198.知覧城 その1

シラス台地の特徴を生かして築かれた城

立地と歴史

知覧の名産名所

鹿児島県に属する南九州市の知覧地区には多くの名産名所があります。まず最初に挙げられるのは知覧茶でしょう。知覧茶は、南九州に分布する火山地帯からの火山灰が広範に降り積もったことで形成されたシラス台地上で栽培されています。南九州市は2017年、日本茶を最も多く産出した地方自治体となりました。

南九州市の茶畑  (licensed by Ray_go via Wikimedia Commons)

次には、知覧飛行場での神風特別攻撃隊の歴史も有名になっています。特攻隊の歴史は悲劇の一つと言えるでしょうが、この場所自体は台地上で風向きにも恵まれいて、飛行場の建設に適していました。もともとこの飛行場は通常の陸軍航空隊の練習用に使われていたのですが、第二次世界大戦の戦局の悪化のため、特攻隊基地になってしまったのです。

知覧基地で特攻隊員の宿舎となった三角兵舎

三番目としては、台地の麓に広がる平地部分にある知覧武家屋敷群が観光名所となっています。この一帯には多くの庭園といくらかの現存建物もあり、昔の雰囲気を残しています。武家屋敷通りはまるで江戸時代そのままのように見えます。この屋敷群は、知覧を含む薩摩国の領主であった島津氏の一族である佐多氏によって築かれました。島津氏による薩摩藩は知覧からは遠くにある鹿児島城を本拠地としていました。当時の他の藩は通常、藩士たちを本拠地があるところに集住させていましたが、薩摩藩は「外城(とじょう)」と呼ばれる独特の仕組みを採用していました。それは、藩士の多くを辺境の地に送り込み、自分たちで統治と防衛を担わせるというものでした。知覧武家屋敷群は外城の一つであり、知覧麓(ちらんろく)とも呼ばれました。

知覧武家屋敷通り (licensed by Naokijp via Wikimedia Commons)
鹿児島城跡
代表的な外城の一つ、出水(いずみ)外城の模型、鹿児島県歴史・美術センター黎明館にて展示

シラス台地を利用して築城

最後になってしまいましたが、知覧城は上記3つの名産名所に比べたら知られていないでしょう。しかし佐多氏はもともと、台地の麓の屋敷群に移るまではこの城を居城としていたのです。この城は一種の山城であり、戦国時代の16世紀までは武士たちが住み且つ身を守るために通常取っていた手段でした。ところが、この城は知覧という地域が有していた特殊な条件を使ったとてもユニークな方法で築かれていました。城は、まるで入り江のようにも見えるシラス台地の端に位置していました。火山灰によって成り立つ台地はもろく崩れやすく、その端の部分は崖になります。また、この台地の土は加工しやすく、そのため知覧城の築城者は高い壁や深い堀を比較的簡単に作れたのです。その結果、この城の曲輪群は台地の端にそそり立つ巨大な柱のような景観となりました。

城の位置

知覧城跡の航空写真、南九州市ホームページより引用

知覧城には、中心にある本丸等の4つの主要曲輪とその周りの補助曲輪から成り立っていました。それぞれの曲輪は独立していて、25m以上の深さの空堀に囲まれていました。もし敵が城の頂上部分と同じ高さの台地上から城を攻撃しようとしても、その深い空堀のために直接攻撃することは不可能でした。25m以上上の方から反撃を受けてしまうことになります。主要曲輪の中には、桝形と呼ばれる人工的に作った防御システムを持っているものもありました。これは、曲輪の入口のところにある四角い空間で、意図的に曲輪への通路が内部にまっすぐ入らないようにしたものです。

城周辺の起伏地図

知覧城縄張り図、南九州市ホームページより引用

城の歴史

この城は最初は14世紀に佐多氏によって築かれたと言われています。その後、伊集院氏が15世紀に城を含む知覧地域を佐多氏から奪いました。しかし、主君である島津氏が取り返し、佐多氏に返しました。1591年、佐多氏は海賊禁止令に違反したかどで罰せられ、城からも追放されてしまいました。ところが、1610年にはまたこの城に復帰します。最終的には同じ頃に失火により城が焼け、藩の方針に従う形で台地の麓に移住していきました。知覧城はやがて廃城となりますが、佐多氏は何らかの形で城跡を維持していたようなのです。発掘により、廃城の後の江戸自体の陶磁器が現地で見つかっているからです。

知覧城跡

「知覧城その2」に続きます。

97.鹿児島城 その1

島津氏の本拠地であるとともに、西南戦争終焉の地

立地と歴史

関ヶ原の戦いの後に築城

鹿児島城は、江戸時代の間島津氏の本拠地であり、また1877年に起こった日本最後の内戦である西南戦争の最後の戦場となったことでも知られています。島津氏は15世紀中盤から16世紀までの戦国時代における九州地方南部の有力な戦国大名でした。ところが、1600年の天下分け目の関ヶ原の戦いでは、島津氏を含む西軍は、徳川幕府の創始者となる徳川家康率いる東軍に完敗しました。約1500人の兵による島津軍は、中部地方にあった戦場から何とか逃れ、九州地方の薩摩国にあった本拠地にたどり着きましたが、そのときまで生き残った人数はたった80人でした。

城の位置

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

島津氏は、幕府軍が薩摩国を直接攻撃してくるのではないかと憂いていました。そこで、本拠地としての新しい城を築くことを決めたのです。それまでの本拠地はシンプルな館だったので、それよりはずっと強力なものでした。城は西側にある城山の麓に築かれ、山は緊急事態のときの詰め城とされました。城には本丸と二の丸があり、北・東・南側を石垣と水堀が囲んでいました。本丸の内部には領主の御殿があり、御楼門(ごろうもん)と呼ばれる日本でも最大級の門がありました。しかし、それでもこの城の防衛システムは、天守・多層階の櫓、高く巧みに曲げられた石垣といったものがあった日本の他の城ほど複雑ではありませんでした。これは、島津氏が治めていた薩摩藩には外城(とじょう)と呼ばれた独特な防衛システムがあったからなのです。それは、藩が多くの藩士を地元に送り、その拠点を自身で守らせるというものでした。他の藩では通常、藩士を本拠地の城下に集住させていたので、薩摩藩のやり方は異なっていました。

鹿児島城の模型(北東側からの視点)、黎明館にて展示
上記模型の御楼門部分
代表的な外城の一つ、出水(いずみ)外城の模型、黎明館にて展示

幸運にも幕府は、薩摩藩に薩摩国を江戸時代末期まで統治することを認めました。1863年に起こった薩英戦争のときのことですが、イギリスの軍艦が鹿児島市街地を砲撃しましたが、城は砲撃目標とされませんでした。高層の建物がなかったからです。明治維新後、城は県庁と陸軍施設として使われました。しかし残念ながら、本丸の建物は1874年の失火により焼け落ちてしまいました。

焼け落ちる以前の鹿児島城の古写真、黎明館にて展示  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

西南戦争の勃発

ついに、この城の最大の出来事が1877年に起こります。維新三傑の一人である西郷隆盛が、他の二傑、大久保利通と木戸孝允に反発し、政府での職を全て辞して1873年に故郷の鹿児島に帰ってきました。彼は1874年に鹿児島城の二の丸に私学校を設立し、若い武士たちの教育を始めました。西郷は穏やかに若手をコントロールしようとしたのですが、結局大久保率いる政府に対する反乱の首謀者に担ぎ上げられてしまったのです。大久保は、帯刀などの武士の特権を廃止し、1876年には代々受け継がれた家禄をも取り上げました(秩禄処分)。同年からいくつか反乱が発生したのですが、その最大のものが1877年2月に起こった西郷による西南戦争でした。

西郷隆盛像、エドアルド・キヨッソーネ作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大久保利通肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

西郷とその軍勢は、北の方に行き熊本城を占拠しようとしました。彼とその側近たちは最初は楽観的でした。彼らはプロの武士集団であり、九州地方の他の地域から集まった支援者たちを加えると、その兵数は最大時で3万に達しました。一方、熊本城の守備兵の数はわずか3千超であり、多くは徴集された農民兵でした。西郷軍は、城の守備兵はすぐにでも降伏するとさえ考えていました。幹部の何人かは薩摩出身だったからです。ところが、谷将軍が率いる守備兵は決して降伏せず、大久保は援軍を城に送りました。その援軍の多くも徴収兵でしたが、西郷が思うよりずっとよく訓練され、西郷軍よりもずっと装備や兵站が充実していました。政府側は電信のような先端の情報技術さえ駆使しました。西郷側にはとてもそのようなものはありませんでした。4月には西郷は熊本城から撤退せざるをえず、人吉城などの九州の他の地域に滞陣しようとしますが、全て失敗しました。西郷はついに8月に反乱軍の解散を宣言します。わずか400名近くとなってしまった彼と側近たちは、最期の決死の戦いを、故郷且つ本拠地である鹿児島城で行うことを望みました。

熊本城
谷干城少将に率いられた鎮西鎮台の指揮官たち、朝日百科より (licensed under Public Domain via Wikipedia Commons)

西郷と城の最期

彼らは9月初めに鹿児島城に何とかたどり着き、城山の麓と山上に兵を配置しました。もちろん5万人からなる政府軍からの攻撃を防ぎきれるものではありません。もし、これが戦国時代の出来事であったなら、西郷は山上に本陣を置いたでしょう。しかし、それは大砲の標的となってしまうため不可能でした。そのため、彼は山と麓の狭間の谷にあった洞窟に留まらざるをえず、そこは後に西郷洞窟と呼ばれるようになります。政府軍は、人っ子一人逃げられないよう完全に薩摩の反乱軍を包囲しました。そして9月24日に総攻撃を開始したのです。西郷は洞窟から突撃を敢行しましたが、銃撃され、最後は切腹して果てました。

西郷洞窟
政府軍の包囲陣地、1877年 (licensed under Public Domain via Wikipedia Commons)

「鹿児島城その2」に続きます。