

山麓に着いたら、是非信長の居館跡に行ってみてください。実はそこが城の中心地だったかもしれないからです。入口では、互い違いに並べられた巨石跡を見ることができ、かつては高さが1.7mありました。階段状になっている石垣の辺りの階段を上がっていくと、広い空き地があり、そこには母屋が建っていました。その後ろ側には茶室や展望のための建物が、巨石を使った人口の池泉庭園とともにありました。池を使ったもう一つの庭園がとなりにあり、人工の川が滝から流れ出て、庭園の間を流れていました。更にこれらの庭園と母屋とは、空中回廊を通じてつながっていました。信長は、彼の居館を公的行事や重要な客のもてなしのために使っていたようです。

居館跡入口
母屋跡への階段
母屋跡
庭園跡
庭園周辺の想像図(岐阜城天守閣)
居館跡
居館想像図(現地説明板より)

「岐阜城その3」に続きます。
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