191.中津城 その3

中津市が石垣を積み直す際、古い石を新しいものに交換しようと考えていました。その石垣が城のオリジナルであると思っていなかったからです。

特徴、見どころ

本丸内のたくさんの神社

本丸には、中津神社、中津大神宮、奥平神社などたくさんの神社があります。その中でも興味深い存在が城井神社で、この城の中で孝高の息子、黒田長政に殺された地場の戦国大名であった城井鎮房(きいしげふさ)を祀っています。言い伝えによれば、長政は鎮房の恨みによる亡霊に苦しめられ、自身の行為を後悔してこの神社を創設したとのことです。

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城井神社
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
本丸周辺の地図

中津神社
中津大神宮
奥平神社(左側)
城井神社(中津耶馬渓観光協会ホームページより引用)
城井鎮房肖像画、天徳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三の丸と二の丸

三の丸は本丸のとなりにありますが、現在では市街地となっています。ここには城の中心部に向かうための大手門の跡があります。城があったときに本丸の椎木門に至るためには、もう一つの門(黒門)も通っていく必要がありました。現代の住宅街の合い間に、大手門の立派な石垣の一部が残っています。

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大手門
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

現在の三の丸
大手門の石垣、手前が黒田時代のもので、奥の方は細川時代に桝形空間を作るために増築されました
かつてはこのようになっていました、現地説明版より(白枠内が残存部分)

本丸の向こう隣りの場所、二の丸は公園になっていて、武家屋敷跡の礎石がいくらか残っています。

二の丸公園
武家屋敷跡

福沢諭吉旧居

他のお勧めの場所は、二の丸の東方約1kmのところにある福沢諭吉の旧居でしょう。福沢は16歳のときにこの家を買い、19歳のときまで住んでいました。彼は中津藩の下級武士階級出身であるので、この家屋は当時の下級武士が住んでいた家屋の一例と言えるでしょう。この家屋はよくメンテナンスされていて、例えば茅葺の屋根は、角材によって下から支えられています。土蔵造りの倉庫も残っていて、ここの2階で福沢が勉強していたそうです。

福沢諭吉旧居
家の内部
支えられている茅葺屋根
福沢が勉強していた土蔵

その後

明治維新後、中津城は廃城となり、本丸の御殿を除く全ての城の建物は撤去されました。御殿はしばらくは役所として使われましたが、1877年に西南戦争が起こったときにその混乱の中で焼け落ちてしまいました。その後、城跡は神社の敷地として使われたり、1964年には模擬天守が建てられました。この城跡に関する最近のトピックは、2002年に中津市の組織内で、川沿いの反対側にある本丸石垣を修理する際に論争があったことです。担当部署は、石垣を積み直す際、古い石を新しいものに交換しようと考えていました。その石垣が城のオリジナルであると思っていなかったからです。その工事がまさに行われようとしたとき、文化財部門が石垣はオリジナルではないか、そうであれば保存されるべきだと言ってきたのです。調査の結果、石垣は黒田孝高が最初に城を築いた当時のものだと判明し、古い石をそのまま使って積み直されました。中津市は、この石垣は九州地方で最も古い現存石垣であると言っています。

オリジナルの石を使って修繕された石垣

私の感想

現在の中津城を訪れてみて、最初は少々違和感を覚えました。そこにはオリジナルのものもあれば、模擬天守や神社のような後の時代に加えられたものが多く混在していたからです。しかし、この城や中津の先人の歴史を学んでみると、これらの文物は城や遺跡をいかに維持していこうとする彼らの努力の結果だということがわかりました。また、継続的に利益を出す必要がある民間企業にとって、城の建物を経営していくのは大変なことだということも理解できました。もし中津市周辺を旅行されるのであれば、中津城に寄ってあげてほしいです。

川岸から見た模擬天守

ここに行くには

車で行く場合:中津日田道路の定留(さだのみ)ICから約15分かかります。公園周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR中津駅から歩いて約15分かかります。
東京または大阪から中津駅まで:飛行機で大分空港に行って、そこから高速バスで大分駅に行き、日豊本線の列車に乗ってください。

本丸脇の駐車場

リンク、参考情報

中津城公式ホームページ
中津城(奥平家歴史資料館)、中津耶馬渓観光協会
破壊の危機からうまれたもの -中津市の事例-、文化遺産の世界
・「人物叢書315 黒田孝高/中野等著」吉川弘文館
・「シリーズ藩物語 中津藩/三谷紘平著」現代書館
・「歴史群像123号、戦国の城 豊前中津城」学研
・「よみがえる日本の城20」学研
・「日本の城改訂版第14号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「中津城その1」に戻ります。
「中津城その2」に戻ります。

96.飫肥城 その2

自然と人工物が見事に調和

特徴、見どころ

城の顔、大手門

現在、飫肥城跡と旧城下町に多くの観光客が訪れています。シラス台地の性質から、城の曲輪群は自然と各々独立したような構成になっています。その多くは今は、神社、学校、グラウンド、住宅地になっています。かつての城の中心部分が、曲輪として現存していて、一般に公開されています。

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大手門
Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真

田ノ上八幡神社となった八幡城
グラウンドとなった中の城周辺
飫肥中学校がある辺りの曲輪群が全体として二の丸と呼ばれていたようです

ビジターは通常、最初は大手道を、オリジナルの石垣の上にある復元された大手門の方に向かって歩いていきます。そしてここが、飫肥城跡のイメージとして一番よく使われる場所となっています。実は、オリジナルの大手門の詳細はわかっていないのですが、現在の門は飫肥杉を部材として伝統的工法により復元されました。よって、この門もまるでオリジナルであるかのように周りと調和しています。門の内側は、立派な石垣に囲まれた四角い防御のための空間になっていて、桝形と呼ばれます。この門の役割がよくわかります。

大手道を進んでいきます
復元された大手門
大手門の内側の桝形
三の丸土塁上から見た大手門桝形

土塁と空堀に守られた三の丸

この大手門は、とても大きい三の丸の入口になっています。三の丸は、門の箇所以外は土塁と空堀に囲まれています。門から三の丸の中に入っていくと、内側から4mの高さがある土塁が見えます。ここは城の中でも古い部分に当たります。現地の説明板によると、土塁はかつては外側にある空堀の底から約16mもの高さがあったそうです。

三の丸に入っていきます
内側から見た三の丸を囲む土塁
外側(大手門前)から見た三の丸を囲む空堀

石垣に囲まれている本丸

土塁の反対側には、高く長い石垣とその上の土塀がそびえており、本丸を囲んでいます。本丸の中に行くには、長く広い石段を歩いていき、ここにも桝形があります。その周辺には飫肥杉が生育していて、とても神秘的に見えます。まとめると飫肥城は、長い時を経て、古い時代の土塁と新しい時代の石垣が合わさって築かれていることがわかります。

本丸を囲む石垣
本丸へ向かう石段
神秘的に見える飫肥杉

本丸には、飫肥城歴史資料館があり、城の歴史を学ぶことができます。また、飫肥小学校もありますが、関係者以外の立ち入りはできません。松尾の丸は、本丸のとなりの少し高い位置にありますが、ここには御殿が再建されています。この通りの建物がここにあったわけではありませんが、他所の現存屋敷を参考にして建てられました。珍しい蒸し風呂もあります。

飫肥城歴史資料館  (licensed by Kthrk25 via Wikimedia Commons)

飫肥杉が素晴らしい旧本丸

旧本丸は、城では一番高地にあります。ここに行くにも長い坂を歩いていきますが、ここにも素晴らしい石垣や桝形があります。この曲輪は江戸時代初めに地震により一旦破壊されてしまいますが、飫肥藩は堅固に再建したようです。しかしそれ以来、城主の御殿は新しい本丸に移っていったので、その中には建物がありません。

旧本丸に向かいます
旧本丸に入っていきます
旧本丸の桝形

その代わりに、飫肥杉が一面に植えられていて、苔のカーペットのような地面からまっすぐ伸びています。まさに壮観です。仮にこれらの飫肥杉が、曲輪が再建されたときに植えられたとしたら、350年近く経っていることになります。

旧本丸の内部
苔のカーペット
旧本丸の飫肥杉

曲輪の背面の方には、復元された裏門もあり、ここから出て他の観光スポットに向かうこともできます。

復元された裏門
裏門からは、かつて二の丸と呼ばれた一帯に出ます

「飫肥城その3」に続きます。
「飫肥城その1」に戻ります。

118.忍城 その2

「忍城今昔地図」を使って本丸まで歩いてみましょう。

特徴、見どころ

ほとんどが市街地となっている城跡

現在、オリジナルの忍城に関するものはあまりありません。ほとんどの城の用地や堀は、市街地になっているからです。本丸を囲む土塁と堀の一部が残るか復元されていて、そこには天守のように見える三階櫓が再建されています。また、外堀の一部が本丸から少し離れた南の方に水城公園として残っています。他の堀は埋められ、他の曲輪は崩されて、近代的建物や交通の便をよくするための道路が建設されました。しかし、行田市が発行している「忍城今昔地図」を使えば、城の中心部分へ向かうオリジナルの道を辿っていくことができます。その途上には城の建物があったことを示す石碑がいくつもあって、過去であったらどこにいるのかわかるようになっています。

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三階櫓
Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真

本丸にある土塁と水堀
水城公園
「忍城今昔地図」、水色部分がかつて水堀だった場所、現地説明版より
大手門があった場所
大手門があった場所を示す石碑
行田市郷土博物館にある城模型の大手門部分

大手門跡からスタート

例えば、大手門跡から本丸へオリジナルの道を通って行きたいとすると、城があった時代には堀を越えるとても細い通路を通って、島のような曲輪を5つも通り過ぎなければなりませんでした。そのオリジナルに近い現代の道を歩くことができますが、今では住宅地の中を通っていきます。

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大手門
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図、赤破線が大手門から本丸までのオリジナルに近いルート

一例を挙げると、忍城バスターミナルの歩道はその細い通路の痕跡の一つなのですが、周りの様子は信じられない程変わっています。

かつては堀を渡った細い道であったバスターミルの歩道
その先にある沼橋門跡の石碑
上記城模型の沼橋門の部分

また、道の途中にはオリジナルの三重櫓の石碑があるのですが、それによって三重櫓は元は、本丸に再建されたものとは別の場所にあったのだということがわかります。

三階櫓跡の石碑
上記城模型で、青丸内がオリジナルの三階櫓の場所、赤丸内が再建した三階櫓の場所

本丸と二の丸の過去と現在

実は本丸には、徳川幕府の創始者である徳川家康が、城の周りの沼沢地で狩りをした際に泊った御殿がありました。その後本丸は、江戸時代の間であっても土塁と内堀に囲まれているだけの空き地になっていました(中には木が茂っていたそうです)。本丸は今は、その再建された櫓を含む行田郷土博物館となっていて、城と市の歴史を展示しているのと、市のランドマークにもなっています。

上記模型の本丸部分
再建された三階櫓がある本丸

忍藩の藩主の御殿は本丸からひとつ隔たった二の丸にありました。そこは今では行田中学校になっています。

上記模型の二の丸部分
二の丸は中学校になっています

「忍城その3」に続きます。
「忍城その1」に戻ります。

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