51.安土城 その2

現在、安土城跡は国の特別史跡になっています。城跡の前は広場になっていますが、城があったときには、この辺りから水堀や石垣に囲まれていました。安土城は、中世の東海道に沿って、京都と織田信長の以前の本拠地、岐阜の途中にあって、何かあったら両方に駆け付けることもできました。また信長は、有力家臣に琵琶湖沿いに城を築かせ、水上交通ネットワークを形成していました。今回の記事では、前回の謎対決のテーマと、城跡の見学コースに沿って、現地を紹介していきます。

特徴、見どころ

現在、安土城跡は国の特別史跡になっています。城跡の前は広場になっていますが、城があったときには、この辺りから水堀や石垣に囲まれていました。安土城は、中世の東海道に沿って、京都と織田信長の以前の本拠地、岐阜の途中にあって、何かあったら両方に駆け付けることもできました。また信長は、有力家臣に琵琶湖沿いに城を築かせ、水上交通ネットワークを形成していました。今回の記事では、前回の謎対決のテーマと、城跡の見学コースに沿って、現地を紹介していきます。

安土城のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

大手道を登る

大手道を歩く前に、大手門跡周辺を見ておきましょう。4つも作られた門の跡です。そのうち3つがまっすぐ入れる門(平虎口)でした。東側には平虎口が一つだけありますが、西側の方には平虎口と、二度曲がって入る門(枡形虎口)の2つが並んでいます。こんな近くに、わざわざ違う形の門を作るなんて、不思議に思います。平虎口はやはり行幸用だったのかなという気もします。

大手門跡
東側にある平虎口跡
西側には、枡形虎口跡(左)と平虎口跡(右)が並んでいます

それでは、大手道を進んでいきましょう。城跡は、摠見寺の所有地なので、拝観料を支払ってから入ります。それから、まっすぐな石段を登って行きましょう。現代に訪れても特別な感じがします。昔はここから天主が見えていたのでしょう。

城跡入口
大手道の石段
安土城大手道周辺の想像図、岐阜城展示室にて展示

大手道の左側には「伝・羽柴秀吉邸」跡があります。道の反対側に「伝・前田利家邸」跡もありますが、いずれも江戸時代以降に憶測で付けられた名称です。伝・羽柴秀吉邸は、2段構成の屋敷になっていたと推測されています。しかし、実は別々の建物で、改造された跡もあったため、本能寺の変後に、織田三法師と信雄が入場したときに、御殿として使われたのではないかという説もあります。

「伝・羽柴秀吉邸」跡
「伝・羽柴秀吉邸」跡の現地説明パネル
「伝・前田利家邸」跡

ずっと登っていくと、右側に摠見寺の現在の本堂(仮本堂)がありますが、ここは「伝・徳川家康邸」跡だそうです。ただし、家康が安土に来たときには、別の寺に泊まっていたという記録があります。

「伝・徳川家康邸」跡(現・摠見寺仮本堂)

やがて直線の道から、ジグザグの道に変わります。防衛を考えた道筋ということなのでしょう。石段はオリジナルの石を使いながら、復元整備されたものですが、オリジナルでは材料として石仏も使われていました。城に使う石材は、この周辺の山から調達できたはずですが、なにか意図的なものを感じます。

大手道の石材に使われた石仏

平らなところに出ると、「伝・織田信忠邸」跡です。ここは一時お寺の施設として使われて、ほとんど城の痕跡は残っていません。大手道、通用口(百々橋口)、湖に通じる道(七曲口)と城の中心部への道が交差する場所なので、かつては石垣が積まれ、厳重に守られていたようです。

「伝・織田信忠邸」跡

城の中心部に向かう

城の中心部に向かいましょう。石段を登っていくと、立派な門の跡が見えてきます。中心部への入口「黒金門」跡です。すごく大きな石を使い、四角い枡形で防御力も高そうです。「信長公記」では「おもての御門」と表現されています。やはり、城の正門だったのでしょう。

黒金門跡

中に入ると、石垣だらけです。安土城の石垣が画期的なところは、その上に建物や塀を建てる前提で築かれたことです。集められた石のうち、大きなものが中心部に高く積まれました。荒々しいですが、巧みに積まれている感じがします。:「野面積み」といって自然石と、一部に荒く加工された石が使われているそうです。こういった積み方の技術を持つ職人集団が、後に「穴太衆」と呼ばれるようになりました。

二の丸の石垣

「二の御門」「三の御門」跡を通り過ぎると、「二の丸東溜り」と呼ばれる場所に着きます。ここから左側が二の丸、右側が本丸となります。

二の丸東溜り

二の丸には、本能寺の変の翌年に秀吉が建てた「織田信長公本廟」があります。廟への階段もそのとき作られました。ここに廟が作られたのは、信長やその家族の普段の居館があったからだという説があります。廟の一番上に石が置かれていますが、信長の化身の石とも言われる「盆山」のようにも見えます。真偽はわかりませんが、それを意識したものなのでしょう。

織田信長公本廟
廟の上に置かれた石

先ほどの「二の丸東溜り」は、「信長公記」では「御白洲」という名前で記載されています。屋外にある待機場所ということでしょう。ここから本丸に向かってもう一つ門があり、その先に「南殿」がありました。江戸時代の武家御殿の遠侍・式台・大広間にあたる建物だったようです。二条城二の丸御殿にそのセットが現存していますが、安土城はルーツの一つだったのでしょう。

この先に「南殿」があったと思われます
二条城二の丸御殿の航空写真 (Google Map)

本丸の中は、現在はところどころ木が立っているだけですが、この中のどこかに、行幸のための部屋か御殿があったはずです。向こう側には三の丸の石垣が見えます。そこには接待用の紅雲寺御殿がありました、景色が良かったそうです。今はそこには登れなくなっているのが残念です。

本丸
安土城中心部のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

いよいよ天主台へ!

本丸から本丸取付台を通って、いよいよ天主台に行きましょう。「取付台」といっても当時は建物があって、他の建物とは渡り廊下で連結されていたようです。進んでいくと「発掘調査中」という区画があります。2023年から滋賀県による「令和の大調査」が、この場所から始まっているのです。天主の姿や、焼失の原因が、明らかになるかもしれないと期待されています。今のところ、天主台石垣を人為的に崩した跡が見つかり、廃城のときに行われた可能性があるそうです。

発掘調査中の区画
調査が行われている天主台北側

天主台の階段を登りましょう。階段の途中の踊り場に注目です。タイルのようになっているところです。「笏谷石(しゃくだにいし)」という越前国特産の石を加工して作られたものです。北陸地方に担当していた柴田勝家から献上されたそうです。

笏谷石を加工して作られた踊り場

この階段は土蔵、つまり地下室に通じていました。中に入ると、礎石がたくさんあります。天主や城の建物がどんな姿をしていたのかは謎ですが、滋賀県によると、「高層の天主」「高石垣」「瓦葺きの建物」の3点セットが、初めて日本の城に現れた場所だったとのことです。また、金箔瓦が城の中心部で発見されています。「金箔瓦」自体も、安土城が初めてと言われています。(岐阜城でも金箔を押した跡のある瓦が発見されていますが、信長時代のものとは確定していません。)

天主台内部
城中心部で発見された金箔瓦、安土城考古博物館にて展示

「令和の大調査」には、発掘だけでなく、安土城を描いた絵画の探索も含まれています。信長が安土城を描かせ、天正遣欧使節に託してローマ教皇に送った「安土山図屏風」です。その屏風はバチカン宮殿に飾られましたが、現在は行方不明になっています。:滋賀県はこれまでも探していましたが、もう一度ネジを巻きなおすそうです。その屏風が見つかったら、世紀の大発見になるでしょう。

「安土山図屏風」の想像画、安土城郭資料館にて展示

やっぱり謎の摠見寺

城の中心部から「伝・織田信忠邸」跡に戻ると、見学コースは摠見寺の方に向かいます。ルイス・フロイスによれば、「盆山」を祀っていたところです。景色が開けたところに、本堂跡があります。かつて、その本堂は二階建てで、その二階に「盆山」が置いてあったとのことです。その場所は、一階の仏像はもちろん、三重塔よりも高い位置だったと言われています。まるで、天主の宝塔と、信長の部屋のような位置関係です(これも一説によりますが)。その本堂は、改造された後、江戸時代に火事で燃えてしまいました。もし残っていたら謎の一つが解けていたかもしれません。

摠見寺本堂跡

かつて城に接していた湖は大分干拓されてしまいましたが、今でもいい眺めです。

本堂跡からの眺め

三重塔、仁王門は、火事を生き延びて現存し、重要文化財になっています。この寺は、他の寺から建物を移築して設立されたので、両方とも、なくなった城の建物より古いのです。摠見寺を通る道は、城の通用口(百々橋口)だったので、一番使われたはずです。信長最後の正月(天正10年)の年賀行事には、百々橋から摠見寺に、大名・家臣・群衆が押し寄せたとの記録があります。

現存する三重塔
現存する仁王門

現在の見学コースでは、その百々橋口には出ることができません。それなので、山の中腹を回って、「伝・羽柴秀吉邸」跡に戻ってきます。

百々橋口は塞がれています
山の中腹を通って戻ります
「伝・羽柴秀吉邸」跡に到着

私の感想

安土城の謎を考えても、ますますわからなくなるというのが正直な感想です。しかし、その謎解きを考えること自体が面白かったです。織田信長は常識を打ち破ってきた人物なので、彼の安土城を現代の常識で考えても、答えは出ないのかもしれません。よって、決定的な証拠が出てくるまでは、謎解きを楽しめばよいのだと思います。

安土山

その謎解きの助けになる博物館が、城跡の近くにいくつもあります。併せて行ってみてはいかがでしょうか。

安土城郭資料館(中に展示している安土城天主20分の1モデル)
安土城考古博物館
安土城天主 信長の館

リンク、参考情報

織田信長の安土城址と総見寺(安土城址の公式サイト)
滋賀県立安土城考古博物館
城びと、理文先生のお城がっこう、城歩き編 第24回 安土城の石垣1
・「信長の城/千田嘉博著」岩波新書
・「安土 信長の城と城下町」滋賀県教育委員会
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫
・「歴史群像名城シリーズ3 安土城」学研
・「復元安土城/内藤昌著」講談社学術文庫
・「逆説の日本史 9戦国野望編 10戦国覇王編/井沢元彦著」小学館
・「よみがえる日本の城22」学研
・「新「近江八幡市」誕生までのあゆみ」近江八幡市
・「特別史跡安土城跡整備基本計画」令和5年3月 滋賀県文化スポーツ部文化財保護課
・「滋賀県文化財保護協会 紀要第20号 安土城の大手道は無かった」木戸雅寿氏論文
・「滋賀県文化財保護協会 紀要第30号 安土城の空間特性」大沼芳幸氏論文
・「鳥取環境大学 紀要第8号 安土城摠見寺本堂の復元」岡垣頼和氏・浅川滋男氏論文

これで終わります。ありがとうございました。
「安土城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

51.安土城 その1

安土城は言わずと知れた、織田信長の最後の、そして最も有名な本拠地の城でした。それだけでなく、彼が想像した城のスタイル(高くそびえる天主(守)、高石垣と櫓や白壁、厳重な門構え、周りには水堀をたたえているなど)は、その後の有力な大名に受け継がれました。それぞれのパーツは以前の城にもありましたが、信長はそれらを組み合わせ、自らの城として表現したのです。いわば安土城は、日本の典型的な城スタイルの始祖と言えるでしょう。

安土城は言わずと知れた、織田信長の最後の、そして最も有名な本拠地の城でした。それだけでなく、彼が想像した城のスタイル(高くそびえる天主(守)、高石垣と櫓や白壁、厳重な門構え、周りには水堀をたたえているなど)は、その後の有力な大名に受け継がれました。それぞれのパーツは以前の城にもありましたが、信長はそれらを組み合わせ、自らの城として表現したのです。いわば安土城は、日本の典型的な城スタイルの始祖と言えるでしょう。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、この城はそのインパクトの割には短命でした。1576年(天正4年)正月に城の建築が開始され、3年後に信長が天主に移り住みました。最終的な完成は1581年(天正9年)9月で、本能寺の変(翌年6月3日)において信長が倒れるわずか9ヶ月前でした。6月13日の山崎の戦いで、羽柴秀吉が明智光秀を破った直後、天主を含む城の中心部は焼失してしまったのです。その後は織田家の嫡男(三法師)が織田信雄とともに入城し、残った部分を使用しますが、1858年の八幡山城の築城とともに、廃城になったとされています。

八幡山城跡

このように、主人の信長同様、際立った個性を持ちながら、突然のごとく現れ、去っていったこの城は、多くの謎に満ちています。例えば、「安土」という名前自体から謎めいています。大名家の記録(「細川家記」)に「天正四年正月、信長江州目賀田を安土と改む」とあることから、信長が「平安楽土」をもじって命名したと考える人もいます。しかし現在の安土山が、もともと弓の練習場で、標的を置く土盛りを「垜(あずち)」といったところからだとか、他の山を安土山といっていたのを、信長が自分の城用に採用したのだとか、異説もたくさんあり、どれも憶測の域を出ないものです。

安土山

この記事では、安土城の主な謎のうち、論争になっているもの5つをピックアップし、対比させてみたいと思います。(「従来説」として、調査主体の滋賀県や他の識者が唱えるもの、「新説」として、城郭考古学者の千田嘉博氏の唱えるものをベースとしました、但し新説のうち、最後の論点は自分で考えてみました。)

立地と歴史(安土城謎対決)

山上に伸びる大手道の謎

1989年に始まった、滋賀県による平成の発掘調査では、驚くべき発見がありました。当時、山の上に築かれた城への経路は複雑に曲げられ、門や櫓が障壁になるよう配置されるのが普通でした。安土城跡もセオリー通り、大手道とされる経路の前に、石垣が立ちはだかっていました。ところが、その石垣は、安土山にある摠見寺(そうけんじ)が江戸時代に作ったもので、その石垣を取り除いたところ、長さ約180メートル(幅約8メートル)もの直線の大手道が、山上に向かって現れたのです。その脇には、「伝・羽柴秀吉邸跡」など、有力家臣の屋敷跡とされる区画が並んでいました。しかも、大手道の入口には、大手門を含め4つも門跡があり、うち3つはまっすぐ入ることができる平虎口でした。これら、一見して防御には適さない大手道とその門の作りは、どう考えたらよいのでしょう。

調査前の安土城跡のジオラマ、安土城考古博物館にて展示
安土城の大手道
伝・羽柴秀吉邸跡

従来説:この大手道は、特別な身分の人だけが通ることができる通路である。具体的には、天皇が行幸のときに使われる予定だったと考えられる。この道のことは記録に出てこないのだが、それは通常使う機会がなかったからである。(通常は、「百々橋口」と呼ばれる通用口が使われた)また、3つの平虎口の門も、天皇の行幸のときに、身分別に使い分けるために用意されたものである。有力家臣の屋敷跡とされる区画は、行幸などの行事のための施設だったのではないか。もちろん、「平安楽土」の信長の城を、象徴するものでもあったはずだ。大手道の先に見える天主の姿は、信長の権威を高めたに違いない。

現在の大手門跡
安土城のジオラマ、安土城考古博物館にて展示、大手道の前には門が4つもあった
安土城大手道周辺の想像図、岐阜城展示室にて展示

新説:この大手道は、天皇の行幸用だけでなく、有力家臣の居住区として作られたものである。信長の以前の本拠地、小牧山城でもまっすぐな大手道が山の中腹まで作られていたことが分かっている。信長はそこに有力な家臣団を住まわせ、そこから上を本来の城の区域として、防御を行っている。安土城も同じで、大手道から先は、道を複雑に曲げて、黒金門などを配置して攻めにくくしている。行幸用ということであれば、なぜ山頂まで道をまっすぐ作らなかったのか。門を多く作ったのも、家臣の中でも、身分別に使い分けをさせるためだったのだろう。記録に出てこなかったのは、有力家臣は遠征や、自分の領地の城にいることが多く、大手道周辺は閑散としていたからだと思われる。

小牧山城跡
小牧山城の大手道
小牧山城の中腹から上のジグザグ道

本丸御殿の謎

平成の発掘調査では、山上の本丸も対象になりましたが、ここでも大きな発見がありました。柱を立てる礎石の間隔が、武家建築のものより長くなっていました。復元図面を作り、比較検討を行った結果、後に江戸幕府が建てた京都御所の清涼殿に酷似することが判明しました。(レイアウトが東西逆になっているだけ)。信長の最も信頼できる伝記「信長公記」には、安土城に「御幸の間」「皇居の間」があったと記載されています。貴族の日記(「言継卿記」)にも天皇の安土行幸予定についての記述があります。安土城の本丸は、どのような場所だったのでしょう。

現在の安土城本丸

従来説:本丸には、まさに天皇のための行幸御殿があった。もしかすると信長は、そこを天皇の御所とし、遷都することまで考えていたかもしれない。信長は、安土城を築城するとき、織田家の家督を息子の信忠に譲っていた。また、彼は朝廷の官職として右大臣・右近衛大将まで登っていたが、1578年には両方とも辞任している。つまりこれらは、武家・公家両方を超越した頂点に立とうとしていた意思の現れではないか。信長は、京都での自身の居城を皇太子・誠仁親王に譲り、親王の皇子・五宮を自分の猶子にしている。いずれ、親王父子のいずれかに即位させ、安土に迎えるつもりだったのではないか。もし、天皇が本丸の行幸御殿にいたとすると、信長は彼の住む天守から、天皇を見下ろす形になる。これこそ、信長が日本の絶対君主になろうとしたことを示している。

誠仁親王肖像画、泉涌寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新説:安土城の本丸は、天主・二の丸・三の丸より低い位置にあり、後の大坂城の例からすると、普段の政務の場であったのではないか。信長は天主や家族の居館(二の丸にあったと想定)には、滅多に他人を入れなかった。三の丸には「江雲寺御殿」という眺望の良い接待用の御殿があった。通常家臣と対面する場が別途必要となる。本丸を行幸御殿で一杯にしてしまったら、普段の政務の場がなくなってしまう。建築の専門家によれば、礎石だけでは部屋のレイアウトはわからないそうだ。信長公記にも、本丸に「南殿」と呼ばれる、遠侍・式台(待合所)や大広間(対面所)にあたる御殿があったとの記載がある。「御幸の間」は、それら本丸にあった建物の一つだったのだろう。天正10年正月には、特別に家臣たちが、順々にこれらの御殿群を特別に拝観している。どうやら渡り廊下で連結されていたようだ。信長の意思はわからないが、本能寺の変の直前には、将軍職を受けようとしていたという研究結果もある(三職推任問題)。

安土城中心部のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

天守の姿の謎

安土城天主(天守、信長のときは「天主」と表記されていた)は、城郭に初めて本格的高層建築が建てられた例とされています。また、信長は普段から天主に住んでいた最初で最後の人物だと言われています。そこは彼にとって崇高で且つ権威そのものを表す場所だったのでしょう。「信長公記」の著者・太田牛一や、宣教師のルイス・フロイスの記述などによると、高さは約32メートル(石垣を含めると約41メートル)、5層6階(+地下1階)の構造で、それぞれの階は違う形や色彩になっていました。特に、5階(4層目)は赤色の八角形で内側には仏画が描かれ、最上階の6階(5層目)は金色の四角形で古代中国の聖人が描かれていました。現在残る天主台には、天主の礎石が残っていますが、なぜか真ん中の1個が欠けています。調査によれば、これは当初からの状態とのことです。信長の天守はどのような姿をしていたのでしょう。

安土城天主台の礎石群、真ん中の一つが欠けています
天守五階モデル、安土城郭資料館にて展示
天守六階モデル、安土城郭資料館にて展示

従来説:これは、「天守指図」という決定的な別の物証がある。加賀藩作事奉行の家に伝えられたもので、「安土城」とは明記していないが、先ほどの記述や現地の状況と一致していて、他の城や架空のものとは考えられない(昭和初期の最初の発掘までは現場は放置されていて、江戸時代には未調査と判断される)。「天守指図」を基にした(内藤昌氏による)復元案が広く受け入れられている。内部は吹き抜け構造になっていて、その一番下、礎石がない部分には、宝塔が安置されていた(最初の調査において、柱用ではない穴に、火災で木炭化した木片や褐色の破片が埋まっていた)。この宝塔は法華経で宝塔が「地下から湧出」したことを象徴しているのではないかとする見解がある。「天守指図」を基にした20分の1スケールの模型が「安土城郭資料館」に展示されていて、その外観と内部(分割式になっている)をじっくり観察できる。また、最上部2階分の実物大模型が、1992年のセビリア万博向けに製作され、現在は「安土城天主 信長の館」に展示されている。そこは信長にとっての天堂であり、「生き神」として地下の宝塔の上に君臨しようとしたのだ。

「天守指図」を基にした安土城天主模型、安土城郭資料館にて展示
吹き抜け構造と地下の宝塔も再現されています
信長のミニフィギアが天主模型五階に置かれています

新説:従来からも「天守指図」を基にした案には批判があった。特徴ある吹き抜け構造が一切文書に記録されていないことである。吹き抜け構造を除いた復元案も提示されている(宮下茂隆氏によるものなど)。また、太田牛一の言う通りに一階を作ると、実際の天守台をはみ出してしまう問題点も指摘されている。この矛盾点を解消する案(千田嘉博氏による)も示されている。それは、はみ出した部分を懸け造りの構造でサポートするものである。実際に、天主台石垣の外側には柱を2列並べることができる礎石群の跡が発見されている。他に外観を決定的に証明できる方法としては、信長が天正遣欧使節に託し、ローマ教皇に献上した「安土山図屏風」を発見することである。信長が、安土城の障壁画も描いた狩野永徳に命じて作らせたという。その屏風はバチカン宮殿の「地図の間」に飾られたが、現在は行方不明になっている。滋賀県は、その屏風を海を越えて探していて、もし見つかったら世紀の大発見となるだろう。

吹き抜け構造を除いた復元案を基にした天守風建築物、ともいきの国 伊勢忍者キングダム (licensed by D-one via Wikimedia Commons)
城に適用された懸け造りの例(福山城御湯殿)、福山城博物館Websiteから引用
懸け造りの柱を建てたかもしれない礎石群が発見された場所(天守台石垣の脇)
「安土山図屏風」の推定画か?、安土城郭資料館にて展示

摠見寺設立の謎

信長は、安土城内に摠見寺(そうけんじ)を設立しました。仁王門・三重塔・本堂・鐘楼・能舞台などを備え、城郭内に建てられたものとしては大きな寺です。建設を急ぐため、建物は各地からかき集められました。今では信長の菩提寺ですが、なぜか信長が亡くなった後に来た住職が開山したことになっています。また、天主一階の書院の床の間には、「盆山(ぼんさん)」という石が置かれていましたが、その後、その石は寺の方に移されたようなのです(牛一とフロイスの記述による)。寺があるのは、城下町から城に入る百々橋口(通用口)と城の中心部との中間点で、重要な場所でした。そこに防衛施設ではなく、寺を作ったのはなんのためだったのでしょうか。

現存する摠見寺仁王門
現存する摠見寺三重塔
現在の百々橋口

従来説:フロイスによれば、信長は、自身を神として人々に崇拝させるために摠見寺を創建したということである。「盆山」は信長の化身だったのだ。信長は高札を立て、自分の誕生日に、この寺に参詣することを命じた。参詣したものは豊かになり、長生きするという功徳があるとも書かれていた。信長は、暦や占いの結果を信じず、その代わりに自らの誕生日(旧暦5月11日)を特別な日と考えていた。天主に移った日も、わざわざその日を選んだと言われている。つまり、信長は摠見寺を建てた重要な場所を、自らを崇拝させる聖地としたのである。

二の丸にある信長廟
そこには「盆山」を意識したような石が置かれています

新説:城内に寺を建てるのは珍しいことではなく、安土城近くにあった観音寺城でも、観音正寺が中にあった。中国地方でも、毛利氏の一族、小早川隆景の新高山城には匡真寺(きょうしんじ)という寺があり、饗応・宿泊のために使われていた。室町から戦国時代にかけての武家儀礼は、主従関係を確認する主殿での儀礼と、人間関係を深める会所での儀礼で成り立っていた。これらの寺院は会所的儀礼で使われていた。安土城の場合も同様で、安土城中心部はガチガチの主従関係の場でしかなかった一方で、通用口にも近い摠見寺が、親交を深める場になったのではないか。例えば、本能寺の変直前に信長が徳川家康を接待した時は、ここで能楽を開催している。ちなみに、信長崇拝や高札の記述は、日本側の記録にはない。

観音寺城のジオラマ、安土城考古博物館にて展示
観音正寺 (licensed by Jnn via Wikipedia Commons)
新高山城跡
匡真寺跡

天主焼亡の謎

安土城天主を含む城の中心部は、本能寺の変の直後、1582年(天正10年)6月15日頃焼け落ちました。このときに城に関わった関係者の動きを追ってみます。
・蒲生賢秀:信長から城を預かっていたが、本能寺の変のことを聞き6月3日に退去(城を焼いたらどうかという意見があったが自分の立場ではそれはできないと拒否)
・明智光秀:5日に入城、城にあった金銀財宝を分け与え、8日に自身の本拠地・坂本城に移動
・明智秀満:光秀から城を預かるが、光秀敗北の報を聞き14日に退去(「太閤記」などはこのとき秀満が放火したと記述)
・織田信雄:15日に城を接収(フロイスはこのとき信雄が放火したと記述)
焼失の原因は他にも失火や野盗による放火も考えられますが、上記人物から選ぶとしたら誰がもっとも怪しいでしょうか(城下町の火災からの延焼説もあるが、城の周辺部は無事だったので、その可能性は低いでしょう)。

安土城天主台の礎石群

従来説:フロイスが言っている信雄が犯人と考える。「太閤記」は秀吉の宣伝誌だし、秀満は15日には坂本城にいたのでアリバイがある。フロイスは「(信雄は)ふつうより知恵が劣っていたので、なんらの理由もなく」城に放火したと言っている。信雄は、信長生前にも勝手に伊賀国を攻めて失敗し、信長に叱責されている。本能寺の変後は、秀吉と対立し、家康と組んで秀吉と戦ったが、秀吉からエサを与えられると家康には無断であっけなく講和してしまった。その後は領地替えを断ったばかりに改易となり、落ちぶれている(後に小大名として復活)。このような何をしでかすかわからない「バカ殿」ならば、自分を虐げた父親の遺産を発作的に破壊したことは、十分考えられる。

織田信雄肖像画、摠見寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新説:誰かと言われればやはり信雄だっただろうが、彼なりの正常な判断によるものだったろう。信長・秀吉・家康と比べればどうかと思うが、「バカ殿」とまでは言えないのではないか。伊賀攻めは失敗だったが、当時は「北畠信雄」という独立した大名だった。家康と組んだときは、秀吉に北畠の領国(伊勢国)を攻められ、講和せざるを得なかった事情があった。その後は秀吉と家康の仲介役として行動している。小田原合戦のときには、北条方との交渉役を務めている。それを領地替えを拒んだだけで改易とは、その答えを予想した秀吉の仕掛けだったのではないか。本能寺の変後、信雄は織田家当主を目指すのだが、有力なライバルとして弟の信孝がいた。信雄は、信孝や他の有力家臣たちに城を勝手に利用されないよう、天主を焼いたのではないか。

織田信孝肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「安土城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

52.観音寺城~Kannonji Castle

この山にはまだ石がゴロゴロしています。
The mountain is still full of rocks.

本丸虎口の石垣~The stone walls of the entrance of the Honmaru enclosure(taken by あけび from photoAC)

立地と歴史~Location and History

六角氏は近江国(現在の滋賀県)の南部を中世の長期間に渡って支配してきました。六角氏は最初繖山の麓に住んでいました。1467年の応仁の乱後、戦が日常的になり、戦国時代となりました。この状況に対処するため、家臣とともに丸ごと山の上に引っ越すことにしました。これが観音寺城の始まりです。
The Rokkaku clan governed the area in the south part of Omi Province (now called Shiga Pref.) for a long time in the Middle Ages. They at first lived on foot of Mt.Kinugasa. After the Onin War in 1467, battles became usual. This was known as the Warring States Period. The way to deal with such a situation for them was to move to the mountain top with their retainers in their entirety. It was the origin of Kannnoji Castle.

繖山~Mt. Kinugawa(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

六角は、城の領域を分割し、それぞれの家臣に割り当てました。その場所の名前は「平井丸」「池田丸」「淡路丸」といった氏族の名前を使っていました。約100年間で、城は山を覆って広がり、曲輪は石垣に囲まれていました。
Rokkaku divided the castle area and assigned an enclosure to each retainer, which was named using their name like “Hirai-Maru”, “Ikeda-Maru” and “Awaji-Maru”. For about 100 years, the castle grew over the whole mountain, with enclosures surrounded by stone walls.

安土城考古博物館にある観音寺城の模型~The miniature model of Kannonji Castle at Azuchi Castle Archaeological Museum(licensed by ブレイズマン via Wikimedia Commons)

全盛期には、城には1000以上の曲輪があり、1532年には六角氏の頭領、六角定頼は、京都から逃れてきた将軍、足利義晴を受け入れました。義晴は、城中の桑実寺に臨時幕府を設立し、3年間滞在しました。
At its peak, the castle had over 1,000 enclosures. In 1532, the head of the clan, Sadayori Rokkaku accommodated the Shogun, Yoshiharu Ashikaga who escaped from Kyoto. Yoshiharu established the temporary government at Kuwanomi-Tera Temple in the castle and stayed there for three years.

等持寺にある足利義晴の木像~The wooden statue of Yoshiharu Ashikaga at Tojiji Temple(licensed by Geneast via Wikimedia Commons)

定頼は、将軍に豪華な館を提供しました。彼はまた、本丸に客人をもてなすため二階建ての会所を作りました。ところが、城はその見かけほどは強くはありませんでした。重臣たちには独立の風があり、主君に対して反抗する可能性がありました。彼らの館は戦いのためというより、居住のためでした。つまるところ、この城は長い籠城戦には向いていなかったようです。
Sadayori prepared luxury palaces for the Shogun. He also built a two-story meeting club to host visitors at his Honmaru enclosure. However, the castle was not so strong compared to its appearance. The senior vassals were likely independent, possibly be against their master. Their halls were built for living rather than for battle. Overall, the castle might have not been suitable for a long siege.

佐々木古城跡繖山観音山画図、江戸時代~The illustration of the old Kannnonji Castle, in the Edo Period(licelicensed under Public Domain via Wikimedeia Commons)

結果的に、六角はよく奇妙な戦術を行いました。戦いが起き、大軍が観音寺城に迫ったとします。六角は前もって城から逃亡します。敵は簡単に城を占領できます。それから六角は、周りの支城とともにゲリラ戦を開始しました。当然観音寺城の弱点は知り尽くしており、勘どころを得て反撃できたのです。最後には城を奪回できるという訳です。
As a result, Rokkaku often took a little strange tactic. When a battle happened, if large troops attached Kannonji Castle. They escaped from the castle in advance. That made the enemy capture the castle easily. Then, Rokkaku started a guerrilla fighting with their branch castles around. They knew the weak points of Kannnonji Castle, could attack their enemy efficiently, and finally got the castle back.

城周辺の地図~The map around the castle

1568年、織田信長が京都に上洛しようとしたとき、六角氏に協力を要請しました。六角は断り、織田と戦いました。織田が六角の支城、箕作城を占領すると、六角は観音寺城から逃れました。これが従来のやり方だったのでしょうが、再び戻ることはできませんでした。全ての支城が織田に降伏し、ほとんどの家臣は織田に臣従しました。六角にはもう成す術がありませんでした。織田はしばらく観音寺城を使ったようですが、程なく廃城となりました。
In 1568, when Nobunaga Oda tried to come to Kyoto, he asked Rokkaku for cooperation. Rokkaku refused and fought with Oda. As soon as Oda quickly took Rokkaku’s branch Mitsukuri Castle, Rokkaku escaped from Kannnoji Castle. This might be their traditional way, but they couldn’t return again. As all the branch castles surrendered to Oda, and most of former Rokkaku retainers served to Oda. There would be nothing to do for Rokkaku. Oda seemed to use Kannouji Castle for a while, before abandoning it.

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半~The portrait of Nobunaga Oda, attributed to Soshu Kano, owned by Chokoji Temple, in the late 16th century(licensed under Public Domain via Wikimedeia Commons)

特徴~Features

城周辺の航空写真~The aerial photo around the castle

城跡に登っていくにはいくつかルートがあります。2つの主なルートのうち、一つは観音正寺を通るものです。この寺は城よりも古くからあり、六角氏から保護を受けていました。寺の下の方で、観音寺山林道有料道路の終点にある駐車場に車を止め、約15分程歩けば城跡の中心に着きます。
There are several routes for climbing up to the castle ruins. One of the two major ones is through Kannonshoji Temple. The temple is older than the castle, and was supported by Rokkaku. You can park at the end of Kannnonji-Sanrindo Tollway under the temple, walk to the center of the ruins in about 15 minutes.

観音正寺~Kannonshoji Temple(licensed by Jnn via Wikipedia Commons)
山上に通じる山道~The trail that leads to the top(taken by あけび from photoAC)

頂上周辺には、本丸、池田丸、平井丸の跡地があります。3つとも広々としていて、周りには石垣があります。石垣は自然石を積み上げるやり方で「野面積み」と呼ばれます。これは本格的に城に対して石垣が使われた最も早い事例の一つです。歴史家はまた、主君と家臣の曲輪の大きさが似ていることが彼らのパワーバランスを表していると言います。主君の力が比較的小さいということが言えるでしょう。
There are the ruins of Honmaru, Ikeda-Maru and Hirai-Maru around the top area. All three are spacious and have large stone walls around. The walls are piled with natural stones called “Nozura-Zumi”. It is one of the earliest examples of stone walls being used in earnest for castles. Historians also say the similar size of enclosures among the lord’s Honmaru and the retainer’s others shows their power balance. The power of the lord might have been relatively weak.

本丸虎口跡~The ruins of the Honmaru enclosure entrance(taken by あけび from photoAC)
池田丸跡~The ruins of Ikeda-Maru enclosure(taken by あけび from photoAC)
平井丸虎口跡~The ruins of the Hirai-Maru enclosure entrance(taken by あけび from photoAC)

もう一つの主要ルートは桑実寺を通るものです。安土城考古博物館に車を止め、そこから北西の方角にある山道の入り口に歩きます。そして寺に向かう美しい階段を上がっていきます。寺には700年近く前に建てられ現存している本堂があり、国の重要文化財に指定されています。山道は更に川の谷に沿って進みます。曲輪跡から崩れ落ちた多くの巨石も見ることができるでしょう。合わせて30分から1時間ほどの歩きで山上に着きます。
The other of the major routes is through Kuwanomi-Tera Temple. You can first park at Azuchi Archeological Museum, then walk to the start point of the trail in the northeast direction. Climb up beautiful stairways to the temple. It has the remaining Mail Hall built nearly 700 years ago and designated as a National Important Property. The trail goes up further along the river valley. You can also see a lot of abandoned huge stones that are from the ruins of enclosures. You will reach the top after 30 minutes to 1 hour walk in total.

桑実寺に向かう階段~The stairway to Kuwanomi-Tera Temple(taken by あけび from photoAC)
桑実寺本堂~The Main Hall of Kuwanomi-Tera Temple(licensed by 663highland via Wikimedia Commons)

その後~Later Life

観音正寺と桑実寺は別として、城跡の一部は他の寺にも使われていたようです。城跡は、1982年に国の史跡に指定されました。
Beside Kannnonshoji and Kuwanomi-Tea temples, part of the ruins seemed to be used for other temples. The castle ruins were designated as a National Historic Site in 1982.

本丸跡の内部~The inside of the Honmaru enclosure ruins(taken by あけび from photoAC)

私の感想~My Impression

この城跡の多くは謎のままです。詳細の研究はまだ始まったばかりです。地元の人々もまた城跡を調査しています。それを受けて、行政は少しずつ史跡を整備してきています。近いうちにまた新しい体験ができればと思います。
The ruins of the castle have a lot of mysteries. The study of their details is still very new. Some local people also try to explore the ruins. In response, officials have been developing the ruins little by little. I’m looking foward to having a new experience in the near future.

山上からの眺め~A view from the top(taken by あけび from photoAC)

ここに行くには~How to get There

車で行く場合は、名神自動車道の八日市ICか竜王ICから約30分かかります。観音寺山林道有料道路は8:30~16:30の間しか開いていませんので気を付けて下さい。
電車の場合は、レンタル自転車を使うことをお勧めします。JR安土駅から城跡まで約3キロあるからです。駅前に2件のレンタル店があります。そこに荷物を預けることもできます。
東京から安土駅まで:東海道新幹線で米原駅まで行き、JR琵琶湖線に乗り換えてください。
大阪から安土駅まで:大阪か新大阪駅からJR京都線に乗ってください。
この情報はほとんど安土城と一緒なので、両方の城をセットで巡ってみてはいかがでしょう。
If you want to go there by car, it takes about 30 minutes from the Yokaichi IC or the Ryuo IC on Meishin Expressway. Please make sure that Kannnonji-Sanrindo Tollway is only open between 8:30 and 16:30.
When using train, I recommend you to use a rental bicycle, because the ruins and about 3km from JR Azuchi Station. There are two rental bicycle shops in front of the station. You can also leave your baggage there.
From Tokyo to Azuchi st.:
Take the Tokaido Shinkansen superexpress to Maibara station, and transfer for JR Biwako line.
From Osaka to Azuchi st.:
Take the train on JR Kyoto line from Osaka or Shin-Osaka station.
This information is almost the same as Azuchi Castle. How about visiting the set of both castles.

リンク、参考情報~Links and References

観音寺城跡(滋賀県観光情報)(Only Japanese?)
あづち周遊(Only Japanese)
観音寺城|散策の備忘録(Only Japanese)
・「六角定頼/村井祐樹著」ミネルヴァ書房(Japanese Book)
・「幻の観音寺城/南條範夫著」文春文庫(Japanese Book)
・「石垣の名城完全ガイド/千田嘉博著」講談社(Japanese Book)