8.仙台城 その1

最初に仙台城に行った時には、仙台駅からバスに乗って、青葉山に登り、伊達政宗の像を見たり、景色も楽しみました。ただ、天守跡のようなものもなかったし、あれがお城だったのかと正直思いました。しかし、城っぽくないところは、政宗の深謀遠慮によるもので、実際は要害堅固で、現在までの仙台の礎となる城だったのです。今回は私なりに、伊達政宗のことや、仙台城の歴史を調べてみたので、ご紹介します。

立地と歴史

Introduction

最初に仙台城に行った時には、仙台駅からバスに乗って、青葉山に登り、伊達政宗の像を見たり、景色も楽しみました。ただ、天守跡のようなものはなかったし、あれがお城だったのかと正直思いました。しかし、城っぽくないところは、政宗の深謀遠慮によるもので、実際は要害堅固で、現在までの仙台の礎となる城だったのです。今回は私なりに、伊達政宗のことや、仙台城の歴史を調べてみたので、ご紹介します。

伊達政宗騎馬像

最後の戦国大名・伊達政宗

政宗は、東北の戦国大名・伊達輝宗の嫡男として、1567年(永禄10年)に生まれました。その当時、他の有名な戦国大名(織田・豊臣・徳川など)は既に活躍していたので、「最後の戦国大名」「遅れてきた戦国大名」と言われています。生まれた時期がハンディキャップになっていたのです。政宗といえば「独眼竜」ですが、下の肖像画ではそうなっていません。これは、政宗の遺言によるものです。ただ本人は「独眼竜」を前向きにも意識していたらしく、中国で「独眼竜」と称された名将、李克用にあやかって、黒い甲冑を身に着けたと言われています。同じ境遇の元祖「独眼竜」になぞらえようとしていたのでしょう。

伊達政宗肖像画、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊達政宗所用具足(複製)、仙台市博物館蔵

1584年(天正12年)、政宗は18歳で家督を継ぎますが、東北地方南部は、大名や領主たちがひしめいていました。彼らは、お互いが親戚でもあったので、戦いが始まっても、他の大名が仲裁に入って均衡が保たれたのです。それ自体はいいことですが、統一は進みません。そんな中、血気盛んな政宗は、大内氏の小手森城を攻め、城内の人たちをなで斬りにし、周辺の大名たちを震撼させました(下記補足1)。しかしその反発も大きく、畠山氏は伊達氏に降伏するとみせかけて、政宗の父、照宗を拉致し、政宗は父親もろとも打ち倒すことになってしまったのです。一方、政宗は家臣たちにはかなり気を使っていて(下記補足2)、敵だった武将も役に立つなら受け入れる度量もあったので、家中の結束は固くなりました。

(補足1)これだけの戦果を得たからには、須賀川(二階堂氏本拠)まで出陣し関東までもたやすく手に入るでしょう。(天正13年8月27日付最上義光宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足2)あなたのことは、弓矢八万・摩利支尊天・愛宕山にかけて、特別だと思っている。この手紙は燃やしてくれ。もしここに書いたことが世間に広まったなら皆が怖れを抱くかもしれない。(天正13年閏8月29日 白石宗実宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

伊達輝宗像、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1589年(天正17年)、それまでに田村氏などを従属させていた政宗に、大チャンスがめぐってきます。蘆名氏の重臣、猪苗代氏が主君に反旗を翻したのです。主君の蘆名義広は、猪苗代氏を討とうとして出撃、政宗は猪苗代氏とともに決戦に及んだのです(摺上原の戦い)。結果は大勝、義広は逃亡して、政宗はそれまでいた米沢城から、蘆名氏の本拠地・黒川城に入城しました。他の大名も従えて、南奥州をほぼ統一したのです。

伊達照宗の所領の推移、青枠内が南奥州統一時点(仙台市博物館展示)

政宗はさらに関東に進撃するつもりでしたが(下記補足3)、この行為は天下統一を進める豊臣秀吉の怒りを買ったのです。そして翌年、小田原の北条氏を攻めるのに、秀吉は各大名に参陣を求めました。政宗は迷いましたが、意外と早く、合戦前に参陣を決めています。

(補足3)「鬱々トシテ久ク居玉フヘキ所ニアラス」(「治家記録」)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、その矢先、大事件が起こります。自分の母親(義姫)に、毒を盛られたというのです。これは有名な事件で、政宗の代わりに弟を立てるためだったとされます。そして政宗は、泣く泣く弟を成敗したというものです。これは、政宗自身が語っていることなので(下記補足4)、事実とされてきましたが、なんと母親とはその後も親密な関係が続いています。また、弟らしい僧がいたという記録(大悲願寺・法印秀雄が「政宗舎弟」)が注目されています。そのため、政宗と母親が芝居を打って、家中の分裂を防ぐために、弟を逃がしたという説があるのです(佐藤憲一氏)。もしそうであれば、大変な役者ぶりですが、どちらを信じていいかわかりません。私たちが政宗に試されているような気もします。

(補足4)政宗に誤りがないのに、一命を奪われそうになった。 いろいろ考えたが   実の親を殺すことはできないので、何の罪もない弟を殺した。(政宗消息、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

ところで、結局小田原行きが遅れて、白装束(死装束)で秀吉と対面した逸話もあります。一回出発したが、北条領国を通れず、引き返して、北陸方面に迂回したので時間がかかったのです。結構単純な理由だったのです。領土についても、蘆名から奪った分(会津地方)は召上げという事前交渉が済んでいました。ただ、本番は何が起こるかわからないので、相当緊張したようです。無事に終わった心境を語った手紙が残っています(下記補足5)。実際には白装束だったという記録はないのですが(、「治家記録」によれば髪を一束に結って謁見、首を刎ねられやすくする武士の姿とされる)、別のエピソードがあります(「伊達日記」)。主君に仕えたことがない政宗が、秀吉の近くに呼ばれたとき、刀(脇差)を持っていることに気づき、慌てて他の人に投げ渡したのです。それはそれできわどい場面でした。いずれにしろ、政宗の戦国大名としての夢は終わったのです(下記補足6)。

(補足5)諸々首尾よく終わった。関白様が直々にいろいろ親しくしてくれたので、言葉がない。とてもこれほど御懇切とは(成実には)想像できないだろう。明明後日には    帰国を許してくれるようだ。奥州五十四郡も大方は調いそうである。皆々の御満足を察すばかりだ。この書状の 写を皆々へ送ってくれ。(天正18年6月9日付伊達成実宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足6)「秀吉公にはやく箱根をこされ、小田原落城このかたハ、吹風に草木なびくごとく、東西南北一同に治り、一度天下にはたをあげずしてくちおしき次第なり」(「木村宇右衛門覚書」)

現在の小田原城

仙台城築城へ

小田原合戦後、秀吉は奥州仕置により、政宗や改易大名から取り上げた土地に、配下の大名を入れました(蒲生氏郷、木村吉清など)。彼らには、政宗たちを監視する役割もありました。また、よそから来て厳しい検地を行ったので、大崎・葛西一揆を招き、政宗にも大きな影響を与えました。一揆を裏で扇動していると疑われたのです。そして弁明のために、上洛しなければならなくなりました。このとき、十字架をかついだとか、本物のサインには穴が開いているとか言った逸話がありますが、どちらも本当の話ではないようです。秀吉からは歓待される代わりに、一揆の拠点を含む領地へ移動させられました。飴とムチということです。もう一つの危機は、関白秀次が謀反を疑われ、切腹したときで、秀次と親密だった政宗も疑われました。戦よりも大変だったことでしょう。大量の処分者が出る中。政宗は弁明に努め、徳川家康のとりなしもあって、無事に済んだのです。

政宗に替って会津に入った蒲生氏郷の肖像画、会津若松市立会津図書館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀次肖像画、瑞泉寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

移動後の政宗の領土には、元いた米沢城も、伊達の発祥地(伊達郡)も入っていませんでした。会津の若松城に入った、上杉景勝の領地になっていたのです。政宗は、豊臣大名たちがお膳立てした、岩出山城に入っていました。ところが、秀吉が亡くなると、政宗に再び大チャンスが訪れます。徳川家康の登場です。政宗は家康に接近し、娘の五郎八姫を、家康の子・忠輝に嫁がせました。戦国大名らしい処し方です。やがて、会津征伐が起こると、さっそく景勝の領土に攻め入り、白石城がある地域(苅田郡)を占領しました。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の白石城

そして関ヶ原の前、家康の味方になる条件として、重要な約束を獲得するのです。景勝の領土のうち、49万石分が手に入るというものでした。その中には、米沢や伊達発祥の地も含まれていました。政宗としては、張り切らざるを得ません(下記補足7)。伊達のそのときの領土と併せて「百万石のお墨付き」と言われています(下記補足8)。しかし、最上の応援や、関ヶ原が1日で決着したことで、それ以上の占領はできなかったのでした。政宗も、それが実力次第とわかっていたと思いますが、関ヶ原後も領土の拡大を、政治的に実現すべく活動するのです。その「100万石」の領土が実現したときのために築いたのが、仙台城だったのです。

(補足7)そのうち 必ず世の中がおもしろくなる(慶長5年8月上旬頃 伊達政景宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足8)覚
 一苅田 一伊達 一信夫 一二本松 一塩松 一田村 一長井
 右七ヶ所御本領のことに候間、御家老衆中へ 宛行わるべきため、これを進せ候。
 仍って件の如し。 
  慶長五年八月廿二日 家康(花押)
  大崎少将(政宗)殿

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵

「百万石」の城

もう一回政宗の領地の範囲を見ていただくと(下記所領図)北側のエンジとピンクの部分が関ケ原の戦い前の所領です。以前所領だった黄色の部分と緑の部分のうちの一部が「百万石のお墨付き」の分になります。仙台は、政宗がほしがった領地の中心くらいに位置します。政宗はそういうことを考えて新城の場所を決めたと思うのです。それに、昔の国府が近くにあり、街道も通っていて、仙台平野に面し、海にも近く、交通や産業を発展させられる場所だったのです。「百万石」の都に相応しい場所です。

伊達照宗の所領の推移(仙台市博物館展示)

政宗は、関ヶ原と同じ年に、家康の許可を取って、以前千代城いう山城があった青葉山に築城を始めました。この時期に、山に本拠地としての城を築くのは珍しいことでした。政宗は、まだ事が起こると考え、要害堅固な場所を選んだのだと思います。こういうところも戦国武将らしいです。特に本丸のあるところは、東は広瀬川と断崖、南は峡谷、西は山林に囲まれて、:大手口のある北側も、門や石垣を組み合わせて厳重に守られていました。城は2年ほどで一旦完成し、中国の古典から「仙人が住む高台」いう意味の「仙台」と名付けられたと言われています。きっと、永遠に栄えてほしいという願いがあったのでしょう。政宗の屋敷は、山麓にあって、そこから山上の城に通勤していたそうです。そこも、体力がある戦国大名らしいです。

仙台城模型。南側からの視点(仙台市博物館にて展示)

「城っぽくない」ことに通じるかもしれませんが、本丸には家康をはばかって天守は建てませんでした(下記補足9)。天守は最初からなかったのです。しかs、当初は本丸に三重櫓が4つもありました。それから、本丸の中心には、豪華な大広間が建てられました。秀吉が建てた京都の聚楽第を手本にしたと言われていて、儀式や対面に使われました。政宗が座った「上段の間」のほか、、天皇や将軍を迎える「上々段の間」までありました。ここまで迎えるつもりだったのか、それとも自分が将軍になるつもりだったかのかと思ってしまいますが、建物の格式を示す意味があったようです。あと面白いのが、広瀬川に向かった崖に面して、懸け造りの建物がありました。仙台城を訪問したスペイン人が、その感想を書き残しています(下記補足10)。もしかしたら、懸け造りからの景色を楽しんだかもしれません。

(補足9)合戦が終わらない中で、なかなか普請しようと思ってもうまくできません。内府様(家康)が今のように栄えているので、居城などの普請は今さらいらないと思うので、一切していません。(慶長6年4月18日付 今井宗薫宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足10)城は日本の最も勝れ、最も堅固なるものの一にして、水深き川に囲まれ断崖百身長を越えたる厳山に築かれ、入口は唯一つにして、大きさ江戸と同じくして、家屋の構造は之に勝りたる町を見下し、また2レグワを距てて数レグワの海岸を望むべし(セバスティアン・ビスカイノ「金銀島探検報告」、訳は「奥州の竜 伊達政宗」などより)

仙台城本丸の想像図(青葉城本丸会館にて展示)
大広間模型(仙台城見聞館にて展示)
再現上々段の間、床の間部分(仙台城見聞館にて展示)
懸造がせり出した本丸崖部分の想像図(青葉城本丸会館にて展示)

その城の眼下には、現在の仙台市街地につながる城下町が建設されました。広瀬川には、城と城下町をつなぐ大橋がかけられたました。橋の擬宝珠には、政宗の名前で、仙台の繁栄を願う漢詩が刻まれます。橋から伸びる通りが、奥州街道と交わっていて「芭蕉の辻」と呼ばれました。ここには、人々が集まり、高札場や繁華街になっていました。現在の仙台につながっていったことがわかります。

仙台城模型のうち、手前が広瀬川にかかる大橋(仙台市博物館にて展示)
政宗名で漢詩が刻まれた擬宝珠(仙台市博物館にて展示)
「芭蕉の辻図」、明治初期の様子(仙台市博物館にて展示)

政宗と仙台城のその後

ところで、お墨付きの方はどうなったかというと、うまくいかなかったのです。政宗は、本多正信などの幕閣とコネを作り、上杉氏や相馬氏の、関ヶ原処分のときに働きかけたのですが、だめだったのです。極めつけは、最上氏の改易のときに、正信の子・正純に働きかけますが、なんと正純まで改易になってしまったのでした。ただ、政宗の長男(庶子)・秀宗は宇和島藩主になっているので、幕府は、借りは返したと思ったのではないのでしょうか。

本多正信肖像画、加賀本多博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それと、疑われるのは相変わらずで、一揆の扇動(和賀・岩崎一揆)や、謀反の噂には事欠かなかったのです。謀反の噂は、婿の松平忠輝からの讒言が元ネタだったのですが、その度に弁明に走り、かえって将軍家との絆を深めていきます。その辺は海千山千でしたし、将軍としても、もっとも敵に回したくない大名ということだったのでしょう。

松平忠輝肖像画、上越市立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それから、晩年の業績としては、慶長の遣欧使節がありますし、隠居用の屋敷にしては強力そうな、若林城の築城もありました。なにをやっても目立ってしまうのです。地道な方では、寺社の再建や、江戸城普請も行っています。その普請の最中、1636年(寛永13年)、70歳で江戸で亡くなりました。

復元された遣欧使節船「サン・ファン・バウティスタ」号(4分の1スケール)、宮城県慶長使節船ミュージアムにて展示
若林城跡
政宗が再興した陸奥国分寺

仙台城の方ですが、政宗の跡継ぎ・忠宗は、政務の場所として山麓に二の丸御殿を築きました。山の上への通勤が、大変だったということもありますが、ワンマン経営だった政宗時代から、藩の組織を整備したという意味もありました。政宗・忠宗2代で幕府との良好な関係が確立し、次の時代に起こる藩内抗争「伊達騒動」を乗り切れたという評価もあるのです。政宗の後で目立たちませんが、隠れた功労者だっだのです。

伊達忠宗肖像画、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
二の丸の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

本丸は、儀式のための場所になって、度重なる地震により、三重櫓は崩れて再建されませんでしたが、石垣は修復されて、大広間とともに幕末まで残りました。戊辰戦争でも戦場になることはありませんでした。

本丸北壁の石垣

明治維新後、仙台城には陸軍が置かれましたが、大広間などが解体され、二の丸御殿も火災で焼失してしまいます。そして戦前まで残っていた大手門なども空襲で焼失してしまったため、現在ではお城の建物はほとんど残っていません。それで政宗像がシンボルになっているのでしょう。現在でも地震はあるので、石垣だけでも維持するのが大変なのですが、城の建物としては、1967年に大手門脇櫓が再建されました。今後は、大手門そのものが復元される計画があるそうです。

大手門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊達政宗騎馬像
再建された大手門脇櫓

「仙台城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

104.九戸城~Kunohe Castle

九戸城は戦国時代終焉の地であり、悲しい歴史を秘めています。
Kunohe Castle was where the Warring States Period ended, and it has a sad history.

九戸城本丸跡~The ruins of Kunohe Castle’s Honmaru

立地と歴史~Location and History

九戸城は、現在二戸市となっている二戸地区にありました。この城は、九戸地区から来た九戸氏によって築かれました。九戸城という名前は土地の名前からではなく、この氏族の名前から来ているのです。
Kunohe Castle was in the Ninohe area now called Ninohe City. This castle was built by the Kunohe clan which came from the Kunohe area. The name Kunohe Castle comes from the clan’s name, not from the name of the land.

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九戸城Kunohe Castle
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
二戸市周辺の地図~The map around Ninohe City

九戸氏は、もともと戦国時代の東北地方の有力戦国大名であった南部氏の一族でした。南部晴政が亡くなった後、南部氏の後継をめぐって内紛が起こりました。南部の重臣たちは、晴政の従弟である南部信直を後継に推しましたが、もう一人の候補者を推薦した九戸政実と対立しました。信直は合議により後継に選ばれましたが、それ以来、信直と政実は対立を深めました。そしてついに1591年に政実は、信直に対し反乱を起こしました。
Originally, Kunohe clan were relatives of the Nanbu clan, the great warlord in Tohoku district in the Warring States Period. There was internal trouble about the inheritance of the Nanbu clan after Harumasa Nanbu died. The Nanbu’s senior vassals recommended Harumasa’s cousin, Nobunao Nanbu as the successor against another candidate supported by Masazane Konohe. Nobunao was chosen in their meeting, but since then, he and Masazane confronted each other. As a result, Masazane rebelled against Nobunao in 1591.

南部晴政肖像画、もりおか歴史文化館蔵~The portrait of Harumasa Nanbu, owned by Morioka History and Culture Museum(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
南部信直肖像画、もりおか歴史文化館蔵~The portrait of Nobunao Nanbu, owned by Morioka History and Culture Museum(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons
九戸政実の掛け軸~The scroll of Masazane Kunohe(二戸市商工会 Web Site から引用)

ちょうどそれは豊臣秀吉が天下統一を進め、1590年の「奥州仕置」といわれる、秀吉による東北地方の領地所有権再設定が行われた直後でした。この反乱はこの奥州仕置によって引き起こされたのかもしれません。なぜなら、政実は強制的に信直の配下にさせられてしまったからです。信直は秀吉に助けを求め、秀吉は蒲生氏郷と浅野長吉に約6万の兵を預け、九戸城に派遣しました。そこにいた政実方の守兵はわずか約5千人でした。1591年の9月のことです。
That happened during the unification of the whole country by Hideyoshi Toyotomi, just after the reassessment of his territorial ownership in Tohoku district called “Oshu-Shioki” in 1590. The rebellion might have been caused by Oshu-Shioki because Masazane was forcibly put under Nobumasa. Nobumasa asked Hideyoshi for help, then Hideyoshi sent about 60 thousand troop led by Ujisato Gamo and Nagayoshi Asano to Konohe Castle where Masaane was with about only 5 thousand defenders in September, 1591.

蒲生氏郷肖像画、会津若松市立会津図書館蔵~The portrait of Ujisato Gamo, owned by Aidu Wakamatsu Library(licensed under Public Domain via Wikimeidia Commons)
浅野長吉肖像画、東京大学史料編纂所蔵~The portrait of Nagayoshi Asano, owned by Historiographical Institute the University of Tokyo(licensed under Public Domain via Wikimeidia Commons)

九戸城は河岸段丘上の天然の要害であり、川や谷に周りを囲まれていました。「九戸党」と呼ばれた守兵も強力で、最初の攻撃を撃退しました。攻撃側は強引な攻撃による兵の損耗を憂え、政実に降伏するよう勧告しました。彼は数日のうちに、女性子どもを含む城内人員の生命の保証を条件に受け入れました。しかしながらその約束は破られ、攻撃側が城を確保した後、多くの人たちが虐殺されました。政実もまた斬首されたのです。発掘により、二ノ丸から処刑された男女の骨が見つかっています。この九戸政実の乱は戦国時代最後の戦いであると言われています。
Kunohe Castle formed a natural fortress which was on river terraces surrounded by rivers and valleys. The defenders called “the Kunohe Party” were also so strong that they repelled the first attack. Attackers were worried about casualties from aggressive attacks, so they suggested Masazane to surrender. He accepted it in a few days in exchange for the safety of the people in the castle including women and children. However, the promise was broken and many people were executed after the attackers got the castle. Masazane was also beheaded. The excavation shows bones of executed men and women buried in the second enclosure “Ninomaru”. It is said that the Kunohe Rebellion is the last battle of the Warring States Period.

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本丸Honmaru
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図~The normal map around the castle

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本丸Honmaru
Leaflet|国土地理院
城周辺の起伏地図~The relief map around the castle

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本丸Honmaru
Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真~The aerial photo around the castle

特徴~Features

現在、城の本丸と二ノ丸が主に史跡として整備されています。
Now, the ruins of the main enclosure “Honmaru” and Ninomaru mainly remain developing for a historic site.

二ノ丸と空堀で隔てられた本丸~Ninomaru and Honmaru devided by a dry moat
本丸の空堀~The dry moat surrounding Honmaru
本丸の南虎口~The south entrance of Honmaru

東北地方では一番古い石垣がありますが、実は蒲生氏郷により築かれたものです。The oldest stone walls in Tohoku region were actually rebuilt by Gamo.

本丸追手門にある石垣~The stone walls at the main entrance of Honmaru
二ノ丸から本丸に渡る橋~The bridge between Ninomaru and Honmaru

「若狭館」「外館」といった他の曲輪は、九戸にもともとあった形を残しているようです。
Other enclosure ruins such as “Wakasa-Date” and “To-Date” are more likely in the original way of Kunohe.

外館跡を見上げる~Looking up the ruins of Todate
若狭館跡~The ruins of Wakasadate

今でも歩き回れば、この城が自然の地形により守られていたかがわかります。一例として、以前三の丸だった所にあるガイドハウスから本丸を見上げてみましょう。
Even now you can understand how the castle was protected by natural landscape when walking around. For example, you can look up at Honmaru from the guide house on the former Sannomaru enclosure.

本丸を囲む空堀の底~The bottom of the dry moat srrounding Honmaru
三の丸から本丸を見上げる~Lookin up Honmaru from Sannomaru

その後~Later Life

九戸政実の乱の後、城は蒲生氏郷によって再建され、南部信直に引き渡されました。そして九戸城から福岡城に名前が変えられました。しかし二戸の人々は「九戸城」と呼び続けました。南部がすぐに盛岡城に移転したことと、九戸への懐旧の念もあったからでしょう。城は1636年に廃城となり、畠となりました。近代になって、1893年に農業試験場がここに開設されました。最終的に1935年に国の史跡に指定されました。
After the Kunohe Rebellion, the castle was reconstructed by Gamo, and owned by Nanbu, and it was renamed from Kunohe to Fukuoka. But people in Ninohe area have been calling it “Kunohe” because of Nanbu moving to Morioka Castle soon after as well as their nostalgia for Kunohe. The castle was abandoned in 1636, turned into a farm. In the Modern Ages, an agricultural experiment station was opened in 1893, it was lastly designated as a national historic site in 1935.

農業試験場の記念碑~The monument of the agricultural experiment station

私の感想~My Impression

九戸城のいきさつは今だ謎めいています。なぜ政実は、守るには有利な冬を前にしてすぐ降伏してしまったのでしょう(旧暦の9月は現在の10月に相当します)。なぜ秀吉は中央から彼方にある場所に、このように少数の反乱者のためにこんなにも多くの兵士(後衛を含めると15万人)を送り出したのでしょうか。そして九戸党は豊臣方の暴挙に対して成す術がなかったのでしょうか。
The story of Kunohe Castle is still mysterious. Why did Masazane surrender in a moment before the winter that would be an advantage for defenders (September in the lunar calendar is similar to October now)? Why did Toyotomi send so many soldiers (150 thousand including the rear) for such a small number of the rebels to the place far away from the center? And, did the Kunohe Party do noting against Toyotomi’s violence?

二の丸脇の大空堀跡~The ruins of the large dry moat beside Ninomaru

作家たちは、その作品において推測し、仮説を立てています。例えば高橋克彦は、政実は自分を犠牲にして南部の諸族を救ったのだと言います(信直は別として、一族の津軽為信は大名として生き延びました)。安部龍太郎は、秀吉は1592年の朝鮮侵攻のために、寒さに強い東北地方の人々を徴発しようとしたとしています。政実はそれを知り、九戸城を犠牲にし戦いを終わらせ、その実行を防いだとしました。そして両方の作家とも抜け道を使って多くの人が逃れ出たはずだと推測しています。歴史の謎について考えるのはとても興味深く、また真実に至る道なのかもしれません。
Some writers speculate and offer their assumptions in their novels. For instance, Katsuhiko Takahashi says Masazane sacrificed himself to save the Nanbu relatives (Beside Nobunao, another relative Tamenobu Tsugaru, once supported Masazane, survived as a lord.). Ryutaro Abe wrote Toyotomi might have aimed to draft Tohoku people being strong in the cold for his invasion of Korea in 1592. Masazane had known it, then he has ended the war to prevent it from happening at the sacrifice of Kunohe Castle. Both writers also speculate many of people should have escaped from the castle by a secret path. Thinking about mysteries of history is very interesting, and it may be a key to finding the fact.

現地にある城の地形モデル~The terrain model of the castle at the site

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:八戸自動車道一戸ICから約15分かかります。ガイドハウスに駐車場があります。
二戸駅からバスで行く場合:JRバス(県立二戸病院または軽米病院行き)または岩手県北バス(伊保内営業所行き)に乗り、呑香稲荷神社前バス停で降りてください。城跡はバス停から歩いて5分です。
東京から二戸駅まで:東北新幹線に乗ってください。
If you want to go there by car: It takes about 15 minutes from the Ichinohe IC on Hachinohe Expressway. The guide house offers a parking lot.
If you want to go there by bus from Ninohe station: Take the JR bus bound for Kenritsu-Ninohe-Byoin or Karumai-Byoin, or the Iwate-Kenpoku bus bound for Ibonai-Eigyosho , and take off at the Tonko-Inari-Jinja bus stop. The ruins are a 5 minute walk away from the bus stop.
From Tokyo to Ninohe st.: Take the Tohoku Shinkansen super express.

リンク、参考情報~Links and References

岩手県二戸市 九戸城跡~Ninohe City Official Website
二戸市商工会(Only Japanese)
九戸政実プロジェクト「戦国ダンシ九戸政実」(Only Japanese)
・「歴史群像158号~戦国北奥戦記」(Japanese Magazine)
・「天を衝く(1)~(3)」高橋克彦著、講談社文庫(Japanese Book)
・「冬を待つ城」安部龍太郎著、新潮文庫(Japanese Book)
・「南部九戸落城」渡辺喜恵子著、毎日新聞社(Japanese Book)

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