13.白河小峰城 その1

1627年、城にとって画期的な出来事が起こりました。丹羽長重が白河藩の初代藩主としてやってきたのです。長重の父親は丹羽長秀で、織田信長の下で、日本の近代的城郭の始祖、安土城の普請総奉行を務めました。長重は父親から引き継いだノウハウや人脈によって、築城の名人だったのです。

立地と歴史

結城氏の支城として築城

現在の白河市に当たる白河地域は、東北地方の玄関口となっています。古代にはこの地域に、有名な「白河の関」がありました。白河小峰城は最初は14世紀に結城氏によって築かれ、当時はシンプルに小峰城と呼ばれていました。結城氏は白川城という別の城を居城としていました。彼らはもともと、13世紀に南の関東地方から移住してきたのです。小峰城は阿武隈川沿いの丘の上に、本拠地を守るための支城として築かれました。小峰城は後に本拠地よりも有名になり、こちらも白河城(「川」と「河」は同じ意味)と呼ばれるようになりました。名称の混乱を防ぐために、一般的には、2つの白河(川)城を区別して、2つ目の白河城を、白河小峰城と呼んでいます。

白河市の範囲と城の位置

白河の関跡
白川城跡
白河小峰城跡

丹羽長重が近代的な城に大改修

結城氏は、16世紀終わり頃の天下人、豊臣秀吉による国内統一事業の間、不幸にも改易されてしまいました。その後白河小峰城は、上杉氏や蒲生氏に引き継がれ、支城として使われました。城の基本的構造はこの間に完成したと言われていますが、大半の部分はまだ土造りでした。1627年、城にとって画期的な出来事が起こりました。丹羽長重が白河藩の初代藩主としてやってきたのです。長重の父親は丹羽長秀で、織田信長の下で、日本の近代的城郭の始祖、安土城の普請総奉行を務めました。長重は、北陸地方の大名だったとき、1600年の天下分け目の戦いでは西軍に属しました。しかし西軍は、徳川幕府を設立することになる東軍に敗れてしまいました。そのため、長重は幕府により一時改易となりました。しかし1603年には独立大名に復帰します。その理由の一つとして、長重が父親から引き継いだノウハウや人脈によって、築城の名手だったことが挙げられるでしょう。

丹羽長重肖像画、大隣寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
丹羽長秀肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
安土城の想像図、岐阜城展示室より

長重は、1629年から1632年の間、城の大改修を行いました。また、幕府は長重に、北方の東北地方に展開していた多くの外様大名を監視するために、強力な城を築くことを期待しました。長重はこれまであった城に、石垣、水堀、櫓、館などを築きました。また、阿武隈川の流れを城の北西側から北側に付け替え、城の用地を広げ、北の方角に対する防御力を強化しました。また、本丸の北東隅には三重櫓が建てられ、北方の奥州街道を見張っていました。三重櫓は14mの高さがあって、城のシンボルとなりました。初期段階においては、天守とも呼ばれたのですが、その呼び方はされなくなりました。それは、将軍の本拠である江戸城の天守が1657年に焼けてしまい再建されなかった後のようです。白河藩は、将軍との関係を考慮してそうしたのでしょう。

白河小峰城の模型、小峰城歴史館にて展示
城の北側を流れる阿武隈川
復元された白河小峰城三重櫓

松平定信による改革

城と藩は、榊原、本多、(奥平)松平、(結城)松平など、いくつもの譜代大名家に引き継がれました。白河地域を含む東北地方は、その当時は肥沃ではなく、度々冷害、干ばつ、洪水などによる被害を受けました。したがって、白河藩はいつも財政問題を抱えていました。1783年、(久松)松平定信が藩主となり、改革を始めます。彼の基本方針は質素倹約でした。また、藩士には学問と武芸を、農民には増産を奨励しました。特に彼の社会政策は優れていました、例えば、1780年代の天明大飢饉のときでも、農民たちを救い、幼児の養育支援を行いました。定信はついに1787年には幕府中枢で老中首座となり、寛政の改革を実行しました。彼はまた、城の建物の詳細図面を作らせ、後の世に残しました。これが現在の私たちにとって、思ってもみなかった幸運をもたらします。

松平定信自画像、鎮国守国神社 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松平定信が開設した南湖公園

白河口の戦いで落城

1823年に、阿部氏が最後の藩主となりました。阿部正外(あべまさとう)は幕府中枢の職にありましたが、1866年に政策の失敗により地位を追われてしまいました。その結果、白河地域は無主の地のようになり(公式には幕府天領)、これが城にとって大不幸につながります。明治維新が起こった1868年、徳川幕府を倒した新政府と、まだ幕府を支持していた多くの東北諸藩が対立し、戊辰戦争が始まりました。新政府軍の最初の攻撃目標は、東北地方の入口である白河地域でした。東北諸藩の同盟軍は、白河地域と白河小峰城を共同で守らなければなりませんでした。

最後の白河藩主、阿部正外の肖像写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、白河小峰城には新政府軍が攻めてくる南方に弱点がありました。城から1km前後離れた3箇所の丘上に重要拠点(稲荷山、立石山、雷神山)があり、そこを占領されたら城を大砲によって狙われてしまうのです。更には新政府軍は、同盟軍より新式の銃によって武装されていました。同盟軍はまた、優秀な指揮官がいないために統制を欠いていました。5月1日、白河口の戦いが起こり、新政府軍は3つの丘を占拠しました。同盟軍の兵士や城は狙い撃ちされ、たった一日で壊滅、落城してしまいます。三重櫓を含む多くの城の建物もその過程で焼け落ちてしまいました。その後、同盟軍は何度も城を奪還しようとしますが、全て失敗しました。その理由の一つには、同盟軍が撤退して反撃をしてきた北の方角に対しては、城が強力な防御力を持っていたからなのかもしれません。

城周辺の起伏地図

稲荷山古戦場に立つ鎮魂碑
破壊された白河小峰城 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「白河小峰城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

154.田丸城 その2

いくつかの時代から成る城跡

特徴、見どころ

大手門、二の門を通る

現在、田丸城跡は玉城町により維持されていて、今でも町の中心部に位置しています。現存する外堀の奥にある大手門跡は、城跡の入口であり、また町役場の入口にもなっています。この入口を通る道路は、もともと折れ曲がっていましたが、現在では恐らくは交通の便のために舗装されてまっすぐになっています。もし、車で城跡に来られたのでしたら、町役場の駐車場を使うことができます。

城周辺の地図

大手門跡前の外堀
大手門跡

舗装された道路は丘の方に登っていって、石垣と一部残っている内堀に囲まれた二の門跡を過ぎていきます。この部分は昔のように今でも曲げられています。この後はかつては三の丸に至ったのですが、そこは学校地になっているので、現在の道は回り込んでいます。道沿いには城では数少ない現存建物の一つ、富士見門があります。この門は一旦売却されて別の場所にあったのですが、元通りの場所ではないのですが、城跡内の現在地点に戻されました。

一部残っている内堀
二の門跡
学校になっている三の丸跡
移築された富士見門

土塁と石垣両方を楽しめる北の丸

このまま本丸に行くこともできるのですが、その前に枝分かれする遊歩道の方に行って、北の丸の周りを歩いてみることをお勧めします。それは、この曲輪を見たときにこの城の長い歴史を実感できるからです。この曲輪は古い石垣に囲まれているのですが、更にその外側を土塁が囲んでいます。土塁は、石垣が使われるようになるまでは、中世の城では普通に使われていました。そのため、ここの土塁は初期の段階より存在していたかもしれないのです。

北の丸の遊歩道へ
遊歩道を進みます
北の丸外側の土塁

ここの石垣も、城の石垣としては最も古いものの一つである安土城のものに似て見えます。安土城は信雄の父、信長が築いたものなので、この石垣は信雄が築いたものではと思ってしまいますが、歴史家によれば、この城のほとんどの石垣は稲葉氏が築いたとのことです。

北の丸の石垣
北の丸の石垣と土塁のコンビネーション
安土城跡

見どころが多い本丸

本道に戻ると、舗装道が本丸にまで至っているので、簡単に中に入ることができます。虎口と呼ばれる、石垣に囲まれ食い違いになっている入口は、発掘の成果により現代になって復元されたものです。

本丸に向かう道
本丸虎口
石垣上から見た本丸虎口

本丸の第一の見どころは、天守台石垣でしょう。石段などの一部の部分は、後から追加されたものです。しかし、穴倉式という基本的な天守台の形式は、天守台を作る方式の中では初期のものに当たります。歴史家によれば、この天守台は信雄により築かれたかもしれないとのことです。

本丸内部
天守台石垣
天守台の内部(穴倉)

次の見どころは、本丸からの町の景色です。この町周辺は、豊かで平和な地域に見えます。きっと過去もそうだったのでしょう。この城の立地がとても良いことがわかります。

本丸からの眺め

他にも、本丸を囲む石垣も見て回ってほしいです。北の丸の石垣よりは新しく且つ精密に見えますが、江戸時代に久野氏が修繕した結果のようです。

本丸の石垣
段積みになっている部分

「田丸城その3」に続きます。
「田丸城その1」に戻ります。

157.八幡山城 その2

山の上には、城跡と現代的な観光地が同居しています。

特徴、見どころ

ロープウェイで山上へ

現在、八幡山城跡を訪れるビジターは通常山麓からロープウェイに乗っていきます。その山麓側のロープウェイ乗り場は、城が築かれたときにそこに移されたとされる日牟禮(ひむれ)八幡宮の近くにあります。八幡堀や古い街並みも周辺に残っており、人気のある観光地になっています。

城周辺の地図

ロープウェイ乗り場
日牟禮八幡宮拝殿  (licensed by 663highland via Wikimedia Commons)
八幡堀と古い街並み

ロープウェイに乗れば、数分で山上のロープウェイ駅に到着します。その駅は、城跡の二の丸の下の方にあり、少し登って二の丸に行くとそこは展望所になっていて、南東の方角に市街地を見渡せます。多くの人たちが素晴らしい景色を楽しんでいますが、城跡としても古い石垣が周辺に残っています。

ロープウェイの中
二の丸にある展望所
二の丸からの眺め
二の丸周辺の石垣

本丸にある瑞龍寺

城の中心地であった本丸には、今は秀次の母親ともが創建した瑞龍寺が建っています。実は、この寺は現代の1961年に京都からここに移ってきたのです。しかし、この城にとっては全く相応しい決断であったと思います。この寺の入り口部分は、桝形と呼ばれる、石垣に囲まれた四角い防御空間となっています。もともとここが本丸の入口だったからです。この寺は、皇室の菊の御紋章を使っていますが、これは後陽成天皇が、ともによるこの寺の創建を援助し、その後は皇室から寺の門跡を輩出したことに由来します(そのため、別名として村雲御所(むらくもごしょ)とも呼ばれています)。

城周辺の航空写真

本丸にある瑞龍寺
門扉には菊の御紋章が使われています
門の内側に残る桝形

北の丸、西の丸のビュースポット

本丸の周りの通路となっている腰曲輪を通って、他の曲輪に行くことができます。本丸を囲む高石垣は、古く粗野にも見えますが、安土城の石垣のようにとても立派です。しかし歴史家によれば、その石垣を完成させたのは秀次なのか、またはその後を継いだ京極氏なのかまだわからないそうです。その中には、石垣の角のラインが縦に丸まってしまっているものがありますが、元々こうだったのか、それとも劣化してしまったものなのでしょうか。

本丸周りの石垣
角が丸まっている石垣

北の丸に行っていただくと、そこもビュースポットとなっていて、北の方に安土城跡や観音寺城跡がある山々が見えます。

北の丸
北の丸からの眺め
安土城跡と観音寺城跡

また、西の丸では西の方に琵琶湖を見渡すことができます。

西の丸
西の丸からの眺め

おすすめの出丸

そして、最近再整備された出丸にも是非行っていただきたいです。この曲輪の周辺の草木が伐採されており、眺望が確保されています(出丸からだけでなく、市街地などからも出丸がよく見えるようになっています)。西の丸から山道を少し下ったところに出丸があります。そこに行けば、市街地をまるでパノラマのように見渡すことができます。また、この曲輪が絶好の見張り台として機能していたことも、容易に想像できます。

出丸
出丸からの眺め
出丸は市街地からも見えます(赤円の中)

それから、この曲輪を囲む石垣を間近に見ながら周りを歩いてみることもできます。この曲輪の石垣の高さは約4mとのことです。ただし、足場は急で不安定な斜面になっているので気を付けてください。

出丸の石垣と市街地の眺め
出丸の石垣(角が丸くなっているのは珍しいそうです)
ライトアップ用の機材もあります

「八幡山城その3」に続きます。
「八幡山城その1」に戻ります。