37.一乗谷城 その3

すばらしい中世都市が発見されました。

その後

一乗谷が燃えてしまった後、農民がその跡地を農地として使いました。朝倉氏館跡のようないくつかの遺跡は、人々の間でずっとよく知られていました。しかし、農地の下であのような大きな都市が眠り続けているとは思っていなかったのです。遺跡の発掘は1967年に始まりました。最初の頃に庭園跡が見つかり、その後多くの建物の基礎や、戦国時代の日用品が次々と発見されました。遺跡は1971年に国の特別史跡に指定されました。それ以来、170万点を超える品々が見つかっているのです。復原町並が1984年にオープンしましたが、このような復元のやり方として日本で最初の事例とされています。

朝倉氏館跡
諏訪館跡庭園
住居跡
復原町並の入口
復原町並

私の感想

朝倉氏の最初の当主であった朝倉孝景は、子孫に対して遺訓を残しました(「朝倉孝景条々」「英林壁書」として知られています)。その中で孝景は、
・重臣は能力と忠誠心により採用しなければならない(朝倉家に於ては宿老を定むべからず。その身の器用忠節によりて申し付くべき事)
・理由もなく高価な武具、馬、鷹などを買い求めてはならない(名作之刀さのみ被好間敷候、等)
・高額な報酬を支払って、外部から芸能人を呼び寄せてはならない(京都より四座の猿楽細々呼下し、見物このまれまじく候)
と述べています。最後の当主であった朝倉義景が、これら先祖が残した教えを守っていたかはわかりません。しかし、一乗谷の繁栄がかえって義景の不幸を招いてしまったのではないかとも思うのです。

朝倉孝景の墓所
朝倉義景の墓所

ここに行くには

車で行く場合:
北陸自動車道の福井ICから約10分かかります。
遺跡周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR一乗谷駅から遺跡全体の端にあたる下城戸跡まで、歩いて約10分かかります。
東京から一乗谷駅まで:北陸新幹線に乗って、金沢駅で北陸線の特急に乗り換え、福井駅で九頭竜線に再度乗り換えてください。
大阪からは:特急サンダーバード号に乗って、福井駅で九頭竜線に乗り換えてください。

下城戸前にある遺跡の標柱

リンク、参考情報

一乗谷朝倉氏遺跡資料館
・「戦国朝倉 遺跡からのレポート/吉川博和著」DoCompany出版
・「復原 一乗谷」一乗谷朝倉氏遺跡資料館

これで終わります。ありがとうございました。
「一乗谷城その1」に戻ります。
「一乗谷城その2」に戻ります。

37.一乗谷城 その1

朝倉氏と盛衰をともにした城

立地と歴史

城と城下町の統合体

一乗谷城は、越前国(現在の福井県)にあり、戦国時代の期間、朝倉氏が支配していました。通常はこの城は、朝倉氏が築いた要塞都市とされています。この都市は、城の部分と城下町の部分が統合されていたのです。そのため、当時の人たちはこれを単に「一乗谷」と呼んでいました。現代は「一乗谷朝倉氏遺跡」と呼ばれています。

城の位置

朝倉氏はもともと越前国の守護の家柄であった斯波氏に仕えていました。朝倉孝景は、15世紀後半に京都で起きた応仁の乱で足利幕府を支えて活躍しました(当初は山名宗全方の西軍に属していましたが、将軍足利義政と細川勝元方の東軍に寝返りました)。その結果幕府は孝景を、斯波氏の代わりに越前国の守護に任じました。その後、朝倉氏は5世代約100年に渡って越前国を支配しました。朝倉氏は、本拠地として一乗谷と呼ばれた細長い谷を選びました。朝倉氏がこの谷を選んだ理由は、斯波氏や一向宗などの他の支族との戦いが続いていたからと考えられています。

朝倉孝景肖像画、心月寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図

この谷は、南北約3kmの長さと、約500mの幅がありました。また、谷の東西両側の山の上にある山城群により守られていました。例えば「(狭義の)一乗谷城」は、それらの山城の一つであり、特有の役割がありました(戦いが起こった場合の詰めの城であったとされています)。谷の両端には土塁と水堀を用いた城門があり、上城戸(かみきど)と下城戸(しもきど)と呼ばれました。一乗谷川が流れていた両城戸の間は、城戸の内(きどのうち)と呼ばれていました。城下町はこの狭い地域に沿って建設され、朝倉氏館、武家屋敷、商人や職人の町、寺社の町が含まれていました。

山城としての一乗谷城への入口
上城戸
下城戸
城下町の模型(「復原町並地区」で展示)

戦国時代有数の大都市

一乗谷は大いに繁栄しました。越前国はもともと豊かであった上に、朝倉氏は海運により大きな利益を得ていました。そして、朝倉氏は一族と家臣が団結し、一向宗といった敵からの攻撃を退けることができていました。これらにより、一乗谷の人たちは裕福になったのです。朝倉氏の館は、京都にあった管領の館にとても似通っており、そこには豪華な日本庭園がありました。そして、応仁の乱により荒廃した京都から多くの貴族、高僧、知識人たちを受け入れたのです。武士たちは屋敷の中で将棋を指し、僧たちは茶会を楽しんでいました。交易や生産がこの町の中で、盛んに行われていました。一乗谷の人口は、1万人に達したと言われています。この町は日本で有数の大都市となり、しばしば小京都とも呼ばれました。

朝倉氏館の模型(現地説明板より)
朝倉氏館跡の門

織田信長に滅ぼされる

1567年、後に足利幕府の最後の将軍となる足利義昭が、朝倉氏の最後の当主となった朝倉義景に会いに、一乗谷にやってきました。義昭は義景に対し、ともに上洛して敵を倒すよう要請しました。義景はそれを断り、義昭は一乗谷を去り、尾張国(現在の愛知県の一部)の織田信長のところに行きます。信長は、1568年に義昭とともに上洛し、義昭は将軍となりました。1570年、彼らは義景に対し、上洛して仕えるよう命じました。義景は再び断り、ついに将軍の敵となってしまいました。信長と義景は、三年に渡り戦いました(朝倉討伐、姉川の戦いなど)。その長い戦いの間に朝倉氏と家臣団の結束は崩れていきました。義景は一乗谷から撤退せざるを得なくなり、ついには倒されてしまいます(重臣の朝倉景鏡(かげあきら)に裏切られ自刃しました)。信長軍は、主人のいなくなった一乗谷に襲い掛かりました。この町は三日間にわたり燃え続けます。城は破壊され、その歴史を終えました。1573年のことでした。

足利義昭坐像、等持院霊光殿蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
朝倉義景肖像画、心月寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「一乗谷城その2」に続きます。