105.白石城 その2

復元された三層の天守は、本丸石垣の隅部分にあり見栄えがします。城のシンボルとなっているだけでなく、白石市のシンボルともなっています。オリジナルの天守があったころには、城主の権威を示し、敵に対しては大いなる脅威となったことでしょう。

その後

明治維新後、最後の城主、片倉邦憲(くにのり)は家臣とともに北海道に移住しました。城の全ての建物と石垣は、その費用を捻出するために撤去され、売却されました。空き地となった城跡は益岡公園(蒲生氏が城主だったときに益岡城と呼ばれていたことに由来します)となり、いつしか桜の名所となりました。1987年にNHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」が放送され、人気となりました。このドラマでは伊達政宗だけでなく、片倉氏も取り上げられ、多くの観光客が白石城跡を訪れました。しかし、ほとんど史跡らしいものがなく、がっかりして帰っていったそうです。当時の市長はその状況を見て、翌年の1988年に城の復元を決断しました。

その復元の大きな特徴の一つは、木材を使った伝統的工法によるということでした。しかし、それには法律の壁がありました。オリジナルの天守は高さが16.7mありました。一方、日本の建築基準法では原則として、高さ13mを超える木造建物の建築を認めていません。これによると、天守はそのままでは建築できないということになります。その後、白石市は政府と折衝を続け、ついに大臣の認可による例外の適用を獲得しました。天守はオリジナルの高さで復元できることになり、1997年に完成しました。

木造で復元された天守

特徴、見どころ

史跡が集中している本丸

現在白石市街地は、白石城とその城下町の伝統的な雰囲気を今も残しています。それは恐らく、丘の上に天守が復元されていたり、市街地には今でも古い水路が健在であるからでしょう。丘の上にはいくつもの曲輪がありましたが、復元建築物がある本丸を除き、現在までに神社や公園、グラウンドになっています。

市街地を流れる水路
二の丸にある神明社
二の丸にある益岡公園
沼の丸にある野球場

そのためほとんどのビジターは、丘の上の本丸に向かって、東側か北側の坂を登っていきます。仮に東側から登った場合、本丸の基礎部分にわずかにオリジナルの石垣が残っているのが見えます。それより上の石垣は、全て明治時代初期に撤去され売られてしまいました。次には復元された石垣が見えてきます。野面積みという手法で大きな自然石を使って積み上げられています。それらの石は丸い形をしているので、野性的というより、穏やかな印象を受けます。

本丸周辺の地図

北側の坂
東側の坂
わずかに残るオリジナルの石垣
ここからが復元された石垣
野面積みの石垣

よく復元されている天守と大手門

復元された三層の天守は、石垣の隅部分にあり見栄えがします。城のシンボルとなっているだけでなく、白石市のシンボルにもなっています。オリジナルの天守があったころには、城主の権威を示し、敵に対しては大いなる脅威となったことでしょう。発掘を行った結果、実は江戸時代の間、石垣の上には3代の天守があったことがわかっています。つまり、天守は2度建て直されたことになります。現在の天守は、2代目の天守の礎石の上に建てられています。もっともよい状態で残っていたからです。また、外観は絵画に描かれていた3代目の天守から復元されました。3代目の天守は、2代目が1819年に火事で燃えてしまった後、1823年に再建されているので、恐らくほとんど同じか、類似なものだったのでしょう。

復元された天守
「白石城之図」部分、小関雲洋作、白石市蔵、白石城天守内の展示より

本丸の大手門も、天守と同じ時期に復元されています。大手門は2つの門(一ノ門、二ノ門)と石垣により構成されていて、桝形と呼ばれる防御区域を形作っています。他の城の桝形は通常、四角い閉じられた空間となっていますが、白石城の桝形はとてもユニークです。一ノ門は扉がなく常に開いていて(これまでの発掘調査による)中は本丸の石垣により半ば占められています。その石垣に遮られて、内側がよく見えません。そのために一ノ門には扉が設けられなかったのかもしれません。

一ノ門
二ノ門とせり出している石垣
天守から見た桝形

本丸にある他の建物の跡地

本丸の内部は広場となっていて、かつてここにあった御殿に関する説明板があります。大手門側以外の本丸側面は、覆っていた石垣が取り払われた後、基礎の土塁のみが残っているように見えます。大手門の反対側には裏御門跡があります。また、本丸の他の隅には、辰巳(たつみ)櫓跡や未申(ひつじさる)櫓跡があります。

裏御門跡
辰巳櫓跡
未申櫓跡
白石城歴史探訪ミュージアム展示の白石城模型より、赤丸内が裏御門、青丸内が辰巳櫓、緑丸内が未申櫓

「白石城その3」に続きます。
「白石城その1」に戻ります。

114.唐沢山城 その2

現在、唐沢山城跡は唐沢山神社としてよく整備されています。多くの人たちが神社を訪れ、何かをお祈りしたり、ハイキングをしたり、素晴らしい景色を楽しんでいます。最近では、神社に住み着いた人懐こい猫たちを見に来る人も多いです。もちろん、ここにある史跡を見に来る人もいます。

特徴、見どころ

唐沢山神社として整備

現在、唐沢山城跡は唐沢山神社としてよく整備されています。多くの人たちが神社を訪れ、何かをお祈りしたり、ハイキングをしたり、素晴らしい景色を楽しんでいます。最近では、神社に住み着いた人懐こい猫たちを見に来る人も多いです。ここにいる猫たちは、もとは野良猫か捨て猫だったようで、ここでボランティアやビジターのよって養われています。

唐沢山神社に住む猫たち

もちろん、ここにある史跡を見に来る人もいます。山麓から山頂へは、城があったときと同じように、南側と西側の2方面から向かいます。補足すると、現在の道は車道とハイキングコースがそれぞれ設定されているので、少なくとも都合4つのルートがあります(実際にはもっと多くのハイキングコースがあります)。

唐沢山周辺の地図

南登山口
西登山口
西側のハイキングコース(一部がオリジナルの城道)

現在と過去のルート

方面は一緒でも現在の道筋は、城時代のオリジナルのものとは違っています。例えば、2方面から来る舗装された車道は、山頂の駐車場の前で合流します。しかし南側から来る道の一部は、現在も残る「鏡岩(かがみいわ)」の近くで、かつては岩によって塞がれていた場所でした。オリジナルの道はこの岩の前で合流し、ジグザグの道を伝って大手門に向かっていました。

現在の合流地点
過去の合流地点
鏡岩
かつての大手門に向かう道

大手道沿いの見どころ

駐車場から大手門跡に入っていくと、石垣によって典型的な食い違いの虎口があります(この石垣には実際には明治時代に築かれたか、修繕されたそうです)。大手道は門の内側を中心部に進みますが、その左右にも見どころがあります。右側(南側)には天狗岩という別の巨岩があって、過去には物見台だったのでしょうが現在では素晴らしい見晴台になっています。左側(北側)には避来矢山(ひらいしやま)という丘があるのですが、その名前は佐野氏が先祖の藤原秀郷から受け継いだ鎧(敵の矢を避けることができるという云われがある)から由来しています。したがって、そこも防衛拠点であったのでしょう。

城周辺の地図

大手門跡
大手道
天狗岩
天狗岩からの景色
避来矢山

大手道をまっすぐ中心部の方に進んでいくと、左側に「大炊井戸(おおいのいど)」という大きな井戸が見えてきます。直径は9mあり、深さは8m以上で、今も水が湧き出ています。城跡には他の井戸もあり、かつての長い籠城戦にも耐えられるようになっていました。次には四つ目堀という名の長大な空堀があり、ここから先が城の主要部となります。神橋(しんきょう)というコンクリート製の固定橋のみが堀を渡っています。この橋はもとは曳橋で、戦いが起こったときには外されたと言われています。上杉謙信がここまで攻めてきたが撃退されたとも言われています。

大炊井戸
本丸下にある車井戸
四つ目堀
神橋

4段の主要曲輪群

大手道は神社の参道にもなっているのですが、城の主要部の右側を通っていきます。その主要部は4段の曲輪群から構成されています。下の方から、腰曲輪、三の丸、二の丸、そして本丸です。特に、三の丸はその中では最大で、かつては接客のための応接間があったと言われています。三の丸へは脇道を通って行きます。参道にはオリジナルの大手道との分岐点があって、まっすぐ参道を行けば本丸にある神社への石段下に着きます。そこを左に曲がっていくと、二の丸の方に行きます。城巡りに来た方であれば、左の方に曲がってください。右側の方に本丸の素晴らしい石垣が見えてきます。

神社参道
三の丸への脇道(帯曲輪経由)
帯曲輪
三の丸
本丸神社下
左に曲がった場合、右側に高石垣が見えます

「唐沢山城その3」に続きます。
「唐沢山城その1」に戻ります。

108.鶴ヶ岡城 その2

現在、鶴ヶ岡城跡は鶴岡公園として整備されています。現地に行ってみると、他の城や城跡とは違う雰囲気を感じます。その理由の一つは、この城には元から水堀や土塁はありましたが、石垣はほとんどなく、訪れる人にのどかな印象を与えているからでしょう。

特徴、見どころ

長閑とレトロモダンな雰囲気が共存

現在、鶴ヶ岡城跡は鶴岡公園として整備されています。現地に行ってみると、他の城や城跡とは違う雰囲気を感じます。その理由の一つは、この城には元から水堀や土塁はありましたが、石垣はほとんどなく、訪れる人にのどかな印象を与えているからでしょう。

城周辺の地図

鶴岡公園

もう一つの理由は、公園の周りにモダンな歴史的建造物があるからで、そのうちのほとんどは致道博物館(ちどうはくぶつかん)にあります。この博物館は、以前城の三の丸だった所にあり、かつては領主の屋敷がありました。そのために、博物館の中には屋敷だったときから存在していたと思われる酒井氏庭園があります。この庭園は、国の名勝にも指定されています。また、現在庭園に隣接する屋敷は、9代目藩主の酒井忠発(さかいただあき)が幕末に住んでいた隠居所の一部です。他にも、明治時代に建てられた旧鶴岡警察署庁舎などの近代の歴史的建造物が、市内の各所から集められています。驚いたことに、博物館の館長は藩主酒井氏のご子孫の方で、今でも市内に住んでおられるそうです。

左側が致道博物館、右側が鶴岡公園
酒井氏庭園
現存する隠居所「御隠殿」
旧鶴岡警察署庁舎

かつてと現代の城への入口

公園の真ん中には本丸があり、二の丸が部分的にその周りを囲んでいます。公園には入口が5つありますが、その数は過去と一緒です。しかしそれぞれの外観や位置は異なっています。例えば公園の東入口は、かつては二の丸にあった大手門で、桝形によって防御されていました。しかし桝形は撤去されて、市街地になっています。その入口からは通路がまっすぐ中心部に伸びていますが、かつてはそこから回り込んで内堀を渡る中の橋を渡って、本丸南側の中の門に向かう必要がありました。

致道博物館にある城模型の大手門部分
現在の公園東入口(大手門跡)
過去には右側の大手門から手前の中の門に回り込む必要がありました、上記模型より
現在はまっすぐ中心部に入っていけます(荘内神社の参道)

一方で、現在の公園の南入口は、オリジナルの中の門に近いかもしれません。かつて中の橋を渡ったように、堀の上の橋を渡っていきます。その橋を渡ると、もう一つの美しい外観の近代歴史建造物があります。大宝館(たいほうかん)という名前で、1915年に建てられ当初は物産陳列場として使われましたが、現在ではここも歴史博物館になっています。よって、この辺りは城の時代というより、レトロモダンな雰囲気を感じるかもしれません。

上記模型の中の橋と中の門の部分
現在の公園南入口 taken by FRANK211 from photo AC
中の橋は現在の橋の近くにありました
大宝館
大宝館の場所に中の門がありました

本丸にある荘内神社と角櫓跡

公園には城の建物はありませんが、本丸には荘内神社があり、庄内藩祖の酒井忠勝など、酒井氏の4人の先祖を祀っています。神社は1877年に設立されましたが、当時は廃城となった場所に神社を建てるのが流行っていたのです。城らしいものをご覧になりたいのでしたら、本丸の北側、神社の裏手の方に行ってみて下さい。本丸を今でも囲む土塁や、天守代用となった角櫓の跡があります。

荘内神社
本丸に残る土塁
本丸角櫓跡

「鶴ヶ岡城その3」に続きます。
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