62.和歌山城 その1

3つの時代を経て完成した城

立地と歴史

主要都市であった和歌山

和歌山城は、過去は紀伊国といった和歌山県の県都である和歌山市にある城です。現在では和歌山は一地方都市として、日本の大動脈である東京、大阪、福岡のラインからは離れたところにあるという印象です。しかし、この城が実際に使われていた江戸時代までは、和歌山は日本で十指に入る都市だったのです。それは、和歌山が東日本と西日本を結ぶ海上交通の主要ルート上にあったからです。その結果、ついに和歌山城は徳川御三家の一つ紀州徳川家の本拠地となりました。更には、紀州徳川家からは、徳川宗家の跡継ぎとして、2人の将軍(吉宗と家茂)を輩出しているのです。

紀伊国の範囲と城の位置

徳川吉宗肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家茂肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

桑山氏の時代

戦国時代の16世紀には、地方領主の集団である雑賀(さいか)衆が自らのこの地方を治め、他の戦国大名に度々傭兵を派遣したりしていました。ところが1585年には、天下人の豊臣秀吉がこの地方を征服し、雑賀衆は壊滅させられてしまいます。そして秀吉はある丘を選び、弟の秀長にそこに城を築くよう命じました。それが和歌山城となったのです。秀長の家臣で、後に築城の名手となる藤堂高虎が奉行を務めました。城が完成してからは、別の家臣である桑山氏が居城としました。和歌山城の歴史は、3つの時代に区分されます。1つ目は桑山氏がいた時代です。その時代に城がどのようであったのかはよく分かっていません。しかしその範囲は大体丘とその周辺だったと考えられています。それは、緑泥片岩の古い石を使った石垣が丘の周りに築かれていて、城の他の石垣とはかなり違って見えるからです。その緑泥片岩が石垣に最初に使われた理由は、その丘かその周辺から簡単に入手できたからです。

豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
和歌山城の丘を囲む石垣

浅野氏の時代

1600年、浅野氏が紀伊国の領主となり、和歌山城を根拠地としました。桑山氏は転封となりました。浅野氏の領地は桑山氏時代よりずっと大きく、そのため、その体格に見合った城に改修したのです。丘の上には天守と御殿が築かれ、北側の麓にも新しい曲輪が築かれそこには茶室が建てられました。その曲輪群は石垣に囲まれていましたが、粗く加工された砂岩が使われていました。その砂岩は、友ヶ島など城から離れた場所で採取され運ばれてきました。加工しやすかったのです。また内堀が曲輪群の北と東を囲んでいました。城の南側と西側は、海に面した天然の砂丘によって守られていました。また、大手門が南側から北側に移されました。後に和歌山城の市街地となる城下町がこの方面に作られたからです。城の基本的構成は、浅野氏によって確立されたと言われています。

江戸時代の本丸御殿の想像図、現地説明板より
和歌山御城内惣御絵図、江戸時代、和歌山城内にて展示
砂岩の石を使って築かれた砂の丸の石垣

徳川氏の時代

1619年、浅野氏が広島城に移され、代わりに徳川頼宣(よりのぶ)がこの城にやってきました。彼は、和歌山城を徳川御三家の一つの本拠地として改修しました。城をより強化するため、砂丘があった場所に曲輪が築かれ、砂の丸等となりました。これらの曲輪は高石垣に囲まれていましたが、浅野氏が作ったものと同じ方法で積まれました。城の石垣の一部は後の時代に、熊野石と呼ばれるより精密に加工された花崗岩を使って積まれています。頼宣は、内堀の北側に三の丸を築き、そこは武家屋敷として使われました。彼は外堀を作って城を更に強化しようとしますが、中止せざるを得なくなります。徳川宗家を含む幕府側が、頼宣が幕府に反抗するのではないかと疑ったからです。

徳川頼宜肖像画、和歌山県立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
花崗岩の石を使って築かれた中門跡の石垣

平和であった江戸時代の間、生活や統治の利便のため、城の中心地は丘の上から麓の方に移りました。北麓にあった二の丸には御殿があり、表(藩庁)、中奥(藩主公邸)、大奥(藩主私邸)に分かれていました。江戸城にあった徳川宗家の将軍の御殿のようになっていたのです。そのとなりにあった西の丸は、城での文化の中心地でした。そこには能舞台、庭園、茶室があり、藩主がそこで楽しむだけでなく、外部の人々も招き入れました。御橋廊下(おはしろうか)と呼ばれる廊下橋が、内堀を渡って建設されました。この橋は二の丸と西の丸をつないでおり、藩主とその親族のみが渡ることができました。

和歌山御城内惣御絵図の二の丸(右)と西の丸(左)部分
西の丸庭園と廊下橋(奥の方)

しかし一方で、丘の上の天守は1846年の落雷により焼け落ちてしまい、1850年に再建されました。第二次世界大戦中の1945年には、空襲により再び焼けてしまいますが、1958年には同じ外観で再び建て直されました。その焼けてしまった天守が浅野氏が建てたものと同じであったかどうかは不確かです。

城中心部の復元模型、和歌山城内にて展示
現在の天守

「和歌山城その2」に続きます。

167.新宮城 その1

進化した石垣を持った城

立地と歴史

長い歴史を持つ新宮

新宮市は、和歌山県南部、熊野川の河口付近に位置しています。豊かな自然とともに、長い歴史があります。古代中国の秦王朝の臣下、徐福についての伝説もあります。彼がここに不老不死の薬を探しにきたというのです。また、ここは熊野三社の一つ、熊野速水大社がある場所としても知られています。この立地により、かつては熊野大社の別当がこの地を支配していました。ところが、熊野大社の勢力は多くの戦いが起こった戦国時代には衰えました。

新宮市にある徐福公園 (licensed by 663highland via Wikimedia Commons)
熊野速水大社 (licensed by 663highland via Wikimedia Commons)

浅野忠吉が築城、水野重央が引き継ぎ

その代わりに、地元領主の堀内氏がこの地域で勢力を広げました。しかし、1600年に関ヶ原の戦いが起きた時、堀内氏は西軍に味方しました。その結果、徳川幕府の創始者となった徳川家康に率いられた東軍の勝利により、没落してしまったのです。幕府はその後浅野氏を、現在の和歌山県にあたる紀伊国の領主として送り込みました。新宮地域は、浅野の一族である浅野忠吉が治めました。そして新宮城を築いたのです。

紀伊国の範囲と城の位置

この地域は熊野川と太平洋をつなぐ水上交通の結節点として繁栄しました。熊野杉などの木材がここに集められ、ここから運び出されていったのです。戦国時代に熊野水軍と呼ばれた人々がその運営を行っていました。忠吉は新宮城を築くことで彼らをコントロールすることが必要だったのです。この城は熊野川河口に近い丹鶴山(たんかくやま)という丘の上に築かれました。また、北山一揆と呼ばれた地元の武士や農民たちが反抗しており、強い城を築く必要もありました。1614年には北山一致は実際にこの城を攻撃しようとしました。しかし、浅野の軍勢や元の熊野水軍衆によって撃退されました。

紀伊国新宮城之図(部分)、出典:国立公文書館

この城は、1615年に徳川幕府から発布された一国一城令により一旦は廃城となりました。しかし、何らかの理由で1618年には、恐らくは同じ場所に城を再建することを許されました。忠吉が幕府により転封となった後は、徳川氏が紀伊国を領有しました。徳川御三家の一つであり、紀州藩として和歌山城を本拠地としていました。その徳川氏の重臣であった水野重央(しげなか)が新宮城に入り、浅野忠吉が始めた築城を引き継ぎました。その工事は長期間続き、1667年にようやく完成しました。

水野重央肖像画、全正寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

進化した石垣と交易に使われた水ノ手郭

丘の上にはいくつもの建物があり、三層の天守もありました。しかし、この城の最も重要な特徴の一つは、進化を遂げた石垣でしょう。この城の建設が終わったのは、日本の他の城に比べると随分後の方でした。1615年の一国一城令の後は原則築城が禁止されていたからです。石の加工や石垣として積み上げる方式がそれまでに随分と進化していました。新宮城は、その進化した技術を存分に享受できた数少ない城の一つだったのです。

本丸の石垣

この城のもう一つの際立った特徴は、川沿いにある水ノ手郭でしょう。ここは城の初期には恐らく水軍のための港として使われたと思われます。しかし、平和な江戸時代にはこの曲輪にはたくさんの炭納屋がありました。すなわち、木炭がこの城から江戸や大坂などの大都市に向けて売られていったと考えられています。紀州藩はこれによって利益を得ていたのです。日本の城でこのような経済活動が行われた事例は稀です。

水ノ手郭
水ノ手郭から発掘された木炭、新宮市立歴史民族資料館にて展示

「新宮城その2」に続きます。

155.赤木城 その1

築城の名手、藤堂高虎の原点

立地と歴史

理想の主君を求めた高虎

赤木城は、現在の和歌山県に当たる紀伊国の山間部にあった城でした。この城は1589年に、後に築城の名手と言われるようになる藤堂高虎によって築かれました。この城自体が高虎が築城した中では初期のものとなるため、彼の築城術の原点として位置付けることができます。高虎は、京都の近くの近江国出身であり、その当時は戦国時代で多くの戦国大名が割拠し、互いに戦によりしのぎを削っていました。彼は並外れた体格を持ち、多くの戦いで武功を挙げました。しかし、彼の主君は必ずしもこの時代を乗り切ることはできませんでした。その結果、現代の優秀なビジネスマンが転職を重ねるがごとく、高虎はその生涯で7回主君を変えています。そして1576年に、4度目の主君として、後に天下人となる豊臣秀吉の弟、豊臣秀長を見出しました。

紀伊国の範囲と城の位置

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀長は、周りとの調和を重んじたよきリーダーであり、秀吉の天下統一事業を支えました。高虎は、秀長により重臣の一人として抜擢され、事業を進めるための様々な要素について学びました。その一つが築城術だったのです。彼は、秀長の下での多くの戦いを通じて実践的にそれを学んだに違いありません。1585年、秀吉は紀伊国を征服し、この国を秀長に与えました。秀長はまた、紀伊国を統治するために、その一部を高虎に与えたのです。しかし、地場の領主たちはいまだ他者により統治されることを好まず、当時武器の主流となっていた鉄砲も多く所持していました。よってその統治には困難が伴っていました。その問いへの高虎の回答が、新しく赤木城を築くことだったのです。

豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
当時の主力武器、火縄銃 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最新のシステムを導入した山城

赤木城はシンプルな山城で、本丸が丘の上にあり、他の曲輪は北、東、西の三つの峰の上にありました。ここまでは、それまでにあった他の多くの城に似たものでした。高虎は、彼自身のアイデアと経験をもとに、その当時の最新の技術を使った新しいシステムを城に導入したのです。まず本丸は、基本的に四角い形に作られ、高石垣に囲まれていました。また、石垣のラインは巧みに曲げられていて、敵に対して側面攻撃ができるようになっていました。本丸の入口は、桝形と呼ばれる小さな四角い空間によって防御されていました。これらは、今治城や津城など、高虎が後に築く城にも見られる特徴です。他の曲輪群も石垣に囲まれ、よく考えられた配置をしていました。例えば、もし現代のビジターや過去には敵が、東の峰にある曲輪を通って本丸に行こうとした場合、虎口と呼ばれる食い違いになっている入口を3つ通り過ぎなければなりません。

赤木城の縄張り図、現地説明板より(北が下側になっている)
赤木城t跡の本丸石垣
津城跡
今治城

高虎は、この城の周辺の地域を治めることに成功しました。この城は恐らく、戦いによる危険から身を守り、高虎の権威を地元の人々に示したことでしょう。しかし高虎の安定した統治は、この城によってのみ果たされたのではなく、厳しい政策も実行された結果だったのです。彼は城の完成直後に、北山一揆と呼ばれる、反抗した地元の武士や農民たちを、近くの田平子(たびらこ)峠において160人も処刑したのです。一揆が発生した理由は、秀吉が全国的に実施した太閤検地にあると言われています。秀吉以前の政権は、人々の田畑の規模を正確には把握していませんでした。検地によって、人々は多くの年貢を納めなければならなくなったことでしょう。これが戦国時代の一つの現実でした。

城周辺の起伏地図

浅野氏に引き継がれ、一国一城により廃城

17世紀初頭、浅野氏が紀伊国を統治しました。彼らは和歌山城を本拠地としていましたが、北山一揆が再び起こったため、赤木城も使っていました。そして高虎の時以上の人たちを処刑したのです。赤木城は、最終的には1615年に徳川幕府によって発せられた一国一城令により廃城となりました。

和歌山城

「赤木城その2」に続きます。