17.金山城 その2

ハイキングコース上にある難攻不落の要塞

特徴、見どころ

ハイキングコース上にある城跡

現在、金山城跡は太田市によってよく整備されています。城跡がある山には、城跡へ行くものも含めていくつものハイキングコースが設定されています。多くの人たちがハイキングコースを歩いて、楽しんだりくつろいだりしています。城跡に行ってみようとする歴史ファンであれば、例えば史跡金山城ガイダンス施設から西山コースを歩いてみてはいかかでしょう。

城周辺の地図

史跡金山城ガイダンス施設
施設からハイキングコースへの入口
西山コース
山上の駐車場に到着します

車でなるべく近くまで行ってみたいのであれば、金山ドライブウェイを登って山頂から700m程離れた駐車場まで行くことができます。そこは城でいえば西城の辺りです。西山ハイキングコースも駐車場がある場所に合流するので、城跡への道のりはどちらの場合でも通常そこからスタートします。

金山ドライブウェイの入口
金山ドライブウェイ
山上の駐車場
駐車場近くにある西城虎口跡

敵が簡単に近づけない仕掛け

城跡の中心部分に行くには、東に向かって伸びるオリジナルまたは最近新たに整備された通路を通っていきます。その途中では、いくつもの堀切を見ることができます。これらは、敵が簡単に城を攻撃できないように作られたものです。

現地の案内図

現代になって整備された通路
こちらはオリジナルの通路(途中で途切れてしまっています)
堀切の一つ

特に物見台の前にある堀切は、岩場を深く削り取って作られたものであり、大変印象的です。更には堀切の背後には、二重の関門があって復元された石垣によって囲まれています。この関門へは、堀切にかかった土橋を渡って入っていきます。

物見台前の堀切
物見台下の第一の関門
こちらは第二の関門
物見台周辺の復元模型、史跡金山城跡ガイダンス施設にて展示

関門の頭上にある物見台は展望台として再建されていて、その上からは市街地やその周りの山々が見渡せて素晴らしい景色です。このエリアは城防衛の要の地点だったに違いありません。

展望台として使われている物見台
物見台から関門を見下ろしています
物見台からの景色

石垣・石敷で復元された大手虎口

次に来るのは、実城(みじょう)と呼ばれる城の主要部分で、城で最も大きな「大堀切」と「月ノ池」と呼ばれている石垣で覆われた小さな貯水池によって他と隔てられています。

城主要部の地図

大堀切
月ノ池

その池を越えていくと、谷の中で際立って見える大手虎口が見えてきます。谷の両側を素晴らしい多段階の石垣が覆っています。この虎口はまた、排水路を伴った石が敷かれたいて、まるでヨーロッパの城のようにも見えます。これらの石垣・石敷は、現代になって発掘調査の成果とその後の研究に基づき、一部は元からある石を使って復元されたものです。

復元された大手虎口
谷の北側の多段石垣
谷の北側から南側を見ています
虎口を逆方向から見ています

これらは最後の城主であった北条氏によって完成されたと考えられています。その理由は石垣を積むのに、アゴ止めという技法が使われており(石垣の一番下の段の石が大きくはみ出していて、石垣の崩壊を防ぐようになっています)、この技法は北条氏の他の支城である八王子城でも使われているからです。しかし発掘により、石垣は何度も改修されたことがわかっていて、北条氏より前の大名が石垣を作り始めた可能性もあります。

アゴ止めとなっている部分
八王子城跡

「金山城その3」に続きます。
「金山城その1」に戻ります。

17.金山城 その1

北関東地方の重要で強力な城

立地と歴史

新田義貞を輩出した新田荘

金山城は、現在の群馬県太田市にある金山に位置していました。太田市周辺の地域は中世には新田荘と呼ばれていて、皇室を起源とする源氏の一族である新田氏が定住していました。新田荘は、関東地方の主要街道である東山道沿いにあり、この地方の二大大河である利根川と渡良瀬川に挟まれてもいました。過去においては大河は肥沃な耕地を人々に与え、水上交通に使われたり、戦の際には障壁としても機能しました。そのため、新田荘があった地域は重要とされたのです。

太田市の範囲と城の位置

岩松家純が築城

新田義貞は、1333年に鎌倉幕府を攻めて滅亡させたことで、新田氏の中でも最も有名な人物でしょう。しかし1338年には不幸にも、同じ源氏の一族の足利尊氏が設立した足利幕府の軍勢によって倒されてしまいました。その後、新田氏の支族の岩松氏が、足利幕府を支持したことにより新田荘を受け継ぎます。岩松氏の当主はもともと、岩松(氏)館と呼ばれた平地にある居館に住んでいました。ところが、そうすることが危険な時代がやってきます。1454年に起こった享徳の乱以降、関東地方全域で戦が頻発する状況になってしまったのです、そこで当時の当主であった岩松家純(いえずみ)は、新田荘の北部にある金山に新しい本拠地を築くことを決めたのです。それが金山城で、1469年に完成しました。

新田義貞肖像画、藤島神社蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
岩松氏館跡、現在は岩松山青蓮寺になっています
岩松氏館付近から見える金山

下剋上により由良氏が城主に

金山城が現役であった戦国時代には、家臣が主君を凌駕する下剋上の風潮が広まりました。岩松氏の場合は、重臣の横瀬氏が、傀儡の主君を立てたり、言うことを聞かない主君を殺したりして、のし上がりました。例えば、岩松尚純(ひさずみ)は強制的に隠居させられ、連歌の道に没頭しました。横瀬氏はついには苗字を由良(ゆら)と変え、実は自分たちも新田氏の支族であり、源氏の末裔であると称したのです。その時代に一地方の戦国大名として生き残るには、武力だけはなく、人々が尊敬できるような権威も必要とされたのです。

岩松尚純自画像、青蓮寺蔵、日本で最も初期の自画像の一つとされています  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
岩松尚純の墓、青蓮寺の近くにあります

北条氏が城を奪い完成させる

16世紀後半は、由良氏よりももっと勢力が大きい北条、上杉、武田といった戦国大名が関東地方の覇権をめぐって争いました。由良氏は他家の当主たちと同じく、その時々で一番強い者に従うという方針でこの状況に対処しました。当時の当主、由良成繁(ゆらなりしげ)は1569年に、北条氏と上杉氏との間を仲介し、講和の交渉の場として金山城を提供することもしていました。しかし残念ながら、この講和は短期間で破綻してしまいました。一つの強大な戦国大名に従うということは、他の有力大名に攻められる可能性がありました。金山城は実際に、上記3つの大名(北条、上杉、武田)全てから何度も攻撃されました。ところが一回も落城しませんでした。よってこの城は難攻不落の城とされ、関東七名城の一つと言われました。関東地方はやがて北条氏によって治められるようになり、由良氏は1585年に金山城を北条氏に強制的に引き渡されました。

城跡の近くの金龍寺にある由良成繁の墓(真ん中)
成繁が仲介を行った北条氏の当主、北条氏康肖像画、小田原城所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
成繁が仲介を行った上杉氏の当主、上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

初期段階の金山城は、山頂周辺に限られ、土造りだったようです。時が経つにつれ、城は大いに整備拡張されました。北条氏が城の最終形を作り上げたと言われています。城の範囲は、山頂から山の西峰や南峰にまで拡大され、城の主要部分は石垣によって強化されました。更には敷石までもが築かれました。城には西日本の有名な城のような天守はありませんでしたが、当時の東日本で総石垣造りの城であること自体大変珍しかったのです。

石垣が復元された金山城跡(大手虎口)
同じ部分の復元模型、史跡金山城跡ガイダンス施設にて展示

あっけない城の最後

金山城の城としての本来の歴史は、天下人の豊臣秀吉が日本統一のために北条の領地に攻め込んだ1590年にあっけなく終わってしまいます。金山城は北条の代官が治めていたのですが、多くの城兵は北条の本拠地である小田原城に集められていました。よって金山城には僅かな兵しか残っていませんでした。そのため、前田利家に率いられた侵攻軍に攻撃されたとき、降伏開城せざるを得ませんでした。その後、城は廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小田原城

「金山城その2」に続きます。