38.岩村城 その3

駐車する場所にご注意ください。

特徴、見どころ

城の中心部、本丸へ

本丸周辺の地図

東丸からは、二つの門跡とその間にある長局(ながつぼね)曲輪を通って、本丸に向かいます。

かつての東丸(手前)と長局曲輪(奥)、現地掲示板より
現在の東丸
長局曲輪の入口、長局埋(ながつぼねうずみ)門跡
細長い長局曲輪
長局曲輪の出口、本丸正門(東門)跡
本丸正門跡を内側から見ています

本丸の内部は広場になっています。そこからは遥かに市街地と、本丸を守るために設置された出丸など城の周辺部が見渡せます。出丸は今は駐車場となっています。

かつての本丸、現地掲示板より
本丸内部
本丸からの眺め
かつての出丸、現地掲示板より
本丸から見た出丸
出丸を横から見ています

また本丸には、二の丸からの入口となっている埋(うずみ)門跡もあります。ここにある石段は皆三角形に加工されていて、とても興味深いです。

かつての本丸埋門、現地掲示板より
本丸埋門跡
三角形に加工されている石段

その後

明治維新後、岩村城は廃城となり、山麓の御殿を除く全ての城の建物は撤去されました。その御殿も1881年の火災により燃えてしまいます。岩村歴史資料館が1972年に、以前御殿があったところに開館しました。1990年には御殿の一部が復元されました。山上部分においては、城跡を保有する恵那市が近年発掘と調査を行い、整備と保全を行いました。また、将来国の史跡に指定されるよう活動を行っています。

岩村歴史資料館
一部復元された御殿 (taken by HiC from photoAC)

私の感想

岩村城跡を訪れたとき、私は駐車場所についてミスをしてしまいました。もともと山麓から山頂に向かって城跡を見て回りたかったのです。ところが自動的に設定されたカーナビの案内により、山頂近くの駐車場に行ってしまいました。そのため、山麓の方に一旦降りてから、山頂に戻るような形になってしまいました。城跡全体を見て回りたい方は山麓に駐車した方がよいでしょう。一方、山頂にある見事な石垣だけを見たい方は、山頂の本丸から数分のところにある、出丸の駐車場を利用された方がよいでしょう。

出丸にある駐車場
山頂近くにある六段石垣

ここに行くには

この城跡に行かれる方は、車を使われることをお勧めします。
中央自動車道の恵那ICから約20分かかります。城跡の頂上近く及び山麓に2ヶ所の駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、明知鉄道の岩村駅から城跡の山麓まで、歩いて約30分かかります。
東京または大阪から岩村駅まで:東海道新幹線に乗って、名古屋駅で中央本線に乗り換え、恵那駅で明知鉄道に乗り換えてください。

リンク、参考情報

女城主の里いわむら、公式ウェブサイト
・「東海の名城を歩く 岐阜編/中井均 内堀信雄編」吉川弘文館
・「日本の城改訂版第80、126号」デアゴスティーニジャパン
・「よみがえる日本の城16」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「岩村城その1」に戻ります。
「岩村城その2」に戻ります。

38.岩村城 その2

登り甲斐がある城跡です。

特徴、見どころ

長く続く山頂への道

今日、岩村城跡はビジター向けによく整備されています。もし、山麓から山頂の方に向けて歩いていかれれば、この城がどんなに強力だったかわかると思います。山麓には太鼓櫓とともに城主御殿が一部復元されています。山麓から山頂までは、距離で800m、比高で170mを登っていく必要があります。山の上には城の石垣と基礎部分だけが残っています。ただ、もしスマートフォンをお持ちでしたら、説明板にあるQRコードをスキャンすることで、CGによる再現イメージを見て、説明音声を聞くことができます。

城跡への登り口

城周辺の地図

CGによる再現イメージの例(追手門周辺)

いくつもの関門

前半の登りは結構つらいかもしれません。急で且つ曲がりくねっている山道が500mも続くからです。この部分は藤坂と呼ばれています。ここの区間では、初門、一の門、土岐門という3つの防御拠点を通り過ぎ、追手門跡にたどり着きます。過去に城を攻めた敵も、同じルートから攻めたときには大変な困難を感じたはずです。

長く続く藤坂
かつての初門、現地掲示板より(建物は当時からなかったようです)
上の方から見た現在の初門跡
かつての一の門、現地説明板より
現在の一の門跡
かつての土岐門、現地説明板より
現在の土岐門跡
上の方から見た土岐門跡

防衛の要、追手門

追手門は防衛の要で、城を守るための複雑な仕組みを備えていました。三階建ての櫓が門のとなりにあり、城のシンボルにもなっていました。現在の山道は左側に回り込んでいますが、過去の城への訪問者は畳橋と呼ばれた門に真っ直ぐ伸びる橋を渡っていきました。その橋の橋板は、敵が攻めてきたときには畳のように取り外せるようになっていました。更に橋の上で左折し、門に入って行かなければならなかったのです。もしそれが敵だったら、その地点で釘付けとなり、櫓と門の両方から反撃を受けたことでしょう。

かつての追手門周辺、現地説明板より
現在の追手門跡周辺
現在の山道は左側に回り込んでいます
かつてはこの辺に畳橋がかかっていました

追手門跡を過ぎた後は、山道はやや緩やかになり、その周辺は比較的広々としています。かつてはここに武家屋敷が並んでいました。そこから、左側に八幡神社跡、右側に水が枯れることがないといわれる霧ヶ井という名の井戸を見ながら進んでいきます。頂上にある本丸に行くには2つのルートがあります。一つは二の丸を通り、もう一つは東丸を通ります。しかし、二の丸はビジター向けにはあまり整備されていないため、ほとんどの人は東丸の方向かって歩いていきます。

武家屋敷があった辺り
八幡神社跡
霧ヶ井
右側が二の丸

最大の見どころ、六段石垣

この城の最大の見どころの一つは、東丸のとなりの本丸の六段石垣でしょう。見事な石垣です。実は、この石垣はもともと一段の高石垣だったのですが、崩壊を防ぐために後に他の段が付加されたのです。それ以外にも、本丸は素晴らしい石垣によって囲まれています。特に西側の高石垣は、見ものです。

六段石垣(正面から)
六段石垣(右側から)
六段石垣の上からの眺め
本丸西側の高石垣

「岩村城その3」に続きます。
「岩村城その1」に戻ります。

38.岩村城 その1

悲しい逸話が伝わる壮大な山城

立地と歴史

三大山城の一つ

岩村城は、美濃国(現在の岐阜県)の東部にあった大きな山城でした。この城は、備中松山城高取城とともに日本三大山城の一つとされています。基本的に山城は、多くの戦いが起こった戦国時代に築かれました。ところが、平和な江戸時代においては、ほとんどの城が統治の便益のために平地に移るか再築城されました。これらの三大山城は、江戸時代末期までそのまま残存した稀な事例なのです。特に岩村城の場合は、その当時において現役だった城では、標高717mという最高地点にありました。

城の位置

城周辺の起伏地図

備中松山城
高取城跡

女城主おつやと悲劇の結末

13世紀に遠山氏が最初にこの城を築いたと言われていますが、定かではありません。記録に残っているのは、戦国時代の16世紀初めに遠山氏がこの城を本拠地としていたということです。遠山氏は、この地域に根付いていた地方領主の一つであり、岩村衆と呼ばれた地方領主のグループを率いていました。しかし遠山氏は、武田氏や織田氏のような他のより強大な戦国大名からの影響を受けていました。例えば、武田氏のために働かなければならないとか、一方で織田氏出身の姫を妻として迎えたりしていました。これらのことにより、2つの大名の間でバランスを取っていたのです。1571年、遠山氏の当主が亡くなったとき、織田信長は、息子の一人を遠山氏の跡継ぎとして送り込みました。前の城主の妻だったおつやは、織田氏出身で信長の叔母にあたりました。彼女は、まだその跡継ぎが若年だったので実質的な城主となりました。日本では数少ない女城主として知られています。

岩村氏の家紋、丸に二つ引き (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

おつやに試練が訪れます。武田信玄が信長と戦うことを決意したのです。彼女の領地は、信玄と信長との間の緩衝地帯であり、双方とも手に入れたいと思っていたのです。信玄は、配下の秋山虎繁とその軍勢を、1572年に岩村城に送り込みました。城は軍勢に取り囲まれましたが、その強力な防御力によりしばらく持ちこたえました。虎繁は、おつやと結婚することで武田に降らないか交渉を持ちかけました。そして、おつやはそれを受け入れたのです。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
秋山虎繫肖像画、松本楓湖筆、恵林寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、このことは信長を大いに怒らせました。信玄の死や、長篠城の戦いでの敗戦などにより武田氏の勢力が衰え始めると、信長は1575年に岩村城に軍勢を派遣することにします。城は再度の籠城戦となり、相変わらずの防御力により5ヶ月間耐えました。攻撃側は、もし降伏すれば命は助けると交渉してきました。虎繁とおつやはそれを受け入れます。しかしそれは虚偽であり、二人は処刑されてしまったのです。戦国時代の中でも大きな悲劇の一つでした。

長篠城跡
岩村城絵図(いわゆる正保図)、江戸時代(出展:国立公文書館)

松平氏が城を近代化

その後、いくつかの大名がこの城を治めました。徳川幕府が設立された後の1601年、松平家乗(いえのり)が城主となり、併せて初代岩村藩主となりました。彼が入城する前は、この城は恐らく大規模ではあるものの、シンプルな山城であり、御殿などの建物は高所にありました。しかし家乗は、統治がやり易いよう、御殿を山麓の方に移しました。彼はまた、諸曲輪を囲む石垣を築くことで山城部分の近代化を図りました。例えば、山頂にある本丸には、2基の二階建て櫓が石垣の上に築かれ、2つの門もありました。しかし、その内部は江戸時代後半には空となっていました。戦いが起こったときなど非常事態に備えて、そのように作られたのかもしれません。更に、家乗は城下町も整備しました。今訪れてもその雰囲気を残した街となっています。

復元された山麓御殿の門と櫓 (taken by HiC from photoAC)
岩村城の石垣
上記絵図の本丸部分
旧城下町の街並み (taken by rupann7777777 from photoAC)

「岩村城その2」に続きます。