167.新宮城 その2

不思議な雰囲気を持った城跡

特徴、見どころ

丹鶴城公園として整備

現在、新宮城跡は新宮市により丹鶴城公園として整備されています。この公園には実に不思議な雰囲気があります。この公園は、城跡そのものに加え、昭和時代のアミューズメント施設跡と、現在の公園としての設備がミックスされているからです。公園には入口が2か所ありますが、両方とも城のオリジナルのものではありません。西側の正面入口から入ってからしばらくは、丘の上に向かって階段を登っていきます。

城周辺の地図

公園の正面入口
正面入口から階段を登っていきます
公園の東側入口

そうするうちに、違う方向から伸びてくるオリジナルの大手道と合流します。合流地点からは、その大手道が下っているのが見えますが、ポールにロープが張ってあって直接その道を通ることはできません。

オリジナルの大手道との合流地点
大手道を見下ろします

その大手道を歩いてみるには、周辺の住宅街の方に回り込んで行く必要があります。

住宅街に残る石垣
丘下に残る大手道

精密な石垣に囲まれた曲輪

丘上には、松ノ丸、鐘ノ丸、本丸、出丸の4つの曲輪が西方から東方に向かって並んでいます。現在では石垣のみが残っています。松ノ丸は、大手道から進んで最初に着く曲輪です。その入口は、桝形と呼ばれる、石垣に囲まれた四角い防御空間となっています。この曲輪からは、川沿いにある水ノ手郭へ向かう通路もあり、ここは防御の要の場所だっだのでしょう。

松ノ丸入口
桝形部分
松ノ丸の内部
水ノ手郭への通路

その次は鐘ノ丸で、この曲輪にも桝形があります。ここの石垣は、切り込みハギと呼ばれる、加工された石を精密に積み上げる方法で築かれています。浅野時代にはこの場所に御殿があったのですが、水野時代には丘の麓の二ノ丸に移転しました。現在は広場になっていますが、恐らくは昭和時代にここに旅館があったときに作られた日本庭園もあります。

鐘ノ丸入口
桝形部分
鐘ノ丸の内部
丘の麓から見た鐘ノ丸の石垣

複雑な構成の本丸

進んでいくと、本丸に到着しますが、ここは更に複雑な構成になっています。基本的に本丸には異なった種類の多くのすばらしい石垣があります。まず、ここには二重の正門跡があり、とりわけ二番目の門跡は、亀甲積みと呼ばれる方法による、この城では最も精巧に築かれた石垣に囲まれています。

本丸周辺の地図

一番目の門跡から二番目の門跡へ
亀甲積みになっている二番目の門跡の石垣

次に、搦手門跡の石垣には、当時としては最も高度な表面加工処理(面取り、谷目地により石表面を高く膨らませる石化粧法)が施されています。

搦手門跡の石垣

更に、本丸を囲む石垣は、屏風折れと呼ばれる、石垣のラインを巧みに曲げる方法で築かれ、城の守備兵が攻めてくる敵の側面を攻撃できるようになっています。

本丸の屏風折れの石垣
屏風折れ石垣の天端部分

本丸の石垣は二段積みになっていて、上段は水野氏によって後から築かれたもので、下段の方は浅野氏によって築かれた古い時代のものです。本丸はまるで石垣の博物館のようです。

二段になっている本丸石垣(下段石垣は草に覆われています)
松ノ丸から見た本丸石垣

しかし残念ながら、天守台石垣は、1952年の台風被害によりほとんど崩れてしまっています。1面のみ残っている状況です。

僅かに残る天守台石垣

一方、本丸には大きく改変されている部分があり、その崩れた石垣を使って作られたのであろう階段や通路があります。これらは昭和時代のアミューズメント施設が建設されたときに設置されたものと思われます。こういった後付けのものについての説明が十分ではないため、ビジターはこれらの石造りのものを見て、少し困惑してしまうかもしれません。

後付けされた石造りの階段
オリジナルの石垣と後付けの造作が混在

「新宮城その3」に続きます。
「新宮城その1」に戻ります。

167.新宮城 その1

進化した石垣を持った城

立地と歴史

長い歴史を持つ新宮

新宮市は、和歌山県南部、熊野川の河口付近に位置しています。豊かな自然とともに、長い歴史があります。古代中国の秦王朝の臣下、徐福についての伝説もあります。彼がここに不老不死の薬を探しにきたというのです。また、ここは熊野三社の一つ、熊野速水大社がある場所としても知られています。この立地により、かつては熊野大社の別当がこの地を支配していました。ところが、熊野大社の勢力は多くの戦いが起こった戦国時代には衰えました。

新宮市にある徐福公園 (licensed by 663highland via Wikimedia Commons)
熊野速水大社 (licensed by 663highland via Wikimedia Commons)

浅野忠吉が築城、水野重央が引き継ぎ

その代わりに、地元領主の堀内氏がこの地域で勢力を広げました。しかし、1600年に関ヶ原の戦いが起きた時、堀内氏は西軍に味方しました。その結果、徳川幕府の創始者となった徳川家康に率いられた東軍の勝利により、没落してしまったのです。幕府はその後浅野氏を、現在の和歌山県にあたる紀伊国の領主として送り込みました。新宮地域は、浅野の一族である浅野忠吉が治めました。そして新宮城を築いたのです。

紀伊国の範囲と城の位置

この地域は熊野川と太平洋をつなぐ水上交通の結節点として繁栄しました。熊野杉などの木材がここに集められ、ここから運び出されていったのです。戦国時代に熊野水軍と呼ばれた人々がその運営を行っていました。忠吉は新宮城を築くことで彼らをコントロールすることが必要だったのです。この城は熊野川河口に近い丹鶴山(たんかくやま)という丘の上に築かれました。また、北山一揆と呼ばれた地元の武士や農民たちが反抗しており、強い城を築く必要もありました。1614年には北山一致は実際にこの城を攻撃しようとしました。しかし、浅野の軍勢や元の熊野水軍衆によって撃退されました。

紀伊国新宮城之図(部分)、出典:国立公文書館

この城は、1615年に徳川幕府から発布された一国一城令により一旦は廃城となりました。しかし、何らかの理由で1618年には、恐らくは同じ場所に城を再建することを許されました。忠吉が幕府により転封となった後は、徳川氏が紀伊国を領有しました。徳川御三家の一つであり、紀州藩として和歌山城を本拠地としていました。その徳川氏の重臣であった水野重央(しげなか)が新宮城に入り、浅野忠吉が始めた築城を引き継ぎました。その工事は長期間続き、1667年にようやく完成しました。

水野重央肖像画、全正寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

進化した石垣と交易に使われた水ノ手郭

丘の上にはいくつもの建物があり、三層の天守もありました。しかし、この城の最も重要な特徴の一つは、進化を遂げた石垣でしょう。この城の建設が終わったのは、日本の他の城に比べると随分後の方でした。1615年の一国一城令の後は原則築城が禁止されていたからです。石の加工や石垣として積み上げる方式がそれまでに随分と進化していました。新宮城は、その進化した技術を存分に享受できた数少ない城の一つだったのです。

本丸の石垣

この城のもう一つの際立った特徴は、川沿いにある水ノ手郭でしょう。ここは城の初期には恐らく水軍のための港として使われたと思われます。しかし、平和な江戸時代にはこの曲輪にはたくさんの炭納屋がありました。すなわち、木炭がこの城から江戸や大坂などの大都市に向けて売られていったと考えられています。紀州藩はこれによって利益を得ていたのです。日本の城でこのような経済活動が行われた事例は稀です。

水ノ手郭
水ノ手郭から発掘された木炭、新宮市立歴史民族資料館にて展示

「新宮城その2」に続きます。