154.田丸城 その3

田丸城は信雄の前半生を象徴

特徴、見どころ

二の丸に向かう

二の丸は、本丸の南側にあり、ここも石垣と土塁両方に囲まれています。土塁の部分に食い違いの入口があり、古い時代から搦手門として使われていたようです。

城周辺の地図

本丸の二ノ丸への出口
二の丸に向かいます
右側が本丸、左側が二の丸、二の丸は一部土塁でできています
二の丸の内部
二の丸を囲む石垣
二の丸にある搦手門、こちらは土塁に囲まれています

他にも、奥書院と呼ばれる城主(久野氏)の居所となった御殿が、もとは三の丸にあったのですが、現在になって町役場の近くに復元されています。

その後

明治維新後、田丸城は廃城となり、城の全ての建物は売却されるか撤去されました。城跡は1928年から公有化され、1953年からは三重県の史跡に指定されています。玉城町は、将来国の史跡に指定されるよう、城跡の調査を行っているところです。

北の丸内にある城山稲荷神社

私の感想

信雄が秀吉に改易される前、彼は織田氏の当主として、織田氏がもともと本拠としていた尾張国を領有していました。歴史家は、彼が尾張国から転封となることを断ったがために全てを失ったのだと言っています。しかし私は、秀吉は信雄が何と言おうがその領地を取り上げるつもりであっただろうと推察します。秀吉が、小田原城の北条氏に対して行ったことと同じということです。秀吉は、彼の親族・部下たちにもっと多くの領地を与えたかったのです。

現在の小田原城

その後信雄は生き方を変え、僧となりました。恐らく彼の中では武士であることを止めたのではないでしょうか。彼の最後の領地である小幡では、領地の大きさの関係から城を築くことは許されませんでした(よって彼の居館は陣屋と呼ばれました)。彼が築いた広大な庭園、楽山園とは対照的です。田丸城と楽山園は、信雄の生き方の変遷をとてもよく表していると思います。

楽山園
田丸城跡の二の丸から見た本丸の石垣
群馬県甘楽町にある織田信雄の墓所

ここに行くには

車で行く場合:伊勢自動車道の玉城ICから約10分のところにあります。玉城町役場の駐車場を使うことができます。
公共交通機関を使う場合は、JR田丸駅から歩いて約10分かかります。
東京から田丸駅まで:東海道新幹線に乗って、名古屋駅で関西本線に乗り換え、亀山駅で紀勢本線に乗り換えてください。

玉城町役場

リンク、参考情報

田丸城跡 見どころ、玉城町
・「英傑の日本史 激闘織田軍団編 織田信雄/井沢元彦著」角川学芸出版
・「織田信雄 狂気の父を敬え/鈴木輝一郎著」人物文庫
・「よみがえる日本の城16」学研
・「日本の城改訂版第26、30号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「田丸城その1」に戻ります。
「田丸城その2」に戻ります。

87.肥前名護屋城 その1

秀吉の最大にして最後の野望

立地と歴史

朝鮮侵攻のための巨大な陣城

肥前名古屋城は、豊臣秀吉の朝鮮侵攻を進めるために築かれた陣城で、九州北西部にありました。秀吉は、16世紀後半に天下統一を成し遂げた天下人として知られています。彼は、1590年の小田原征伐にて、小田原城に立てこもる北条氏を下すことで統一を完成させました。ところが、天下統一の間もない1591年に、秀吉は中国征服を宣言し、日本中の大名たちにその準備をするよう命じました。秀吉配下の多くの大名や武士たちも、この新たな領地が得られる計画に賛同しました。天下統一後の戦がない中、日本国内では新たな領地を得ることができなかったからです。

城の位置

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小田原城

秀吉はまた、朝鮮に近い九州の地に陣城を築くよう大名たちに命じました。これが肥前名護屋城です。陣城とはそもそも一回限りで使われ、単純な作りでした。秀吉はかつて小田原征伐のときに、もう一つの豪華に作られた陣城である石垣山城を築きました。ところが、肥前名護屋城はさらに大きく、強力に作られました。その大きさは、秀吉の本拠地の大坂城に次ぐほどでした。この城の建設は、大名たちによる割り普請の結果、わずか8ヶ月で完了しました。約120の大名たちが集まり、城の周りに彼ら自身のための陣屋の建設も行いました。この城が築かれた場所は、もともと単なる漁村でした。ところが、ここは極めて短期間に日本有数の都市になったのです。20万人近くの兵士たちがこの軍事都市から朝鮮に渡り、10万人以上の人たちがここに留まりました。

石垣山城跡
大坂城
肥前名護屋城、城下町、各大名の陣屋敷地の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)

豪華かつ強力な作りの城

肥前名護屋城の一番高い場所には、天守と御殿を伴う本丸がありました。登城ルートは五つありました。主なものとしては、大手口、搦手口、そして山里口が挙げられます。大手口は、南方から本丸の東側にあった三の丸に、東出丸を経由して通っていました。本丸の大手門は、この三の丸に向かって開いていました。搦手口は、本丸の西側にあった二の丸の外側から始まっていました。ところが、このルートは直接本丸には至らず、その南側を回り込んで東側の三の丸に通じていました。歴史家の中には、こちらの方がより防御がしっかりしているため、搦手口こそが本当の大手口であったのではと推測しています。山里口は、三の丸より低く、またその北側にあった山里丸に通じていました。茶室が付属した秀吉の居館が、手前の方に建てられました。全ての曲輪は石垣で囲まれており、城を強固にするとともに、秀吉の権威を見せつけていました。

名護屋城模型の本丸及び天守部分
現地案内図に3つの主要登城ルートを加筆
名護屋城模型の秀吉居館部分(手前の方)

長引く戦いと秀吉の死による挫折

朝鮮侵攻は1592年に始まりました(文禄の役)。この戦いはもとは中国征服が目的でしたが、必然的にその途上にある朝鮮で戦いが起こりました。日本軍は、最初は短期間のうちに朝鮮のほとんどを占領しました。秀吉は、肥前名護屋城に居座り、そこから軍を指揮していました。彼はそのよい知らせを聞き、満足した様子で、中国と朝鮮をどのように分割するかということまで計画しました。ところが、中国の明王朝から派遣された援軍や、朝鮮の義勇兵や水軍による反撃により戦線は南朝鮮で膠着しました。1593年には明王朝からの使節が停戦交渉のために肥前名護屋城を訪れました。

1592年の釜山鎮の戦いを描いた「釜山鎮殉節図」 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日本の軍船、安宅船の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)
明軍の武器、フランキ砲の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)

この交渉は長期間続きました。しかし決裂し、1597年に戦いが再び朝鮮南部で起こりました(慶長の役)。戦意に乏しい日本軍は、無益な戦争を明軍と戦わねばなりませんでした。朝鮮の無辜の人民も多く殺されました。1598年の秀吉の死の直後、ようやく日本軍は朝鮮から引き上げました。この戦いの失敗は、豊臣氏の凋落と徳川幕府の設立を早める結果となりました。肥前名護屋城は、撤退とともに廃城となり、静かな場所へと戻っていきました。

1597年の蔚山城の戦いを描いた「蔚山籠城図屏風」部分、 福岡市立博物館所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「肥前名護屋城図屏風」、佐賀県立名護屋城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「肥前名護屋城その2」に続きます。

125.小机城 その1

かつてはよく知られていた小机領の中心地

立地と歴史

鎌倉街道沿いにあった城

小机城は、現在の神奈川県横浜市の北部の丘陵地帯にありました。現代の日本においては、関東地方を含む日本の中心地は東京です。このため、多くの主要道路は東京に集まり、東京から広がっています。そのうちのいくつかは、横浜市東部の海岸地帯を通っています。しかし、17世紀に始まった江戸時代以前には、関東地方の中心地は、武士の都と呼ばれた鎌倉でした。鎌倉街道と呼ばれた多くの主要道路は、その当時は鎌倉に集まり鎌倉から広がっていました。小机城の近くには鎌倉街道の一つが通っており、かつ鶴見川が流れていました。つまり、城がある地は交通の要衝だったのです。

城の位置

東京を中心とした関東地方の道路網(出展:国土交通省)
鎌倉を中心とした鎌倉街道(出展;多摩市、小机城の位置を追記)

「小机領」と「小机衆」

小机城が最初にいつ築かれたかは定かではありません。この城が最初に記録されたのは、1478年に長尾景春が、主家の上杉氏に対して反乱を起こした後です。景春に味方した豊島氏がこの城にいて、上杉氏の重臣であった太田道灌がこれを討伐したのです。それからしばらくして、戦国時代の16世紀に、有力な戦国大名であった北条氏が、関東地方に侵攻するためこの城を橋頭保としました。北条氏は関東地方を制覇しましたが、その後でもこの城の周辺地域を重視しました。彼らはこの地域を、私たちが現在そこを横浜市と言っているように、「小机領」と称しました。また、この地域に住んでいた武士の集団は「小机衆」と呼ばれました。小机城は、この地域と小机衆の中心地であり、北条氏の支城の一つとなりました。現在私たちが想像するよりもずっとよく知られていたはずです。

太田道灌肖像画、大慈寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
関東地方に侵攻した時の当主、北条氏綱肖像画、小田原城所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

シンプルな縄張り

小机城は、南側から鶴見川へ向かって北に向かって突き出ている丘陵地帯の端に築かれました。城の縄張りはシンプルで、大きな西ノ曲輪と東ノ曲輪が、細長いつなぎの曲輪により隔てられていました。これらの曲輪は全て土造りでしたが、周りを深い空堀に囲まれていました。曲輪の中にどのような建物があったのかはっきりしませんが、土台の上にいくつか櫓が立っていたと考えられています。更に城の主要部の周りには、丘陵の地形に沿って出丸が築かれていました。

城周辺の起伏地図

小机城の想像図(現地説明板より)

城の強化と廃城

1590年に、天下人の豊臣秀吉が天下統一を果たすため北条の領土に侵攻してきました。北条は各地の支城に対して、本拠地の小田原城に武士たちを集めるように命じました。小机城を含む支城においては、より少ない人数で城を守らなければならなくなったのです。小机城の城主(北条氏光といわれています)は、城を守るため農民を徴兵することにしました。このときに、城の空堀はより大きく、よく深くなるよう拡張されたと考えられています。少ない武士や未熟な守備兵でも城を守れるようにするためです。これが、現在私たちが見ることができる城跡となったのです。しかし、実際には戦いは起こりませんでした。北条が秀吉に対して降伏すると、城は明け渡され、ついには廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小机城の空堀

「小机城その2」に続きます。