21.江戸城 その2

江戸城は、徳川将軍家の本拠地として完成しました。どの大名の城とも別格であり、将軍の権威を誇示し、反逆心など起こさせないようにする存在となりました。そのため、日本一広いだけでなく、独特の意匠や構造を持つ城になったのです。城と一体であった江戸の町は、当時から世界有数の都市でした。各大名は参勤交代により、江戸と居城を往復するたびに、莫大な費用をかけながら、江戸の城と町を見せつけられたのです。まさに、戦わずして勝つ仕掛けでした。

立地と歴史(君臨の歴史編)

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

江戸城の防衛システム

江戸城は、徳川将軍家の本拠地として完成しました。どの大名の城とも別格であり、将軍の権威を誇示し、反逆心など起こさせないようにする存在となりました。そのため、日本一広いだけでなく、独特の意匠や構造を持つ城になったのです。城と一体であった江戸の町は、当時から世界有数の都市でした。各大名は参勤交代により、江戸と居城を往復するたびに、莫大な費用をかけながら、江戸の城と町を見せつけられたのです。まさに、戦わずして勝つ仕掛けでした。

「江戸図屏風」国立歴史民俗博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

江戸城は、江戸幕府の本拠地でもあるため、中央政庁としての役割もありました。敵を撃退するというより、不審者を簡単に侵入させないセキュリティ維持の仕組みも求められました。特徴として、城の敷地面積のわりには櫓が少なかったそうです。それでも、天守のほかに、三重櫓が最盛期には本丸に5棟(富士見三重櫓、遠侍東三重櫓、台所前三重櫓、菱櫓、数寄屋櫓)、二の丸に3棟もありました。(蓮池巽三重櫓・巽奥三重櫓・東三重櫓)天守がなくなってからは、富士見三重櫓が、天守の代用になったと言われています。全体(本丸・二の丸・三の丸)では、約30基の櫓があったようです(多聞櫓除く)。

富士見三重櫓(現存)
蓮池巽三重櫓(古写真)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
(左から)巽奥三重櫓、東三重櫓(古写真)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


一方、城門が数多く設置されていて、その数は約90に達しました(諸説あり)。入口をしっかり警護し、不審者をここでロックアウトするのです。そのうち、主要なものが「三十六見附」と称されて、江戸の名所のようになっていました。「赤坂見附」「四谷見附」がそのまま地名として残っています。「見附」とは見張りの番兵を置いた場所のことですが、外郭と中心部ではその対象が違っていました。例えば、外郭に設置された「浅草見附(浅草橋御門)」は、日光・奥州街道の通り道に当たりました。よって、一般の通行人や物品の出入りを監視していました。「見附」の外側、街道上の町の出入口には「大木戸」というのも設置され、同じような役割を果たしていました。

浅草見附の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
広重の浮世絵に描かれた高輪大木戸(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中心部においては、城の正門、大手門は、大名たちが登城するための門です。大手門の前の「下馬所」で大名以外の従者は馬や駕籠から降り、ここから先は人数制限もありました。次の大手三の門(下乗門)では、御三家以外の大名も乗物から降りなければなりませんでした。この門の内側にある同心番所が現存しています。そして、圧倒的な規模の中の門が現れます。更に、本丸への最後の城門、中雀門は豪華絢爛を誇っていました。これらの城門は、幕府・将軍の権威を具現化する役割を担っていたのです。

大手門(戦後の再建)
大手三の門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
同心番所(現存)
中の門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
中雀門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

江戸城天守比べ

江戸城には、家康・秀忠・家光の時代ごとに、3代の天守がありました。なぜわざわざ一代ごとに建て替えるのかとも思いますが、それぞれの治世を象徴しているようにも思います。家康の天守は、建てた時期から「慶長天守」とも呼ばれます。家康が天下を取った後、初めて行った天下普請のときに建てられました(1607年、慶長12年)。
詳細は不明ですが、そのとき健在だった豊臣大坂城天守をしのぐ大きさだったと推定されています。(5重5階で、石垣を含めた高さが約55mという説あり)位置は、現在残る天守台よりも、南側、本丸中心に近いところだったようです。外観は、漆喰が塗られた白壁と、屋根は銀色に輝く鉛瓦で、白亜の天守だったという記録があります。最近発見され絵図(「江戸始図」)によると、連立式天守だった可能性があり、イメージは姫路城天守に近かったかもしれません。

姫路城天守

2代将軍・秀忠は、家康逝去後、これも天下普請のとき(3次、1622年・元和8年~)天守を改築しました。これも時期から、元和天守とも呼ばれます。その理由は定かではありませんが、家康との確執があったとか、慶長天守が破損したためとも言われます。本丸御殿の拡張に伴って、位置を現在の天守台付近に移しているので、単に移築しただけなのかもしれません。ちょうど江戸幕府の体制を盤石にする段階でしたので、政治の場所としての江戸城を意識したのではないでしょうか。

元和天守のものとされる「江戸御殿守絵図」(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、3代将軍・家光が「寛永天守」として、日本史上最大の天守を築くのです(1638年、寛永15年完成)。今度は同様の場所で建て替えたので、天守そのものに意図を込めたと考えられます。祖父・家康を尊敬していた家光が、家康の天守を壊した秀忠に、意趣返しをしたとの見解もありますが、江戸城の総構えが完成したところで、将軍の権威を改めて示そうとしたこともあったでしょう。残っている資料や各種研究から、寛永天守は5重5階地下一階で、高さは約45m、石垣を含めると訳59mあったとされます。

徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


天守の高さ・史上ランキングを示します(現存・再建・消失したが推定できるもの、カッコ内は石垣含む、同じ城の重複は除く)。
① 寛永期江戸城:45m(59m)
② 徳川期大坂城:44m(57m)、現在のものは42m(55m)
③ 名古屋城:36m(48m)
④ 駿府城:34m(53m)
⑤ 島原城:33m(39m)
⑥ 安土城:32m(41m)
⑦ 姫路城:32m(47m)
⑧ 熊本城:31m(37m)
4位までを天下普請で作った徳川の城が占めています。再建された現在の大坂城・名古屋城では、その大きさを実感することができます。寛永天守は、それをも上回っていたのです。

再建された大阪城天守
外観復元された名古屋城天守


外観は、前代までと異なり、壁は、上部は漆喰、下部は銅板を張って黒で塗装していました。瓦も銅瓦葺きで、当時の銅は高価で、耐久性・防火性を兼ね備えていました。また、特筆すべきこととして、壁には狭間・石落としはありませんでした。つまり、この天守は、権威・平和のシンボルとして建てられたのです。ところが、完成からわずか19年後の1657年(明暦3年)の明暦の大火で、焼失してしまうのです。江戸の町の過半、江戸城も本丸が全焼した火事で、火炎に吹き上げられた窓から引火したそうです。

寛永天守模型、皇居東御苑本丸休憩所にて展示

時は4代将軍・家綱のことで、天守台は前田綱紀により迅速に再建されましたが、天守が再建されることはありませんでした。後見役の保科正之の進言により、市中の復興を優先したのです。それ以降、江戸城には天守はありませんでした。3代通じて天守があったのは、わずか50年ちょっとだったのです。

4代目天守台(現存)

政治の中心、本丸御殿

天守がなくなった江戸城の中心は、御殿でした。江戸城に限らず、平和な江戸時代には、政治の場・大名の居住地として、御殿が城の中枢だったのです。江戸城には御殿がいくつもありましたが、代表的なものは、本丸御殿、二の丸御殿、西の丸御殿でした。
西の丸御殿は、主に隠居した将軍や将軍の跡継ぎが暮らしていました。二の丸御殿は、様々な用途で使われたようです。そして本丸御殿が、将軍が暮らし政務を行った、まさに時代の中心地でしたので、これについてご説明します。

「江戸御城之絵図」、東京都立図書館蔵、黄色と桃色で塗分けられている部分が御殿

よく知られている通り「表」「中奥」「大奥」の三つに区分されていました。「表」は、儀式が行われ、幕府の役人が職務を行う、公邸に当たる場所でした。例えば、大名が将軍に謁見する場合、玄関(式台)から入って、遠侍という建物の「虎の間」で待ちます。そして大広間で謁見となるのですが、大身の大名でも、上段の間の将軍から相当離れた下座で平伏したそうです。

万治造営本丸御殿平面図、皇居東御苑現地説明パネルより
「虎の間」のイメージ、名古屋城本丸御殿障壁画より

その奥の方が、諸大名などと対面も行ったのが白書院です。大広間と白書院をつなぐのが、「赤穂事件」で有名な松の大廊下です。白書院から竹の廊下を経た奥が、幕閣などとの対面などに使われた黒書院です。

松の大廊下の襖絵図、現地説明パネルより
松の大廊下での刃傷事件(赤穂事件)を扱った歌舞伎の浮世絵、実際の松の大廊下は閉じられた空間で暗かったそうです(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そこから先が将軍の公邸の「中奥」です。対面所として使われる「御座の間」、寝室や居間として使われた「御休息の間」などがありました。ところで、老中などの幕閣はどこにいたかというと表と中奥の中間にある「御用部屋」でした。初期は中奥にあったそうですが、刃傷事件が起きたことで、少し遠くに移されました。それが、取次ぎを行う側用人が台頭する一因になったそうです。それから、各大名が登城したときの居場所ですが、これも大名のランクで細かく分けられていました。例えば、大身の外様大名は大広間席、御三家は大廊下席に詰めていました。意外と将軍の居場所とは離れていて、中央の政治にはなるべく関与させないという意図があったのかもしれません。譜代大名は、白書院にある「帝鑑の間」にいました。段々、将軍に近づいていきます。そして黒書院にあった「溜の間」詰めが最も格が高く、重要事項は幕閣の諮問を受ける立場にありました。会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家は常にこの場を占め(定溜)、功績によって認められる大名家もありました(飛溜)。これも、大名の忠節を奨励し、将軍・幕府の下にコントロールするシステムの一つだったのでしょう。

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 、彼は対応になる前から溜の間詰めでした(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
堀田正睦、一旦老中を退いた後、溜の間詰めになりました (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして「大奥」ですが、奥女中には、大奥のことを口外しないという厳しい法度あったため、その関心の高さの割に実態は知られていません。この制度は春日局が確立したと言われ、ここにも厳しい身分制度がありました。

大奥と中奥をつなぐ御鈴廊下のセット、東京国立博物館特別展「江戸大奥」にて展示
春日局肖像画、麟祥院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高位になると、城から外に出ることは、ほとんどできませんでした。将軍や御台所の代理で寺社に参詣することはありましたが、門限に遅れ「絵島事件」のようなことも起こっています。将軍にしても、よりどりみどりではなく、予め吟味され選ばれた将軍のお世話係(御中臈)から側室が出たのです。男子禁制と相まって、筋目正しい将軍の世継ぎを得るという、これも権威・体制を維持するための仕組みの一つでした。

江島事件を扱った浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それでも、生涯をかけて務めたり、奉公務めのキャリアとして応募する女性もいたので、当時はステイタスの一つだったのでしょう。大奥の女中の限られた娯楽の中に、大奥内で行われた歌舞伎鑑賞がありました。大奥なので、演じたのも女性の役者でした。そのときの衣装が残されていて、大奥の華やかな一面を伝えています。

大奥で行われた歌舞伎で使われた衣装、東京国立博物館特別展「江戸大奥」にて展示

江戸城激動の歴史

盤石に見えた幕府と江戸城でしたが、その最大の敵は火事でした。天守のところで出てきた明暦の大火の他にも、多くの火災に見舞われます。しかし、中枢の本丸御殿に限れば、明暦の大火後、1659年(万治2年)に建てられた御殿が、その後180年以上健在でした。江戸の町では大火が度々ありましたが、江戸城の中心部は延焼を逃れていたのです。この状況が変わったのが幕末です。町の火災は減ったのに、御殿の火災が頻発するようになるのです。水野忠邦による天保の改革が挫折した後くらいからです。1844年(天保15年)長らく保った本丸御殿が焼けましたが、翌年再建されました。ところが、次に本丸御殿が焼けたのは、ペリー来航後の1859年(安政6年)で、15年も持たなかったのです。ときの将軍・徳川家茂は、西の丸に移りました(本丸御殿はまた翌年再建)。大老・井伊直弼の彦根藩救援隊が活躍したそうです。

徳川家茂肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして翌年、安政7年3月3日、桃の節句の総登城の日に、桜田門外の変が起こります。彦根藩は事前に襲撃情報をつかんでいましたが、お供の人数は決まっているので、警護を強化させなかったそうです。幕府を守るためのルールが、時代に合わなくなった象徴的な例だったのかもしれません。その年の11月に本丸御殿が再建されますが、その3年後(1863年、文久3年)またも焼失しました。同時に二の丸御殿も焼け、6月に西の丸御殿も焼けていたので、家茂と妻の和宮は、行くところがなくなり、御三卿の清水邸、田安邸を転々とする有様でした。この前後で、家茂は2度の上洛をしています。幕末の混乱で幕府の財政事情はきびしく、これらの御殿を全て建て直す余力はありませんでした。再建中の西の丸御殿の規模を縮小して完成させ、これが最後の御殿となったのです(1864年、元治元年)。1865年(慶応元年)家茂は、西の丸御殿から第二次長州征討のために出陣し、二度と戻ってくることはありませんでした(翌年大坂城で病没)。

桜田門外の変を描いた浮世絵、月岡芳年作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

政局の中心は、朝廷がある京都に移りました。「最後の将軍」徳川慶喜が将軍になったのも、大政奉還により辞めたのも二条城です。その慶喜が江戸城(西の丸)に帰ってきたのは、1868年、慶応4年1月13日、鳥羽伏見の戦いに敗れ、朝廷に恭順の意思を固めていました。主戦派の小栗忠順をクビにし、恭順派の勝海舟をトップに据えて、2月12日は寛永寺で謹慎に入ります。そして3月13・14日の勝海舟・西郷隆盛の会見を経て、4月11日の江戸城引き渡しとなるのです。官軍が入ったのは御殿のある西の丸でした。明治元年と改称された10月13日、「東京城」と改められた江戸城に明治天皇が行幸しました。その場所も西の丸御殿だったので、それ以来、その場所が皇居になったのです。

二条城
将軍時代の徳川慶喜 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「江戸開城談判」、結城素明作、聖徳記念絵画館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「東京御着輦」、小堀鞆音作、聖徳記念絵画館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
皇居となった西の丸

リンク、参考情報

江戸城に迫る、東京都立図書館
特別展「江戸 大奥」、東京国立博物館
・「幻の江戸百年/鈴木理生著」ちくまライブラリー
・「江戸城の全貌/萩原さちこ著 」さくら舎
・「日本の都市 誕生の謎/竹村公太郎著」ビジネス社
・「江戸城の土木工事 石垣・堀・曲輪/後藤宏樹」吉川弘文館
・「江戸城 将軍家の生活/村井益男著」吉川弘文館
・「歴史群像名城シリーズ7 江戸城」学研
・「江戸城大奥をめざす村の娘: 生麦村関口千恵の生涯/大口勇次郎著」山川出版社
・「徳川氏の関東入国に関する一考察/村上直氏論文」法政大学学術機関リポジトリ
・「江戸城の火災被害に関する研究/伊藤渉氏論文」東京理科大学工学部第一部建築学科辻本研究室
・NHK「ザ・プレミアム よみがえる江戸城」2014年放送
・NHK日曜美術館「大奥 美の世界」2025年放送

「江戸城 その1」に戻ります。
「江戸城 その3」に続きます。

35.金沢城 その3

金沢城にもう一回行ってみます。今回は石垣中心に城を回ってみます。城の管理事務所からも、いくつかコースが紹介されていますので、そこからピックアップして回ってみたいと思います。

特徴、見どころ(金沢城石垣めぐり)

金沢城にもう一回行ってみます。前回「金沢城見学コース」としていくつかご紹介しましたが、城を全般的にご紹介する内容でした。金沢城は「石垣の博物館」と言われていますが、そのときは石垣を十分ご紹介できなかった、と思っていました。そこで、今回は石垣中心に城を回ってみます。城の管理事務所からも、いくつかコースが紹介されていますので、そこからピックアップして回ってみたいと思います。

金沢城・兼六園管理事務所発行のパンフレット

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

「城内ルート」前編

①石川門石垣:まずは「城内ルート」して設定されている10ヶ所の石垣を回りましょう。また石川門に来ました。相変わらず威厳があってかっこいいです。枡形の中の石垣に特徴がありましが、そこが1番目のチェックポイントです。枡形内の石垣が左右で違う積み方をされています。左側(北面)が租加工石積み(打込みハギ)、右側(東面)が切石積み(切込みハギ)になっています。左側の石垣にはマークがたくさんついていますが、「刻印」といってそれぞれの石を積んだ職人やグループを識別するためと言われています。その左側の方が古い形式で寛永期の築造(金沢城調査研究所の分類では4期))、右側の方が明和期の改修時(1765年、明和2年)に積まれたそうです(6期)。なぜこんな目立つところで、違う積み方を残したのでしょうか。江戸時代から「これはおかしい」という意見があったそうです。ただ、石川門の建物は、寛永期に建てたものが宝暦の大火で焼失していて(1759年)、再建されるのが石垣改修後(1788年)ですので、前からあった石垣を単純に再利用したのかもしれませんし、設計者の趣味でわざと残したのかもしれません。こんなところにも門の歴史が見て取れます。

石川門
石川門(隅櫓)
枡形内の石垣
左側の石垣に残る刻印

②内堀石垣:続いて、石川門を越えて、三の丸に入りましょう。復元された櫓や門が並んでいて壮観です。2番目の石垣は、その手前の内堀石垣です。内堀及び石垣自体は、その櫓や門と一緒に復元されたものです(1999〜2000年)。創建は寛永の大火(1631年)の後と言われているので(4期)、その時代のものを想定して復元したそうです。復元の技術も大したものです。

復元された櫓群と内堀
復元された内堀石垣

➂菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣:3番目が復元された櫓群(菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓)の石垣です。ついつい櫓の方に目が行ってしまいますが、そのベースとなっている石垣も大事です。この石垣はオリジナルで、創健は寛永の大火後ですが(4期)、その後の火災の被害などからの修復が重なり、結果的に租加工石積みや切石積みが混在しています。出入口など重要なところは切石積みが多いようです。

(右側から)菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓とその石垣
門(橋爪門)周辺は切石積みになっています

④二の丸北面石垣:菱櫓の角を曲がっていきましょう。4番目の二の丸北面の石垣です。結構古そうな感じがします。ここは租加工積みなのですが、石の大きさを揃えてきれいに積まれています(布積み)。寛永の大火後(4期)に創建され、1666年(寛文6年、5期)に改修されたものが残っています。石垣職人の藩士(穴生)後藤家3代目の権兵衛が携わっていて、後に6代目の後藤彦三郎が、城内で二番目の出来、と称賛しています(一番は鯉喉櫓台石垣ですが一旦壊され、現在は復元されています)。職人の仕事と誇りが今に伝えられているのです。

二の丸北面石垣
城内の直線石垣としては最長(約160m)です

⑤土橋門石垣:二の丸北面石垣と内堀に沿って進んで行くと、5番目の土橋門石垣に至ります(4期創建、西側は5期・東側は7期改修)。何気なく通り過ぎてしまいそうですが、意識して見てみると、きれいな石垣です。門東側の石垣には六角形の亀甲石が組み込まれています(切石積み)。水に親しむ亀ということで、防火の願いが込められたそうです(金沢城は火災につぐ火災でした)。実際に、この門が文化の大火(1808年)の被害を免れたときは、この石垣のおかげだと言われました。そのときの人々の気持ちを表しているのです。

土橋門跡
土橋門石垣(東側)
亀甲石(中央)

「城内ルート」後編

⑥数寄屋敷石垣:城内ルート後編は、土橋門から折り返して中心部に入っていきます。小さな門を通ります。これは現存する「切手門」で、これから行く石垣のところにあった数寄屋敷への通用門だったのです(一旦他の場所に移され、原位置に戻ってきました)。屋敷へ通う女中の通行手形を改めたということで、この名になったと言われます。その後に通り過ぎる洋館は、旧第六旅団司令部庁舎です。軍隊が使っていた頃のもので、これも城の歴史の一コマです。6番目が「数寄屋敷石垣」です。ここもきれいに積まれています(布積み)。石の表面を長方形に仕上げた「切石積み」の技法が使われています。ここは側室たちが住んだ所なので、積み方も場に合わせたのかもしれません。創建は寛永期(4期)で、その後改修が続けられました。面白いのが、進んだ先です。刻印だらけです。ここは、この城で特に刻印が多い場所です(4期の石を5期に積み直したそうです)。刻印は分担を示したものと聞いていましたが、なんだか遊び心のようなものも感じます。

切手門とその奥の旧第六旅団司令部庁舎
数寄屋敷石垣(手前側、7期の改修)
数寄屋敷石垣(奥側、5期の改修)
刻印が多く見られる場所

⑦戌亥櫓石垣:続いて、二の丸を通って、本丸に向かいます。極楽橋は渡らず、違うルートの途中に次のチェックポイントがあります。戌亥櫓石垣です。これも寛永期(4期)の創建です(5期・6期に改修)。角のところはともかく、これまでと比べると粗い石を使っています(粗加工石積み)。しかし、当初は隙間に平らな石を詰め込み、切石積みのように見せていたそうです(経年で多くが抜け落ちてしまったとか)。いろんな工夫をしていたのです。

極楽橋のところは通り過ぎます
橋爪門の手前を右に曲がります
戌亥櫓石垣

⑧三十間長屋:三十間長屋にやってきました。ここにも石垣があるのか、と思ってしまいますが、土台のところを見ると、確かにあります。建物に目を奪われて気づきませんでした。こちらは切石積みですが「金場取り残し積み」という、わざと粗い面を残す技法が使われています。よく見ると随分凝っています。この建物も焼失と再建の歴史があって(現存建物は幕末(1858年)の再建)、この石垣の方が古いのです(寛永期(4期)の創建、6期の改修)。

三十間長屋
三十間長屋石垣

⑨鉄門石垣:9番目は鉄門石垣です。ここは本丸の正門だったので、石垣もきれいな切石積みが用いられています(寛永期(4期)の創建、6期の改修)。石の形も多角形に加工されています。石垣を見ると、その場所の重要度がわかります。

鉄門石垣
多角形の石が積まれています

⑩東の丸北面石垣:城内ルートの最後は、本丸を下ったところにある東の丸北面石垣です。金沢城で最も古い石垣の一つです。今までに見た石垣と様子が違います。自然石や粗割りした石を積み上げた「野面積み」になっています。前田利家がいた文禄期(1期)に築造されました。そういう石を使ってよくこんなに高く積み上げたと思います(約13m)。今まで残っているわけですから、相当な職人技なのでしょう。10ヶ所の石垣、それぞれ個性的ですごく楽しめましたが、次は他のルートからピックアっプしていきます。

鉄門跡から本丸の森へ
本丸を下っていきます
東の丸北面石

「城内外連絡ルート」より

色紙短冊積み石垣:後半戦、まずは「城内外連絡ルート」から取り上げます。二の丸に戻って、いもり坂を下ります(いもり坂は明治になって作られた通路)。坂の途中から入っていくのは、玉泉院丸庭園に面した、色紙短冊積み石垣です。この石垣は切石積みで、前田綱紀が藩主だった時代(5期)に築かれたと言われています。この頃に金沢藩の石垣技術が成熟し、文化的にも発展していました。金沢城の最盛期と言っていい時期でした。色紙は方形、短冊は長方形ということなので、それらを組み合わせて、滝を表現したそうです。これはもう、庭園の景観の一部になっています。

いもり坂から下っていきます
色紙短冊積み石垣、上の方には滝を落とす石樋の石があります
玉泉院丸庭園、左後方が色紙短冊積み石垣

薪の丸東側の石垣:いもり坂に戻って、また下ります。「薪の丸(たきぎのまる)コース」という標識があります。これは「城内外連絡ルート」の一部で、ここから脇道に入っていきましょう。山道という感じです。でも、それに似つかわしくない石垣があります。これが「薪の丸東側の石垣」です。(租加工石積み、寛永期(4期)創建、寛文期(5期)改修)薪の丸には、伝来の宝物(刀剣・書籍等)を収める蔵があったそうです。それより前は薪を置いた場所で、名前の由来となりました。の石垣も後藤権兵衛が完成させました。

「薪の丸コース」入口
脇道に入っていきます
薪の丸東側の石垣

申酉櫓下の石垣:ここから上に行くと、三十間長屋に着きますが、まっすぐ進みます。山の斜面を進む、みたいです。この先にまたおもしろい石垣があるのです。斜面一杯に石垣が積まれています。それだけでもすごいですが、石垣を見上げてみましょう。石垣が継ぎ足されています。「申酉櫓下の石垣」と呼ばれている場所です。右側(東側)が主に前田利長が治めた慶長期(2期)の石垣で、割石積みといって、自然石積みから粗加工石積みの中間の段階の積み方のようです。城作りを進めていた時期です。左側は、前田利常の時代(寛永期・3期)に本丸を拡張するために継ぎ足されたのです。寛永の大火があった後で、先ほどの鉄門の造営と連動しています。仕上げは、古い方の石垣に合わせたそうです。

上に行くと三十間長屋です
本丸南斜面に積まれた石垣
申酉櫓下の石垣

「城外周コース」+おすすめ

本丸南面の高石垣:最後のセクションは「城外周コース」と独自のおすすめをミックスしてご紹介します。これも前回とかぶりますが、百間堀を歩いてみます。スタート地点は「本丸南面の高石垣」です。明治になってから改修されたそうですが、すばらしいです。かつては慶長期(2期・割石積み)に創建された城内随一の高石垣(約24m)でした。その上に櫓があったのだから、壮観だったでしょう。

鯉喉櫓台から見た本丸南面の高石垣、往時は上から3段目の石垣が上まで伸びていました

蓮池堀縁の石垣、東の丸東側の石垣:百間堀跡も、ここが堀だったと思うと、すごいです。ここも飽きないコースの一つでしょう。堀跡のすぐ横の石垣は、「蓮池堀(百間堀)縁の石垣」で、少し新しいのですが(元和期・3期・粗加工石積み)、その上にそびえるのが、これも城内最古の「東の丸東側の石垣」(文禄期・1期・自然石積み)です。途中に小段が設けられていますが、高さ21mで、当時としては日本有数でした。強いお城を作ろうという意思を感じます。

百間堀跡
手前が蓮池(百間堀)縁の石垣、奥が東の丸東側の石垣

三の丸東面の石垣:石垣は、石川門の下まで続くのですが、興味深いことがあります。石垣は、ずっと古い感じのものが続いています。この三の丸東面の石垣は、江戸後期に大改修されたのですが(7期)、古い堀縁の石垣に合わせて、荒々しく仕上げられたのです。金沢城の石垣はかくあるべしというのがあったのでしょうか。

三の丸東面の石垣

河北門の石垣:次は独自のおすすめで、城内に飛びますが「河北門の石垣」です。復元された門ですが、一ノ門左右の石垣はオリジナルです。他の部分の石垣は復元されたのですが、さすが三御門の一つらしく、すばらしいです(切石積み)。強さと美しさがバランスされていると思います。オリジナルは、宝暦の大火後、石川門よりも早く改修されたそうです(6期)。それだけ大事な門だったということでしょう。

河北門一ノ門とオリジナルの石垣
復元された門の建物と石垣

大手門の石垣:ラストは城内をショートカットして、大手門(尾坂門)跡に来ました。なんといっても、ここには大手門らしい鏡石があります。右側の角にある石が、城内最大のものだそうです。築かれたのも早い時期(慶長期・2期)で、割石積みの手法です。こうやって見てくると、本丸や大手門の周りに古い石垣があって、城の中心部が別のところ(二の丸など)に移ってから、いろんな石垣が築かれたことがわかりました。城の石垣と歴史がリンクしてます。

大手門跡
城内最大の鏡石
突き当りにも多くの鏡石があります

リンク、参考情報

金沢城と兼六園 リーフレットダウンロード
石川県金沢城調査研究所Youtubeチャンネル
・金沢城調査研究パンフレット「金沢城を探る」
・「石垣の名城 完全ガイド/千田嘉博編著」講談社

「金沢城その1」に戻ります。
「金沢城その2」に戻ります。
「金沢城その4」に続きます。

50.彦根城 その2

彦根城表門橋の前にいます。前回の記事では、駅からここまでの見どころや、城の初期から後に作られた表御殿や、玄宮楽々園の現地の様子もご紹介していますので、今回は、初期に築かれた彦根山の上の、お城の中心部に行ってみます。その頃は、戦に備えた城作りが行われたので、要害堅固な城の様子を、たっぷりとご紹介します。

特徴、見どころ

Introduction

彦根城表門橋(おもてもんばし)の前にいます。前回の記事では、駅からここまでの見どころや、城の初期から後に作られた表御殿や、玄宮楽々園の現地の様子もご紹介していますので、今回は、初期に築かれた彦根山の上の、お城の中心部に行ってみます。その頃は、戦に備えた城作りが行われたので、要害堅固な城の様子を、たっぷりとご紹介します。同じ城の中でも、目的によって全然違う作られ方がされているということです。まずは、山を登っていきなり現れる大堀切を見学しましょう。次は、重要文化財になっている天秤櫓や太鼓門櫓を通ったり、中にも入ってみましょう。そして、国宝天守のきれいな外観や、現存天守ならではの内装を楽しみましょう。最後は、穴場として、西の丸三重櫓や、彦根山の周りを歩いてみます。

表門橋

城周辺の航空写真

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

いきなりの大堀切

内堀にかかる表門橋を渡ると、その内側が主郭(第一郭)になります。渡った所に石垣がありますが、表門の跡です。今でもなにげに厳重に感じます。その脇には、登り石垣もあります。

主郭の範囲を描いた絵図、現地説明パネルより
表門跡
表門脇の登り石垣

入っていくと右側が表御殿(彦根城博物館)で、今回は券売所から左側に向かいます。表門坂です、表御殿ができてからは主要な登城ルートだったのでしょう。わざと石段の長さを変え、登りにくくしていました。急な上に、なんだか余計に疲れるように思います。敵だったら、足元を見ているうちに、攻撃されてしまうでしょう。

表門坂

やっと坂を登ったら、いきなりの大堀切です!圧倒されます。この大堀切の右側(北側)が本丸に通じる太鼓丸、左側(南側)が鐘の丸です。太鼓丸を守っているのが、重要文化財の天秤櫓です。本丸に行くには、鐘の丸に入って、正面に見える廊下橋を渡って、太鼓丸に進む必要があります。廊下橋は、かつては屋根付きだったようです。敵が攻めてきたときは橋は落としてしまうでしょうから、両側から攻められるだけになってしまいます。向こう側(西側)は、大手門に続く坂ですので、ここは最重要の防衛ポイントでした。

大堀切(南側)
大堀切周辺の絵図(現地説明パネル)に進行ルートを追記

鐘の丸に進みましょう。ここに入るにも、石段と枡形の組み合わせになっています。ここで滞留していたら、後ろの天秤櫓から攻撃されてしまうでしょう。橋を渡るどころではありません。鐘の丸の名前は、当初時刻を知らせる鐘楼があった(後に太鼓丸に移転)ことにちなむとのことです。

鐘の丸の入口(石段と枡形)

鐘の丸の中は、今は何もないので目立ちませんが、かつては大広間御殿と御守殿という2つの建物がありました。御守殿は、徳川秀忠の娘・和子(まさこ)が、後水尾天皇に嫁ぐときに、宿泊所として建てられたそうです(実際には使われず)。それに、ここは山の南端に当たるので、防衛上も重要な場所だったのです。ここからは、城の入口の一つ佐和口などが見渡せます。

鐘の丸の内部
鐘の丸からの眺め

天秤櫓と太鼓門櫓

それでは、廊下橋をわたって、天秤櫓に迫りましょう。名前の通りのユニークな櫓です。完全に左右対称ではないそうですが、両側の登城口から攻めてくる敵に対応するための形でしょう。あと面白いのが、江戸後期にこの櫓を大修理したことで、右側(東側)の古い石垣と、左側(西側)の新しい石垣のコントラストを見られることです。橋の上からも堀切が良く見えます。かつては屋根付きだったとしたら、ここからでも攻撃できそうです。橋を落とすタイミングと方法はどうだったのでしょうか。

天秤櫓
右側の古い方の石垣
左側の新しい方の石垣
廊下橋から見た大堀切

櫓の中も、通常公開されています。この櫓は平面上ではコの字型になっていて、その端っこから入っていきます。この櫓は、長浜城から移築されたと言われていますが、意外と中はシンプルな感じです。実用性重視だからでしょうし、実際には倉庫として使われたそうです。木材を削った跡が荒々しくていいです。作りとしては、敵が攻めてくる外側(南側)の壁を分厚くしてあります。格子窓から外を見ると、廊下橋がばっちり見えます。狭間や石落としがないように見えますが、埋められている隠し狭間がありました。使うときだけ開けられるようになっていたそうです。

天秤櫓内部
荒々しい木材の削り跡
外側の壁は厚く作られています
格子窓から見た廊下橋
隠し狭間

天秤櫓があるところが太鼓丸で、次が本丸への最後の関門、これも重要文化財の太鼓門櫓です。左側に時の鐘(時報鐘)を見ながら進みましょう。門の前に枡形がありますが、一部は山の岩盤がそのまま使われています。この門をくぐるときも、攻撃されそうな感じで一杯です。

太鼓丸を進みます
太鼓門櫓

太鼓門櫓はかつて、この山にあったお寺の山門を利用したと言われましたが、調査の結果、やはりどこかのお城から移されたとわかりました。この櫓にも入ることができます。外側に対しては厳重に監視できるようになっていますが、内側に対しては開けっ広げです。これは、かつてここに登城の合図を知らせる太鼓が置かれ、よく聞こえるようにこうなったと言われています。

太鼓門櫓の入口
太鼓門櫓内部
格子窓から外側を見ています
内側に向かって開放されています

本丸に入ったら、いよいよ天守ですが、その前に、ちょっと景色を楽しみましょう。着見櫓跡です。違う字で「月見櫓」とも書くそうですが、やはり見張りをする場所だったのでしょう。ここからは、城の周辺が一望できます。佐和山城跡の山もよく見えます。そちらに行った時には、彦根城を眺めました。両方行ってお互いを見てみると、すごく達成感があります。

着見櫓跡
櫓跡から見た佐和山城跡
佐和山城跡から見た彦根城

国宝天守を満喫

さて、現存12天守、国宝5天守の一つの彦根城天守です。他の城の天守と比べて大きくはないけれど、すごく気品を感じます。3重3階で、建物の高さは15.5メートルですが、多くの装飾がバランスよく配置されています。こちらの面だけでも、破風と呼ばれる屋根の装飾が5つも付いています。窓も、格式の高い「華頭窓」を2階と3階に使っていますし、3階の廻縁と高欄は、外に出ることができない飾りなのです。

彦根城天守
唐破風
入母屋破風
切妻破風

それから、この天守は大津城天守を移築したと言われますが、調査の結果、5階の建物を3階に改装したことが分かっています。わざわざ3階にした理由の一つとして、彦根城天守の平面は長方形になっているので、それに合わせてサイズを変更したことが考えられます。

天守内部では、移築を示すホゾ穴痕が見られるそうです
前身建物推定図、天守内部にて展示
着見櫓跡から見た天守、平面が長方形なのがわかります

それでは天守に入りましょう。ビジターの順路は、まず地下室から一階に上がります。ものものしい鉄の扉があります。

地下室と一階の間の鉄扉

天守の各階は「入側(武者走り)」という廊下のような通路に囲まれています。さすが本物だけあって「鉄砲狭間」「矢狭間」だらけです。ここも天秤櫓と一緒で、隠し狭間になっています。入側をずっと回りこんで、真ん中の身舎(もや、内室)に入って行きます。

天守一階の入側
矢狭間と鉄砲狭間
入側を回り込んで身舎に入っていきます
こちらは二階の身舎

二階、三階に上がるときには、ものすごく急な階段を昇ります。江戸時代のオリジナルですから、頑張りましょう。

二階から三階への階段

三階は最上階なので、屋根の木組みを見ることができます。巧の技という感じがします。下の方を見ると、破風の内側に「隠し部屋」があります。それから、最上階までしっかり狭間があるのもわかります。廻縁は飾りなので外には出られませんが、窓から外の景色を楽しめます。

天守三階(最上階)
屋根裏の木組み
隠し部屋に入るための引き戸
回縁には出られません
窓からの景色(琵琶湖方面)

穴場?西の丸三重櫓など

最後のセクションは「穴場」としていますが、見どころ満載です。まずは西の丸です。これまでご紹介したところに比べ、人気はありません。また櫓が見えてきました。重要文化財の西の丸三重櫓です。こんなところにも重要文化財があるのです。城の北側を守る要の櫓でした。

閑散としている西の丸
西の丸三重櫓

この櫓の中にも入ることができます。この櫓も小谷城から移されたという伝承があるのですが、調査では、移築の痕跡は見られなかったそうです。幕末に大修理されているので、それ以前は移築された建物があったかもしれません。他の現存建物よりは新しめなのです。格子窓から琵琶湖が見えます。それに、ここの狭間は塞がれていません。かつては琵琶湖の水辺がもっと入り込んでいたそうで、そこから攻めてくる敵にすぐ対応できるよう、このようにしたそうです。この櫓の前面(北側)にも大堀切があるのですが、残念ながら、そこの通路は通行止めになっています。

西の丸三重櫓内部
格子窓からの眺め
この櫓の狭間は最初から開けられています
櫓前の大堀切(以前の撮影)

天守の方に戻って、裏側の西の丸水手御門跡を通って山を下ります。天守に附櫓と多聞櫓が付いています。こちら側を守るために加えられたのでしょう。裏側っぽいところなのに、斜面の石垣がすごいです。下る途中に井戸曲輪がありますので、こちらも重要な場所だったのです。

天守と附櫓
天守の多聞櫓に続く石垣(右側)と井戸曲輪(左側)

山を下ると黒門口なのですが、山裾を進みます。かなり飛ばして、一番北の山崎曲輪まで来ました。初期の頃、重臣の木俣守勝がここに住んで、さっきの西の丸三重櫓に通っていました。ここにも幕末まで三重櫓があったそうです。現在は山崎門跡が残っています。

黒門跡
この付近にも登り石垣があります
内堀と石垣沿いを進みます
山崎曲輪
山崎門跡

ここから折り返していきましょう。自然の山っぽくなっています。タヌキもいました。また、登り石垣が見えてきました。ここが一番分かりやすい気がします。上の方に建物が見えます。西の丸三重櫓です。この石垣と連携して城を守っていたのがよくわかります。

彦根山のタヌキ
西の丸三重櫓下の登り石垣

どんどん進んでいきましょう。今は梅林になっているところは、初期の頃は重臣屋敷、その後は米蔵として使われていました。

梅林

大手門坂に着きました。ここを登っていくと、最初に見た大堀切です。大手門跡も近くにあります。やはりここにも登り石垣があります。建物はないけれど、すごい枡形で、さすが大手門らしい場所です。

大手門坂
大手門跡上の登り石垣
大手門跡

大手門橋を渡って、内堀の外に出ましょう。堀の内側の石垣が変わっています。鉢巻石垣と腰巻石垣で、土塁を挟んでいます。石材を節約しながら土塁を強化するやり方です。他では江戸城などで見られるそうです。江戸城は幕府のお膝元だから、彦根城はやはり幕府の肝いりなのです。スタート地点の表門橋に戻ってきました。山の上に登ったと思ったら、最後は一周してしまいました。

鉢巻石垣と腰巻石垣
表門橋が見えてきました

関連史跡、名物

今日は、内堀の中の見どころを、駆け足でご紹介しましたが、彦根城は中堀までしっかり残っていますので、お時間があれば、その周りを歩いてみるのもいいと思います。天守や三重櫓を眺めながら歩けるのもいいです。

京橋口門跡
旧西郷屋敷長屋門
中堀から見える天守
中堀から見える西の丸三重櫓

最後は、ひこにゃんの登場です。

表御殿(復元)に現れたひこにゃん

リンク、参考情報

国宝 彦根城、公式ウェブサイト
・「歴史群像名城シリーズ6 彦根城」学研
・「中世武士選書39 井伊直政/野田浩子著」戒光祥出版
・「幕末維新の個性6 井伊直弼/母利美和著」吉川弘文館
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「彦根城を極める/中井均著」サンライズ出版
・「城の科学/萩原さちこ著」ブルーバックス

これで終わります、ありがとうございました。

「彦根城その1」に戻ります。

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