145.興国寺城 その1

この城は、平和のシンボルか、戦いのシンボルか?

立地と歴史

興国寺城は、現在の静岡県沼津市にありました。沼津市域はかつては駿河国(現在の静岡県中心部)に属していました。戦国時代の16世紀には多くの戦国大名がこの国を手に入れようしていました。

城の位置と駿河国の範囲

この城は、愛鷹山の丘陵地の南端に位置していました。南側には沼地があり、東側と西側は自然の障壁となっていて、城を守っていました。城はこのような山や沼地の自然の地形を生かして築かれたのです。この城はまた、交通の要所でもありました。山の裾野を走る根方街道が城のすぐ脇を通っていました。更に、城のすぐ近くから竹田街道が海沿いの東海道に通じていました。

城周辺の起伏地図

現在でも2つの街道が接続しています。

この城には、主には三つの曲輪が階段状に配置されていました。本丸は最も高い所にあり、北からの敵の攻撃を防ぐために背後に大きな空堀がありました。城にの両側には沼地に船を乗り出すための船着き場さえありました。

駿州真国寺古城図部分(興国寺城の図とされている、出展:国立国会図書館)

この城自体は地味なのかもしれませんが、その歴史はよく知られています。これは歴史書に、興国寺城は有名な戦国大名、北条早雲が最初に城主になった城だと書かれているからです。早雲は15世紀後半に活躍した初期の戦国大名で、駿河国の今川氏を支援しました。そのため1487年に今川氏からこの城を与えられたのです。彼の出世物語はこの城から始まり、関東地方の一部を手に入れたのです。彼の子孫は、その足跡を継ぎ、関東地方の残りの地をも獲得しました。

北条早雲肖像画の複製、小田原城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、この城が早雲と同じ時期に存在したこと示す他の証拠は見つかっていません。公的文書にこの城のことが最初に現れるのは1549年になってからです。そのとき、今川義元が興国寺に対して、新しい城をそこに作るので他の地に移るよう命じたのです。真相はどこにあるのでしょうか。ある歴史家が面白い仮説を述べていて、早雲が主となった城というのは、興国寺という名の寺であったというものです。興国寺はそもそも寺の名前であるわけですから、興国寺城は、興国寺に由来してつけられた名前と考えられるのです。

今川義元銅像(桶狭間古戦場公園、taken by HiC from photoAC)

その歴史家はまた、なぜこの城が作られたのか、もう一つの推測を行っています。この城が作られたとき、駿河国周辺の地域では、今川氏、北条氏、武田氏の間で和平の機運が高まっていました。城は基本的には戦いのために築かれますが、興国寺城は平和のシンボルとして、3氏の会談の場として作られたのではないかというのです。3氏は善得寺で同盟のための会談を行ったとされていますが、その寺は実は興国寺のことかもしれないということです。

当時の武田氏当主、武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

残念ながらこの同盟は1568年に破られてしまい、興国寺城は戦に巻き込まれていきます。城主は、今川氏から北条、武田、豊臣、そして徳川氏というように頻繁に入れ替わりました。城主の数が増えるに従い、城の範囲は拡大していったようです。1601年、徳川配下の天野康景が最後の城主になり、興国寺藩を設立しました。彼は善政を行いましたが、彼の領民と他の領民との諍いが起きたことをきっかけに、城から出奔してしまいました。1607年に藩は取り潰しとなり、城もついには廃城になりました。

天野康景、小牧長久手合戦図屏風より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「興国寺城その2」に続きます。

40.山中城 その1

北条氏の西の守りの城

立地と歴史

北条氏の西の守り

山中城は、関東地方の西側の入口である箱根関の西にあり、現在の静岡県東部に当たります。この城は最初は戦国時代の16世紀中頃に、関東地方の支配者であった北条氏によって築かれました。山中城を築くことで、箱根関の東側にあった彼らの本拠地、小田原城を守ろうとしたのです。この城は、1590年に天下人の豊臣秀吉が北条氏を攻める前にも更に増強されました。

城の位置

山中城は、日本の主要街道の一つ、東海道を取り囲んで作られました。その当時、西から坂を登ってくる人は、必ず城の中を通らなければなりませんでした。東海道は実際、三の丸の中、本丸の脇を通っていました。また、三の丸の西側には水堀があり、敵からの攻撃を防ぐためと、貯水池としての役割もありました。
三の丸の南側には、細長い防御陣地である「岱崎出丸」があり、東海道に並行して伸びていました。三の丸の西側に向かっては、二の丸、西の丸、西櫓が配置されていました。これらの曲輪は共同して敵の攻撃を防げるようになっていました。

山中城跡の案内図(現地説明板より)

北条氏独特の築城術

この城で使われていた技術は北条氏に特有のものでした。全ての曲輪は土造りであり、山の峰や谷などの自然の地形を活用していました。これらの曲輪は主に木橋で接続されていて、戦いが始まったときは落とせるようになっていました。また、深い空堀によっても隔てられており、その底は畝状または格子状になっていました。畝状の方は「畝堀」と呼ばれ、格子状の方は「障子堀」と呼ばれます。これらの空堀の作り方は北条の城に特有のものです。一旦兵士が掘に落ち込むと、全く身動きが取れませんでした。城の大きさは20万平方メートルに及びます。北条は秀吉をしばらくは釘付けにできると考えました。

山中城の畝堀
山中城の障子堀

山中城の戦いで落城

ところが、城はわずか半日で秀吉のものになってしまいます。1590年3月29日の早朝、7万人近い秀吉軍の兵士が城への攻撃を開始しました。一方守備側の人数はわずか約4千人でした。攻撃側は最初西櫓と岱崎出丸の両方を強襲しましたが、北条側の鉄砲による反撃のため大量の死傷者が発生しました。もしこれが局地戦であったなら、攻撃側はこれ以上の損害を防ぐため攻撃を一時中止したかもしれません。しかしながら、指揮官たちは無理やり攻撃を続行しました。そうでなければ、秀吉によりクビにされかねないからです。結果的には、秀吉側の指揮官の一人、一柳直末を含む多くの戦死者と引き替えに秀吉は城の確保に成功しました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この戦いはわずか数時間で終わりました。この短い戦いのもう一つの要因は、城主である北条氏勝が城から脱出したため、城兵たちが混乱したことも挙げられています。また、岱崎出丸は秀吉の攻撃までに完成していなかったことも指摘されています。いずれにせよ、どんな強力な城でも、十分な兵士と適切な指揮なしには生き残れないということでしょう。

城跡の標柱

「山中城その2」に続きます。