162.出石城・有子山城 その1

出石は古い城下町を残していることで知られていて、多くの観光客が訪れ、山の麓にある出石城跡を含むエリアでの散策、食事、買い物などを楽しんでいます。晴れた日にその山を見上げてみると、その頂上には石垣があるのがわかります。それがもう一つのこの地区にある城跡で、出石城の前に築かれた有子山城です。

立地と歴史

出石にある2つの城跡

出石城は、現在の兵庫県北部にある豊岡市の出石地区にありました。出石は古い城下町を残していることで知られていて、多くの観光客が訪れ、山の麓にある出石城跡を含むエリアでの散策、食事、買い物などを楽しんでいます。晴れた日にその山を見上げてみると、その頂上には石垣があるのがわかります。それがもう一つのこの地区にある城跡で、出石城の前に築かれた有子山城です。このような城跡群があることで、この地区には長い歴史があり、豊かな文化が育まれたことがわかります。

豊岡市の範囲と城の位置

出石の街並み
手前が出石城跡、背後が有子山城跡
山上の石垣をズームアップ

日本有数の守護大名、山名氏

有子山城は、中世の時代に最も有力な守護大名の一つであった山名氏によって築かれました。山名氏は新田氏の支族で、東日本の関東地方の出身です。足利幕府が設立される頃、その当時の当主であった山名時氏が、初代将軍の足利尊氏の幕府創業に大いに貢献しました。そのため尊氏は、まだ敵方(南朝)の活動が活発であった中国地方の北部、山陰地域の平定のために時氏を送り込んだのです。時氏とその後継者たちは武力をもってその地域を征服し、ついには日本で66ある国のうち、11までの国の守護になりました。よって、山名氏は「六分の一殿」と称されるに至りました。

山名氏の家紋、五七桐に七葉根笹  (licensed by Houunji 1642 via Wikimedia Commons)
山名氏が守護となった11ヶ国  (licensed by ja:User:味っ子 via Wikimedia Commons)

ところが、3代将軍の義満は山名氏の勢力が過度に大きくなることを恐れ、1391年の明徳の乱と呼ばれる戦いにより山名氏を征伐しました。山名氏の勢力は一時衰えますが、15世紀になると山名宗全が現れ、かつてのような勢力を回復します。1467年から1477年の間に戦われ、戦国時代の幕開けとなった応仁の乱において、細川勝元率いる東軍に対抗して、宗全は西軍の総大将を務めました。山名氏は再び多くの国の守護となり、現在の兵庫県北部にあたる但馬国の出石地区を本拠地としました。山名氏の当主は最初は、後の有子山城から約5km北にある此隅山城(このすみやまじょう)を居城としていて、宗全はこの城から2万6千人の軍勢を率いて出陣し、京都で東軍と戦ったのです。

山名宗全肖像画、「本朝百将伝」より  (licensed by Musuketeer.3 via Wikimedia Commons)
細川勝元肖像画、龍安寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中央政府で確固たる地位を築いていた細川氏と違い、山名氏は自国の領土を武力によって維持する必要がありました。しかし、戦国時代になって下剋上が国中に広まっている中で、それが難しくなっていったのです。山名氏はやがて、赤松氏や尼子氏などの他の戦国大名との数々の戦いに敗れ、領地の国を一つずつ失っていきました。その結果、山名の権威は失墜し、その重臣たちまでもが独立を志向しました。山名氏の当主であった山名祐豊(やまなすけとよ)は、何とか最後の但馬国だけは維持しようと、他の国との国境近くに竹田城を築いたりしました。そしてより強大な戦国大名である織田氏や毛利氏に助けを求めようとしました。

但馬国の範囲と城の位置

竹田城跡

山名祐豊が本拠地を有子山城に移転

ところが、1569年に織田氏は但馬国を攻撃します。祐豊の本拠地、此隅山城は落城し、祐豊はそこから逃亡せざるを得ませんでした。このことの背景に、但馬国を織田の勢力圏とするという、織田氏・毛利氏間の密約があったのではないかと言われています。祐豊は、織田信長に会い、但馬国の鉱山からの収益から多額の献金をすることで、1570年に帰還することが叶いました。そして彼はその本拠地を、此隅山城よりずっと高く険しい山にある有子山城に移し、二度と落城することがないよう改修しました。祐豊は普段は山麓にある屋敷に住んでいて、それが出石城とその城下町の起源となります。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図

1570年代になると、織田氏と毛利氏は対立するようになります。祐豊は、どちらの側に付いてよいのか逡巡します。そうするうちに織田氏は1580年に但馬国を再び攻撃しました。後に天下人となる羽柴秀吉の弟、羽柴秀長を派遣したのです。その侵攻の理由の一つとして、生野銀山などの但馬国の鉱山を手に入れたかったのではないかと言われています。秀長の軍勢は有子山城を包囲し、恐らくは援軍の望みがなくたったことで、祐豊はついに降伏しました。

豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

羽柴秀長が有子山城を改修

その後、秀長は有子山城に居座り、但馬国の本拠地として城を改修しました。それまでこの城は土造りでしたが、山頂にある城の主要部分は、石垣を築くことで強化されました。後に築城の名手と称されるようになる秀長の重臣、藤堂高虎が携わったと言われています。主要部のとなりの千畳敷曲輪は、国中の領主たちが援軍として集結しても十分兵員や物資を収容できるよう拡張されました。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
有子山城の想像図、出石「家老屋敷」にて展示

小出吉英が出石城を築城

城はそれから、豊臣秀吉が天下人となった後、その親族である小出氏に引き継がれました。小出氏は、天下の権が豊臣氏から徳川幕府に移ってもなんとか生き残りました。1604年に小出吉英(こいでよしひで)が山麓の屋敷を大改修し、出石城としました。恐らく統治の利便のためだったでしょう。そして、代わりに山上の有子山城を廃城としました。山麓の新しい城とその城下町は、出石藩として江戸時代の間繁栄しました。その後、仙石氏が藩主となり、江戸時代末まで統治しました。

出石城の想像図、出石「家老屋敷」にて展示

「出石城・有子山城その2」に続きます。

56.竹田城 その1

竹田城を完成させた斎村政広の領地は2万2千石で、城の豪華な石垣を築き維持していくには少なすぎる石高でした。よって、この城の建設には豊臣秀吉のバックアップがあったものとされています。

立地と歴史

天空の城として有名に

竹田城は、現在の兵庫県北部にあたる但馬国の虎臥山(とらふすやま、標高354m)にあった城です。竹田城跡は最近、歴史ファンだけではなく一般の観光客の間でも、「天空の城」として大変な人気となっています。城跡には建物は何もありませんが、素晴らしい石垣が高い山の上に残っていて、秋から冬にかけての朝に気候条件が整えば、雲海の上に浮かんでいるように見えるのです。日本のマチュピチュなどとも称されています。天空の城は現代になって新たにできた観光地であり、城跡そのものからはずっと離れた場所に行って見学することになります。しかし、この呼称は城の歴史や立地から生まれたものとも言えるでしょう。

「天空の城」竹田城の写真、現地説明版より

山名氏が最初に築城

但馬国は現代の人々にはあまり馴染みがありません。この国は小さく、最終的には兵庫県に統合されてしまったからです。しかし、過去においてはその立地からとても重要視されていました。中世の多くの期間に渡って、山名氏が山陰地域とも呼ばれる中国地方北部のいくつもの国を領有していました。但馬国は山名氏の領国の東端にあり、播磨国と丹波国と国境を接していました。そのため、山名氏が攻守の要の基地として、15世紀頃に竹田城を最初に築いたのです。その当時は、領主たちが身を守るために高い山の上に城を築くことがよく行われていました。竹田城を含むこれらの城は、その時点ではすべて土造りで、石垣は築かれていませんでした。

但馬国の範囲と城の位置

多くの戦いが起きた戦国時代の16世紀には状況はもっと複雑化します。山名氏の力が衰える一方、但馬国外の他の領主たちはより多くの領土を欲したからです。例えば1571年には、山名氏の当主、山名祐豊(すけとよ)は丹波国に攻め込みますが、逆に反撃を受けてしまい、1575年には丹波国の黒井城主、荻野直正に一時竹田城を占領されてしまいました。祐豊は自身の領地を守るために、状況に応じて織田信長や毛利氏のような最強と思う戦国大名に助けを求めるつもりでした。ところが信長は1577年に、後に天下人となる羽柴秀吉の弟である羽柴(豊臣)秀長に軍勢を預け、但馬国に派遣したのです。これによって信長は竹田城を支配下に置きました(そのとき戦いが起こったのか、降伏によって開城したか不確かです)。1582年に信長が亡くなり、秀吉が天下人になると、弟の秀長に竹田城に留まり、改修するよう命じました。城の周辺に莫大な収益をもたらす生野銀山があったことが関係していたようです。山頂に石垣が築かれ始めたのは、この頃のことと考えられます。やがて1585年に秀長が和歌山城に移されると、城の改修は、秀吉の別の家臣である斎村政広に引き継がれます。

山名氏の家紋、五七桐に七葉根笹  (licensed by Houunji 1642 via Wikimedia Commons)
荻野(赤井)直正のイラストレーション、黒井城跡現地説明版より
豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

斎村政広が城を完成

政広はもともと赤松広秀という名前で、播磨国の龍野城にいた地方領主でした。1577年に秀吉が播磨国に侵攻したとき、政広は秀吉に降伏したのですが、城を取り上げられ、秀吉の家臣とされました。政広は元の城を返してもらうため、秀吉の下で一生懸命働きました。その結果、秀吉は政広に領地を与えたのですが、龍野ではなく、竹田城がある地でした。政広の領地は2万2千石で、竹田城の豪華な石垣を築き維持していくのには、少なすぎる石高でした。よって、この城の建設には秀吉のバックアップがあったものとされています。政広は秀吉への貢献を続け、秀吉の命により朝鮮侵攻にも従軍しました。竹田城のいくつかの門の構造には、朝鮮で築かれた倭城の影響が表れていると言われています。

赤松氏の家紋、二つ引き両に右三つ巴  (licensed by KfskzsuRPkwt via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
竹田城跡の山上の石垣

竹田城が築かれた山は3つの峰から成り立っていて、北方と南方の峰は長く、西方の峰は短くなっています。頂上部分には本丸が築かれ、天守もあったのですが、その詳細は分かっていません。それぞれの峰にはいくつも曲輪がありましたが、その内の大きな曲輪では兵士の駐屯や物資の備蓄ができるようになっていました。峰の端部分は外部との出入口となっていましたが、虎口によって厳重に守られていました。城は総石垣造りであり、野面積みと呼ばれる、自然石か粗く加工された石を使って積まれました。石積み専門の職人集団が招かれてこの仕事を行いました。この城の縄張りで進んでいる点の一つは、3つの峰の間をバイパスを使って移動できることです。守備兵は、ある峰から別の峰へとスムーズに動けることで、敵の攻撃に柔軟に対応することができたのです。

城周辺の航空写真

竹田城の天守台石垣

政広と竹田城のあっけない最期

政広は普段は山麓にある御殿に住んでいて、その間城下町も整備しました。彼は儒教にも関心があり、国内の儒学者たちや朝鮮の高官と交流を重ねました。山上の城にも儒学の聖堂を建てたとも言われています。ところが、政広と竹田城の時代は突然終わってしまいます。1600年に徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍との間で天下分け目の戦いが起こりました。政広は西軍に属していたのですが、関ヶ原において三成が家康に敗れたと聞くと、東軍に鞍替えします。彼は、家康に対する忠誠を示すために、他の西軍に属した大名がいた鳥取城の城下町を焼き打ちしました。しかし家康の裁定は、焼き打ちの責任を取らせるということで、政広に切腹を命じるものでした。これは理解に苦しむ決定内容ですが、家康と彼の徳川幕府が生野銀山を確保するために、政広のような謀反を起こすかもしれない人物を排除しようとしたのだと、歴史家は解釈しています。

鳥取城跡
鳥取にある政広を祀った赤松八幡宮跡

「竹田城その2」に続きます。

163.黒井城 その1

黒井城は精強を誇った「丹波の赤鬼」荻野(赤井)直正の本拠地でした。明智光秀がこの城を包囲し落城寸前となりますが・・

立地と歴史

首都防衛のために重要だった丹波国

黒井城は、現在の兵庫県の一部に当たる丹波国西部にあった城です。丹波国は現在の人たちにはあまり馴染みがありません。国として大きくはなく、最終的には京都府と兵庫県に統合されてしまったからです。しかし、過去においては日本の首都だった京都のちょうど北西にあるという立地からとても重要視されました。特に戦国時代といった非常時には、京都を防衛したり攻撃したりするには、決定的な影響を及ぼす場所だったのです。1467年に応仁の乱が起こったときには、西軍の総大将だった山名宗全が丹波国を通過して上京しました。それ以来、丹波国の国人領主たちは中央政界を左右する政争や戦いに関与することになりました。

丹波国の範囲と城の位置

応仁の乱の様子、「真如堂縁起絵巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「丹波の赤鬼」荻野(赤井)直正の本拠地

赤井氏はそのような国人領主の一つで、細川氏のような京都を制圧した戦国大名に仕える一方で、丹波国での自らの影響力と領土の拡大に努めました。赤井直正は1529年に生まれ、幼少の頃に荻野氏に養子に出されました。赤井氏は、荻野氏の勢力を取り込むことで、より自分たちの存在を高めようとしたのです。それ以来、直正は苗字を荻野と改めましたが、生涯の間、実家の赤井家と一体となって活動しました。黒井城はもともと荻野氏の本拠地だったのですが、やがて直正のものとなりました。1554年、直正は養父の秋清(あききよ)を殺害します。これは秋清がその当時の天下人、三好長慶の支配に屈するという選択をしようとしたが、直正にとっては決して受け入れ難かったものだったためとも言われています。その後、直正は自身の通称を「悪右衛門」としています(当時の「悪」は単に「強い」という意味もありました)。しかし直正は一方で秋清を祀る寺も創設していて、これによれば彼の行動は個人的恨みに基づくものではなかったとも言えます。

荻野(赤井)直正のイラストレーション、現地説明版より

直正は政治家タイプではなく、優秀な将軍でした。たとえ時には国外の有力戦国大名のために働くことはあっても、他の国人領主と連携して一族の独立を維持したいと唯々欲していました。例えば1565年には、丹波国の守護代で三好氏を支持していた内藤宗勝を倒しました。丹波の北西隣りの但馬国の山名祐豊(すけとよ)が丹波国に攻めてきたときには、直正はこれを撃退し、逆に但馬国に攻め込みました。そして1575年には但馬の竹田城を占領するに至ったのです。この豪勇をもって、人々は彼のことを「丹波の赤鬼」と称しました。

竹田城跡

砦の集合体

黒井城は、標高海抜357mの猪ノ口(いのくち)山上に築かれました。その範囲はとても広く(全周は約8kmに及びます)、荻野氏の本拠地でした。ただ、城の形態としては当時全国的に見られた、自然の地形を生かした土造りの山城の一つでした。武士たちがきびしい戦国時代を生き抜くには、このような城に住み、自らを守る必要があったのです。広大な範囲をカバーするために、黒井城は砦の集合体として機能しました。本丸を含む城の主要部は山頂にあり、城の周囲や全ての支砦群を見渡せるようになっていました。そのため、城主はそこから各拠点の守備兵に指令を発することができたのです。それぞれの砦には明確な役割がありました。例えば、石踏(せきとう)の段や三段曲輪は、大手道上に築かれ、主要部の防衛を担っていました。東出丸は東の峰の防衛のために、西の丸は山上での居住地に使われていたという具合です。こういったやり方で、守備兵は敵からの攻撃を効率的に防げるようになっていました。唯一のこの城の弱点は、岩山であったためによい井戸がなかったことです。

黒井城跡の立体模型、春日住民センターにて展示

城周辺の起伏地図

直正の死後に明智光秀が占領

直正の精強さには、実際には自らに危機を招いてしまった面もあります。直正に攻め込まれた山名祐豊は、そのときの天下人、織田信長に助けを求めました。直正は一時は信長に臣従していたのですが、その時点ではその関係は解消されていました。信長もまた、重要な丹波国を直接統治することができる機会を狙っていました。信長は、重臣の明智光秀に命じ、1575年に丹波攻めを開始させました。最初は光秀の思い通りに事が進みました。有力な国人領主の一人、波多野秀治が光秀に味方したからです。光秀は次に直正の黒井城を包囲し、兵糧と水が尽きるのを待ちました。ところが、2ヶ月もの籠城で城が落ちるという寸前に、秀治が裏切ったのです。光秀は逆に攻められる側となり、撤退せざるをえませんでした。この結末は「赤井の呼び込み戦法」と呼ばれ、直正の評判をますます高めました。

明智光秀肖像画、本徳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
波多野秀治肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

黒井城は結局、直正の病死後の1579年に光秀によって占領されました。光秀は城を改修し、頂上に立派な石垣を築きました。城の強化を図るとともに、新しい支配者の権威を民衆に見せつけたのです。このやり方は、信長やその家臣たちが各地で度々行っていました。光秀は、重臣である斎藤利光を城代としました。この地は、利光の娘で後に将軍の大奥を取り仕切った春日局の出身地となります。光秀と利光は、1582年の本能寺の変で信長に反逆し殺します。しかし、次の天下人となる羽柴秀吉にすぐに討たれてしまいました。黒井城は、秀吉の何人かの家臣によって引き継がれますが、秀吉による天下統一の過程でやがて廃城となりました。領主や武士たちは、新しい時代に対処するために、必ずしも山城を必要としなくなったのです。

黒井城頂上部の石垣
春日局肖像画、麟祥院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「黒井城その2」に続きます。