161.岸和田城 その1

現在も岸和田城の復興天守が市街地からよく見えます。しかし、城の姿はその長い歴史の間、現在とは全く異なっていました。

立地と歴史

だんじり祭りで知られる地

岸和田市は毎年9月に開かれるだんじり祭りによって知られています。「だんじり」とは伝統的な山車(だし)のことで、祭りの間市中を引き回されます。岸和田市は岸和田城の城下町を起源としています。だんじり祭りもまた、1703年に城主であった岡部長泰(おかべながやす)が城内に稲荷神社を勧請したことを祝った催しが元になっていると言われています。現在も岸和田城の復興天守が市街地からよく見えます。例えば、大阪と関西空港や和歌山市を結ぶ南海線に乗ると、車窓からも眺めることができます。しかし、城の姿はその長い歴史の間、現在とは全く異なっていました。

だんじり祭りの光景 (licensed by Kounosu via Wikimedia Commons)
岡部長泰肖像画、泉光寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の岸和田城

国人領主から天下人が支配する城へ

大阪府は大まかに言って過去には、摂津国、河内国、和泉国の三つの国に分かれていました。岸和田は和泉国に属していて、現在の大阪府南部に相当します。そして、南側を紀伊国(現在の和歌山県)に接していました。岸和田城が最初はいつ誰によって築かれたかはよくわかっていません。しかし歴史家は、国人領主の岸和田氏が中世のいずれかの時期から古岸和田城を所有していて、戦国時代の15世紀初期に現在の岸和田城に移ってきたと推測しています。この城はその後、他の国人領主たち、松浦氏や寺田氏に継承されました。彼らは城や領地を維持するために、細川氏や三好氏などの時の権力者に仕えていました。

和泉国の範囲と城の位置

ところが、織田信長や豊臣秀吉といった天下人が16世紀後半に天下統一を進める段階になると、国人領主たちの支配はおぼつかなくなります。岸和田城は、紀伊国を支配する国人領主の集団、雑賀衆に対抗するための最前線として使われるようになりました。そのため、信長や秀吉は家臣を城に派遣して直接統治を行うことにしたのです。例えば、秀吉配下の中村一氏(なかむらかずうじ)は岸和田城主となって、1584年に雑賀衆からの攻撃を撃退しました。岸和田城はもともと、大阪湾沿いにあった丘に築かれた単純な土造りの城でした。一氏はその城を、天守や高石垣を築いたりして改修したと考えられています。また、これらのことで、岸和田城が和泉国の中で唯一生き残った城となりました。他の城は、天下人や幕府の命によって全て破却されてしまったからです。

中村一氏肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城と城下町の発展

秀吉は1585年に、一氏から親族の小出秀政に城主を交代させました。秀政は、城の西方の二の丸下に、城下町とそこを通る紀州街道を開発しました。それまでは、海水の満ち引きが城下まで達していたのです。それから、東側にあった大手門が城下町近くの北側に移されました。また、本丸にあった天守が改築または置き替えられたと考えられています。その後徳川幕府に提出された絵図面(いわゆる正保図)によると、天守は五層建てでした。幕府は1619年には、城主を小出氏から松平(松井)康重(やすしげ)に交代させ、康重が城と城下町を完成させました。彼は、城下町の西外側に新しい石垣を築き、町を拡張したのです。城は恐らく、最初は東に本丸、西に二の丸があるだけの小さなものでしたが、周りにいくつもの曲輪や堀が加えられることで、かなり大規模になりました。

岸和田城と城下町の模型(南側から見た構図、赤丸内が大手門(北大手門))、岸和田城天守閣にて展示
絵図面に描かれた岸和田城天守(出展:国立公文書館)
現存する城下町の石垣(「浜石垣」と呼ばれます) (licensed by Hironoyama via Wikimedia Commons)
松平康重肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城は1640年に、最終的に岡部宣勝(おかべのぶかつ)に引き継がれ、その一族が江戸時代末期まで岸和田藩として、城と町を統治しました。岡部氏は現在の静岡県中部にあたる駿河国の出身でした。最初は今川氏に仕え、武田氏を経て、最後は幕府の創設者、徳川家康に仕えたのです。彼らの統治は平和な江戸時代の間は安定し、岸和田だんじり祭りも発祥しました。しかし残念ながら、天守は1827年の落雷により焼失してしまいました。その後岸和田藩は天守の再建を幕府の許可をもらって計画しますが、それが実行される前に明治維新となり、武士と城の時代が終わってしまいました。

岡部宣勝肖像画、泉光寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
和泉国岸和田城図(部分)(出展:国立公文書館)

「岸和田城その2」に続きます。

47.伊賀上野城 その2

足がすくむような高石垣

特徴、見どころ

市街地から城代屋敷跡へ

現在、伊賀上野城は上野公園の一部となっていて、大体城の本丸が今の公園に該当します。二の丸を含む他の曲輪は、市街地になっています。もし近くにある上野市駅からこの城を訪れるのでしたら、その駅周辺はかつては二の丸の範囲内でした。例えば駅の近くには、ここに東大手門があったことを示す標柱のみが立っています。

城周辺の地図

二の丸東大手門跡

駅から公園にまっすぐ伸びる道は、かつては城の東内堀でした。そして、公園の東側に入って行きますが、そこは筒井定次が最初に城を築いた場所でした。しかし現在は、そこに筒井時代の初代天守があったという標柱があるだけです。そこでは主に、江戸時代の石垣に囲まれた城代屋敷跡を見ることができます。

かつて東内堀だった道
公園(本丸)の東側
筒井時代の天守跡 (licensed by ブレイズマン via Wikimedia Commons)
城代屋敷跡
城代屋敷跡を囲む石垣

復興天守と豊富な展示

公園の西側に行ってみると、二代目天守のための現存天守台石垣の上に復興天守が乗っているのが見えます。復興天守はオリジナルではなく、恐らくは予算不足のために天守台の大きさに比して、随分小さく作られています。しかし、昭和時代の1935年に建てられた伝統的な和式の木造建築です。その内部には、城や、城を改築した藤堂高虎に関する多くの展示物があります。天井下の梁にはアトラクションとして忍者のフィギアも張り付いています。

復興天守
復興天守内の展示
天守からの眺め(北側)
梁に張り付いている忍者のフィギア

日本有数の高石垣

この城のハイライトは、間違いなく公園の西側面に西内堀とともにある、現存高石垣でしょう。この石垣は29.5mの高さがあり、日本の全ての城の中で一番高いと言われてきました。ところが調査の結果、日本一の高さの石垣は、大坂城本丸東側にあるものと判明したのです。それは32mの高さです(大坂城の現在の石垣は、伊賀上野城の石垣が築かれ、そして徳川幕府が豊臣氏を滅ぼした後に、幕府により再建されたものです)。その大坂城の石垣は下部の6mの部分が堀水の水面下に隠れていて、調査するまでは本当の高さが知られていなかったのです。対照的に伊賀上野城の29.5mの石垣は、ほとんどが堀の水面上に見えています。そのためにずっと日本一と言われていたのではないかと推察します。しかし見た目上はまだ日本一ということでもよいのではないでしょうか。

伊賀上野城の高石垣
大坂城本丸東側の高石垣 (taken by kimtoru from photoAC)

その高石垣の頂上部分に近づいて行って、下を見下ろすこともできます。しかし、安全柵などはありませんので、十分に気を付けてください。そこには、「危険」「注意」と書いた看板や、ロープが張られたコーンがあるだけです(ロープを超えていくことは止めましょう)。

「危険」の看板
「注意」の看板
ロープが張ってある所は危ないです

注意しながら石垣の端に立ち、見下ろしてみると、足がすくむような高さです。しかし、その高石垣が巧みに築かれていることも実際に見ることでわかります。ちなみに、その29.5mというのは、傾きがある石垣の底から頂上までの長さです。垂直上の高さは20.6mとのことです。それでも、高虎の素晴らしい仕事ぶりを実感するには十分な高さです。

石垣の端に近づきます
端から石垣を見下ろします
足がすくむような高さです

「伊賀上野城その3」に続きます。
「伊賀上野城その1」に戻ります。

138.越前大野城 その2

城と城下町両方に行ってみましょう。

特徴、見どころ

4つの登山道

現在、越前大野城は山上にある亀山公園の一部となっています。山頂にいくには4つの登山道があります。4つのうち、1つだけが元からあった道で、百閒坂と呼ばれ、急で曲がりくねっています。

城周辺の地図

百閒坂

緩やかな道を登っていきたければ、南登り口など他の登山道を選ぶこともできます。15分から20分くらいの登りになります。もし、南登り口から登ったとすると、登山道を歩いた後石段を上がっていくと頂上の本丸に到着します。

南登り口からの登山道
本丸に至る石段
本丸に到着します

古い石垣と復興天守

本丸は全体を古い石垣に囲まれていて、これはもとは金森長近が築いたものです。この石垣は、野面積みという古い方法により、自然石を使って積み上げられています。野性的で粗野にも見えますが、巧みに築かれています。一部分は、現代になって城の建物が再建されたときに積み直されているようです。

本丸を囲む石垣
復興天守と石垣

石垣の上には、1968年に建てられた復興天守が乗っています。その天守は、館が組み合わされたようなオリジナルの天守とは違う姿をしています。通常日本人がイメージしている典型的な高層の塔の姿です。このような天守が建てられたのは、おそらくこの地方の人たちがそう望んだからなのでしょう。天守の建物は、実際には現代的なビルで、歴史博物館や展望台としても使われています。その中で、この城のことをより学ぶことができます。

オリジナルとは違う形の復興天守
天守内部

最上階からは、古くからの城下町や越前大野城の前に使われていた城があった戌山など、大野市一帯の素晴らしい眺めを楽しめます。

天守からの眺め(戌山側)
天守からの眺め(城下町側)

山麓の見どころ

山麓には、他にも城に関する見どころがあります。二の丸には、「めいりん」という複合教育施設があります(藩校の「明倫館」が名前の由来とのこと)。小学校や公民館などが含まれています。その施設の前には、短いですが水堀(百閒堀)の一部分が残っています。

天守から見た二の丸
二の丸と百閒堀

近くには、大野藩の家老であった内山氏の屋敷が復元されています。また、周辺には田村氏の武家屋敷が現存しています。

内山家の復元屋敷
田村家の現存屋敷

魅力的な城下町

お時間があれば、古くからの城下町を歩いて回られたらいかがでしょう。例えば、商店街の七間通りでは、朝市が真冬期を除いて毎日開催されています。寺町の近くには、「御清水(おしょうず)」という有名な湧水池があります。ここの水は、城主ご用達だったとのことです。この町には多くの湧水池があり、城下町として最初に開発されたときから生活用水として使われてきました。

七間通り
御清水

また、いくつかの場所では道がジグザグに作られており、これは敵が城を簡単に攻撃できないように作られた仕組みです。

ジグザグに作られた町の通り

「越前大野城その3」に続きます。
「越前大野城その1」に戻ります。